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第6章:金曜日の準備

Author: 佐薙真琴
last update Last Updated: 2025-12-10 10:14:41

 火曜日の夜、透と美月は地下の「中央室」にいた。

 虹色に輝く水。その神秘的な光が、部屋全体を照らしている。

 館長の鳴海と美咲が見守る中、透は水着に着替えた。美月はすでに全身が鱗に覆われており、服を着る必要はなかった。

「準備はいいか」

 鳴海が聞いた。

「はい」

 透は答えた。

「美月さん、行きましょう」

 美月は頷いた。もう人間の言葉は話せないが、意思疎通はできた。

 二人は水槽に入った。

 水は、想像以上に温かかった。そして、不思議な感覚があった。まるで、水ではなく、記憶の中を泳いでいるような。

 透は美月の手を取った。鱗の感触が、水中では柔らかく感じられた。

 水槽の底に降りると、視界が変わった。

 周囲の水が、様々な色に輝き始めた。青、緑、紫、金。色が渦を巻き、二人を包み込む。

 そして、透は聞いた。

 声――いや、声ではない。思念? それとも記憶?

 それは、美月の心の声だった。

 「私は、どうしたいの?」

 美月の問いかけ。それは自分自身への問いでもあった。

 「人間でいたい。でも、辛い」

 「魚になりたい。でも、失いたくないものがある」

 「どうすればいいの?」

 透は美月の手を握り締めた。

 そして、思った。

 「僕が、答えを見つける」

 水が、激しく渦巻き始めた。

 透の視界が歪み、時間の感覚が失われる。

 そして、透は見た。

 美月の過去を。

 小さな女の子。海辺で遊んでいる。波と戯れ、魚を追いかけ、笑っている。

 その子は、幸せそうだった。

 しかし、時間が進む。

 学校。友達の輪に入れない少女。一人で、海の絵を描いている。

「変な子」

「暗い子」

 周りの声。少女は、自分を閉ざしていく。

 さらに時間が進む。

 社会人。オフ

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  • 月曜日の魚と恋をする方法   第6章:金曜日の準備

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  • 月曜日の魚と恋をする方法   第5章:火曜日の葛藤

     透が水族館最寄りの海岸に着いたのは、午後十時を過ぎていた。 防波堤の上を走り、暗い海を見渡す。月が海面を照らし、波が静かに打ち寄せている。「美月さん!」 透は叫んだ。「美月さん! どこですか!」 返事はない。ただ波の音だけが、透の声を飲み込んでいく。 透は防波堤から飛び降り、砂浜を走った。足が砂に取られ、何度も転びそうになる。「美月さん!」 その時、波打ち際に何かが見えた。 人影――いや、人ではない。何か別のもの。 近づくと、それは美月だった。 彼女は波打ち際に座り、波が足を洗うたびに、小さく震えていた。全身を覆っていたコートは脱ぎ捨てられ、鱗に覆われた体が月光を反射して輝いていた。「美月さん」 透は彼女の隣に座った。「水無月さん......」 美月は顔を上げた。その顔は、もはやほとんど人間のものではなかった。鱗が顔全体を覆い、目が大きくなり、口が前に突き出している。 それでも、透には彼女だと分かった。「どうして来たんですか」 美月の声は、もう人間の声帯から発されているとは思えない響きだった。「迎えに来ました」「迎えに......」「水族館に戻りましょう。準備はできています」 美月は首を横に振った。「ダメです。私、決めたんです。自然の海で、魚になるって」「どうして水族館じゃダメなんですか」「水族館は、檻だから」 美月は海を見た。「あそこでは、本当の魚にはなれない。ガラスに囲まれて、人間に見られ続ける。それは、魚の生き方じゃない」「でも......」「ここなら、自由です。広い海で、どこまでも泳げる。誰にも縛られない」 透は美月の肩に手を置こうとして、躊躇した。彼女の体は、もう人間のそれではなかった。「美月さん、本当にそれでいいんですか」「......

  • 月曜日の魚と恋をする方法   第4章:月曜日の秘密

     金曜日の夜、透は眠れなかった。 明日、土曜日。七海が最後に人間の言葉を話す日。その後、彼女は完全に魚になってしまうのだろうか。 透はベッドから起き上がり、窓を開けた。夜風が部屋に流れ込む。遠くで、波の音が聞こえる気がした。 スマートフォンを手に取り、海洋生物学の論文を読み漁った。変態のメカニズム、遺伝子発現の変化、形態形成のプロセス。 しかし、どの論文も人間には適用できない。人間が魚になる、という現象は、科学の範疇を超えていた。 それでも透は諦めなかった。何か、ヒントがあるはずだ。七海を助ける方法が。 午前三時、透はある論文に目を留めた。 「海洋哺乳類における先祖返り現象:クジラ類の四肢再生に関する遺伝学的考察」 クジラやイルカは、かつて陸上で暮らしていた哺乳類が海に戻った生物だ。進化の過程で四肢を失い、鰭を獲得した。しかし稀に、退化したはずの四肢の痕跡が現れる個体がいる。先祖返り――遺伝情報に残る過去の形態への回帰。 もし、人間の遺伝情報にも、魚だった頃の記憶が残っているとしたら? 全ての脊椎動物は、魚類から進化した。人間の胚発生の初期段階では、鰓裂(えらあな)に似た構造が現れる。それは、人間が魚の子孫である証拠だ。 七海の変態は、先祖返りなのかもしれない。四億年前、魚から陸上生物への進化が起きた。七海は、その進化を逆行している。 しかし、なぜ彼女だけが? 透は別の可能性を考えた。心理的要因。七海は「人間でいることが辛い」と言った。もし、精神的なストレスが遺伝子発現に影響を与えているとしたら? エピジェネティクス――環境や経験が遺伝子の働きを変える現象。ストレスホルモンが特定の遺伝子をオンにし、魚類化のプログラムが起動する。 しかし、それも仮説に過ぎない。証明する方法はない。 透はスマートフォンを置き、再び窓の外を見た。 東の空が、わずかに明るくなり始めていた。 土曜日の朝、透は水族館に向かった。 開館前の静かな館内に入ると、すでに館長の鳴海が待っていた。

  • 月曜日の魚と恋をする方法   第3章:木曜日の逆行

     月曜日の朝、透が出勤すると、水族館全体に異様な空気が漂っていた。 職員たちが水槽の前で首を傾げ、何かを確認している。美咲が慌てた様子で透に駆け寄ってきた。「水無月さん、大変!」「何が?」「魚が、みんな変なの!」 透は美咲に連れられて、メイン水槽へ向かった。大型の回遊魚が泳ぐ水槽を見て、透は息を呑んだ。 魚たちが、全て逆向きに泳いでいた。 普段は反時計回りに回遊するはずの魚の群れが、時計回りに泳いでいる。それだけではない。深海魚エリアでも、熱帯魚エリアでも、全ての魚が通常とは逆の方向に泳いでいた。「これ、病気ですか?」 美咲が不安そうに聞いた。「分からない......」 透は水槽に近づき、魚たちを観察した。健康状態に問題はなさそうだ。ただ、泳ぐ方向だけが逆になっている。 館長の鳴海が現れた。「ああ、やはりか」「館長、これは......」「月曜日の呪いだ」 鳴海は平然と言った。「月曜日は、全てが逆行する日。魚も、時計も、人の心も」「時計も?」 透は壁の時計を見た。時計は正常に動いているように見えた。「今日ではない。木曜日だ」 鳴海は謎めいた笑みを浮かべた。「木曜日になれば、分かる」 その言葉の意味を理解したのは、三日後だった。 木曜日の朝、透が水族館に入ると、すぐに異変に気づいた。 館内の全ての時計が、逆回転していた。 壁掛け時計も、デジタル時計も、職員の腕時計も。全てが反時計回りに動いている。時刻表示は正常だが、針や数字が逆方向に進んでいく。「これ、マジで?」 美咲が自分の腕時計を見つめている。「修理に出さなきゃ......」「美咲さん、他の人の時計も見て」 透が言うと、美咲は周りの職員の時計を確認した。全員の時計が、同じように逆回転していた。「なに

  • 月曜日の魚と恋をする方法   第2章:土曜日の言葉

     土曜日の朝、透は珍しく早く目が覚めた。 アパートの窓から差し込む光が、床に魚の影のような模様を作っている。透は布団の中で、七海の最後の言葉を反芻していた。 土曜日の魚は、恋をしない。 魚類学の知識を総動員しても、その意味は理解できなかった。産卵期と曜日の相関? そんなデータは存在しない。それとも、比喩なのか。しかし七海は「本当なんです」と言った。 透は起き上がり、本棚から一冊のノートを取り出した。「魚の観察日記」と書かれた、中学生の頃から続けているノートだ。 ページをめくると、様々な魚のスケッチと、観察記録が並んでいる。魚の表情、泳ぎ方のパターン、餌への反応。そして、透が独自に記録してきた「魚の感情」についてのメモ。 「3月12日、クマノミが寂しそうだった」  「5月8日、マンボウが喜んでいた」  「9月20日、サメが怒っていた」 科学的根拠のない、主観的な観察記録。しかし透にとっては、これが真実だった。 新しいページを開き、透はペンを走らせた。 「11月17日、七海という人に会った。魚の視線が分かる人。左手首に包帯。『土曜日の魚は恋をしない』と言った」 書きながら、透は自分の手が震えていることに気づいた。 水族館に着くと、館内は週末の賑わいに包まれていた。家族連れ、カップル、修学旅行らしき高校生の集団。透は人混みを避けるように、職員通路を使って深海魚エリアへ向かった。 エリアに入ると、予想外の光景が広がっていた。 七海が、そこにいた。 水曜日にしか来ないはずの七海が、土曜日の水族館に立っていた。しかも、様子がおかしかった。 彼女はダイオウグソクムシの水槽の前で、ガラスに両手をついて、まるで何かと格闘しているかのような表情を浮かべていた。左手首の包帯から、水滴が滴り落ちている。「七海さん?」 透が声をかけると、七海は振り返った。その目には、透が見たことのない種類の焦りがあった。「水無月さん......」「どうしたんですか。水曜日じゃ......」「来ちゃいけなかった」 七海は苦しそうに言った。「土曜日に、ここに来ちゃいけなかったのに」「なぜ?」「土曜日の魚は、恋をしないから」 透は彼女の言葉の意味を掴もうとした。しかし、理解の糸口が見つからない。「七海さん、座りませんか。ベンチがあります

  • 月曜日の魚と恋をする方法   第1章:水曜日の視線

     水無月透が初めて魚の気持ちを理解したのは、七歳の誕生日だった。 祖母に連れられて訪れた小さな水族館で、円柱の水槽に泳ぐクマノミを見つめていたとき、突然、その魚の視線が自分に向けられているのを感じた。ガラス越しに交わる視線。そこには確かに何かがあった。寂しさ、あるいは好奇心、あるいは――透にはそれを言葉にできなかったが、魚が自分を「見ている」ことだけは確信できた。 それから二十一年。透は水族館の飼育員になった。 東京湾を望む「蒼海水族館」は、決して大きくはないが、独特の雰囲気を持つ施設だった。メインの大水槽には回遊魚が泳ぎ、暗い通路の両側には小さな水槽が無数に並ぶ。青い照明が来館者の顔を海底のように染め、子どもたちの笑い声が反響する。 透の担当は三階の「深海魚エリア」だった。光の届かない海の底から連れてこられた生き物たち。奇妙な形をした魚、透明な体を持つエビ、発光するクラゲ。来館者の多くは気味悪がって足早に通り過ぎるが、透はこのエリアが好きだった。 深海魚は、誰にも見られることを前提としていない。その孤独が、透には理解できた。「水無月さん、また魚と話してる」 同僚の早川美咲が呆れたような声で言った。彼女は透より三つ年下の新人飼育員で、いつも明るく、人懐っこい。透とは正反対だった。「話してない」「嘘。絶対話してたでしょ。リュウグウノツカイに『今日の気分はどう?』って」「......気分を聞いただけだ」「それを『話してる』って言うの」 美咲は笑いながら、透の隣に立った。水槽の中で、体長三メートルのリュウグウノツカイが優雅に泳いでいる。銀色の体が波打ち、赤い鰭が炎のように揺れる。「でも、水無月さんって本当に魚のこと分かってるのかもね」「分かってるよ」 透は真面目な顔で答えた。「例えば?」「このリュウグウノツカイは、今朝から少し不安そうだ。昨日、水槽の水温が0.3度下がったから」「0.3度で分かるの?」「魚には分かる」 美咲は透の横顔をじっと見つめた。「水無月さんって、もしかして魚になりたいの?」 透は答えなかった。答えを持っていなかったからだ。 その日の午後、彼女が現れた。 透が深海魚エリアの水槽を点検していると、通路の向こうから一人の女性が歩いてきた。平日の午後、来館者はまばらだったが、彼女は一人で、ゆっくりとした足取り

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