เข้าสู่ระบบ土曜日の朝、透は珍しく早く目が覚めた。
アパートの窓から差し込む光が、床に魚の影のような模様を作っている。透は布団の中で、七海の最後の言葉を反芻していた。
土曜日の魚は、恋をしない。
魚類学の知識を総動員しても、その意味は理解できなかった。産卵期と曜日の相関? そんなデータは存在しない。それとも、比喩なのか。しかし七海は「本当なんです」と言った。
透は起き上がり、本棚から一冊のノートを取り出した。「魚の観察日記」と書かれた、中学生の頃から続けているノートだ。
ページをめくると、様々な魚のスケッチと、観察記録が並んでいる。魚の表情、泳ぎ方のパターン、餌への反応。そして、透が独自に記録してきた「魚の感情」についてのメモ。
「3月12日、クマノミが寂しそうだった」
「5月8日、マンボウが喜んでいた」 「9月20日、サメが怒っていた」科学的根拠のない、主観的な観察記録。しかし透にとっては、これが真実だった。
新しいページを開き、透はペンを走らせた。
「11月17日、七海という人に会った。魚の視線が分かる人。左手首に包帯。『土曜日の魚は恋をしない』と言った」
書きながら、透は自分の手が震えていることに気づいた。
水族館に着くと、館内は週末の賑わいに包まれていた。家族連れ、カップル、修学旅行らしき高校生の集団。透は人混みを避けるように、職員通路を使って深海魚エリアへ向かった。
エリアに入ると、予想外の光景が広がっていた。
七海が、そこにいた。
水曜日にしか来ないはずの七海が、土曜日の水族館に立っていた。しかも、様子がおかしかった。
彼女はダイオウグソクムシの水槽の前で、ガラスに両手をついて、まるで何かと格闘しているかのような表情を浮かべていた。左手首の包帯から、水滴が滴り落ちている。
「七海さん?」
透が声をかけると、七海は振り返った。その目には、透が見たことのない種類の焦りがあった。
「水無月さん......」
「どうしたんですか。水曜日じゃ......」
「
七海は苦しそうに言った。
「土曜日に、ここに来ちゃいけなかったのに」
「なぜ?」
「
透は彼女の言葉の意味を掴もうとした。しかし、理解の糸口が見つからない。
「七海さん、座りませんか。ベンチがあります」
透は七海の肩に手を伸ばそうとして、躊躇した。代わりに、近くのベンチを指さした。七海は頷き、ふらふらとした足取りで歩き出した。
ベンチに座ると、七海は深く息をついた。
「ごめんなさい。変なところ、見せてしまって」
「大丈夫です。でも、何が......」
「説明するのは難しい」
七海は包帯を巻いた左手を見つめた。
「でも、水無月さんなら、もしかしたら理解してくれるかもしれない」
透は黙って待った。
「私、週に一度、
透の思考が停止した。
「......魚に?」
「月曜日に」
七海は静かに続けた。
「毎週月曜日、私の体の一部が魚になる。最初は左手だけだった。でも少しずつ、範囲が広がっている」
透は七海の左手を見た。包帯の下に、何があるのだろう。
「それで、水曜日に?」
「水曜日は、変化が一番少ない日。ほとんど人間でいられる。だから、水曜日にここに来ていた」
「土曜日は?」
「土曜日は......」
七海は言葉に詰まった。
「土曜日は、心が魚に近づく日。感情が、人間のものじゃなくなる。だから、土曜日の魚は恋をしない。土曜日の私も、恋ができない」
透は理解を超えた話を聞いていた。しかし不思議と、それを荒唐無稽だとは思わなかった。魚の視線が分かる人間がいるなら、魚になる人間がいてもおかしくない。
「でも、今日ここに来たのは?」
「我慢できなかったから」
七海は顔を上げた。その瞳に、涙が光っていた。
「水無月さんに会いたくて。でも、会っちゃいけなかった。土曜日の私は、人間として水無月さんと話せない」
透の胸が痛んだ。彼女の孤独が、痛いほど伝わってきた。
「僕も......」
透は言葉を探した。しかし、適切な言葉が見つからない。いつものことだった。重要な場面で、透は必ず言葉を失う。
「僕も、土曜日の魚の気持ちが分かります」
違う。言いたかったことは、そうじゃない。
「え?」
「いや、その、つまり......土曜日の魚は、恋をしないんじゃなくて、恋の仕方が違うだけかもしれません」
七海は目を見開いた。
「恋の仕方が、違う?」
「魚の恋は、人間の恋とは違います。言葉もないし、触れ合うこともほとんどない。でも、魚は確かに相手を選ぶ。ペアになる。それも、恋なんじゃないかと」
七海の目から、一粒の涙がこぼれた。
「ありがとうございます」
「え?」
「誰も、そんな風に考えてくれなかった」
七海は涙を拭いた。
「みんな、『変だ』『病院に行け』『気のせいだ』って。でも水無月さんは、私の話を否定しなかった」
透は何と答えればいいか分からず、ただ隣に座っていた。
しばらく沈黙が続いた。深海魚エリアの青い照明の下、二人は並んで座っていた。まるで海底にいるかのような静けさだった。
「水無月さん」
「はい」
「魚になったら、楽だと思いますか」
透は考えた。
「分かりません。でも、人間でいることが辛いなら、魚になるのも選択肢かもしれません」
「......そうですね」
七海は立ち上がった。
「今日は、もう帰ります。次は水曜日に来ます」
「待ってます」
七海が去ろうとしたとき、透は思わず声をかけた。
「あの、包帯の下は......」
七海は足を止めた。そして、ゆっくりと左手の包帯をほどき始めた。
現れたのは、
手首から肘にかけて、青緑色の小さな鱗が規則正しく並んでいる。光を受けて、虹色に輝く。
「これが、私です」
七海は静かに言った。
「月曜日に現れて、日曜日まで消えない。来週の月曜日には、もっと広がる」
透は息を呑んだ。それは美しかった。恐ろしくも、美しかった。
「触っても、いいですか」
透は自分でも驚くような言葉を口にしていた。七海は頷いた。
透は指先を伸ばし、七海の左腕に触れた。鱗の感触は、想像していたよりも温かく、柔らかかった。生きている、という実感があった。
「冷たくないんですね」
「私はまだ、半分人間だから」
七海は包帯を巻き直した。
「でも、いつか完全に魚になる日が来ると思います」
「それは......いつ?」
「分かりません。でも、遠くないかもしれない」
七海は微笑んだ。その笑顔は、諦めと希望が入り混じったものだった。
「また水曜日に」
「また水曜日に」
七海が去った後、透はリュウグウノツカイの水槽の前に立った。銀色の魚体が、いつものように優雅に泳いでいる。
「君は、恋をしたことがあるか」
透は水槽に向かって呟いた。
リュウグウノツカイは答えなかった。ただ、赤い鰭を揺らしながら、透を見ていた。
その夜、透は自宅で海洋生物学の論文を検索していた。「人間の魚類化」「ヒトの変態」「鱗の発生」――どんなキーワードを入れても、関連する論文は見つからなかった。
当然だった。人間が魚になるなど、科学的にあり得ない。
しかし透は、七海の左腕の鱗を忘れられなかった。あれは幻覚ではない。確かに存在していた。
透は論文検索をやめ、代わりに別の文献を開いた。神話学、民俗学、伝承に関する資料。
人魚の伝説。半魚人の神話。水神への変身。世界中に、人間と魚の境界が曖昧になる物語があった。
その中に、興味深い記述を見つけた。
「ある島では、月の満ち欠けに合わせて、特定の人間が魚の姿を取ると信じられていた。この変化は呪いではなく、海との深い絆の証とされた」
月曜日。七海が魚になる日。Monday――月の日。
透は何か重要なことに気づきかけていた。しかし、それが何なのか、まだ言葉にできなかった。
翌日の日曜日、透は休みだったが、水族館に行った。
誰もいない職員通路を歩き、深海魚エリアに入る。休館日の水族館は、いつもと違う顔を見せる。照明が落とされ、水槽の青い光だけが空間を満たしている。
透はリュウグウノツカイの水槽の前に座り込んだ。
「教えてくれないか」
透は魚に語りかけた。
「魚になるって、どういうことなんだ。君は生まれたときから魚だけど、人間だった者が魚になるって、どんな感じなんだろう」
リュウグウノツカイは、いつものように泳いでいた。
「僕は七海さんを助けたい。でも、どうすればいいか分からない。人間でいることが辛いなら、魚になればいいのか。それとも、人間のままでいる方法を探すべきなのか」
魚は答えなかった。ただ、透を見ていた。
その時、背後で物音がした。振り返ると、館長の鳴海が立っていた。
「水無月君、休みの日にも来ているのか」
「館長......」
「魚と相談事か」
鳴海は透の隣に座った。
「昔、私も魚に相談していた。人生の岐路に立つたび、水族館の魚に聞いた」
「魚は、答えてくれましたか」
「いや」
鳴海は笑った。
「魚は答えない。ただ、泳いでいるだけだ。でも、その姿を見ていると、答えが自分の中から浮かんでくる」
透は鳴海を見た。
「館長は、魚の気持ちが分かるんですか」
「分かるわけがない」
鳴海は断言した。
「人間は人間だ。魚の気持ちなど、本当は誰にも分からない。でも、分かろうとすることはできる。その努力が、大切なんだ」
「......そうですね」
「水無月君、君は誰かを助けようとしているのか」
透は驚いた。
「どうして......」
「君の目を見れば分かる。魚を見る目と、人を見る目が、違っている」
鳴海は立ち上がった。
「魚は名前を持たない方がいい。名前を持つと、自我が生まれる。自我が生まれると、苦しみが始まる。でも人間は違う。人間には名前が必要だ。名前で呼ばれることで、人は初めて存在できる」
「名前で、存在する......」
「そうだ。君が助けたい人がいるなら、その人の名前を、
鳴海はそう言い残して、去って行った。
透は一人残され、再び魚を見つめた。
「七海」
透は小さく呟いた。
「七海」
その名前を呼ぶたび、胸の奥で何かが温かくなっていく感覚があった。
火曜日の夜、透と美月は地下の「中央室」にいた。 虹色に輝く水。その神秘的な光が、部屋全体を照らしている。 館長の鳴海と美咲が見守る中、透は水着に着替えた。美月はすでに全身が鱗に覆われており、服を着る必要はなかった。「準備はいいか」 鳴海が聞いた。「はい」 透は答えた。「美月さん、行きましょう」 美月は頷いた。もう人間の言葉は話せないが、意思疎通はできた。 二人は水槽に入った。 水は、想像以上に温かかった。そして、不思議な感覚があった。まるで、水ではなく、記憶の中を泳いでいるような。 透は美月の手を取った。鱗の感触が、水中では柔らかく感じられた。 水槽の底に降りると、視界が変わった。 周囲の水が、様々な色に輝き始めた。青、緑、紫、金。色が渦を巻き、二人を包み込む。 そして、透は聞いた。 声――いや、声ではない。思念? それとも記憶? それは、美月の心の声だった。 「私は、どうしたいの?」 美月の問いかけ。それは自分自身への問いでもあった。 「人間でいたい。でも、辛い」 「魚になりたい。でも、失いたくないものがある」 「どうすればいいの?」 透は美月の手を握り締めた。 そして、思った。 「僕が、答えを見つける」 水が、激しく渦巻き始めた。 透の視界が歪み、時間の感覚が失われる。 そして、透は見た。 美月の過去を。 小さな女の子。海辺で遊んでいる。波と戯れ、魚を追いかけ、笑っている。 その子は、幸せそうだった。 しかし、時間が進む。 学校。友達の輪に入れない少女。一人で、海の絵を描いている。「変な子」「暗い子」 周りの声。少女は、自分を閉ざしていく。 さらに時間が進む。 社会人。オフ
透が水族館最寄りの海岸に着いたのは、午後十時を過ぎていた。 防波堤の上を走り、暗い海を見渡す。月が海面を照らし、波が静かに打ち寄せている。「美月さん!」 透は叫んだ。「美月さん! どこですか!」 返事はない。ただ波の音だけが、透の声を飲み込んでいく。 透は防波堤から飛び降り、砂浜を走った。足が砂に取られ、何度も転びそうになる。「美月さん!」 その時、波打ち際に何かが見えた。 人影――いや、人ではない。何か別のもの。 近づくと、それは美月だった。 彼女は波打ち際に座り、波が足を洗うたびに、小さく震えていた。全身を覆っていたコートは脱ぎ捨てられ、鱗に覆われた体が月光を反射して輝いていた。「美月さん」 透は彼女の隣に座った。「水無月さん......」 美月は顔を上げた。その顔は、もはやほとんど人間のものではなかった。鱗が顔全体を覆い、目が大きくなり、口が前に突き出している。 それでも、透には彼女だと分かった。「どうして来たんですか」 美月の声は、もう人間の声帯から発されているとは思えない響きだった。「迎えに来ました」「迎えに......」「水族館に戻りましょう。準備はできています」 美月は首を横に振った。「ダメです。私、決めたんです。自然の海で、魚になるって」「どうして水族館じゃダメなんですか」「水族館は、檻だから」 美月は海を見た。「あそこでは、本当の魚にはなれない。ガラスに囲まれて、人間に見られ続ける。それは、魚の生き方じゃない」「でも......」「ここなら、自由です。広い海で、どこまでも泳げる。誰にも縛られない」 透は美月の肩に手を置こうとして、躊躇した。彼女の体は、もう人間のそれではなかった。「美月さん、本当にそれでいいんですか」「......
金曜日の夜、透は眠れなかった。 明日、土曜日。七海が最後に人間の言葉を話す日。その後、彼女は完全に魚になってしまうのだろうか。 透はベッドから起き上がり、窓を開けた。夜風が部屋に流れ込む。遠くで、波の音が聞こえる気がした。 スマートフォンを手に取り、海洋生物学の論文を読み漁った。変態のメカニズム、遺伝子発現の変化、形態形成のプロセス。 しかし、どの論文も人間には適用できない。人間が魚になる、という現象は、科学の範疇を超えていた。 それでも透は諦めなかった。何か、ヒントがあるはずだ。七海を助ける方法が。 午前三時、透はある論文に目を留めた。 「海洋哺乳類における先祖返り現象:クジラ類の四肢再生に関する遺伝学的考察」 クジラやイルカは、かつて陸上で暮らしていた哺乳類が海に戻った生物だ。進化の過程で四肢を失い、鰭を獲得した。しかし稀に、退化したはずの四肢の痕跡が現れる個体がいる。先祖返り――遺伝情報に残る過去の形態への回帰。 もし、人間の遺伝情報にも、魚だった頃の記憶が残っているとしたら? 全ての脊椎動物は、魚類から進化した。人間の胚発生の初期段階では、鰓裂(えらあな)に似た構造が現れる。それは、人間が魚の子孫である証拠だ。 七海の変態は、先祖返りなのかもしれない。四億年前、魚から陸上生物への進化が起きた。七海は、その進化を逆行している。 しかし、なぜ彼女だけが? 透は別の可能性を考えた。心理的要因。七海は「人間でいることが辛い」と言った。もし、精神的なストレスが遺伝子発現に影響を与えているとしたら? エピジェネティクス――環境や経験が遺伝子の働きを変える現象。ストレスホルモンが特定の遺伝子をオンにし、魚類化のプログラムが起動する。 しかし、それも仮説に過ぎない。証明する方法はない。 透はスマートフォンを置き、再び窓の外を見た。 東の空が、わずかに明るくなり始めていた。 土曜日の朝、透は水族館に向かった。 開館前の静かな館内に入ると、すでに館長の鳴海が待っていた。
月曜日の朝、透が出勤すると、水族館全体に異様な空気が漂っていた。 職員たちが水槽の前で首を傾げ、何かを確認している。美咲が慌てた様子で透に駆け寄ってきた。「水無月さん、大変!」「何が?」「魚が、みんな変なの!」 透は美咲に連れられて、メイン水槽へ向かった。大型の回遊魚が泳ぐ水槽を見て、透は息を呑んだ。 魚たちが、全て逆向きに泳いでいた。 普段は反時計回りに回遊するはずの魚の群れが、時計回りに泳いでいる。それだけではない。深海魚エリアでも、熱帯魚エリアでも、全ての魚が通常とは逆の方向に泳いでいた。「これ、病気ですか?」 美咲が不安そうに聞いた。「分からない......」 透は水槽に近づき、魚たちを観察した。健康状態に問題はなさそうだ。ただ、泳ぐ方向だけが逆になっている。 館長の鳴海が現れた。「ああ、やはりか」「館長、これは......」「月曜日の呪いだ」 鳴海は平然と言った。「月曜日は、全てが逆行する日。魚も、時計も、人の心も」「時計も?」 透は壁の時計を見た。時計は正常に動いているように見えた。「今日ではない。木曜日だ」 鳴海は謎めいた笑みを浮かべた。「木曜日になれば、分かる」 その言葉の意味を理解したのは、三日後だった。 木曜日の朝、透が水族館に入ると、すぐに異変に気づいた。 館内の全ての時計が、逆回転していた。 壁掛け時計も、デジタル時計も、職員の腕時計も。全てが反時計回りに動いている。時刻表示は正常だが、針や数字が逆方向に進んでいく。「これ、マジで?」 美咲が自分の腕時計を見つめている。「修理に出さなきゃ......」「美咲さん、他の人の時計も見て」 透が言うと、美咲は周りの職員の時計を確認した。全員の時計が、同じように逆回転していた。「なに
土曜日の朝、透は珍しく早く目が覚めた。 アパートの窓から差し込む光が、床に魚の影のような模様を作っている。透は布団の中で、七海の最後の言葉を反芻していた。 土曜日の魚は、恋をしない。 魚類学の知識を総動員しても、その意味は理解できなかった。産卵期と曜日の相関? そんなデータは存在しない。それとも、比喩なのか。しかし七海は「本当なんです」と言った。 透は起き上がり、本棚から一冊のノートを取り出した。「魚の観察日記」と書かれた、中学生の頃から続けているノートだ。 ページをめくると、様々な魚のスケッチと、観察記録が並んでいる。魚の表情、泳ぎ方のパターン、餌への反応。そして、透が独自に記録してきた「魚の感情」についてのメモ。 「3月12日、クマノミが寂しそうだった」 「5月8日、マンボウが喜んでいた」 「9月20日、サメが怒っていた」 科学的根拠のない、主観的な観察記録。しかし透にとっては、これが真実だった。 新しいページを開き、透はペンを走らせた。 「11月17日、七海という人に会った。魚の視線が分かる人。左手首に包帯。『土曜日の魚は恋をしない』と言った」 書きながら、透は自分の手が震えていることに気づいた。 水族館に着くと、館内は週末の賑わいに包まれていた。家族連れ、カップル、修学旅行らしき高校生の集団。透は人混みを避けるように、職員通路を使って深海魚エリアへ向かった。 エリアに入ると、予想外の光景が広がっていた。 七海が、そこにいた。 水曜日にしか来ないはずの七海が、土曜日の水族館に立っていた。しかも、様子がおかしかった。 彼女はダイオウグソクムシの水槽の前で、ガラスに両手をついて、まるで何かと格闘しているかのような表情を浮かべていた。左手首の包帯から、水滴が滴り落ちている。「七海さん?」 透が声をかけると、七海は振り返った。その目には、透が見たことのない種類の焦りがあった。「水無月さん......」「どうしたんですか。水曜日じゃ......」「来ちゃいけなかった」 七海は苦しそうに言った。「土曜日に、ここに来ちゃいけなかったのに」「なぜ?」「土曜日の魚は、恋をしないから」 透は彼女の言葉の意味を掴もうとした。しかし、理解の糸口が見つからない。「七海さん、座りませんか。ベンチがあります
水無月透が初めて魚の気持ちを理解したのは、七歳の誕生日だった。 祖母に連れられて訪れた小さな水族館で、円柱の水槽に泳ぐクマノミを見つめていたとき、突然、その魚の視線が自分に向けられているのを感じた。ガラス越しに交わる視線。そこには確かに何かがあった。寂しさ、あるいは好奇心、あるいは――透にはそれを言葉にできなかったが、魚が自分を「見ている」ことだけは確信できた。 それから二十一年。透は水族館の飼育員になった。 東京湾を望む「蒼海水族館」は、決して大きくはないが、独特の雰囲気を持つ施設だった。メインの大水槽には回遊魚が泳ぎ、暗い通路の両側には小さな水槽が無数に並ぶ。青い照明が来館者の顔を海底のように染め、子どもたちの笑い声が反響する。 透の担当は三階の「深海魚エリア」だった。光の届かない海の底から連れてこられた生き物たち。奇妙な形をした魚、透明な体を持つエビ、発光するクラゲ。来館者の多くは気味悪がって足早に通り過ぎるが、透はこのエリアが好きだった。 深海魚は、誰にも見られることを前提としていない。その孤独が、透には理解できた。「水無月さん、また魚と話してる」 同僚の早川美咲が呆れたような声で言った。彼女は透より三つ年下の新人飼育員で、いつも明るく、人懐っこい。透とは正反対だった。「話してない」「嘘。絶対話してたでしょ。リュウグウノツカイに『今日の気分はどう?』って」「......気分を聞いただけだ」「それを『話してる』って言うの」 美咲は笑いながら、透の隣に立った。水槽の中で、体長三メートルのリュウグウノツカイが優雅に泳いでいる。銀色の体が波打ち、赤い鰭が炎のように揺れる。「でも、水無月さんって本当に魚のこと分かってるのかもね」「分かってるよ」 透は真面目な顔で答えた。「例えば?」「このリュウグウノツカイは、今朝から少し不安そうだ。昨日、水槽の水温が0.3度下がったから」「0.3度で分かるの?」「魚には分かる」 美咲は透の横顔をじっと見つめた。「水無月さんって、もしかして魚になりたいの?」 透は答えなかった。答えを持っていなかったからだ。 その日の午後、彼女が現れた。 透が深海魚エリアの水槽を点検していると、通路の向こうから一人の女性が歩いてきた。平日の午後、来館者はまばらだったが、彼女は一人で、ゆっくりとした足取り







