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第2章:土曜日の言葉

ผู้เขียน: 佐薙真琴
last update ปรับปรุงล่าสุด: 2025-12-06 09:57:21

 土曜日の朝、透は珍しく早く目が覚めた。

 アパートの窓から差し込む光が、床に魚の影のような模様を作っている。透は布団の中で、七海の最後の言葉を反芻していた。

 土曜日の魚は、恋をしない。

 魚類学の知識を総動員しても、その意味は理解できなかった。産卵期と曜日の相関? そんなデータは存在しない。それとも、比喩なのか。しかし七海は「本当なんです」と言った。

 透は起き上がり、本棚から一冊のノートを取り出した。「魚の観察日記」と書かれた、中学生の頃から続けているノートだ。

 ページをめくると、様々な魚のスケッチと、観察記録が並んでいる。魚の表情、泳ぎ方のパターン、餌への反応。そして、透が独自に記録してきた「魚の感情」についてのメモ。

 「3月12日、クマノミが寂しそうだった」  

 「5月8日、マンボウが喜んでいた」  

 「9月20日、サメが怒っていた」

 科学的根拠のない、主観的な観察記録。しかし透にとっては、これが真実だった。

 新しいページを開き、透はペンを走らせた。

 「11月17日、七海という人に会った。魚の視線が分かる人。左手首に包帯。『土曜日の魚は恋をしない』と言った」

 書きながら、透は自分の手が震えていることに気づいた。

 水族館に着くと、館内は週末の賑わいに包まれていた。家族連れ、カップル、修学旅行らしき高校生の集団。透は人混みを避けるように、職員通路を使って深海魚エリアへ向かった。

 エリアに入ると、予想外の光景が広がっていた。

 七海が、そこにいた。

 水曜日にしか来ないはずの七海が、土曜日の水族館に立っていた。しかも、様子がおかしかった。

 彼女はダイオウグソクムシの水槽の前で、ガラスに両手をついて、まるで何かと格闘しているかのような表情を浮かべていた。左手首の包帯から、水滴が滴り落ちている。

「七海さん?」

 透が声をかけると、七海は振り返った。その目には、透が見たことのない種類の焦りがあった。

「水無月さん......」

「どうしたんですか。水曜日じゃ......」

·········

 七海は苦しそうに言った。

「土曜日に、ここに来ちゃいけなかったのに」

「なぜ?」

··············

 透は彼女の言葉の意味を掴もうとした。しかし、理解の糸口が見つからない。

「七海さん、座りませんか。ベンチがあります」

 透は七海の肩に手を伸ばそうとして、躊躇した。代わりに、近くのベンチを指さした。七海は頷き、ふらふらとした足取りで歩き出した。

 ベンチに座ると、七海は深く息をついた。

「ごめんなさい。変なところ、見せてしまって」

「大丈夫です。でも、何が......」

「説明するのは難しい」

 七海は包帯を巻いた左手を見つめた。

「でも、水無月さんなら、もしかしたら理解してくれるかもしれない」

 透は黙って待った。

「私、週に一度、·······

 透の思考が停止した。

「......魚に?」

「月曜日に」

 七海は静かに続けた。

「毎週月曜日、私の体の一部が魚になる。最初は左手だけだった。でも少しずつ、範囲が広がっている」

 透は七海の左手を見た。包帯の下に、何があるのだろう。

「それで、水曜日に?」

「水曜日は、変化が一番少ない日。ほとんど人間でいられる。だから、水曜日にここに来ていた」

「土曜日は?」

「土曜日は......」

 七海は言葉に詰まった。

「土曜日は、心が魚に近づく日。感情が、人間のものじゃなくなる。だから、土曜日の魚は恋をしない。土曜日の私も、恋ができない」

 透は理解を超えた話を聞いていた。しかし不思議と、それを荒唐無稽だとは思わなかった。魚の視線が分かる人間がいるなら、魚になる人間がいてもおかしくない。

「でも、今日ここに来たのは?」

「我慢できなかったから」

 七海は顔を上げた。その瞳に、涙が光っていた。

「水無月さんに会いたくて。でも、会っちゃいけなかった。土曜日の私は、人間として水無月さんと話せない」

 透の胸が痛んだ。彼女の孤独が、痛いほど伝わってきた。

「僕も......」

 透は言葉を探した。しかし、適切な言葉が見つからない。いつものことだった。重要な場面で、透は必ず言葉を失う。

「僕も、土曜日の魚の気持ちが分かります」

 違う。言いたかったことは、そうじゃない。

「え?」

「いや、その、つまり......土曜日の魚は、恋をしないんじゃなくて、恋の仕方が違うだけかもしれません」

 七海は目を見開いた。

「恋の仕方が、違う?」

「魚の恋は、人間の恋とは違います。言葉もないし、触れ合うこともほとんどない。でも、魚は確かに相手を選ぶ。ペアになる。それも、恋なんじゃないかと」

 七海の目から、一粒の涙がこぼれた。

「ありがとうございます」

「え?」

「誰も、そんな風に考えてくれなかった」

 七海は涙を拭いた。

「みんな、『変だ』『病院に行け』『気のせいだ』って。でも水無月さんは、私の話を否定しなかった」

 透は何と答えればいいか分からず、ただ隣に座っていた。

 しばらく沈黙が続いた。深海魚エリアの青い照明の下、二人は並んで座っていた。まるで海底にいるかのような静けさだった。

「水無月さん」

「はい」

「魚になったら、楽だと思いますか」

 透は考えた。

「分かりません。でも、人間でいることが辛いなら、魚になるのも選択肢かもしれません」

「......そうですね」

 七海は立ち上がった。

「今日は、もう帰ります。次は水曜日に来ます」

「待ってます」

 七海が去ろうとしたとき、透は思わず声をかけた。

「あの、包帯の下は......」

 七海は足を止めた。そして、ゆっくりと左手の包帯をほどき始めた。

 現れたのは、····

 手首から肘にかけて、青緑色の小さな鱗が規則正しく並んでいる。光を受けて、虹色に輝く。

「これが、私です」

 七海は静かに言った。

「月曜日に現れて、日曜日まで消えない。来週の月曜日には、もっと広がる」

 透は息を呑んだ。それは美しかった。恐ろしくも、美しかった。

「触っても、いいですか」

 透は自分でも驚くような言葉を口にしていた。七海は頷いた。

 透は指先を伸ばし、七海の左腕に触れた。鱗の感触は、想像していたよりも温かく、柔らかかった。生きている、という実感があった。

「冷たくないんですね」

「私はまだ、半分人間だから」

 七海は包帯を巻き直した。

「でも、いつか完全に魚になる日が来ると思います」

「それは......いつ?」

「分かりません。でも、遠くないかもしれない」

 七海は微笑んだ。その笑顔は、諦めと希望が入り混じったものだった。

「また水曜日に」

「また水曜日に」

 七海が去った後、透はリュウグウノツカイの水槽の前に立った。銀色の魚体が、いつものように優雅に泳いでいる。

「君は、恋をしたことがあるか」

 透は水槽に向かって呟いた。

 リュウグウノツカイは答えなかった。ただ、赤い鰭を揺らしながら、透を見ていた。

 その夜、透は自宅で海洋生物学の論文を検索していた。「人間の魚類化」「ヒトの変態」「鱗の発生」――どんなキーワードを入れても、関連する論文は見つからなかった。

 当然だった。人間が魚になるなど、科学的にあり得ない。

 しかし透は、七海の左腕の鱗を忘れられなかった。あれは幻覚ではない。確かに存在していた。

 透は論文検索をやめ、代わりに別の文献を開いた。神話学、民俗学、伝承に関する資料。

 人魚の伝説。半魚人の神話。水神への変身。世界中に、人間と魚の境界が曖昧になる物語があった。

 その中に、興味深い記述を見つけた。

 「ある島では、月の満ち欠けに合わせて、特定の人間が魚の姿を取ると信じられていた。この変化は呪いではなく、海との深い絆の証とされた」

 月曜日。七海が魚になる日。Monday――月の日。

 透は何か重要なことに気づきかけていた。しかし、それが何なのか、まだ言葉にできなかった。

 翌日の日曜日、透は休みだったが、水族館に行った。

 誰もいない職員通路を歩き、深海魚エリアに入る。休館日の水族館は、いつもと違う顔を見せる。照明が落とされ、水槽の青い光だけが空間を満たしている。

 透はリュウグウノツカイの水槽の前に座り込んだ。

「教えてくれないか」

 透は魚に語りかけた。

「魚になるって、どういうことなんだ。君は生まれたときから魚だけど、人間だった者が魚になるって、どんな感じなんだろう」

 リュウグウノツカイは、いつものように泳いでいた。

「僕は七海さんを助けたい。でも、どうすればいいか分からない。人間でいることが辛いなら、魚になればいいのか。それとも、人間のままでいる方法を探すべきなのか」

 魚は答えなかった。ただ、透を見ていた。

 その時、背後で物音がした。振り返ると、館長の鳴海が立っていた。

「水無月君、休みの日にも来ているのか」

「館長......」

「魚と相談事か」

 鳴海は透の隣に座った。

「昔、私も魚に相談していた。人生の岐路に立つたび、水族館の魚に聞いた」

「魚は、答えてくれましたか」

「いや」

 鳴海は笑った。

「魚は答えない。ただ、泳いでいるだけだ。でも、その姿を見ていると、答えが自分の中から浮かんでくる」

 透は鳴海を見た。

「館長は、魚の気持ちが分かるんですか」

「分かるわけがない」

 鳴海は断言した。

「人間は人間だ。魚の気持ちなど、本当は誰にも分からない。でも、分かろうとすることはできる。その努力が、大切なんだ」

「......そうですね」

「水無月君、君は誰かを助けようとしているのか」

 透は驚いた。

「どうして......」

「君の目を見れば分かる。魚を見る目と、人を見る目が、違っている」

 鳴海は立ち上がった。

「魚は名前を持たない方がいい。名前を持つと、自我が生まれる。自我が生まれると、苦しみが始まる。でも人間は違う。人間には名前が必要だ。名前で呼ばれることで、人は初めて存在できる」

「名前で、存在する......」

「そうだ。君が助けたい人がいるなら、その人の名前を、···········

 鳴海はそう言い残して、去って行った。

 透は一人残され、再び魚を見つめた。

「七海」

 透は小さく呟いた。

「七海」

 その名前を呼ぶたび、胸の奥で何かが温かくなっていく感覚があった。

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