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第8話

Author: 匿名
七日後、家庭裁判所にて。

日影は、シンプルな白いブラウスにデニムを合わせて出向いた。意外なほど、内心は穏やかだった。

間もなく、入り口から聞き慣れた、力強い足音が響いてきた。

顔を上げると、海男が祢々の手を握りながら入ってくる姿が目に入った。二人は、淡い水色のペアルックを着ていた。

ふと、過去の光景が頭をよぎった。日影はかつて、こっそりと彼と同じブランドの時計を買い、色味を合わせた服を選び、ささやかな「ペアごっこ」を楽しんでいた。

毎回、嬉しそうに見せると、彼はただ軽く眉をひそめて「子供か」と吐き捨てるだけだった。

嫌いだったわけではないのだろう。ただ、愛してない人とそういうことをしたくなかっただけだ。

調停室では、余計な言葉は交わされなかった。

海男はペンを手にしたが、すぐには署名せず、ふと顔を上げて日影を見つめた。

しかし、彼女には一瞬の躊躇もなかった。さらりと、自分の名前を記入していく。

見る間に、海男の胸中に、理由のわからない怒りのようなものが沸き上がった。

彼は歯を食いしばり、ペン先を力任せに書面に叩きつけた。力は強く、紙を引き裂きそうな勢いで、言いようのない焦燥感がにじみ出ていた。

結局、彼はやはりサインした。

調停調書を持って、日影はすぐに役所へ行って、離婚届を提出した。

離婚届受理証明書が手渡された時、日影の手はほんの一瞬、かすかに止まった。すぐに、彼女はそれを鞄の奥深くにしまい込んだ。

七年間の結婚生活は、結局この一枚の薄い紙に凝縮され、ここに幕を下ろす。

海男と祢々が顔を見合わせ、ほほえみ合う様子を見ることもなく、彼女は静かに裁判所を後にした。

日影の飛行機は午後出発だった。昼間、いつもの洋食屋で数人の友人と最後の食事を共にした。

テーブルを囲み、友人たちは口々に海男を罵り、笑いながら彼女を励ました。

「もっと早く諦めてればよかったのに!日影のやりたいことは絵画でしょ、男なんて所詮、邪魔になるだけだよ!」

日影はグラスを掲げ、目尻を下げて笑った。

「そうね。これからは、誰にも邪魔させない。きっと……みんなを驚かせる作品を描いてみせるわ」

明るい笑い声が、静かな個室に響き渡った。

途中、彼女は席を外した。廊下の角を曲がった時、隣の個室から、海男の声が聞こえてきた。

「……今夜のプロポーズ会場の最終確認を頼む。花は、祢々が一番好きな白バラで。指輪は、彼女が到着するまで、絶対に気づかれないように隠しておいてくれ」

その口調には、珍しく弾んだ喜びが滲んでいて、友人との会話がはっきりと耳に届いた。

「早すぎる?いや……全然早くない。あの子とは、子供の頃から決まっていたんだ。あの時、海でおぼれかけた俺を、彼女が必死に岸まで引き上げてきて……人工呼吸までしてくれたんだ」

日影の足が、突然、釘付けになった。

海男の声が、ほんの少しだけ低く、恥ずかしそうに続いた。

「あれが……俺の、初めてのキスだった。唯一の、キスだ」

日影の胸の奥が、何かにそっと刺されたようだった。痛みはないのに、どこか隙間風が吹き抜けるように冷たい。

七年間の結婚生活。二人は、数え切れないほどの肌を重ねる夜を過ごした。

けれど、彼女が唇を寄せようとするたび、彼はそっと顔を背け、「潔癖症なんだ」と避けてきた。

そうか、潔癖症などではなかった。ただ、彼のキスは、祢々だけに捧げるものだったのだ。

彼女は振り返って去ろうとした。その時、廊下の窓辺に置かれた観葉植物の鉢に、うっかりぶつかってしまった。

陶器の鉢が床に落ち、音を立てて割れた。

個室のドアが開き、海男が現れた。日影を見て、表情が一瞬硬直し、すぐに冷えきった。

「……聞いていたのか?」

彼女が答えるより早く、彼は言葉を継いだ。警戒するような口調で。

「今夜のプロポーズパーティーには……邪魔しに来るなよ」

日影は彼をまっすぐ見つめた。そして、驚くほど淡々とした声で言った。

「ご心配なく。もう、離婚が成立しています。あなたのことは、もう私には関係ありません。それに――」

言葉を終えないうちに、祢々の声が近づいてきた。

「海男さん?どうしたの?あら、日影さんもいらっしゃるの?」

海男は即座に視線をそらし、手を伸ばして祢々の手を取った。声は一瞬で柔らかくなった。

「何でもない。さあ、中に戻ろう。君が好きなお料理、もう注文しておいたから」

日影はもう二人を見ようとはせず、背筋を伸ばして振り返って去っていった。

ハイヒールが厚いカーペットを踏みしめても、ほとんど音は立てなかった。まるで、彼女の心の奥に今、沈殿していく感情のように、さざ波一つ立たずに静まり返っていた。

しかし、海男はなぜか、ほんの一瞬、彼女の後ろ姿に目を留めた。

胸の奥で、つかみどころのない、微かな感情が、羽根のようにかすかに揺らめいた。

――日影は、さっき、まだ何か言いかけたようだった……?

彼はわずかに首をかしげたが、深く考える間もなく、祢々がそっと彼の袖を引いた。

「海男さん、早く行こうよ。ちょっとお腹が空いちゃった」

彼は我に返り、そのなぜか湧いた違和感を頭の隅に追いやった。

――どうでもいい。彼女のことは、もう俺に関係ない。

彼は祢々の手をしっかりと握りしめ、個室へと戻っていった。

日影は自分の個室に戻ると、何事もなかったように笑顔で友人たちと談笑を再開した。

食事を終え、彼女はタクシーで空港へと直行した。

搭乗手続きの列に並んでいる時、かつて海男の動向を追うために入っていた「藤原グループ非公式チャット」から、通知が次々と飛び込んできた。

誰かが、海男が手配したプロポーズの準備に関するスクリーンショットを投稿し、メッセージが堰を切ったように流れていった。

【やばい、社長マジで小林さんにメロメロ!白バラ十万本って聞いたよ?花のトンネル作るんだって!】

【この前、小林さんが『星空きれい』ってつぶやいたら、社長が庭に特注のイルミネーション設置したって話だし、今回のプロポーズ、ロマンチックすぎ!】

【社長がこんな細かいことまで自分で指示するなんて、見たことないよ。今回はデザートの盛り付けまで気にしてるらしい。これが噂の『本命扱い』か……!】

日影は、その眩いほどの祝福の言葉の洪水を、静かに見つめた。

指が画面の上で、ほんの一瞬、止まった。

そして、彼女は淡々と、そのグループチャットから退出した。続けて、連絡先リストから「海男」の名を長押しし、「ブロック」をタップした。

最後に、父にメッセージを一つだけ送信した。

【行ってきます。心配しないで】

送信を確認すると、彼女は携帯のSIMカードを取り出した。それを、ゴミ箱の投入口へと、そっと落とした。

空港のアナウンスが流れ、日影は深く息を吸い込んだ。スーツケースの引き手を握りしめ、搭乗ゲートへとまっすぐ歩き出した。

飛行機はゆっくりと上昇し、窓の外に広がる見慣れた街の灯りが、次第に小さな無数の星の集まりのように、ぼんやりと遠ざかっていった。

長い年月、彼女の喜びと涙をすべて飲み込んだこの場所は、やがて、雲の切れ間の淡い光の粒へと変わっていく。

藤原海男、さようなら。

これから、あなたの残りの人生と、私の未来は、二度と交わることはない。

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