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第156話

last update Date de publication: 2026-05-27 19:00:00

翌朝、蓮さんを送り出してから、私はソファに座ったままコーヒーカップを両手で包んだ。

コンシェルジュ責任者。

昨日の電話の言葉が、まだ頭の中に残っていた。一度は諦めたはずの世界。それでも、私の名前を覚えていてくれた人がいた。その事実だけで、じわりと熱くなるものがあった。

その夜、私は蓮さんに話した。

「……そうか」

蓮さんは、しばらく黙っていた。

「咲希が決めればいい」

「蓮さんは、どう思いますか?」

「働きたいなら、応援する。君の才能を眠らせておくのは、もったいない」

言葉は短かったが、迷いがなかった。

私は、蓮さんのネクタイをそっと整えながら言った。

「お断りしようと思っています」

「本当にいいのか」

「はい」

私は、山梨で見た父の背中を思い出した。節くれだった手。震えながら私の頭に置かれた、あの大きな手の重み。

「あの旅館を、蓮さんと一緒に再

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  • 月給80万円の偽装花嫁   第157話

    5月下旬。蓮さんの帰宅が、深夜になる日が増えていた。「お疲れ様」の一言を交わすだけで、精一杯の毎日。何か、彼のためにできることはないか。ずっとそう考えていた。仕事で疲れている彼を、とびきりの料理で元気づけたい。そう思い立ったのは、少し汗ばむような陽気の土曜日だった。「今日は、特別な料理を作ろう」いつも朝食は作っているけれど、夕食を二人でゆっくり囲む時間は減っていた。フレンチのフルコース。蓮さんが大切にしているものと同じくらい、私も本気でやってみよう。コンシェルジュ時代、高級ホテルの料理は毎日見ていた。料理のことは、分かっているつもりだった。◇スーパーで食材を揃え、午後3時、調理開始。前菜はスモークサーモンのカルパッチョ、スープはヴィシソワーズ、メインは牛フィレ肉のソテー、デザートはクレームブリュレ。我ながら、本格的な献立だった。まず、ヴィシソワーズのベースとなるポワローをカットした。これは、まあまあ上手くいった。次に、ソースに取り掛かった。「ブールブランソース……材料は、白ワイン、バター、エシャロット」鍋に白ワインを入れ、火をつけた。煮詰めてからバターを加えた瞬間、ソースが分離した。「え?」白く固まったバターが、鍋の中で浮いている。慌ててかき混ぜた。でも、どんどん分離していく。レシピを見直すと「必ず火を止めてからバターを少しずつ加える」と書いてあった。「最初から読むべきだった」◇次に、メインの牛フィレ肉に取り掛かった。フライパンに肉を置いた瞬間、盛大に煙が出た。熱すぎた。換気扇を全開にしても、煙がリビングまで流れていく。「大丈夫、まだいける」肉を返した。表面は綺麗に焼けているように見えた。しばらくして、切ってみると──固い。かなり固い。「焼きすぎた」牛フィレ肉が繊細な食材だということは、知っていた。

  • 月給80万円の偽装花嫁   第156話

    翌朝、蓮さんを送り出してから、私はソファに座ったままコーヒーカップを両手で包んだ。コンシェルジュ責任者。昨日の電話の言葉が、まだ頭の中に残っていた。一度は諦めたはずの世界。それでも、私の名前を覚えていてくれた人がいた。その事実だけで、じわりと熱くなるものがあった。その夜、私は蓮さんに話した。「……そうか」蓮さんは、しばらく黙っていた。「咲希が決めればいい」「蓮さんは、どう思いますか?」「働きたいなら、応援する。君の才能を眠らせておくのは、もったいない」言葉は短かったが、迷いがなかった。私は、蓮さんのネクタイをそっと整えながら言った。「お断りしようと思っています」「本当にいいのか」「はい」私は、山梨で見た父の背中を思い出した。節くれだった手。震えながら私の頭に置かれた、あの大きな手の重み。「あの旅館を、蓮さんと一緒に再生させたい。それが今の私の『コンシェルジュ』としての仕事だと思っています。いつかあそこを継ぐのが、私の夢ですから」蓮さんが、私を見た。「……ありがとう」「感謝されることじゃないです。私がそうしたいんだから」蓮さんは何も言わなかった。ただ、私の手を取った。その手の温もりが、答えだった。◇翌週末。二人で実家の旅館を訪れた。父と母が出迎えてくれた。「おかえり。蓮さんも、よく来てくれた」「お邪魔します」蓮さんが深く頭を下げた。ロビーに通されると、蓮さんがノートパソコンを開いた。「森川さん、先日お話したホームページの件ですが」父が、画面を覗き込んだ。「おお……」刷新されたホームページが、画面に広がっていた。プロのカメラマンが撮影した旅館の写真。温泉の湯気、庭の緑、源さんの料

  • 月給80万円の偽装花嫁   第155話

    4月18日、金曜日。山梨から東京へ戻る車の中、私は蓮さんの肩に寄りかかっていた。窓の外、新緑の山々が後ろへ流れていく。「蓮さん」「ん?」「源さん、見送りに出てくれましたね」「ああ」出発の朝、源さんは無言で玄関に立っていた。見送りの言葉はなかった。でも、蓮さんが頭を下げると、短く頷いてくれた。あの源さんが。「嬉しかったです」「俺もだ」蓮さんが、静かに答えた。車が高速道路に入ると、景色が変わった。山の緑が遠ざかり、コンクリートの灰色が増えていく。「これから、新婚生活ですね」「ああ」蓮さんの手が、私の手の上に重なった。「楽しみか?」「はい。とても」「俺もだ」東京の空が、窓の向こうに広がっていた。◇ペントハウスに帰ると、見慣れた部屋なのに少し違って見えた。家具店で選んだソファと、ペアのマグカップ。気づけばこの部屋のあちこちに、二人で選んだものがある。旅館で過ごした5日間が、ここにある「私たちの日常」を、以前より愛おしく見せていた。「ただいま」「おかえりなさい、旦那さま」私が呟くと、蓮さんが少し目を細めた。「……その呼び方は、慣れないな」「練習します」蓮さんが、苦笑した。◇荷物を解いて、夕食の準備をした。エプロンを結んでいると、蓮さんがキッチンに入ってきた。「手伝う」「ありがとうございます。玉ねぎを切ってもらえますか?」蓮さんが包丁を手に取った。真剣な顔で玉ねぎに向かう。ト、トト、ト……。ぎこちないけれど、等間隔に刻もうとする規則正しい音。しばらくして、蓮さんが振り返った。目が、うっすら

  • 月給80万円の偽装花嫁   第154話

    4月17日。旅館滞在最終日。朝から、蓮さんは父と話していた。縁側で向き合う二人を、私は母と一緒にキッチンから眺めた。父が、真剣な表情で蓮さんの話を聞いている。蓮さんが、ノートを開いて何かを説明していた。「何の話をしてるのかしら」母が、お茶を淹れながら言った。「旅館のことだと思う」しばらくして、父が深く頷いた。その顔が、珍しく晴れやかだった。昨夜のことが、まだ胸に引っかかっていた。蓮さんは今、あの時と同じ顔で父と話しているのだろうか。それとも、また別の顔をしているのだろうか。「咲希」母が、私に向き直った。「あのね、源さんが今朝……蓮さんのこと、悪くないって言ってたわよ」「本当に?」「うん。『あの坊ちゃんは、本気だ』って」源さんが誰かをそう評するのは、滅多にないことだと母は言った。「良かった」私は、窓の外の縁側を見た。蓮さんが父に何かを見せている。スマートフォンの画面だった。デジタルに不慣れな父のペースに合わせ、一歩引いて、でも確実に未来を提示する。その立ち居振る舞いは、冷徹な経営者ではなく、一人の『息子』のようだった。昨夜「甘い」と言った人と、同じ人とは思えなかった。◇昼食の後、父が私を呼んだ。「咲希、少し話があるんだが」縁側に座ると、父が静かに切り出した。「蓮さんから、旅館のホームページの案を見せてもらった」「はい」「SNSでの発信、温泉の質のアピール、地元食材の特集ページ……全部、的を射てる」父が、手元のメモを見た。「蓮さんは、本当に真剣に考えてくれてるから」「分かった」父が頷いた。「正直、俺は長い間、諦めかけていた。でも……」父の目が、遠くなった。

  • 月給80万円の偽装花嫁   第153話

    4月16日、夜。「咲希。今夜も、露天風呂貸し切りにしてあげるから」夕食のあと、母がこっそり声をかけてくれた。「せっかくの新婚旅行なんだから。二人でゆっくり温まりなさい」「ありがとう、お母さん」母に背中を押され、私は昨夜の蓮さんの言葉を思い出して、顔が熱くなる。──容赦しない、なんて。もしかして、今夜も?期待と緊張が入り混じったまま、私は彼と夜の石畳を歩き出した。露天風呂は、旅館の裏手にある。石造りの湯船に、山の湧き水を使った温泉。お湯の質の良さは、近隣でも評判だ。「蓮さん、手」私が言うと、蓮さんが少し目を向けた。「何だ」「繋いでいいですか。石畳、暗くて」「暗くもないだろう」「暗いんです」蓮さんが、小さく息を吐いた。それから、何も言わずに手を差し出した。石畳を、二人で並んで歩く。足元に灯籠の光が揺れていた。◇脱衣所で着替えを済ませ、湯船に足を踏み入れると、温かさが全身を包んだ。「気持ちいい……」思わず声が漏れた。蓮さんも、隣で目を閉じた。その横顔が、珍しくほぐれていた。「蓮さん、疲れが取れますか?」「ああ」「良かった」しばらく、二人で黙って空を見上げた。山梨の夜空は、東京とは全然違う。星が、数えきれないほど瞬いていた。「咲希」「はい」蓮さんが、私の手を取った。その手を持ち上げ、手のひらを見る。「これを見ろ」蓮さんが、自分の手のひらを示した。3日間の作業で、赤くなった手のひら。「痛くないですか?」蓮さんが私を見た。「君が守りたかった場所を、今度は俺がこの手で守る番だ」その言葉に、涙が出そうになった。「……一人じゃないですよ」「そうだな」

  • 月給80万円の偽装花嫁   第152話

    私は廊下で、扉の横の壁に背中を預けた。中から、出汁の香りが漂ってくる。昆布と鰹の、深くて静かな香り。子供の頃から嗅いできた、この旅館の匂い。しばらくして、源さんの声が聞こえた。「……あんたが昨日、ロビーで男を追い返したのを見ていた」蓮さんは何も言わなかった。「氷室グループの代表が、作務衣を着て皿を洗い、客を追い出す。……普通じゃない」「普通ではないかもしれません」蓮さんの声は、落ち着いていた。「だが、ここは俺の家族の場所です。守るのは当然です」源さんが、低く息を吐いた。「……一つだけ、聞かせろ」「はい」「あんたは、この旅館をどうしたいんだ」厨房に、静寂が落ちた。「金儲けの道具にするつもりなら、今すぐ出ていけ。どんな肩書きを持っていようと、俺はこの旅館と、ここの味を守るためにここにいる。それだけは譲らん」蓮さんが、正面から源さんを見ているのが、扉の隙間から分かった。「道具にするつもりはありません」「……ほう」「俺が守りたいのは、妻が愛し、誇りに思っている『この場所』そのものです」源さんの手が、止まった。しばらく、間があった。「……なら、これを飲んでみろ」源さんが、小皿を蓮さんに渡した。「この出汁は、30年かけて作ったものだ。昆布は羅臼。鰹は土佐。水は裏山の湧き水だ」「それだけですか?」蓮さんの声。「それだけじゃない。火加減と時間だ。マニュアルなんてない。体で覚えるしかないものだ」沈黙があった。出汁の香りが、廊下まで流れてくる。長い、静かな間。蓮さんは何も言わなかった。その静けさが、かえって何かを伝えているような気がした。「どうだ」「雑味がない」蓮さんの声は、迷いがなかった。「徹底した温度管理の結果ですね。0.1度の狂いも許さない

  • 月給80万円の偽装花嫁   第37話

    「氷室様の秘密を、全て教えてください」「……なに?」氷室様の声が、低くなった。明らかに警戒している。今まで見せてくれていた穏やかな空気は一瞬で消え去り、そこには氷室グループを率いる冷徹な若き首領の顔があった。「好きな食べ物、嫌いなもの、趣味、過去……」私は、氷室様の鋭い目を見据えた。ここで引いてはいけない。「そして、3年前のアメリカでのこと。あのスキャンダルの、本当の真相も」瞬間、氷室様の顔色が変わった。氷室様の瞳の奥に、触れられたくない過去への鋭い拒絶が走る。

    last updateDernière mise à jour : 2026-03-24
  • 月給80万円の偽装花嫁   第18話

    ある日の午後。神崎さんが書類を届けにやって来た。「森川さん、これから買い物ですか?」「はい」「実は、氷室様のことでお話したいことがありまして。少し、お付き合いいただけませんか」その真剣な表情を見て、私は直感した。もしかして、前に家を訪ねてきたときに、話そうとしていた、あの続きではないだろうか。◇近所の、少しざわめいたカフェで、私たちは向かい合ってコーヒーを飲んだ。神崎さんはカップを両手で包み込み、温めるようにしながら、静かに話し始める。「氷室様…&

    last updateDernière mise à jour : 2026-03-19
  • 月給80万円の偽装花嫁   第12話

    ──目が覚めた。私は、ベッドの上で激しく息を切らしていた。心臓が、警鐘のようにドクドクと鳴り響いている。夢……だった。トランクを開けた、悪夢のような夢。中には、何が入っていたんだろう。見た、はずなのに。目が覚めた瞬間、あの光景は霧のように消えてしまった。思い出せない。ただ──恐怖だけが、胸に残っている。私は、クローゼットをじっと見つめた。あの中に、トランクがある。本当に開けてしまいそうで、何よりもそれが怖かった。時計を見ると、午前

    last updateDernière mise à jour : 2026-03-18
  • 月給80万円の偽装花嫁   第7話

    私の手が止まる。『違法なことはさせない。だが、俺の言うことは絶対だ。それが嫌なら、今すぐ帰れ』と、氷室様は言った。……これでいいのか?私は今、ここにサインをして、本当にいいの?この理不尽な条項は、間違いなく私の人生を大きく変えることになる。私は、目を閉じた。母の弱々しい声。旅館の屋根。父の薬代。通帳の残高32万円。選択肢は……ない。私は、ペン先を契約書に当てる。そして、『森川咲希』とサインをした。「契約成立だな」ふっと口角を上げた

    last updateDernière mise à jour : 2026-03-17
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