LOGIN12月下旬。年の瀬が近づき、東京の空は厚い雲に覆われていた。冷たい雨が降り続き、街全体が灰色に染まっている。
寒い。本当に、寒い。私は、ベッドの中で体を丸めていた。
喉が、針で刺されるように痛い。頭痛が、脈打つように響く。
昨日の夜から体調がおかしかった。でも、大丈夫だと思っていた。一晩眠れば、治る。そう信じていた。
それなのに――朝になっても、体は動かなかった。
◇
いつもなら、6時には起きる。
朝食の準備をして、氷室様を待つ。それが、私の日課だった。
でも、今日は起きられなかった。
目覚まし時計が鳴っているのが、遠くに聞こえる。
止めなきゃ。そう思うのに、体が動かない。
意識が、遠のいていく。
体が、燃えるように熱かった。
◇
どれくらい時間が経ったのか。遠くで、ノックの音が聞こえた。
――コンコン。
「咲希、朝食は?」
「!」
応接室には、二人の姿があった。エレガントなスーツを着た女性──レイラちゃんのお母様。そして、その隣で。「咲希さん!」小さな女の子が、私の方を向いて笑顔になった。あの時より少し大きくなったレイラちゃんが、そこにいた。流暢な日本語で、私の名を呼んでくれた。「レイラちゃん……!」「咲希さん、会いたかった!」レイラちゃんが駆け寄ってきて、私に抱きついた。温かくて、柔らかくて──生きている。この子が生きている。それだけで、もう十分だった。「大きくなったね」「うん、もう9歳だよ!」レイラちゃんは、誇らしげに笑った。お母様が、優雅に立ち上がった。「森川さん、お久しぶりです」流暢な日本語だった。「お久しぶりです。本日は、お時間をいただきありがとうございます」私は深く頭を下げた。「こちらこそ。どうぞ、お座りください」ソファに腰をおろすと、レイラちゃんが私の隣にぴたりとくっついた。「森川さん、あの時は本当にありがとうございました」お母様の言葉に、私は顔を上げた。怒っていない。責めてもいない。その目は、穏やかだった。「あなたが何度も確認してくださったこと、すべて見ていました。伝達メモを3部作成して、口頭でも何度も確認してくださった」「でも……私が、もっとちゃんと……」「いいえ」お母様が、首を横に振った。「あなたの細やかな配慮があったおかげで、厨房の他のスタッフがすぐに気づき、エピペンも用意できていた。あなたがいてくれたから、レイラは助かったんです」鼻の奥が、ツンとした。「実は……退院した後のレイラが、毎晩あなたの話をしていたんです」お母様の表情が、柔らかくなる。
4月2日、木曜日。春の柔らかな日差しが差し込む前に、私は目を覚ました。今日──レイラちゃんのお母様に会う日。隣で蓮さんが、静かに寝息を立てていた。私はそっとベッドから抜け出し、キッチンへ向かった。朝食を作りながら、ぼんやりと考える。総支配人から、お母様が私を認めてくださっていると聞いた。でも、直接会うのは別だ。救急車のサイレン。母親の悲鳴。あの事故の夜、倒れた娘を抱きしめていたお母様の顔が、ちらりと過ぎった。ちゃんと、彼女の顔を見て話せるだろうか。手に力が入らず、卵を割り損ねそうになった。「……ふう」深く息を吸って、なんとか気持ちを落ち着ける。「咲希」振り返ると、蓮さんが立っていた。「おはようございます」「おはよう。早いな」蓮さんが私のそばに来る。「眠れなくて……」蓮さんが背後から包み込むように、私の肩を抱いた。「今日は俺がいる。それだけ覚えておいてくれ」その言葉に、少しだけ心が落ち着いた。◇朝食を食べた後、私たちは支度を始めた。鏡の前に立ち、久しぶりに黒のスーツに袖を通す。そして、髪を丁寧にまとめ上げる。かつて、毎日繰り返したルーティンだけれど。ホテルを辞めてからは、いつもエプロン姿だったから。なんだか変な感じ。胸元には、蓮さんから贈られた雪の結晶のネックレス。冷たいシルバーが、今日は不思議と温かく感じられた。鏡の中の私は──あの田中くんたちと会った時よりも、少しだけ顔が違う気がした。怯えていない、とは言えない。でも、逃げようとも思っていなかった。「……よし」小さく呟いて、自分に気合を入れる。「咲希、行こう」蓮さんの呼びかけに、私は静かに頷いた。◇午前10時、車はホテル・グランシエル東京の前に停まった。車を降りると、春風が頬
3月25日、水曜日の夜。カレンダーをめくれば、4月12日の「その日」まで、残された時間はあとわずか。私はリビングのキッチンで、鼻歌を歌いながら夕食の片付けをしていた。今日の献立は、蓮さんの好物である和風ハンバーグ。「美味しいな」と短く、けれど満足げに呟いてくれた彼の声を思い出すだけで、指先の水仕事も全く苦にならない。リビングのソファでは、蓮さんがゆったりと寛ぎながら、仕事の書類に目を通している。時折、ペンを動かす手が止まり、ふと顔を上げた彼と視線がぶつかる。すると蓮さんは、困ったような、けれどこれ以上なく優しい微笑みを私に投げかけてくれた。ああ、幸せだ……。心からそう思った。一時は全てを失い、絶望の淵にいた私が、今こうして愛する人の隣で、穏やかな夜を過ごしている。このまま、この温かな光の中にずっといられたら。名字が変わり、本当の家族として歩んでいく未来を想像するだけで、胸の奥がじんわりと熱くなる。その時だった。幸せの余韻に浸る私の耳に、スマホの無機質な着信音が響いた。液晶画面に表示されたのは、見知らぬ番号。少し迷ったが、私は電話に出た。「もしもし」『……森川さん。夜分に、突然申し訳ありません』聞き覚えのある声に、私の心臓がドクンと嫌な跳ね方をした。ホテル・グランシエル東京の総支配人だった。「総支配人……どうされたんですか、こんな時間に」今さら何の用があるのだろう。田中くんの証言で、私の身の潔白は証明されたはずなのに。『……実は、どうしてもお耳に入れたい相談がありまして。本来なら私が断るべき案件なのですが、お相手が……』「相談……ですか?」『はい。VIPのお客様が、森川さんを指名されているんです』「え?」布巾を持つ手が、止まった。もう私はあのホテルの人間ではない。それなのに、なぜ。『どうしても、直接お会いし
蓮さんが扉を開けると、厳造様が立っていた。「蓮、咲希さん、邪魔するぞ」「祖父上、どうぞ」厳造様がリビングに入ってこられ、私は立ち上がった。「お茶をお持ちします」「いや、気にしなくていい」厳造様が手を上げて、私を制した。「少しだけ、話がある」厳造様は、ソファに座った。蓮さんと私も、向かいのソファに腰をおろす。厳造様の表情は、穏やかだった。でも、その目の奥に、何か深いものが宿っているように見えた。「咲希さん、ありがとう」突然の言葉に、私は目を丸くした。「え……?私は何も……」「お前さんは、蓮を変えてくれた。そして……この老いぼれに、家族の温もりを思い出させてくれた」厳造様の声が、わずかに震えた。「隆一郎を失って以来、私の中で何かが止まっていた。蓮も心を閉ざして、ただ仕事だけを続けていた。あの子が一度も笑わずに歳を取っていくのを、指をくわえて見ていることしかできなかった」厳造様は、慈しむような目で蓮さんを見た。「だが、今はどうだ。やっと、家族が増える。隆一郎も、きっと空の上で安堵しているだろう」私の目から、熱いものがこぼれた。厳造様がこれほどまでに蓮さんを、そして私のことを想ってくださっていたなんて。「私こそ、皆さんと家族にしていただいて……本当にありがとうございます」厳造様は静かに頷いた。「4月12日、楽しみにしているぞ」「はい」私は力強く頷いた。厳造様は満足そうに微笑むと、足取り軽くペントハウスを後にされた。扉が閉まった後、しばらく静寂が続いた。蓮さんが、遠くを見つめている。「……祖父が、あんなに話すのは珍しい」「そうなんですか?」「ああ。感情を表に出さない人だから」蓮さんは静かにソファに深く座り直した。何かを思い出しているような、静かな目をしていた。「……そういえば」
「ウェディングプランナーの資格、本気で取ろうと思う」私は驚いて、目を見開いた。「本気なの?」「うん」萌花は力強く頷いた。「さっき、コーディネーターさんが話してくれたこと……ずっと頭から離れなくて」萌花が、紅茶のカップを両手で包む。「一針一針縫われたレースに、作り手の想いが込められてる。それを花嫁さんに届ける仕事って……すごく素敵だと思ったの」萌花の言葉が、熱を帯びている。「咲希の結婚式の準備を一緒にしてて、気づいたんだ。誰かの大切な日のために準備する仕事がしたいって」私は萌花の手を取った。「萌花なら、絶対素敵なプランナーになれるよ」萌花が照れくさそうに微笑んだ。「ありがとう、咲希。……あなたが幸せそうで、私も嬉しくて。ずっと、咲希の幸せを願っていたから」「私こそ、萌花がいてくれて良かった」二人で、しばらく顔を見合わせて笑い合った。◇3月15日、日曜日。今日は蓮さんがタキシードを選ぶ日だった。私と神崎さんが同行している。「氷室社長、こちらがおすすめのタキシードです」紳士服店のスタッフが、黒いタキシードを持ってきた。蓮さんは試着室に入り、しばらくして出てきた。黒のタキシード姿の蓮さんが、立っている。その姿を目の当たりにした瞬間、息が止まった。いつものスーツとはまた違う。より洗練されて、より格式高く見える。「かっこいい……」思わず声が漏れた。蓮さんが私の方を向いて、少し照れくさそうに微笑んだ。「そうか?」神崎さんも頷いている。「完璧です、氷室様」こんなに素敵な人を、私が独占してもいいんだろうか。そんなことを思いながら、私はぼんやりと蓮さんを見つめていた。蓮さんは鏡の前で自分の姿を確認し、静かに言った。「咲希との結婚式……ちゃんとした姿で迎えたいから
3月10日、火曜日。実家への挨拶を終えてから、数日が経っていた。今日は、親友の萌花と一緒に、ウェディングドレスを選びに来ている。「咲希、絶対素敵なドレス見つけようね!」萌花は、朝から張り切っていた。私たちが訪れたのは、青山にある有名なドレスショップ。白を基調とした店内には、無数のドレスが並んでいる。シンプルなもの、豪華なもの、個性的なもの──どれも美しくて、目移りしてしまう。「いらっしゃいませ」ドレスコーディネーターの女性が、優雅に私たちを迎えてくれた。「この度はご結婚、誠におめでとうございます」「ありがとうございます」私が答えると、コーディネーターは微笑んだ。「それでは、まずはお好みのスタイルを教えていただけますか?」「えっと……」私が萌花の方を向くと、萌花が目を輝かせた。「咲希は細身だから、Aラインが絶対似合うと思う!」萌花の言葉に、コーディネーターも頷いた。「そうですね。でも、せっかくですから、いくつか試着してみましょう。着てみて初めて分かることが、たくさんありますから」こうして、私のドレス選びが始まった。◇最初に試着したのは、シンプルなAラインのドレス。試着室で着替えを手伝ってもらい、鏡の前に立つ。「わあ……」思わず声が漏れた。真っ白なドレスが、私を別人のように見せていた。「咲希、出ておいで!」萌花の呼びかけにカーテンを開けると、彼女が口元を押さえた。「本当に綺麗だよ、咲希」コーディネーターも微笑んでいる。「お似合いです。でも、もう少し他のドレスも見てみましょう」次に試着したのは、マーメイドライン。体のラインにぴったりと沿うデザインで、裾だけが広がっている。鏡の前に立つと、少し恥ずかしくなった。体のラインが強調されすぎている気がして。萌花も首を横に振った。
高級ホテル『グランドパレス東京』タクシーを降りると、目の前には荘厳な建物が聳えていた。赤い絨毯の両脇に報道陣とカメラの列。フラッシュの光が、夜の闇を白く切り裂く。「っ……」私は、思わず立ち止まってしまった。カメラのフラッシュが、眩しい。「大丈夫。俺を見てくれ」見上げると、氷室様──いえ、蓮さんが微笑んでいる。その笑顔に、足元の頼りなさが消えていくのを感じた。「行こう」蓮さんの優しい声に導
1月11日。パーティー当日の朝。私は、いつもより早く目を覚ました。時計を見ると、午前6時前。今日──ついに、この日が来た。氷室グループの新年パーティー。200名の前で、氷室様の婚約者として立つ。深呼吸をしたけれど、緊張は収まらない。私は、ベッドから起き上がった。◇朝食の準備をしていると、氷室様がリビングに現れた。「おはよう、咲希」「おはようございます」いつもの挨拶。でも、今日はいつもと違う。
1月8日。ドレス選びから一夜明けて、私は朝からソワソワしていた。今日は、会話の練習だ。パーティーで聞かれるであろう質問に、自然に答えるための練習。午前10時ちょうど。いつものように、神崎さんがリビングにやって来た。「おはようございます」「おはようございます、神崎さん」氷室様も、ソファに座っている。「では、今日は会話の練習です」神崎さんは、資料を広げた。「パーティーでは、多くの方が声をかけてこられます」「はい」「『どこで出会ったんで
12月上旬。冬の朝は、まだ暗い。あの運命の応募から、数週間。早朝6時。私は、スカイレジデンス東京の前に立っていた。大きなスーツケースを転がし、もう一つのバッグを肩にかける。全財産が、この二つに収まっている。吐く息が白い。冷たい空気が、頬を刺す。警備員に挨拶をして、エレベーターに乗り込む。神崎さんから渡されたカードキーをかざし、最上階のボタンを押した。上昇していくエレベーター。窓から見える景色はまだ薄暗いけれど、遠くに朝焼けの気配が感じられる。今日から、ここが私の







