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第6話

last update Veröffentlichungsdatum: 25.12.2025 16:00:00

氷室様は向かいに座り、テーブルの上に置かれた書類に目を落とす。私の履歴書だ。

指が、書類をゆっくりとめくる。その指は長く、綺麗だった。

「君の経歴は確認した」

淡々とした声。

「ホテル・グランシエル東京での一件も」

ドキッとした。

氷室様は顔を上げ、私を見る。

「VIPのアレルギー事故。国際問題になりかけた」

その言葉に、胸が締め付けられる。

でも、ここで逃げてはいけない。

「……あれは、全て私の責任です」

私は、真っ直ぐに見つめ返した。

彼の目が、少し細められる。

何を考えているのか、全くわからない。

けれど、その表情は、さっきまでとは少し違った気がした。

こちらに興味を示した、とでも言うのだろうか。

「氷室様は、氷室グループの社長でいらっしゃいます」

神崎さんが、横から補足した。

「氷室グループ……!」

その名前を聞いた瞬間、私の頭にあるニュースが蘇った。

『氷室グループ社長、米国支社再建で手腕発揮』

『若き経営者、氷室蓮氏が描く未来戦略』

経済ニュースで何度も見た名前。

「まさか……あの、氷室グループの?」

氷室様は無表情で頷いた。

「察しがいいな」

「30歳でアメリカ支社の立て直しを成功させ、現在は東京本社で社長を務めていらっしゃいます」

神崎さんの説明に、私は息を呑んだ。

この人が……あの氷室グループの御曹司。

そして、32歳という若さで社長。

氷室様は、私の反応に興味がないかのように、再び書類に目を落とした。

「俺は忙しい」

冷たい声。

「朝は7時に家を出る。帰宅は、23時を過ぎることだってある。休日出勤も多い」

「はい」

「君に、家事全般を任せたい」

氷室様は私を見た。

「料理、掃除、洗濯、買い物。全てだ」

「はい、承知しました」

即答した。

氷室様は少し眉を上げた。驚いた、というわけではなく、確認するような表情。

「月給80万円。住み込み。必要に応じて外出同行もある」

外出同行?

「外出同行と言いますと……」

「会食、パーティー、出張。俺の秘書として、同行してもらうこともある」

氷室様は淡々と続けた。

「守秘義務は絶対だ。この家のこと、俺のこと、一切外部に漏らすな」

「分かりました」

氷室様は、じっと私を見つめた。

「SNSへの投稿も厳禁。写真撮影も禁止。俺のプライバシーは、絶対に守ってもらう」

「承知しました」

神崎さんが、補足した。

「もし守秘義務を破った場合、法的措置を取らせていただきます。損害賠償請求も含めて」

背筋がゾクリとした。

やはり、この月給80万円の裏には、何か理由がある。

でも、今更引き返せない。

「ホテルの機密保持と同等、それ以上に徹底いたします」

私は、はっきりと答えた。

氷室様は、テーブルの上に契約書を置いた。

「サインしろ」

ペンを差し出される。

私は震える手でペンを握った。

契約書に目を通す。

勤務時間、休日、給与、守秘義務……。

全て、氷室様が言った通りだ。

でも。

『第15条:守秘義務に基づき、雇用主からの指示には、理由の如何を問わず従うものとする』

この一文が、引っかかった。

「あの……この条項は……」

「気になるか?」

氷室様が、冷たく笑った。

「違法なことはさせない。だが、俺の言うことは絶対だ。それが嫌なら、今すぐ帰れ」

私の手が止まる。

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  • 月給80万円の偽装花嫁   第135話

    4月11日、金曜日。結婚式前日。私は萌花と一緒に、実家の旅館へ向かう車の中にいた。母が『最後に家族でゆっくり過ごしましょう』と言ってくれ、蓮さんも「ご両親と、大切な時間を過ごしてきて」と、背中を押してくれた。窓の外を流れるのは、何度も通ったはずの田舎道。山々、田んぼ、小さな商店街。子供の頃から見慣れた風景。けれど、今日だけは少し違って見えた。「この景色を『森川咲希』として見るのは、これが最後なんだね……」助手席から漏れた私の呟きに、萌花が優しく、だけど力強くハンドルを叩いた。「そうだよ。次に来る時は、かっこいい旦那様の奥様として、だね」萌花の言葉に、口元がゆるんだ。シートベルトの下で、心臓がやけにうるさく鳴り続けている。緊張なのか、期待なのか、もう自分でも分からなかった。やがて、車は実家の旅館に着いた。玄関の前で、両親が待っていてくれた。「咲希、おかえり」「ただいま」私は母の方へ歩み寄った。父も、穏やかな表情で私を見ていた。「ついに明日だな」「うん……楽しみで、ちょっと怖いくらい」父が、静かに笑った。「そりゃそうだ」それだけ言って、父は大きな手を私の頭に乗せた。旅館を切り盛りしてきた、固くて少しざらついた、父の手。「泣くな。明日、もっと泣くんだから」そう言った父の目が、少しだけ赤くなっているのを私は見逃さなかった。◇その夜。私は母と萌花と三人で、旅館の温泉に入った。貸し切りの露天風呂に浸かると、白く立ち上る湯気が夜の冷たい空気と混ざり合い、肩を優しく包み込む。「咲希、明日は思いっきり楽しみなさいね」母が、私の手を取った。お湯の中で触れ合う母の手は、子供の頃から変わらない。「お母さんも、お父さんと結婚した日のこと、今でも覚えてるわ。緊張したけど、幸せだった。きっと咲希も、明日のことを一生忘れないわよ」その言葉が、静かに胸に落ちた。

  • 月給80万円の偽装花嫁   第134話

    次にやって来たのは、ダイニングテーブルのコーナー。私は、小ぶりな二人掛けのテーブルの前で立ち止まった。「これで十分ですよね、二人なら」蓮さんが、テーブルを見た。「……いや、こっちにしよう」そう言って蓮さんが指さしたのは、四人掛けのテーブルだった。「え?でも、二人なのに」「今は二人だが」蓮さんが、窓の外の春の空を見た。「将来、賑やかになるかもしれない」「賑やかに……?」蓮さんが、私を見た。その目が、少し遠くを映しているような気がした。「君に似た子が、このテーブルで笑っている姿が……想像できるんだ」頬が、一気に熱くなった。「れ、蓮さん……」「変なことを言ったか?」「変じゃないですけど、急に……」私が言葉を失っていると、蓮さんが軽く咳払いをした。「……まあ、そういうことだ。頼む」私は蓮さんのシャツの袖を、そっと掴んで下を向いた。──四人掛けのテーブル。蓮さんが思い描いた未来の食卓。その景色が、私の胸の中でじわりと広がった。私も、同じ未来を見たいと思った。◇食器のコーナーで、私はあるカップの前で立ち止まった。シンプルで素朴な佇まいの、ペアのマグカップ。手に取った瞬間、しっくりきた。「これ……すごく持ちやすいです。蓮さんの大きな手でも、持ちやすそうで」蓮さんが、もう一方を手に取った。しばらく、黙って手の中で確かめていた。「ああ、いいな」「明日からのコーヒーが楽しみになります」「俺もだ」「蓮さんはブラックですよね。私は少しだけミルクを入れて……このカップが並んでいるところを想像すると、なんだか不思議な気持ちになります」「不思議?」「こんなに当たり前の毎日が、私には夢みたいで」蓮さんが、私を見た。何かを言いかけて、やめた。代わりに、カップを静かにトレーに置いた。

  • 月給80万円の偽装花嫁   第133話

    4月4日、土曜日。結婚式まで、あと7日。朝食を片付けていると、蓮さんのスマートフォンが鳴った。画面を確認した彼は、短く「祖父上からだ」と告げて通話ボタンを押した。「はい」しばらく聞いていた蓮さんの眉が、わずかに上がった。「……言われなくても、そのつもりです」また聞いている。「分かりました。では、そのように」電話を切った蓮さんが、少し呆れた顔で私を見た。「祖父上から指令が出た」「指令?」「今日、買い物に付き合ってくれ。新居……いや、今の部屋を、君が使いやすいように整えたい」「私が選んでいいんですか?」「それが指令だ」蓮さんが、少し間を置いてから付け加えた。「俺も、そうしたいと思っていた」それだけだった。多くを語らない。でも、その一言の重さを、私はちゃんと受け取った。◇青山にある家具店は、ショールームというより美術館のようだった。吹き抜けの天井、柔らかい照明、どこを見ても洗練されたものばかり。入った瞬間、足がすくんだ。「どうした」「少し、圧倒されてしまって」蓮さんが、私の隣に並んだ。「値段は見なくていい。君の心が動くものを選んでくれ。これから一生使うものだから」その言葉に、少しだけ肩の力が抜けた。スタッフの方に案内されながら、広い店内を歩く。洗練された家具が並ぶ中、リビングコーナーの一角に、ひときわ目を引く大きなソファがあった。チャコールグレーの落ち着いた色味に、ふかふかとした厚みのあるクッション。蓮さんが、その前で立ち止まった。「座ってみよう」五人は掛けられそうな、ゆったりとしたサイズ。私が端に座ろうとした、その時だった。「咲希、こっちだ」蓮さんが、自分のすぐ隣をぽんぽんと叩いた。広いソフ

  • 月給80万円の偽装花嫁   第132話

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  • 月給80万円の偽装花嫁   第131話

    4月2日、木曜日。春の柔らかな日差しが差し込む前に、私は目を覚ました。今日──レイラちゃんのお母様に会う日。隣で蓮さんが、静かに寝息を立てていた。私はそっとベッドから抜け出し、キッチンへ向かった。朝食を作りながら、ぼんやりと考える。総支配人から、お母様が私を認めてくださっていると聞いた。でも、直接会うのは別だ。救急車のサイレン。母親の悲鳴。あの事故の夜、倒れた娘を抱きしめていたお母様の顔が、ちらりと過ぎった。ちゃんと、彼女の顔を見て話せるだろうか。手に力が入らず、卵を割り損ねそうになった。「……ふう」深く息を吸って、なんとか気持ちを落ち着ける。「咲希」振り返ると、蓮さんが立っていた。「おはようございます」「おはよう。早いな」蓮さんが私のそばに来る。「眠れなくて……」蓮さんが背後から包み込むように、私の肩を抱いた。「今日は俺がいる。それだけ覚えておいてくれ」その言葉に、少しだけ心が落ち着いた。◇朝食を食べた後、私たちは支度を始めた。鏡の前に立ち、久しぶりに黒のスーツに袖を通す。そして、髪を丁寧にまとめ上げる。かつて、毎日繰り返したルーティンだけれど。ホテルを辞めてからは、いつもエプロン姿だったから。なんだか変な感じ。胸元には、蓮さんから贈られた雪の結晶のネックレス。冷たいシルバーが、今日は不思議と温かく感じられた。鏡の中の私は──あの田中くんたちと会った時よりも、少しだけ顔が違う気がした。怯えていない、とは言えない。でも、逃げようとも思っていなかった。「……よし」小さく呟いて、自分に気合を入れる。「咲希、行こう」蓮さんの呼びかけに、私は静かに頷いた。◇午前10時、車はホテル・グランシエル東京の前に停まった。車を降りると、春風が頬

  • 月給80万円の偽装花嫁   第130話

    3月25日、水曜日の夜。カレンダーをめくれば、4月12日の「その日」まで、残された時間はあとわずか。私はリビングのキッチンで、鼻歌を歌いながら夕食の片付けをしていた。今日の献立は、蓮さんの好物である和風ハンバーグ。「美味しいな」と短く、けれど満足げに呟いてくれた彼の声を思い出すだけで、指先の水仕事も全く苦にならない。リビングのソファでは、蓮さんがゆったりと寛ぎながら、仕事の書類に目を通している。時折、ペンを動かす手が止まり、ふと顔を上げた彼と視線がぶつかる。すると蓮さんは、困ったような、けれどこれ以上なく優しい微笑みを私に投げかけてくれた。ああ、幸せだ……。心からそう思った。一時は全てを失い、絶望の淵にいた私が、今こうして愛する人の隣で、穏やかな夜を過ごしている。このまま、この温かな光の中にずっといられたら。名字が変わり、本当の家族として歩んでいく未来を想像するだけで、胸の奥がじんわりと熱くなる。その時だった。幸せの余韻に浸る私の耳に、スマホの無機質な着信音が響いた。液晶画面に表示されたのは、見知らぬ番号。少し迷ったが、私は電話に出た。「もしもし」『……森川さん。夜分に、突然申し訳ありません』聞き覚えのある声に、私の心臓がドクンと嫌な跳ね方をした。ホテル・グランシエル東京の総支配人だった。「総支配人……どうされたんですか、こんな時間に」今さら何の用があるのだろう。田中くんの証言で、私の身の潔白は証明されたはずなのに。『……実は、どうしてもお耳に入れたい相談がありまして。本来なら私が断るべき案件なのですが、お相手が……』「相談……ですか?」『はい。VIPのお客様が、森川さんを指名されているんです』「え?」布巾を持つ手が、止まった。もう私はあのホテルの人間ではない。それなのに、なぜ。『どうしても、直接お会いし

  • 月給80万円の偽装花嫁   第30話

    1月1日、元日。年が明け、新年が始まった。私は朝早くから、キッチンに立っていた。おせち料理を用意するためだ。昨日から少しずつ準備していた、黒豆、数の子、田作り、紅白なます、伊達巻。それらを一つ一つ、丁寧にお重に詰めていく。実家でのお正月は、いつも忙しかった。旅館に泊まっているお客様のために、母と一緒におせちを作った。あの頃を思い出しながら、私は残りの料理を続けた。10時を過ぎた頃、氷室様がキッチンに現れた。黒いセーターに、グレーのパンツ。

    last updateZuletzt aktualisiert : 2026-03-22
  • 月給80万円の偽装花嫁   第23話

    売り場には、ウール、カシミア、シルク、様々なマフラーが並んでいた。氷室様は、一つ一つ手に取って見ている。その真剣な横顔に、私は胸が温かくなった。不器用な人だ。でも、ちゃんと気持ちがある。「これは、どうだ?」氷室様が、グレーのカシミアのマフラーを手に取った。シンプルだけれど、上質な生地。触れると、柔らかい。「素敵ですね。落ち着いた色で、どんなスーツにも合いそうです」「そうか」氷室様は、マフラーを見つめた。「祖父は、派手なものは好まない。これくらいがちょうどいいかも

    last updateZuletzt aktualisiert : 2026-03-21
  • 月給80万円の偽装花嫁   第26話

    「どんな猫だったんですか?」私がそっと尋ねると、氷室様は遠くを見るような目をした。「白い猫だった。名前は、ユキ」その名を聞いた瞬間、私の指先が自然と首元のネックレスに触れた。雪の結晶。ユキ。……彼は、自分が失った最も大切なものの名前を、私に贈ってくれたのだろうか。「ユキ……」「母が拾ってきた。雪の降る日に、捨てられていたらしい」氷室様の声が、少しだけ柔らかくなった。「母は優しかった。ユキを大切に育てた。俺も、ユキが好きだった」「…

    last updateZuletzt aktualisiert : 2026-03-21
  • 月給80万円の偽装花嫁   第22話

    12月24日。クリスマスイブ。昨夜、氷室様から『明日、10時にリビングへ。私服で構わない』とメッセージが届いて以来、不安と期待が交錯し、私はほとんど眠れなかった。◇朝10時、私はリビングで氷室様を待っていた。紺色のワンピースに、ベージュのコートを羽織っている。控えめにメイクし、髪は後ろで一つにまとめた。鏡で何度も確認したが、そのたびに心臓が激しく鳴った。どこに行くのか、何の用事なのか。そして――なぜ、私なんだろう。廊下から足音が聞こえ、息を呑む。氷室様が、リビングに現れた。黒い

    last updateZuletzt aktualisiert : 2026-03-20
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