Mag-log in氷室様は向かいに座り、テーブルの上に置かれた書類に目を落とす。私の履歴書だ。
指が、書類をゆっくりとめくる。その指は長く、綺麗だった。
「君の経歴は確認した」
淡々とした声。
「ホテル・グランシエル東京での一件も」
ドキッとした。
氷室様は顔を上げ、私を見る。
「VIPのアレルギー事故。国際問題になりかけた」
その言葉に、胸が締め付けられる。
でも、ここで逃げてはいけない。
「……あれは、全て私の責任です」
私は、真っ直ぐに見つめ返した。
彼の目が、少し細められる。
何を考えているのか、全くわからない。
けれど、その表情は、さっきまでとは少し違った気がした。
こちらに興味を示した、とでも言うのだろうか。
「氷室様は、氷室グループの社長でいらっしゃいます」
神崎さんが、横から補足した。
「氷室グループ……!」
その名前を聞いた瞬間、私の頭にあるニュースが蘇った。
『氷室グループ社長、米国支社再建で手腕発揮』
『若き経営者、氷室蓮氏が描く未来戦略』
経済ニュースで何度も見た名前。
「まさか……あの、氷室グループの?」
氷室様は無表情で頷いた。
「察しがいいな」
「30歳でアメリカ支社の立て直しを成功させ、現在は東京本社で社長を務めていらっしゃいます」
神崎さんの説明に、私は息を呑んだ。
この人が……あの氷室グループの御曹司。
そして、32歳という若さで社長。
氷室様は、私の反応に興味がないかのように、再び書類に目を落とした。
「俺は忙しい」
冷たい声。
「朝は7時に家を出る。帰宅は、23時を過ぎることだってある。休日出勤も多い」
「はい」
「君に、家事全般を任せたい」
氷室様は私を見た。
「料理、掃除、洗濯、買い物。全てだ」
「はい、承知しました」
即答した。
氷室様は少し眉を上げた。驚いた、というわけではなく、確認するような表情。
「月給80万円。住み込み。必要に応じて外出同行もある」
外出同行?
「外出同行と言いますと……」
「会食、パーティー、出張。俺の秘書として、同行してもらうこともある」
氷室様は淡々と続けた。
「守秘義務は絶対だ。この家のこと、俺のこと、一切外部に漏らすな」
「分かりました」
氷室様は、じっと私を見つめた。
「SNSへの投稿も厳禁。写真撮影も禁止。俺のプライバシーは、絶対に守ってもらう」
「承知しました」
神崎さんが、補足した。
「もし守秘義務を破った場合、法的措置を取らせていただきます。損害賠償請求も含めて」
背筋がゾクリとした。
やはり、この月給80万円の裏には、何か理由がある。
でも、今更引き返せない。
「ホテルの機密保持と同等、それ以上に徹底いたします」
私は、はっきりと答えた。
氷室様は、テーブルの上に契約書を置いた。
「サインしろ」
ペンを差し出される。
私は震える手でペンを握った。
契約書に目を通す。
勤務時間、休日、給与、守秘義務……。
全て、氷室様が言った通りだ。
でも。
『第15条:守秘義務に基づき、雇用主からの指示には、理由の如何を問わず従うものとする』
この一文が、引っかかった。
「あの……この条項は……」
「気になるか?」
氷室様が、冷たく笑った。
「違法なことはさせない。だが、俺の言うことは絶対だ。それが嫌なら、今すぐ帰れ」
私の手が止まる。
4月2日、木曜日。春の柔らかな日差しが差し込む前に、私は目を覚ました。今日──レイラちゃんのお母様に会う日。隣で蓮さんが、静かに寝息を立てていた。私はそっとベッドから抜け出し、キッチンへ向かった。朝食を作りながら、ぼんやりと考える。総支配人から、お母様が私を認めてくださっていると聞いた。でも、直接会うのは別だ。救急車のサイレン。母親の悲鳴。あの事故の夜、倒れた娘を抱きしめていたお母様の顔が、ちらりと過ぎった。ちゃんと、彼女の顔を見て話せるだろうか。手に力が入らず、卵を割り損ねそうになった。「……ふう」深く息を吸って、なんとか気持ちを落ち着ける。「咲希」振り返ると、蓮さんが立っていた。「おはようございます」「おはよう。早いな」蓮さんが私のそばに来る。「眠れなくて……」蓮さんが背後から包み込むように、私の肩を抱いた。「今日は俺がいる。それだけ覚えておいてくれ」その言葉に、少しだけ心が落ち着いた。◇朝食を食べた後、私たちは支度を始めた。鏡の前に立ち、久しぶりに黒のスーツに袖を通す。そして、髪を丁寧にまとめ上げる。かつて、毎日繰り返したルーティンだけれど。ホテルを辞めてからは、いつもエプロン姿だったから。なんだか変な感じ。胸元には、蓮さんから贈られた雪の結晶のネックレス。冷たいシルバーが、今日は不思議と温かく感じられた。鏡の中の私は──あの田中くんたちと会った時よりも、少しだけ顔が違う気がした。怯えていない、とは言えない。でも、逃げようとも思っていなかった。「……よし」小さく呟いて、自分に気合を入れる。「咲希、行こう」蓮さんの呼びかけに、私は静かに頷いた。◇午前10時、車はホテル・グランシエル東京の前に停まった。車を降りると、春風が頬
3月25日、水曜日の夜。カレンダーをめくれば、4月12日の「その日」まで、残された時間はあとわずか。私はリビングのキッチンで、鼻歌を歌いながら夕食の片付けをしていた。今日の献立は、蓮さんの好物である和風ハンバーグ。「美味しいな」と短く、けれど満足げに呟いてくれた彼の声を思い出すだけで、指先の水仕事も全く苦にならない。リビングのソファでは、蓮さんがゆったりと寛ぎながら、仕事の書類に目を通している。時折、ペンを動かす手が止まり、ふと顔を上げた彼と視線がぶつかる。すると蓮さんは、困ったような、けれどこれ以上なく優しい微笑みを私に投げかけてくれた。ああ、幸せだ……。心からそう思った。一時は全てを失い、絶望の淵にいた私が、今こうして愛する人の隣で、穏やかな夜を過ごしている。このまま、この温かな光の中にずっといられたら。名字が変わり、本当の家族として歩んでいく未来を想像するだけで、胸の奥がじんわりと熱くなる。その時だった。幸せの余韻に浸る私の耳に、スマホの無機質な着信音が響いた。液晶画面に表示されたのは、見知らぬ番号。少し迷ったが、私は電話に出た。「もしもし」『……森川さん。夜分に、突然申し訳ありません』聞き覚えのある声に、私の心臓がドクンと嫌な跳ね方をした。ホテル・グランシエル東京の総支配人だった。「総支配人……どうされたんですか、こんな時間に」今さら何の用があるのだろう。田中くんの証言で、私の身の潔白は証明されたはずなのに。『……実は、どうしてもお耳に入れたい相談がありまして。本来なら私が断るべき案件なのですが、お相手が……』「相談……ですか?」『はい。VIPのお客様が、森川さんを指名されているんです』「え?」布巾を持つ手が、止まった。もう私はあのホテルの人間ではない。それなのに、なぜ。『どうしても、直接お会いし
蓮さんが扉を開けると、厳造様が立っていた。「蓮、咲希さん、邪魔するぞ」「祖父上、どうぞ」厳造様がリビングに入ってこられ、私は立ち上がった。「お茶をお持ちします」「いや、気にしなくていい」厳造様が手を上げて、私を制した。「少しだけ、話がある」厳造様は、ソファに座った。蓮さんと私も、向かいのソファに腰をおろす。厳造様の表情は、穏やかだった。でも、その目の奥に、何か深いものが宿っているように見えた。「咲希さん、ありがとう」突然の言葉に、私は目を丸くした。「え……?私は何も……」「お前さんは、蓮を変えてくれた。そして……この老いぼれに、家族の温もりを思い出させてくれた」厳造様の声が、わずかに震えた。「隆一郎を失って以来、私の中で何かが止まっていた。蓮も心を閉ざして、ただ仕事だけを続けていた。あの子が一度も笑わずに歳を取っていくのを、指をくわえて見ていることしかできなかった」厳造様は、慈しむような目で蓮さんを見た。「だが、今はどうだ。やっと、家族が増える。隆一郎も、きっと空の上で安堵しているだろう」私の目から、熱いものがこぼれた。厳造様がこれほどまでに蓮さんを、そして私のことを想ってくださっていたなんて。「私こそ、皆さんと家族にしていただいて……本当にありがとうございます」厳造様は静かに頷いた。「4月12日、楽しみにしているぞ」「はい」私は力強く頷いた。厳造様は満足そうに微笑むと、足取り軽くペントハウスを後にされた。扉が閉まった後、しばらく静寂が続いた。蓮さんが、遠くを見つめている。「……祖父が、あんなに話すのは珍しい」「そうなんですか?」「ああ。感情を表に出さない人だから」蓮さんは静かにソファに深く座り直した。何かを思い出しているような、静かな目をしていた。「……そういえば」
「ウェディングプランナーの資格、本気で取ろうと思う」私は驚いて、目を見開いた。「本気なの?」「うん」萌花は力強く頷いた。「さっき、コーディネーターさんが話してくれたこと……ずっと頭から離れなくて」萌花が、紅茶のカップを両手で包む。「一針一針縫われたレースに、作り手の想いが込められてる。それを花嫁さんに届ける仕事って……すごく素敵だと思ったの」萌花の言葉が、熱を帯びている。「咲希の結婚式の準備を一緒にしてて、気づいたんだ。誰かの大切な日のために準備する仕事がしたいって」私は萌花の手を取った。「萌花なら、絶対素敵なプランナーになれるよ」萌花が照れくさそうに微笑んだ。「ありがとう、咲希。……あなたが幸せそうで、私も嬉しくて。ずっと、咲希の幸せを願っていたから」「私こそ、萌花がいてくれて良かった」二人で、しばらく顔を見合わせて笑い合った。◇3月15日、日曜日。今日は蓮さんがタキシードを選ぶ日だった。私と神崎さんが同行している。「氷室社長、こちらがおすすめのタキシードです」紳士服店のスタッフが、黒いタキシードを持ってきた。蓮さんは試着室に入り、しばらくして出てきた。黒のタキシード姿の蓮さんが、立っている。その姿を目の当たりにした瞬間、息が止まった。いつものスーツとはまた違う。より洗練されて、より格式高く見える。「かっこいい……」思わず声が漏れた。蓮さんが私の方を向いて、少し照れくさそうに微笑んだ。「そうか?」神崎さんも頷いている。「完璧です、氷室様」こんなに素敵な人を、私が独占してもいいんだろうか。そんなことを思いながら、私はぼんやりと蓮さんを見つめていた。蓮さんは鏡の前で自分の姿を確認し、静かに言った。「咲希との結婚式……ちゃんとした姿で迎えたいから
3月10日、火曜日。実家への挨拶を終えてから、数日が経っていた。今日は、親友の萌花と一緒に、ウェディングドレスを選びに来ている。「咲希、絶対素敵なドレス見つけようね!」萌花は、朝から張り切っていた。私たちが訪れたのは、青山にある有名なドレスショップ。白を基調とした店内には、無数のドレスが並んでいる。シンプルなもの、豪華なもの、個性的なもの──どれも美しくて、目移りしてしまう。「いらっしゃいませ」ドレスコーディネーターの女性が、優雅に私たちを迎えてくれた。「この度はご結婚、誠におめでとうございます」「ありがとうございます」私が答えると、コーディネーターは微笑んだ。「それでは、まずはお好みのスタイルを教えていただけますか?」「えっと……」私が萌花の方を向くと、萌花が目を輝かせた。「咲希は細身だから、Aラインが絶対似合うと思う!」萌花の言葉に、コーディネーターも頷いた。「そうですね。でも、せっかくですから、いくつか試着してみましょう。着てみて初めて分かることが、たくさんありますから」こうして、私のドレス選びが始まった。◇最初に試着したのは、シンプルなAラインのドレス。試着室で着替えを手伝ってもらい、鏡の前に立つ。「わあ……」思わず声が漏れた。真っ白なドレスが、私を別人のように見せていた。「咲希、出ておいで!」萌花の呼びかけにカーテンを開けると、彼女が口元を押さえた。「本当に綺麗だよ、咲希」コーディネーターも微笑んでいる。「お似合いです。でも、もう少し他のドレスも見てみましょう」次に試着したのは、マーメイドライン。体のラインにぴったりと沿うデザインで、裾だけが広がっている。鏡の前に立つと、少し恥ずかしくなった。体のラインが強調されすぎている気がして。萌花も首を横に振った。
夜、客室で。使い込まれた畳の香りと、どこか懐かしい実家の匂いに包まれながら、蓮さんと私は並んで布団に入っていた。慣れ親しんだ実家の天井なのに、隣に蓮さんがいるだけで、まるで別の場所に迷い込んだような不思議な感覚だった。「あの……蓮さん。今日は、ありがとうございました」私が囁くと、蓮さんは寝返りを打って私の方を向いた。「何が?」「両親に、ちゃんと向き合ってくれて。……お酒まで、一緒に飲んでくれて」蓮さんは布団の中で、私の指を一本ずつ絡めるように握った。「当然のことだ。君を大切に育ててくれた人たちなんだから」窓の外、大きな満月が輝いている。その青白い光が、障子越しに部屋を優しく照らしていた。「咲希」「はい?」「お父さんには、旅館の借金を完済したことも伝えた。……君には、後で話そうと思っていたんだが」「……実は、なんとなく予感していました。蓮さんなら、そうするって」私がそう言うと、蓮さんは目を見開いた。「驚かないのか?」「もちろん驚きましたよ。でも……蓮さんは、いつも言葉より先に、私の守りたいものを守ってくれるから」蓮さんは愛おしそうに目を細め、私の手を自分の唇に寄せた。「君の大切な場所は、俺の大切な場所でもある。君の重荷は、すべて俺が半分背負う。それだけのことだ」視界が、じんわりと潤む。「蓮さん、ありがとうございます……」「礼を言うのは俺の方だ。君と家族になれること、本当に嬉しい」「私も、です」蓮さんの腕が私の腰に回され、ぐい、と強く抱き寄せられた。布団越しでも伝わる逞しい体温と、かすかに残るお酒の香りに、鼓動が跳ね上がる。蓮さんが私の顎にそっと指先を添え、顔を上向かせた。「咲希……」吸い込まれそうな熱を孕んだ瞳に見つめられ、唇が重なる。最初は、壊れ物に触れるような柔らかい愛撫。けれど、一度唇が離れそうになる
【蓮side】タクシーの後ろ姿を、俺はじっと見つめていた。テールランプが、赤く光っている。やがて、角を曲がり、完全に視界から見えなくなった。冷たい夜風が、頬を撫でる。12月の深夜。冬の冷たさが、体に染みる。しかし、心臓のあたりは、彼女の温もりで熱を持っていた。「……ありがとう、咲希」その言葉は、冬の夜風に一瞬で溶けた。自分の口からついて出た「咲希」という名前に、俺自身が一番驚いていた。ずっと「森川」という記号でしか見ていなかったはずなのに。
『氷室様より緊急の指示です』緊急の指示……なんだろう?神崎さんの声は、電話越しでもいつもの落ち着きを欠き、微かな緊張を孕んでいた。「リビングの革のトランクを、あなたの部屋のクローゼットの奥に保管してください」「トランク……ですか?」私は、リビングを見回した。ソファの横には、今朝はなかったはずの黒い革のトランクが、静かに鎮座していた。いつの間に、ここに置かれたのだろう?「トランクの内容は、私にも不明です。ただ氷室様からは『誰
深夜1時。私は、氷室コーポレーション本社ビルの前に立っていた。都心の一等地に建つ、ガラス張りの高層ビル。見上げるほど高く、夜でも煌々と明かりが灯っている。周囲のビル群の中でも、最上階だけが特別な光を放っているように見えた。「何か御用ですか?」警備員が、怪訝な表情で私に声をかけた。こんな時間に、部外者の女性が訪れるのは異例なのだろう。「あの、氷室蓮様の家政婦をしている森川咲希と申します。夜食をお届けに参りました」警備員は少し驚いた表情をしたが、内線で確認してくれた。「……どうぞ。最上階、社長室で
「……っ」あまりの距離の近さに、私は息を呑んだ。心臓が、激しく脈打つ。氷室様が、こんなふうに笑うなんて……。氷室様も、感情を持つ一人の人間なんだ。当たり前のことなのに、彼の完璧な冷徹さに慣れていた私は今、初めてその事実に気づいた気がした。「来てくれてありがとう」氷室様は、デスクの上の山積みの資料を少し寄せ、スペースを作ってくれた。「ここに置いてくれ」私は、胸の奥で温かさを感じながら、バッグから夜食を取り出し