玄関の引き戸が静かに開いた。鍵を回す音さえほとんど響かないほどの静けさのなか、七菜の姿が小さく差し込む光のなかに現れた。スニーカーのつま先には、帰り道で拾った砂粒がかすかについていて、靴の裏が土の匂いを連れていた。
「おかえり」
居間から顔を出した智久の声は、いつもと同じ高さで、同じ穏やかさを保っていた。けれどその一言に、ほんのわずかな、探るような問いの色が混じっていたのは、本人にもきっと気づいていない。何かあったのか。元気がなかったように見える気がした。けれど、それを言葉にしてしまうと、娘の表情がもっと閉じてしまうかもしれない。そんな不安が、声の奥で慎重にゆれていた。
七菜は「ただいま」とは言わなかった。
かわりに、黙って靴を脱ぎ、その場にしゃがみこんだ。玄関のたたきに手をつき、脱いだスニーカーをそろえる。その手つきが、妙に丁寧だった。つま先をそろえ、かかとをぴったりと壁に合わせてから、小さく息を吐いた。
それは、習慣というにはどこか意識的すぎる仕草だった。感情を整えるように、心を動かさないように、何かを沈めようとする子どもの癖。そんな印象を、智久は受けた。
「暑かっただろ。麦茶、冷やしてあるよ」
声をかけながら、智久は台所に向かう。その背中に続くようにして、七菜は靴箱の前から立ち上がり、ゆっくりと家の中に入ってきた。ランドセルの重さを背負ったまま、足音をなるべく立てないようにして歩く。
居間に入ると、春の名残の陽が障子越しに差し込んでいた。時計の針は三時半を少し回っていた。普段なら、おやつの時間だ。けれど、今日の七菜は、どこか声を出したがらない雰囲気をまとっていた。
ランドセルを、いつもの場所に置くと、七菜はそのままちゃぶ台の縁に手をついた。座るわけでもなく、ただ、そこに触れていた。
「七菜」
コップに氷の音を立てながら、智久が呼びかける。七菜は、それに返事をする代わりに、小さくつぶやいた。
「今日、ちょっと…疲れた」
その声は、ほとんど聞き取れないほど小さかった。言葉がまっすぐに届いてくるのではなく、どこかで曲がって、音だけが残ったような感じだった。
智久は麦茶を持ったまま、七菜の正面に座った。無理に覗き込まず、ただ、同じ目線になる場所に静かに身を置く。
「そうか。じゃあ、少し休もうか」
七菜はこくんと頷いた。それから、背中からランドセルの肩紐を外し、やっとすこしだけほっとしたような息を吐いた。
智久の目には、その一連の動きが、どこか痛々しく映った。何かあったに違いない。ただ、それを無理に聞き出してはいけないと、直感で思った。子どもが自分の気持ちを言葉にできるまでには、時間がいることを、智久はよく知っていた。自分自身が、大人であるにもかかわらず、まだ言葉にできない感情を抱えたまま生きていることを、思い知らされるような瞬間だった。
七菜は、そのままちゃぶ台の向こう側に腰をおろし、麦茶のコップを両手で持った。氷がわずかに音を立て、光が反射する。そのガラス越しのゆらぎを見つめながら、しばらくのあいだ、何も言わなかった。
智久も、それに合わせるようにして、言葉を選ばなかった。代わりに、台所に戻り、小皿に一口サイズのバタークッキーを数枚のせて持ってきた。
「冷蔵庫にあったやつ。春樹先生がくれたって、母さんが言ってたよ」
そう言って皿を置くと、七菜はやっと、少しだけ口の端をゆるめた。
「…食べてもいい?」
「もちろん」
七菜はクッキーを一枚、手に取った。カリッと音を立ててかじり、もう一度、こくんと頷いた。
ほんの少しだけ、彼女の頬に戻った血の色を見て、智久は自分の肩がわずかにほぐれるのを感じた。心のなかにしまったままの言葉があるなら、いまはそれを無理にほどく必要はない。そう思いながら、静かに麦茶を飲んだ。
ふたりのあいだには、穏やかな沈黙が流れていた。だがそれは、言葉を失った沈黙ではなく、やわらかな静けさだった。七菜の指先が、クッキーの端をゆっくりとたどっていく。その動きは、どこか鍵盤に触れるときと似ていた。
玄関のほうから、風がそっと吹き込んできた。軽く開けていた戸が、かすかに軋んだ音を立てる。そのとき、七菜が初めて目を上げた。目が合った智久に向かって、微かに笑ってみせる。
「ただいま」
今度は、はっきりと聞こえた。その一言に、智久は小さく微笑んだ。
「おかえり」
その瞬間、ふたりのあいだの沈黙が、静かに解けた気がした。
舗装された道の端を歩くたび、足元で小石が細く転がる音がした。車通りを避けた、緩やかな帰り道。午後の陽射しがだんだんと陰って、葉の茂る街路樹の間から木洩れ日が静かに揺れていた。春樹は、右手に提げたエコバッグを少し持ち直しながら、数歩先を歩く智久の背中に目をやった。言葉は、のど元まで上がっていた。でも、それがどれも違う気がして、黙ったままにした。「智くん、つらかっただろ」「大丈夫だった?」言いたい言葉は、どれも表面的すぎる。傷に添えるには、あまりにも軽すぎて、触れることすら許されない。そんな気がした。少し前、智久が旧友と再会したときのことを、春樹は繰り返し思い返していた。明るく放たれた言葉の刃に、あの瞬間、智久の顔からすっと色が消えていた。目の奥を閉ざすように、声を出す代わりに沈黙を選んだ、あの静けさ。気づかなかったふりをした春樹の胸には、ひどく鈍い感情が残っていた。ふと、智久がバッグを持ち替えた。利き手がふさがっている春樹に配慮したのだろう。さりげない仕草だったが、春樹はそこに彼らしさを見た。言葉で示すことが得意ではない代わりに、細かな気配りが自然とにじむ人だった。「…ありがと」思わず、春樹の口から小さく声が出た。智久は驚いたように振り返り、けれどなにが「ありがとう」なのかを問わず、ただ頷いた。「…たいしたもん入ってないから」そう言って、視線を前に戻す。その横顔に、樹の葉の影が斜めに落ちていた。目元まで届きそうな陰りが、春樹の胸の奥をやわらかく締めつけた。(まだ、君の孤独の輪郭すら、俺は触れていない)春樹の中に、そんな思いが静かに沈んでいく。どれだけ近くにいても、どれだけ「昔の智久」を知っていても、今の彼の心の中には、届かない場所がある。それを知ったのは、再会してからだった。一度、見えなくなった人の輪郭を、もう一度なぞるには、音のような時間が必要なのかもしれない。触れようとすると壊れてしまうような、儚い距離。春樹は歩幅を少しだけ狭め、智久と並んだ。「今日は…ありがとう」
駐車場に出ると、午後の陽射しがわずかに強まっていた。舗装されたアスファルトが白く霞み、遠くに立つ街路樹の影が少しだけ長く伸びている。買い物を終えた春樹と智久は、並んで歩きながら、手にしたエコバッグの重みに腕を揺らしていた。まだ梅雨入り前の空には雲が多く、日差しと曇りの境目が不安定なまま広がっている。「こっち、日陰だな」智久がぼそりと言って、隅の駐車スペースに向かって足を速めた。そのときだった。「おい…まさか、長谷じゃねえか?」春樹が、声のほうに顔を向けるより早く、智久の足が止まった。駐車場の反対側、黒い軽バンの後部ドアに買い物袋を積み込んでいた中肉の男が、こちらに向かって手を振っていた。浅黒く焼けた肌と、無造作に撫でつけた短髪。顔に見覚えはなかったが、智久の表情が一瞬にして固まったことで、春樹にもその正体はわかった。「うわ、久しぶりすぎる。中学以来か? だよな? 長谷だよな?」男は、昔から人懐っこいと言えば聞こえはいいが、やや空気を読まない印象をまとっていた。明るすぎる笑顔と、無防備な声音。智久はぎこちなく頷いた。「…ああ。佐野か」「そうそう、俺だよ佐野。わかってくれて助かるわ。うわあ、まさかこんなとこで会うとはなあ」軽く手を振る佐野に、智久は曖昧に笑い返した。春樹は、すっと智久の斜め後ろに立つように位置をずらした。自己紹介をするべきかどうか、迷ったまま視線だけを上げる。「でさ、聞いたよ…奥さん、亡くなったって。大変だったな」その言葉が発された瞬間、時間がすうっと引いていくのを春樹は感じた。さっきまで、日差しに照らされていた地面が、影のようなものにすべて覆われた気がした。智久のまぶたが、一度だけ、ゆっくりと閉じられる。それは目を伏せたというより、奥にしまいこむような仕草だった。言葉にするよりも前に、春樹はそれが彼にとってどれほど無防備な瞬間だったかを理解してしまっていた。「それ…今、言うんだ…?」心のなかで、春樹は思った。言えない。でも、はっきりそう感じた。
ショッピングモールの駐車場に面したスーパーは、土曜の午後にもかかわらず静かだった。初夏の光はやわらかく、空にはうっすらと白い雲が浮かんでいた。敷地の脇に植えられたプラタナスの木陰が、地面にまだらな模様を落としている。風がすっと抜けて、どこか遠くで風鈴のような自転車のベルが鳴った。春樹は、智久の背を目で追いながら、店内へ入る自動ドアの手前で一度立ち止まった。前を歩く男の右手が、カートの取っ手にそっとかかっている。指先は力を入れすぎるでもなく、かといって緩すぎるでもない。どこか頼りなくもあり、それでいて、誰かを守ろうとするような確かさがあった。七菜が好きだというほうれん草と、朝食用のパン、それから冷蔵庫に切らしていた牛乳。買い物メモは昭江がざっと書いたもので、字の端がかすれていた。レジ袋を節約するために、ふたりは一枚のエコバッグだけを持ってきていた。「バターって、こっちだっけ」智久がふと振り返る。春樹は頷いてから、棚の奥を指さした。「乳製品の冷蔵棚、もう少し奥。あ、マーガリンじゃなくて有塩のほうね。七菜、味の違いに気づくタイプだよ」「やっぱりな…最近、やたら舌がこえてきて」軽く笑った智久の頬が、ほんの少しだけ緩んだ。それは、春樹の知っている笑い方だった。けれど、昔のような、何の影もない笑みではなかった。目尻に刻まれた小さな皺と、唇の端にほのかに滲む疲れが、時間の重みを語っていた。春樹は無言のまま、冷蔵棚に手を伸ばす智久の背を見つめた。黒いTシャツの布が、肩甲骨のあたりで軽く張っている。日常に戻ろうとする背中だ。けれどその奥に、まだ解けていない硬さがある。春樹はそれを、痛いほどよく知っていた。カートの前に並ぶと、ふと智久が春樹を見上げるように横を向いた。「春樹、なんか食べたいものある? 晩飯、ついでに君の分も買っとく」「俺? んー…じゃあ、厚揚げ。あれ焼いて生姜と醤油で食べるやつ、好きだったろ、智くん」智久は目を細めて、少しだけ肩をすくめた。「懐かしいな。あの頃、よく母さんが作ってたな。…まだ好きか?」「
寝室の灯りは、すでに落ちかけていた。天井の蛍光灯は消え、枕元に置かれた小さなスタンドライトだけが、かすかな琥珀色の光を部屋に灯していた。その光が、布団の端やカーテンのすそをやわらかく照らし、壁には揺れる影をつくっていた。智久は寝巻き姿のまま、隣の布団で眠る準備をしている七菜の様子をちらと見やる。七菜は毛布を肩までかけて、まだ目を閉じずに天井を見つめていた。その小さなまぶたの下に、うっすらと光が宿っている。窓の外では、風が木の葉を揺らす音が静かに続いている。虫の声もわずかに混じり、それらが寝室の静けさに沁みるように溶け込んでいた。「…ねえ」七菜が、かすかに声を漏らした。「ん?」智久が返すと、少しの間が空いた。「春樹先生ってさ…ピアノ、うまいだけじゃないね」その言葉は、まるで自分の中にたまった何かを、ようやく置き換えるようにして出てきたようだった。智久は、返す言葉を少し考えた。どう答えるのが正しいのか、どれが彼女にとって無理のないものなのかを測るように、数秒沈黙してから、ぽつりと言った。「そうだな。優しいよな」その声に、七菜が小さく頷いたのが布団越しに伝わった。かすかに動いた肩の線が、それを物語っていた。「…ピアノのときもそうだけど、きょうね、春樹先生、なんにも言わなかったんだ。わたしが変なふうだったのに」「うん」「でも、なんかね、わかってた気がするの。なにも言わないで、そばにいてくれた」七菜の声は、少し鼻にかかったように聞こえた。喉の奥がほんのりとつまったような、でも泣いているわけではない声だった。智久はそれを否定せず、ただじっと聞いていた。「パパもね」「うん?」「もうちょっと…笑ってていいと思うよ」その一言は、思いがけず胸にすっと入りこんできた。言葉が、喉の奥に届いて震えた。笑う、ということ。失ってからずっと、無意識のうちに遠ざけていたもの。笑っているつもりで
長谷家の食卓は、和室の一角に据えられた座卓だった。季節が初夏へと差しかかり、障子越しにうっすらとした外光が入り込んでいる。外では風が庭の木々をかすかに揺らし、その合間を縫うように鳥のさえずりが届いていた。その晩の献立は、豚のしょうが焼きと茄子の煮びたし、それに味噌汁と炊き立てのご飯という、ささやかだが滋味に富んだものだった。智久が合間に用意し、昭江が味の調整を手伝った。「春樹くん、よかったら今夜も食べていきなさいよ」台所から湯気を運んできながら、昭江が何気ない口調で言った。「迷惑じゃないなら、ぜひ」春樹は穏やかに答えて椅子に腰をおろした。ふと視線を動かすと、七菜が向かいに座って、まだ箸を手に取らず、じっと皿の上を見つめているのが目に入った。その顔には、昼間のやわらかな笑顔が影を潜めていた。どこか、置き忘れたままの気持ちを拾いにいこうとしているような、そんな静けさがあった。「七菜、今日はパパが盛りつけたんだよ」智久がなるべく柔らかい声でそう言ったが、七菜はすぐには反応しなかった。ただ、小さく頷くと、箸を取って茄子にそっと手を伸ばした。小鉢からひとつを慎重に持ち上げ、口に運ぶ。その動きにさえ、まだ少し躊躇が残っているように見えた。ひと口、噛んで、そっと飲み込んだあと。七菜のまぶたが、わずかに伏せられる。そのまま目を開けると、ほんのすこしだけ口角が緩んだ。その変化に、智久は内心で安堵した。声をかけるべきか、黙って見守るべきかを測っているのが、うなじの辺りにまで表れていた。「茄子、煮すぎてない?食べにくくなかった?」問いかけると、七菜は首を横に振った。「ううん…やわらかくて、おいしい」それだけだったが、智久には十分だった。その短い言葉の中に、今日一日抱えてきた重さが、少しだけ緩んだことが見えた。春樹は、それを言葉にはしなかった。ただ、七菜の前にある小鉢を自分のと交換しながら言った。「こっちの茄子のほうが味が染みてる気がする。今度、春雨と合わせてみたらどうかな。うちの母はよくそうしてました
午後の光は和室の障子を透かして、柔らかな影を畳に落としていた。風の音も、鳥のさえずりも遠く、家の中は静かだった。ピアノの前に座る七菜の姿だけが、その静けさのなかで小さく揺れていた。春樹はそっと腰をおろし、譜面台の脇から七菜の肩越しに鍵盤を見つめた。指先が一つひとつ、音の粒を追いかけようとしていた。だが、その動きには、いつもよりも確かな迷いがあった。リズムがほんのわずかに遅れ、和音の重なりが濁る。何度か音を戻そうとするが、同じ小節で、七菜の手が止まった。手の甲にうっすらと力が入っていて、体全体がわずかに前かがみになる。春樹はその様子を見守っていたが、無理に指導の言葉を挟もうとはしなかった。代わりに、静かにピアノの隣に腰を上げ、七菜の少し後ろに立った。「大丈夫、焦らなくていいよ」声の高さを落としたその一言は、音楽とは別の調和を生んだ。音ではなく、気配として部屋に満ちるような響きだった。七菜はすぐには返事をしなかった。けれど、肩の線がほんのわずかに緩む。そして、鍵盤から視線を外さないまま、小さな声で答える。「…うん」その短い返事は、音よりも脆かった。春樹は静かに後ろへ一歩下がると、七菜の左側から膝を折り、畳の上に片手をついて目線を合わせた。七菜の瞳が揺れているのがわかった。目はまっすぐにはこちらを見ず、斜め下へ落ちたまま、小さく揺れていた。「音はさ、気持ちを聴いてくれるんだよ」そう呟くように言った春樹の声に、七菜の眉がすこしだけ寄る。その意味をすぐに理解できなかったのか、もしくは理解したくなかったのか、わからない。ただ、言葉の行き先を探しているように、彼女は手元を見つめたまま、しばらく黙っていた。そして、ほんの数秒の沈黙のあとだった。「わたし、ママのこと、よくわかんないの」その声は、言葉として出すのに時間がかかったのだろうと思わせるほど、ひどく頼りなかった。七菜の両手は膝の上に置かれたまま、指先がそっと握られていた。春樹は驚きの色を浮かべず、ただ頷くようにして聞いていた。「そっか」それだけ言って、手を