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目覚めの廊下

Author: 中岡 始
last update Last Updated: 2025-09-11 11:07:22

廊下はまだ、夜の名残を引きずっていた。薄明かりに照らされる床板には、かすかな光の線が走り、廊下の端に置かれた傘立ての影が長く伸びていた。外では鳥が鳴きはじめていたが、その声もまだ眠たげで、静けさを破るには至らない。

智久は裸足のまま、その廊下を歩いていた。足音はなく、歩幅もいつもより狭い。まるで、音そのものを避けるように、慎重に畳に足を運ぶ。髪は乱れ、シャツの胸元にはわずかに寝癖の皺が残っていたが、それに気づく余裕はなかった。意識のほとんどが、先にある「音」に引き寄せられていた。

和室のほうから、小さな旋律が漏れていた。鍵盤が奏でる音は、完全な楽曲ではなかった。むしろ、探るように重ねられる音たちが、ゆっくりと呼吸をしているように聞こえた。その響きに、足が止まる。

智久は襖の前で立ち尽くし、しばらく身動きをとらなかった。そこには、踏み込んではいけないような、ひどく静かな領域が広がっている気がした。けれど、それを遠くで聴いていることも、彼にはもうできなかった。

左手が自然と襖の縁に伸びる。指先がふれると、その冷たさにわずかに身体がこわばった。襖の木枠は朝の湿気を帯びていて、ぬるく、硬く、そしてどこか懐かしい。その手が、ほんの少し震えを見せた。深く息を吸い込むこともできず、智久は指先だけで、障子を数センチほど滑らせた。

開かれた隙間から、視界が広がる。

そこには、春樹がいた。

ピアノの前に座る背中は、すっかり音に浸っていた。痩せた肩がゆっくりと上下しており、音とともに呼吸しているのがわかる。春樹は気づいていない。あるいは、気づいているのに、気づかないふりをしている。どちらにしても、その背中には、ひとつの穏やかさがあった。

智久は思わず、襖の縁を少しだけ強く握った。胸の奥に溜めていたものが、形を失っていくのを感じた。迷い、恐れ、諦め。そういった曖昧な輪郭のまま残っていた感情が、目の前の旋律によって、音もなく溶けていくようだった。

音は、静かだった。けれど、ただの静けさではない。そこには確かに「希望」の響きが含まれていた。誰かのために弾く音ではない。けれど、聴く誰かを拒むわけでもない。無理に伝えようとすることも、媚びることもなく、ただ「ここにいる

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  • 未明のソナタ~触れてはいけないと思っていたその音に、今夜、心がほどけた。   そっと座る場所

    廊下の奥から、かすかな音が聞こえた。乾いたスリッパの音。規則的ではなく、どこか寝起きの身体がまだ夢を引きずるような、控えめな足取りだった。智久はその音に気づき、襖に添えていた手をそっと離した。指先に残る木の感触が、ほんの一瞬だけ現実に戻る手助けをする。和室の中ではまだ春樹が弾いていた。旋律は静かに続いており、まるで呼吸のように一定で、けれどどこか深く揺れていた。足音は止まり、襖の向こうで一拍、間が空いた。障子の端がわずかに動き、そこに小さな影がのぞく。七菜だった。まだ眠たげな顔のまま、髪は寝癖であちらこちらに跳ねている。一房が頬にかかり、まつげの先に触れそうなほど垂れていたが、彼女はそれを気にする素振りもなく、ただ前を見つめていた。開いた隙間から中を見渡すと、七菜はすぐに戸を大きく開けた。その仕草に、躊躇はなかった。静かに、けれど確かな足取りで和室に入り、春樹の背中に向かって歩いていく。春樹は視線を向けない。だが、彼の指先が一瞬だけ鍵盤の上で緩んだのを、智久は見逃さなかった。微細な揺れだった。けれど、それは確かに、彼が七菜の存在に気づいている証だった。七菜は、春樹の横に並ぶようにして、畳の上に膝を折った。何も言わず、ただ座り、視線をまっすぐにピアノの鍵盤へ向けていた。さっきまで眠っていたとは思えないほど、目は真っ直ぐにひらいていて、まだかすかに夢の残り香を帯びた空気のなかで、彼女の存在がただ穏やかにそこにあった。髪の一房が顔にかかったまま。それを払いもせず、七菜はじっと春樹の弾く手元を見つめていた。智久はその横顔を見て、少しだけ微笑みたくなった。けれど、彼自身もまだ余韻のなかにいた。言葉を発するには、少しだけ呼吸が整っていない。春樹の顔が、わずかに七菜のほうを向く。その横顔に、一瞬だけ、やわらかな笑みが浮かんだ。声には出さず、表情にも出しすぎない。それでも、春樹の表情の輪郭がわずかに緩んでいくのが見えた。智久もまた、和室の入り口近くに腰を下ろした。襖の枠にもたれかかることなく、背筋を伸ばして座った。春樹と七菜の様子を、少し離れた場所から見つめながら、音に耳を傾ける。けれど、彼の視線はただ鍵盤だけを追ってはいなかった。春

  • 未明のソナタ~触れてはいけないと思っていたその音に、今夜、心がほどけた。   目覚めの廊下

    廊下はまだ、夜の名残を引きずっていた。薄明かりに照らされる床板には、かすかな光の線が走り、廊下の端に置かれた傘立ての影が長く伸びていた。外では鳥が鳴きはじめていたが、その声もまだ眠たげで、静けさを破るには至らない。智久は裸足のまま、その廊下を歩いていた。足音はなく、歩幅もいつもより狭い。まるで、音そのものを避けるように、慎重に畳に足を運ぶ。髪は乱れ、シャツの胸元にはわずかに寝癖の皺が残っていたが、それに気づく余裕はなかった。意識のほとんどが、先にある「音」に引き寄せられていた。和室のほうから、小さな旋律が漏れていた。鍵盤が奏でる音は、完全な楽曲ではなかった。むしろ、探るように重ねられる音たちが、ゆっくりと呼吸をしているように聞こえた。その響きに、足が止まる。智久は襖の前で立ち尽くし、しばらく身動きをとらなかった。そこには、踏み込んではいけないような、ひどく静かな領域が広がっている気がした。けれど、それを遠くで聴いていることも、彼にはもうできなかった。左手が自然と襖の縁に伸びる。指先がふれると、その冷たさにわずかに身体がこわばった。襖の木枠は朝の湿気を帯びていて、ぬるく、硬く、そしてどこか懐かしい。その手が、ほんの少し震えを見せた。深く息を吸い込むこともできず、智久は指先だけで、障子を数センチほど滑らせた。開かれた隙間から、視界が広がる。そこには、春樹がいた。ピアノの前に座る背中は、すっかり音に浸っていた。痩せた肩がゆっくりと上下しており、音とともに呼吸しているのがわかる。春樹は気づいていない。あるいは、気づいているのに、気づかないふりをしている。どちらにしても、その背中には、ひとつの穏やかさがあった。智久は思わず、襖の縁を少しだけ強く握った。胸の奥に溜めていたものが、形を失っていくのを感じた。迷い、恐れ、諦め。そういった曖昧な輪郭のまま残っていた感情が、目の前の旋律によって、音もなく溶けていくようだった。音は、静かだった。けれど、ただの静けさではない。そこには確かに「希望」の響きが含まれていた。誰かのために弾く音ではない。けれど、聴く誰かを拒むわけでもない。無理に伝えようとすることも、媚びることもなく、ただ「ここにいる

  • 未明のソナタ~触れてはいけないと思っていたその音に、今夜、心がほどけた。   未明の光

    障子の向こうには、まだ夜の名残が揺れていた。空は深い群青色に沈んでいたが、東の端だけがかすかに明るみはじめている。冬の息が残る空気は、しんと冷えきっていて、吐いた息が薄白く漂った。和室には、まだ誰もいない。畳の上に差し込む光は淡く、まるでまだ夢と現実の境界が曖昧な時間を、そっと包んでいるかのようだった。春樹は黙ったまま、静かにその空間に身を置いていた。ピアノの前に座り、深く呼吸をひとつ落とす。薄手のカーディガン越しにも伝わる冷たさに、首元を少しすくめながら、鍵盤の蓋に手をかけた。指先が触れた瞬間、ひやりとした感触が肌を刺す。乾いた冬の空気にさらされていたその木の表面は、どこかよそよそしい温度を持っていた。蓋を静かに開ける音が、和室にやわらかく響いた。響いたというより、そこに沈んだ。日常の音ではなかった。久しぶりに開かれた鍵盤が、空気の中に居場所をつくっていく。そのまま、春樹は手を止めずに、白と黒の鍵の上へと、慎重に指を這わせた。震えていた。指先はわずかにかじかみ、肌は少し赤くなっていた。それでも、鍵盤に触れた瞬間、ふっと熱が戻ってくるようだった。まるでピアノの側が先に春樹を思い出したかのように、指先はそれに応えるようにして、自然と動きはじめた。和音をひとつ、置く。それだけで、空気の密度が変わった。畳の上を包んでいた冷たさが、わずかに和らいだ気がした。肩の力が抜けていくのが、自分でもわかった。張りつめていた呼吸が、胸の奥で小さく解かれていく。音は低く、やわらかく、どこか懐かしい気配を纏っていた。まるで、ずっと前にこの部屋で鳴らしていた音を、そっと呼び戻すように。旋律はまだ輪郭を持っていなかった。春樹自身にも、どこへ向かっているかはわからない。ただ、音が導くままに、指を走らせる。旋律の端はほつれていて、まだ繋がらない。だけど、そのほつれのなかには、確かな温度があった。響きのひとつひとつが、どこかで見た笑顔や、交わしたまなざしの記憶に重なっていく。障子の隙間から、わずかに朝の光が伸びはじめていた。その光はまだ細く、畳の上にほの白く筋を描いている。音は、その筋を縫うようにして漂った。春樹はただ弾きながら、その光の動きを目で追った。旋律のなかに、夜と朝の境目を

  • 未明のソナタ~触れてはいけないと思っていたその音に、今夜、心がほどけた。   三人の手のひら

    廊下に射す冬の午後の光は、柔らかく、しかしどこか冷ややかでもあった。レッスンが終わり、和室から出てきた春樹が、ゆっくりと玄関へと向かう。その足取りは軽くもなく、重くもなく、ただ時間に丁寧に触れているような静けさをまとっていた。「先生、靴…履かせてあげる」七菜が背後から小さく声をかけた。床に膝をつきかけて、玄関の敷居に手を伸ばす。だが、その手より先に、春樹がそっと声を発した。「いいよ。自分で履くよ」声は穏やかだったが、どこか余韻を含んでいた。七菜の動きが止まり、脱ぎかけたスリッパの足がぴたりと止まる。スカートの裾がわずかに揺れて、彼女の目が春樹の背中を追ったまま、何も言わずに動かなくなる。玄関の木枠に片手を添えて、春樹がしゃがむ。左足から先に靴を差し込み、もう片方のかかとを軽く押して収める。その仕草の途中、首に巻いたマフラーの先がふと揺れて、春樹の頬にかすかに触れる。そのとき、背後で気配が動いた。「じゃあ、また来週」智久の声だった。振り返らずともわかる、真っ直ぐな声。春樹は靴紐を整える手を止め、その場にゆっくりと立ち上がる。そして、後ろを振り返った。ほんの一歩だけ下がった位置に、智久が立っている。目が合った。玄関の小さな空間に、二人の間だけに流れる、静かな時間が生まれる。春樹の唇がわずかに動いたが、言葉にはならなかった。かわりに、右手がふっと持ち上がり、智久の肩に触れようとする。けれど、その動きは途中で止まった。触れる寸前の空気に、わずかに指先が震え、そして手はそのまま引き下ろされる。触れなかった。しかし、その未完の仕草は、何よりも多くを伝えていた。智久の眼差しは変わらなかった。ただ、真っ直ぐに、春樹を見つめていた。その視線が、あまりにまっすぐで、春樹は思わず口元を緩める。「…うん」小さく、けれど深く響く、ひとことだった。春樹が玄関の戸を開ける。冷たい外気が、わずかに家のなかへと流れ込む。その風に、春樹のマフラーの端がふわりと舞い上がり、また肩へ落ちる。背を向けて歩き

  • 未明のソナタ~触れてはいけないと思っていたその音に、今夜、心がほどけた。   音の合間にあるもの

    和室の窓辺には、白い冬の日差しが静かに差し込んでいた。午前のレッスンを終えたあと、ストーブの前に置かれた小さな丸卓を囲んで、三人が湯気の立つカップを手にしていた。湯呑のなかには、砂糖とミルクをたっぷり入れたココア。七菜はスプーンでそれをくるくると回していた。熱を逃がすというより、手の動きに心を寄せているような所作だった。春樹の湯呑からは、ふわりと甘い香りが立ちのぼり、その湯気に照らされた春樹の頬が、ほんのり赤みを帯びている。「先生、来週も来る?」七菜がスプーンを止めて、ふと春樹の顔を見上げた。声はいつになく素直で、どこか確かめるような響きがあった。言葉にした途端、自分で照れくさくなったのか、すぐに視線を逸らし、カップの縁に唇をつける。春樹は、少しだけ目を細めて、その様子を見つめていた。そして、穏やかに、けれどはっきりと頷いた。「もちろん」声は小さかったが、その中には曖昧さがなかった。そこにいた誰もが、その言葉の“本気”を感じ取っていた。だから、智久も、何も言わずに頷くだけで済まそうとした。だが、七菜がちらりと彼の方を見たのに気づき、仕方なく唇を動かす。「…助かる」ぽつりと、それだけだった。けれど、その一言のなかには、長い沈黙を越えた言葉が宿っていた。いつからか、言葉の長さよりも、声の質がすべてを伝えるようになっていた。その声は、少しかすれていた。朝から冷たい空気の中にいたせいか、あるいは、言葉を口にするまでの時間が長すぎたせいか。だが、春樹にはそれが、どんなに多くの言葉よりも大きな“肯定”に思えた。「そっか。よかった」それだけを返す春樹の声は、わずかに低く、けれどどこか満ち足りていた。湯呑を持つ手の指先は、冷えのせいか赤くなっていたが、その小さな震えは、もう不安からくるものではなかった。三人の間に、静けさが落ちる。けれど、その静けさは居心地の悪いものではなかった。音を出さなくても通じるものがあるのだと、それぞれが気づいていた。さっきまで一緒に弾いたピアノの残響が、まだ部屋の空気のなかに漂っている

  • 未明のソナタ~触れてはいけないと思っていたその音に、今夜、心がほどけた。   もうひとつの椅子

    「じゃあ、今日は…パパも弾こうか」春樹がそう言った瞬間、空気がふっと動いた。七菜が顔をぱっと上げて、智久の方を振り返る。和室の天井から差す冬の陽は淡く、三人の間にいる時間だけが、ゆっくりと進んでいるようだった。智久は応えなかった。ただ、小さく目を瞬かせ、春樹の方を見た。その横顔には何の含みもなかった。ただ純粋に、今この瞬間の流れのままに言葉を紡いだだけのように見えた。「やってみようよ、パパ」七菜の声が、あたたかくも背中を押すように響く。その声に、ほんの一瞬だけためらいの色が混じるが、それでも目は真っ直ぐに父を見つめていた。智久は、ゆっくりと立ち上がった。ピアノの前にある椅子は、春樹が半分だけ腰掛けていた。隣に少し空けられたスペースがある。智久は、その空白を一瞥し、すぐに目を逸らした。だが次の瞬間、春樹が静かに椅子を少し横にずらし、その余白をもう少し広げた。何も言わず、ただ、そこに“もうひとつの椅子”を差し出すように。「無理しなくていいよ。ただ、音を出してみるだけ」春樹の声は変わらず穏やかだった。智久は、もう一度深く息を吸い、それから隣に腰を下ろした。七菜は対面の譜面台の向こうに座り、小さな手を膝の上に置いて、ふたりを見守っている。智久の手が、ゆっくりと鍵盤の上に伸びた。指先が白く、乾いていた。けれども、その指は迷いながらも、確かに鍵盤に触れる。「この和音、覚えてる?」春樹が軽く隣のドを鳴らす。ドとミとソ。それは最も基本の和音。だが、智久には、十年以上ぶりの手触りだった。「…多分、覚えてる」低く、しかしどこか遠くを探るような声で智久が言った。春樹が、隣の音域でそっと鍵盤を押す。智久も、それに合わせるように、指を置く。次の瞬間、和音が響いた。完璧ではない。ミの音が少し遅れ、ソが浅かった。そして、智久の中指が鍵盤の端にぶつかり、わずかに音がくぐもった。けれど、それでも音は出た。三人の音が、同じ空間で、同じ瞬間に響いた。春樹がふと、横目で智久を見た。

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