障子の向こうには、まだ夜の名残が揺れていた。空は深い群青色に沈んでいたが、東の端だけがかすかに明るみはじめている。冬の息が残る空気は、しんと冷えきっていて、吐いた息が薄白く漂った。和室には、まだ誰もいない。畳の上に差し込む光は淡く、まるでまだ夢と現実の境界が曖昧な時間を、そっと包んでいるかのようだった。
春樹は黙ったまま、静かにその空間に身を置いていた。ピアノの前に座り、深く呼吸をひとつ落とす。薄手のカーディガン越しにも伝わる冷たさに、首元を少しすくめながら、鍵盤の蓋に手をかけた。指先が触れた瞬間、ひやりとした感触が肌を刺す。乾いた冬の空気にさらされていたその木の表面は、どこかよそよそしい温度を持っていた。
蓋を静かに開ける音が、和室にやわらかく響いた。響いたというより、そこに沈んだ。日常の音ではなかった。久しぶりに開かれた鍵盤が、空気の中に居場所をつくっていく。そのまま、春樹は手を止めずに、白と黒の鍵の上へと、慎重に指を這わせた。
震えていた。指先はわずかにかじかみ、肌は少し赤くなっていた。それでも、鍵盤に触れた瞬間、ふっと熱が戻ってくるようだった。まるでピアノの側が先に春樹を思い出したかのように、指先はそれに応えるようにして、自然と動きはじめた。
和音をひとつ、置く。
それだけで、空気の密度が変わった。畳の上を包んでいた冷たさが、わずかに和らいだ気がした。肩の力が抜けていくのが、自分でもわかった。張りつめていた呼吸が、胸の奥で小さく解かれていく。音は低く、やわらかく、どこか懐かしい気配を纏っていた。まるで、ずっと前にこの部屋で鳴らしていた音を、そっと呼び戻すように。
旋律はまだ輪郭を持っていなかった。春樹自身にも、どこへ向かっているかはわからない。ただ、音が導くままに、指を走らせる。旋律の端はほつれていて、まだ繋がらない。だけど、そのほつれのなかには、確かな温度があった。響きのひとつひとつが、どこかで見た笑顔や、交わしたまなざしの記憶に重なっていく。
障子の隙間から、わずかに朝の光が伸びはじめていた。その光はまだ細く、畳の上にほの白く筋を描いている。音は、その筋を縫うようにして漂った。春樹はただ弾きながら、その光の動きを目で追った。旋律のなかに、夜と朝の境目を
障子の向こうには、まだ夜の名残が揺れていた。空は深い群青色に沈んでいたが、東の端だけがかすかに明るみはじめている。冬の息が残る空気は、しんと冷えきっていて、吐いた息が薄白く漂った。和室には、まだ誰もいない。畳の上に差し込む光は淡く、まるでまだ夢と現実の境界が曖昧な時間を、そっと包んでいるかのようだった。春樹は黙ったまま、静かにその空間に身を置いていた。ピアノの前に座り、深く呼吸をひとつ落とす。薄手のカーディガン越しにも伝わる冷たさに、首元を少しすくめながら、鍵盤の蓋に手をかけた。指先が触れた瞬間、ひやりとした感触が肌を刺す。乾いた冬の空気にさらされていたその木の表面は、どこかよそよそしい温度を持っていた。蓋を静かに開ける音が、和室にやわらかく響いた。響いたというより、そこに沈んだ。日常の音ではなかった。久しぶりに開かれた鍵盤が、空気の中に居場所をつくっていく。そのまま、春樹は手を止めずに、白と黒の鍵の上へと、慎重に指を這わせた。震えていた。指先はわずかにかじかみ、肌は少し赤くなっていた。それでも、鍵盤に触れた瞬間、ふっと熱が戻ってくるようだった。まるでピアノの側が先に春樹を思い出したかのように、指先はそれに応えるようにして、自然と動きはじめた。和音をひとつ、置く。それだけで、空気の密度が変わった。畳の上を包んでいた冷たさが、わずかに和らいだ気がした。肩の力が抜けていくのが、自分でもわかった。張りつめていた呼吸が、胸の奥で小さく解かれていく。音は低く、やわらかく、どこか懐かしい気配を纏っていた。まるで、ずっと前にこの部屋で鳴らしていた音を、そっと呼び戻すように。旋律はまだ輪郭を持っていなかった。春樹自身にも、どこへ向かっているかはわからない。ただ、音が導くままに、指を走らせる。旋律の端はほつれていて、まだ繋がらない。だけど、そのほつれのなかには、確かな温度があった。響きのひとつひとつが、どこかで見た笑顔や、交わしたまなざしの記憶に重なっていく。障子の隙間から、わずかに朝の光が伸びはじめていた。その光はまだ細く、畳の上にほの白く筋を描いている。音は、その筋を縫うようにして漂った。春樹はただ弾きながら、その光の動きを目で追った。旋律のなかに、夜と朝の境目を
廊下に射す冬の午後の光は、柔らかく、しかしどこか冷ややかでもあった。レッスンが終わり、和室から出てきた春樹が、ゆっくりと玄関へと向かう。その足取りは軽くもなく、重くもなく、ただ時間に丁寧に触れているような静けさをまとっていた。「先生、靴…履かせてあげる」七菜が背後から小さく声をかけた。床に膝をつきかけて、玄関の敷居に手を伸ばす。だが、その手より先に、春樹がそっと声を発した。「いいよ。自分で履くよ」声は穏やかだったが、どこか余韻を含んでいた。七菜の動きが止まり、脱ぎかけたスリッパの足がぴたりと止まる。スカートの裾がわずかに揺れて、彼女の目が春樹の背中を追ったまま、何も言わずに動かなくなる。玄関の木枠に片手を添えて、春樹がしゃがむ。左足から先に靴を差し込み、もう片方のかかとを軽く押して収める。その仕草の途中、首に巻いたマフラーの先がふと揺れて、春樹の頬にかすかに触れる。そのとき、背後で気配が動いた。「じゃあ、また来週」智久の声だった。振り返らずともわかる、真っ直ぐな声。春樹は靴紐を整える手を止め、その場にゆっくりと立ち上がる。そして、後ろを振り返った。ほんの一歩だけ下がった位置に、智久が立っている。目が合った。玄関の小さな空間に、二人の間だけに流れる、静かな時間が生まれる。春樹の唇がわずかに動いたが、言葉にはならなかった。かわりに、右手がふっと持ち上がり、智久の肩に触れようとする。けれど、その動きは途中で止まった。触れる寸前の空気に、わずかに指先が震え、そして手はそのまま引き下ろされる。触れなかった。しかし、その未完の仕草は、何よりも多くを伝えていた。智久の眼差しは変わらなかった。ただ、真っ直ぐに、春樹を見つめていた。その視線が、あまりにまっすぐで、春樹は思わず口元を緩める。「…うん」小さく、けれど深く響く、ひとことだった。春樹が玄関の戸を開ける。冷たい外気が、わずかに家のなかへと流れ込む。その風に、春樹のマフラーの端がふわりと舞い上がり、また肩へ落ちる。背を向けて歩き
和室の窓辺には、白い冬の日差しが静かに差し込んでいた。午前のレッスンを終えたあと、ストーブの前に置かれた小さな丸卓を囲んで、三人が湯気の立つカップを手にしていた。湯呑のなかには、砂糖とミルクをたっぷり入れたココア。七菜はスプーンでそれをくるくると回していた。熱を逃がすというより、手の動きに心を寄せているような所作だった。春樹の湯呑からは、ふわりと甘い香りが立ちのぼり、その湯気に照らされた春樹の頬が、ほんのり赤みを帯びている。「先生、来週も来る?」七菜がスプーンを止めて、ふと春樹の顔を見上げた。声はいつになく素直で、どこか確かめるような響きがあった。言葉にした途端、自分で照れくさくなったのか、すぐに視線を逸らし、カップの縁に唇をつける。春樹は、少しだけ目を細めて、その様子を見つめていた。そして、穏やかに、けれどはっきりと頷いた。「もちろん」声は小さかったが、その中には曖昧さがなかった。そこにいた誰もが、その言葉の“本気”を感じ取っていた。だから、智久も、何も言わずに頷くだけで済まそうとした。だが、七菜がちらりと彼の方を見たのに気づき、仕方なく唇を動かす。「…助かる」ぽつりと、それだけだった。けれど、その一言のなかには、長い沈黙を越えた言葉が宿っていた。いつからか、言葉の長さよりも、声の質がすべてを伝えるようになっていた。その声は、少しかすれていた。朝から冷たい空気の中にいたせいか、あるいは、言葉を口にするまでの時間が長すぎたせいか。だが、春樹にはそれが、どんなに多くの言葉よりも大きな“肯定”に思えた。「そっか。よかった」それだけを返す春樹の声は、わずかに低く、けれどどこか満ち足りていた。湯呑を持つ手の指先は、冷えのせいか赤くなっていたが、その小さな震えは、もう不安からくるものではなかった。三人の間に、静けさが落ちる。けれど、その静けさは居心地の悪いものではなかった。音を出さなくても通じるものがあるのだと、それぞれが気づいていた。さっきまで一緒に弾いたピアノの残響が、まだ部屋の空気のなかに漂っている
「じゃあ、今日は…パパも弾こうか」春樹がそう言った瞬間、空気がふっと動いた。七菜が顔をぱっと上げて、智久の方を振り返る。和室の天井から差す冬の陽は淡く、三人の間にいる時間だけが、ゆっくりと進んでいるようだった。智久は応えなかった。ただ、小さく目を瞬かせ、春樹の方を見た。その横顔には何の含みもなかった。ただ純粋に、今この瞬間の流れのままに言葉を紡いだだけのように見えた。「やってみようよ、パパ」七菜の声が、あたたかくも背中を押すように響く。その声に、ほんの一瞬だけためらいの色が混じるが、それでも目は真っ直ぐに父を見つめていた。智久は、ゆっくりと立ち上がった。ピアノの前にある椅子は、春樹が半分だけ腰掛けていた。隣に少し空けられたスペースがある。智久は、その空白を一瞥し、すぐに目を逸らした。だが次の瞬間、春樹が静かに椅子を少し横にずらし、その余白をもう少し広げた。何も言わず、ただ、そこに“もうひとつの椅子”を差し出すように。「無理しなくていいよ。ただ、音を出してみるだけ」春樹の声は変わらず穏やかだった。智久は、もう一度深く息を吸い、それから隣に腰を下ろした。七菜は対面の譜面台の向こうに座り、小さな手を膝の上に置いて、ふたりを見守っている。智久の手が、ゆっくりと鍵盤の上に伸びた。指先が白く、乾いていた。けれども、その指は迷いながらも、確かに鍵盤に触れる。「この和音、覚えてる?」春樹が軽く隣のドを鳴らす。ドとミとソ。それは最も基本の和音。だが、智久には、十年以上ぶりの手触りだった。「…多分、覚えてる」低く、しかしどこか遠くを探るような声で智久が言った。春樹が、隣の音域でそっと鍵盤を押す。智久も、それに合わせるように、指を置く。次の瞬間、和音が響いた。完璧ではない。ミの音が少し遅れ、ソが浅かった。そして、智久の中指が鍵盤の端にぶつかり、わずかに音がくぐもった。けれど、それでも音は出た。三人の音が、同じ空間で、同じ瞬間に響いた。春樹がふと、横目で智久を見た。
七菜の指が、鍵盤の上をすべるように走った。ゆっくりとしたテンポで、丁寧に音階をなぞる。ひとつひとつの音が、冷えた空気の中に柔らかく溶けていく。まだ音の粒は揃っていないが、それでも明らかに、彼女なりの“音のかたち”が見えていた。春樹は椅子に腰かけたまま、わずかに身を傾けてその音に耳を傾けていた。譜面には目を落とさず、ただ七菜の手元と、音のゆらぎを見守る。その瞳には、どこか遠くを見ているような静けさが宿っていた。音階が一巡し、指が最後の「ド」にたどり着く。七菜は小さく息を吐き、そのまま鍵盤から手を離した。「よくなってる」春樹の声は、やや低く、しかし丸みを帯びていた。寒さの中でも包み込むような温度がそこにある。七菜の顔がぱっと明るくなる。けれど、恥ずかしさもあるのだろう、すぐに目を伏せて、「そうかな」と、声を小さく返した。その言葉の奥に浮かぶ微笑は、ほんのりと灯るあかりのようだった。春樹は頷きながら、指先で自分の膝を軽く叩く。それは拍手ではない、けれども、肯定のリズムだった。七菜はその仕草をちらりと見て、今度はほんの少しだけ、肩の力を抜いた。いつもよりも自然な姿勢。緊張ではなく、集中から生まれる静けさが彼女の背中に宿っていた。智久は和室の隅、ストーブのそばに腰を下ろしていた。手には湯呑。湯気はもう薄くなっていたが、そのぬくもりは手のひらに残っている。彼はふたりのやり取りを静かに見ていた。目立つことなく、声も挟まず。ただそこにいることが、今は必要だとわかっていた。七菜が再び鍵盤に向かい、今度はアルペジオを弾き始める。和音がやさしく部屋を撫でる。音が一音一音つながっていくたびに、和室の空気がゆっくりと呼吸しているように思えた。春樹がほんの少しだけ身を乗り出して、手元を覗き込むようにする。「ここのミ、今のは少し急いでたかな。もう一回、ゆっくり」「うん」七菜はすぐに返事をし、姿勢を整えた。そこに迷いはなかった。再び鍵盤に指を置き、今度は慎重に、けれど丁寧に音を紡ぎなおす。智久は、ふたりの会話が音と同じリズムで交わされていることに気
冬の朝は、すべての音を遠ざけてしまうような静けさを持っていた。和室の障子越しに射す陽光は斜めに伸び、畳の縁をまるで墨でなぞったように強調する。霜が縁側をうっすらと白く覆い、寒さは室内にもじわじわと忍び込んでいた。ストーブの唸るような低音だけが、空気にわずかな振動を与えている。春樹が敷居をまたいだとき、誰も声を発さなかった。けれど、その一歩にすべてがこめられている気がして、智久は座ったまま背筋を正した。七菜は先に和室で待っていて、ひざ掛けを脚にかけながら、指先をこすり合わせていた。手には薄い手袋。だが、指先はやはり赤く染まっている。春樹は鞄を壁際に置き、ピアノの前にまっすぐ歩いていった。薄く埃をかぶったカバーに手をかける。かさり、と布が滑る音。露わになった黒鍵の光沢が、朝の光をやんわりと弾いた。彼の指が、ゆっくりと鍵盤に触れる。押すのではなく、確かめるように、そっと。冷たい鍵盤の感触が、指先を通じて脈の鼓動に溶けていく。その白い指先は、寒さのせいか、ところどころ赤みを帯びていた。爪の先には少し乾いた皺が寄り、外気にさらされていた時間を物語っている。「今日も、いっぱい弾く」七菜の声は、控えめながら張りがあった。けれど、ほんの少しだけ語尾が上ずっていた。自分の言葉を受け取ってほしい、という願いが滲んでいる。春樹はその言葉にゆっくりと頷き、鍵盤に置いた指を軽く押し込んだ。低いミの音が、控えめに部屋に響く。その音が、凍っていた空気をやわらかくほぐすようだった。「うん、いっぱい、弾こうね」その返答に、七菜の頬がわずかに赤らむ。うれしさと照れくささが入り混じったその表情に、彼女自身がまだ慣れていない。前髪が静電気でふわりと浮いたまま、指先を何度か膝の上で組み替えている。智久は、ふたりのやりとりを黙って見ていた。視線を交わすことはしなかったが、音と呼吸のリズムが、少しずつ戻ってきているのを感じ取っていた。彼の手は膝の上で静止したまま。軽く組まれた指先には、過度な緊張も、安堵もない。ただ、そこにあるべきものが、ようやくあるべき場所に戻った…そんな静かな実感だけが漂っていた。春樹は椅子に腰を下ろすと、右手で少