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交わる視線、交差する想い

Author: 中岡 始
last update Huling Na-update: 2025-09-04 11:01:58

拍手の音が、ゆっくりと客席を包んでいった。最初はためらいがちに、まるで誰もがその静寂の美しさを壊すことをためらっていたようだったが、次第に確信を帯びた音の波がホール全体に広がった。

七菜は、ピアノの前に座ったまま一瞬だけその場にとどまっていた。音を止めたあとの余韻が、まだ身体のどこかに残っているようで、すぐには動けなかった。

彼女の背筋がすっと伸び、ゆっくりと椅子から立ち上がる。そして、客席に向かって小さくお辞儀をしようとした、そのとき。

ふと顔を上げた七菜の視線が、舞台袖の春樹を探すように彷徨った。

そして見つけた。袖の陰から、やさしい眼差しでこちらを見ている春樹の姿を。

その瞬間、七菜のまぶたが、ほんの少しだけ伏せられた。微笑んだわけでもなく、表情を大きく動かすでもなく、それでも確かに、その目は安心と充足に満ちていた。

春樹は、舞台袖の暗がりの中で、七菜にそっと微笑んだ。

その笑みはこれまでと違っていた。どこにも影がなかった。迷いも、痛みも、隠された言葉も、何も混ざっていなかった。

それは、ようやく訪れた“赦し”のかたちだった。自分自身を、過去の想いを、そしていま、目の前で音を届けてくれた少女と、その父親をも、まるごと受け入れたあとの、静かな光だった。

智久はその光景を、客席から見ていた。七菜の目の動き、春樹の笑みのかたち、そこに流れる気配すべてが、言葉にならない感情として胸に届いた。

娘は、春樹を信じている。そして春樹も、彼女にすべてを託している。その信頼のあいだに、確かに自分はいた。かつて選べなかった自分、踏み出せなかった過去、そしてようやく選びなおした今。

拍手が一段と大きくなり、七菜が今度こそ深く頭を下げる。動作はゆっくりで、けれどまっすぐだった。

その瞬間、智久の目が、ふと春樹と交わった。

まるで予期していたかのように、春樹もまた、視線を向けていた。距離はあったが、そこにある気持ちは、何かを確かめるでもなく、問いかけるでもなく、ただそっと重なるように交差した。

時間が、ほんの一瞬、止まったような気がした。

春樹の微笑

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