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終演後の余韻

Penulis: 中岡 始
last update Terakhir Diperbarui: 2025-09-04 11:02:19

ホールの外に出ると、秋の風が頬を撫でた。午後の日差しはもう角度を変えていて、建物の影が長く、ロビーに差し込む光も少しだけ柔らかくなっていた。

出入口のガラス越しに見える外の通りには、演奏会を終えた観客たちが三々五々、談笑しながら歩いていく姿があった。子どもたちの笑い声、プログラムを手にした保護者の笑顔、音楽の余韻がそれぞれの足取りを静かに包んでいる。

ロビーの片隅で、智久は七菜の小さな手を握って立っていた。七菜は、すこし下を向いたまま、自分のつま先をじっと見つめていた。

「ねえ…うまく弾けたかな」

ぽつりと、七菜が言った。

声はかすかに震えていた。緊張が抜けきらず、頭の中で演奏を反芻しているのだろう。間違えたところはなかったか、先生が笑ってくれるだろうか、そんな思いが小さな体に渦巻いている。

智久は言葉より先に、やわらかく頷いた。

「うん、すごくよかったよ」

声に迷いはなかった。ほんとうにそう思っていた。演奏そのものがうまくいったかどうかではない。彼女の音には、誰かを想う気持ちがしっかりと宿っていた。それだけで、十分だった。

春樹もそばに立っていた。七菜の頭をやさしく見下ろしながら、小さく笑った。

「うん、よく頑張ったね」

そう言って、春樹はそっと手を伸ばした。

七菜の肩に指が触れる、その瞬間。ほんのわずかに、その指先が迷ったように止まった。けれどすぐに、やわらかく動いた。撫でるというよりも、風が通り抜けるような、かすかな触れ方だった。

七菜は、そのぬくもりに気づいたように、すこしだけ目を細めた。

春樹は続けて、ふっと息を吸うように言葉を紡いだ。

「ありがとう。弾いてくれて」

声は低く、静かで、どこか遠くを見るような響きだった。

その言葉が、七菜に向けられているのはもちろんだったが、智久にはそれが別の“誰か”にも届いているように感じられた。

それは、過去の春樹自身への感謝にも似ていた。かつて言えなかった言葉を、ようやくこの場で、別の形で伝え直しているような、そんな響きだった。

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