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第10話

Author: 藤川 紅葉
翌日、約束の時間に合わせて家を出ると、門の前に真哉が立っているのが目に入った。

その目は赤く血走り、やつれた顔からはろくに眠っていないことが一目でわかる。

一瞬だけ驚いたが、すぐに視線を逸らした。

まさかまだ待っているとは――やはり、煌花への思いは強いらしい。

冷酷な面持ちで反対側へ回ろうとしたその時、彼もまた瑶に気づいた。目を輝かせて駆け寄り、腕を掴んだ。

その日の朝、真哉はすでにネットに流れたニュースを目にしていた。

それが瑶自身の手で流されたものだと分かると、胸が締めつけられるように痛んだ。

心が折れかけたが、目の前に彼女の姿を見た瞬間、その感情は跡形もなく消え、ただ離したくないという思いだけで胸がいっぱいだった。

「瑶......」

かすれた声で呼びかけ、慌てて咳払いをして言い直す。

「瑶、あの提案書の件は、全部俺の――」

「もういいわ」

彼女は耳を傾けずに話をさえぎった。

「そんな無意味なことを言いに来たの?あなたが煌花のためにしたい事なら、私は受け取らない。これからも私のところへ来ないで。来るくらいなら僧侶にでも相談して、因縁を断ち切る別の方法でも探すことね」

そう言い放つと、力を込めて彼の手を振りほどいた。

誤解だと気づいた真哉は、そのまま行かせまいと再び彼女の腕を掴み、必死に訴える。

「違う、違うんだ、瑶、聞いてくれ!」

瑶はちらりと腕時計を見た。約束の時間が迫っている。

もう一度手を振り払い、背を向けて歩き出す。

置き去りにされた真哉の目は、傷心の色を浮かべていた。

約束の場所に着くと、すでにひとりの男性が席についていた。

瑶は向かいに腰を下ろし、軽く頭を下げる。

「すみません、道中で少し用事があって、遅くなってしまいました」

相手は穏やかな笑みを浮かべ、優しい声で答えた。

「大丈夫です。約束の時間まではまだ数分あります。早く着いたのはこちらですから」

顔を上げた瑶は、その端正な顔立ちを見て固まった。

大学時代、同じサークルに所属していた先輩――朝霧蓮司(あさぎり れんじ)だったのだ。

「先輩!」

思わず声が漏れる。

昨日、電話を受けた時に覚えた既視感は、このせいだったのか。

蓮司は目を細め、優しく頷く。

「うん」

「どうして先輩が......?」

瑶は言いかけて、口を閉ざした。

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