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朽ちゆく心、安らぎなし

朽ちゆく心、安らぎなし

By:  藤川 紅葉Completed
Language: Japanese
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結婚して二年。 篠宮瑶(しのみや よう)は、婿養子の夫が自分と結婚した本当の理由を知ってしまう――それは、妹への恩返しのためだった。 打ち砕かれた心を抱え、彼女は迷うことなく弁護士に離婚を依頼。条件はただひとつ――夫に一切の財産を渡さず、「無一文で家を出る」ことだった。

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Chapter 1

第1話

「財産を一切持たずに離婚する協議書を作ってほしいの」

篠宮瑶(しのみや よう)は専属弁護士に電話をかけた。

「承知しました、篠宮社長。どなたが離婚されるのですか?また、どちらが財産を放棄する形になりますか?」

弁護士は当然のように、依頼は他人のためのものだと思い込んでいる。

「桐生真哉(きりゅう しんや)」

彼女は夫の名前だけを、簡潔に告げた。

その名を聞いた弁護士は、一瞬言葉を失った。

「お二人は、とても仲睦まじいと伺っていましたが......なぜ突然?」

彼女は沈黙を貫き、理由を語らない。

弁護士もそれ以上は詮索せず、淡々と応じた。

「三日後には、不備なく協議書をお渡しします」

電話を切ったあと、瑶は薄暗いホテルのベッドに腰を下ろし、窓の下に広がる車の流れをぼんやりと眺めた。

彼女と真哉が結婚したのは二年前。

ほかの夫婦と違い、彼は婿入りだった。

篠宮家には彼女一人しか娘がいないため、家族は婿養子を望んだ。

求婚してきた者がいなかったわけではない。

だが、世間の好奇と噂話に耐えきれず、皆途中で去っていった。

ただ一人、真哉だけが執拗に彼女に近づいてきた。

初めは、彼の実家の裕福さを思えば、婿入りなどあり得ないと高をくくっていた。

ところが予想に反し、彼はそれを理由に家族と絶縁までした。

結婚後、上流社会では「金持ちから転落して婿入りした男」と嘲笑されたが、彼は気にしなかった。

この二年間、彼の態度は変わらず、彼女を笑顔にする夫を装うため小細工が増えていった。

町中が「妻を目に入れても痛くないほど愛する夫」と羨む中――たった一時間前、彼女はその虚構を終わりにした。

一時間前。

バレンタインの日だから、瑶は仕事を早めに切り上げ、地方から飛行機で帰宅し、夫にサプライズを仕掛けようとした。

家に戻り、彼の好む服を身にまとい、クローゼットの中に身を潜めて待ち構える。

だが半日たって耳にしたのは、女の声だった。

「兄さん、もう瑶のそばで我慢するのはやめて。あの僧侶の言うことなんて、本当かどうかもわからないじゃない......」

真哉はその言葉を遮った。

「駄目だ!僧侶は、お前と彼女の因縁が消えなければ、それがお前に降りかかると言った。たとえ少しでも、俺はお前を巻き込めない。もう時間は残されていない。恩を返し終えたら、すぐに彼女と別れる。この二年、お前を苦しめて悪かった」

クローゼットの扉を少し開けると、女が彼の膝の上に跨っていた。

男女の荒い息遣いと、濡れた音が室内に満ちる。

彼女は口を押え、物音を立てまいと必死に息を潜めた。

目の前の光景が脳に凍りつく。

衝撃なのは浮気だけではなかった――その女は、真哉の妹、桐生煌花(きりゅう あきか)だったのだ。

養女であるとはいえ、血の繋がりの有無など関係なく吐き気を催すほどの衝撃だった。

二人が去って静けさが戻ると、ようやく身体が動き、近くの服をつかんで身を隠すように羽織った。

足元はおぼつかず、ふらつきながら屋敷を後にした。

――ここは自分の家だというのに、逃げ出すのは自分の方だった。

現実に引き戻したのは、電話の着信音だった。

表示された名前は――桐生真哉。

それでも彼女は通話ボタンを押す。

「瑶、ごめん。今日はバレンタインなのに一緒にいられなくて。本当に悪いと思っている。仕事が忙しくて会いに行かなかったけど......来年のバレンタインは必ず――」

彼の声音は申し訳なさと誠意に満ち、まるで本当に心残りがあるかのようだった。

瑶は口元をわずかに歪め、見事な演技力だと心で嘲笑った。

そして、わざと話をさえぎった。

「じゃあ今から来て。飛行機なら一時間半で着くでしょ」

受話器の向こうで、一瞬の沈黙。

平静を装った声が返ってきた。

「今は手が離せないんだ。明日君が帰ってきたら、ちゃんと一緒に過ごそう?」

――手が離せない?

煌花から離れられないの間違いじゃないの?

予想していたこととはいえ、実際に耳にすると胸が痛む。

「......用事があるから切るわ」

肯定も否定もせず、彼女はそう告げて通話を終えた。

ふと視線を落とすと、指にはめられた指輪が目に入る。

それは、今朝彼からバレンタインの贈り物として渡されたものだった。

受け取った時はあれほど嬉しかったのに、今では皮肉に思える。

彼女は指輪を外し、そのままごみ箱へと放り込んだ。

――真哉が心から愛しているのが煌花なら、もう二人の前に立ちはだかるつもりはない。

だが、「因縁」などと勝手に名付けた茶番を、瑶は受け入れない。

瑶が拒む限り、煌花にも絶対にしたいようにさせない。
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第1話
「財産を一切持たずに離婚する協議書を作ってほしいの」篠宮瑶(しのみや よう)は専属弁護士に電話をかけた。「承知しました、篠宮社長。どなたが離婚されるのですか?また、どちらが財産を放棄する形になりますか?」弁護士は当然のように、依頼は他人のためのものだと思い込んでいる。「桐生真哉(きりゅう しんや)」彼女は夫の名前だけを、簡潔に告げた。その名を聞いた弁護士は、一瞬言葉を失った。「お二人は、とても仲睦まじいと伺っていましたが......なぜ突然?」彼女は沈黙を貫き、理由を語らない。弁護士もそれ以上は詮索せず、淡々と応じた。「三日後には、不備なく協議書をお渡しします」電話を切ったあと、瑶は薄暗いホテルのベッドに腰を下ろし、窓の下に広がる車の流れをぼんやりと眺めた。彼女と真哉が結婚したのは二年前。ほかの夫婦と違い、彼は婿入りだった。篠宮家には彼女一人しか娘がいないため、家族は婿養子を望んだ。求婚してきた者がいなかったわけではない。だが、世間の好奇と噂話に耐えきれず、皆途中で去っていった。ただ一人、真哉だけが執拗に彼女に近づいてきた。初めは、彼の実家の裕福さを思えば、婿入りなどあり得ないと高をくくっていた。ところが予想に反し、彼はそれを理由に家族と絶縁までした。結婚後、上流社会では「金持ちから転落して婿入りした男」と嘲笑されたが、彼は気にしなかった。この二年間、彼の態度は変わらず、彼女を笑顔にする夫を装うため小細工が増えていった。町中が「妻を目に入れても痛くないほど愛する夫」と羨む中――たった一時間前、彼女はその虚構を終わりにした。一時間前。バレンタインの日だから、瑶は仕事を早めに切り上げ、地方から飛行機で帰宅し、夫にサプライズを仕掛けようとした。家に戻り、彼の好む服を身にまとい、クローゼットの中に身を潜めて待ち構える。だが半日たって耳にしたのは、女の声だった。「兄さん、もう瑶のそばで我慢するのはやめて。あの僧侶の言うことなんて、本当かどうかもわからないじゃない......」真哉はその言葉を遮った。「駄目だ!僧侶は、お前と彼女の因縁が消えなければ、それがお前に降りかかると言った。たとえ少しでも、俺はお前を巻き込めない。もう時間は残されていない。恩を返し終えたら、
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第2話
翌日、瑶が自宅に戻ると真哉はまだ家にいたが、煌花の姿はすでになかった。玄関を入るなり、真哉が嬉しそうに駆け寄ってきて、両腕を広げて抱きしめようとしてきた。ふわりと漂う香水の香り。大きく開いたシャツの襟元から、肌に散らばる無数の赤い痕をのぞかせていた。――昨夜、どれほど激しかったのかがわかる。抱き寄せられそうになった時、胸の奥に鋭い痛みが走り、瑶は思わず彼を押し返した。「ちょっと疲れてるの。先に休むわ」真哉は異変に気づく様子もなく、心配そうに歩調を合わせてついてくる。「ゆっくり休んで。だから仕事もそんなに無理するなって......」瑶はその言葉を聞き流し部屋に入った。そこで真っ先に気づいたのは、化粧台の上からいくつも小物が消えていることだった。瓶や陶器のような壊れやすいものばかりだ。彼女の視線に気づいたのか、真哉が口を開く。「昨日、物を運んでるときにぶつけちゃってね。かなり壊しちゃったんだ。でも大丈夫、もう新しいのを注文してあるから、数日で届くよ」――物を運んだ?その「物」って、煌花のことじゃないの?昨日、あの化粧台の上で何をしていたかを思い出し、瑶は吐き気がした。「この化粧台、もういらないわ。処分して」「どうして?プレゼントしたとき、あんなに気に入ってくれたじゃないか」真哉は不思議そうだった。確かに、あの時は嬉しかった。物が欲しかったからではない――彼が贈ってくれたからだ。けれど、目を覆っていた靄が消えた今となっては、かつての喜びなど滑稽なだけだった。瑶は冷ややかな笑みを浮かべ、静かに言った。「もう、好きじゃなくなったの」その言葉にも真哉は怒らず、すぐに使用人を呼び化粧台を運び出させた。「じゃあ、新しいのをまた贈るよ」――彼はいつだってそうだった。瑶の言うことには何でも従い、どんな無茶でも叶えようとした。以前はそれを愛の証だと思っていた。だが今は、それがすべて煌花のためだったとわかる。主寝室のベッドにも、きっと二人は手をつけたに違いない。瑶はたまらずゲストルームに向かい、ほとんど眠れなかった疲れから、ベッドに横たわるや否や眠りに落ちた。昼になって、真哉が起こしに来た。目を開けた瑶の目に飛び込んできたのは、一束の真紅のバラだった。
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第3話
真哉は、一瞬言葉につまりながら言い直した。「......わかった。じゃあ車を呼んで、君を送ってから行くよ」車が路肩に停まる。瑶はますます強くなる胃の痛みを押さえ、うつむきながらわずかに口角をあげた。停車してまだ一分も経たないうちに、また画面が光る。【兄さん、胃がとても痛くて......吐き気もするの。早く来て】その文字を見た瞬間、瑶はもう彼の選択がわかった気がした。やっぱり――「瑶、ごめん、ちょっと急ぎの用事ができた。車はもう呼んだから、二分くらいで着くよ。それに乗って帰ってくれ」予想通りの言葉に、瑶は苦笑いして車を降り、道端に立った。ドアが閉まるや否や、真哉はアクセルを踏み込み、猛スピードで走り去っていく。降ろされた場所には大きな水たまりがあり、タイヤがはねた水が全身にはねかえった。初冬の冷たい水が肌にしみ込み、胃を押さえるべきか、体を抱えるべきかもわからない。「二分」と言われたはずが、実際には二十分近く待ってようやく車が来た。乗り込むなり運転手がぼやく。「お嬢さん、何度電話しても出ないから心配しましたよ。迎えに行ったのに見当たらなくて、何度も同じ場所を回ったんです」――彼はすでに、別の人の世話に忙しくしていたのだ。そう思っても瑶は口にせず、ただ「すみません」とだけ返した。そのとき、スマホに見知らぬ番号からのメッセージが届く。開くと動画が再生された。画面いっぱいにカップルグッズが並び、テーブルの上には真哉と煌花のツーショット写真。カップルのルームウェア姿の真哉が、エプロンをつけてキッチンから出てくる。「まだ具合が悪い?お粥を食べれば少しは楽になるはずだよ」そう言って、彼はスプーンを手に煌花の口元へ運び、優しさにあふれる目で見つめる。もし何も知らなければ、誰もが「仲睦まじい恋人同士」だと思うだろう。「気分が悪いから、いらない」煌花が首を振ると、真哉は怒るどころか柔らかい笑顔をみせた。「じゃあ、何が食べたい?作り直すよ。辛いものはだめだ、胃に悪いからね」――彼は瑶のために料理を作ったことはある。だが、そのとき胃に悪い香辛料を避けたことなど一度もなかった。知らなかったのだと思っていたが、違う。知っていても気遣おうとしなかったのだ。瑶の口元に苦い
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第4話
真哉はその言葉に一瞬きょとんとしてから苦笑いした。彼女が拗ねているのだと思ったのだろう。「わかった、ごめんよ、瑶。今日は本当に急用があったんだ。もう二度とこんなことしない」ベッドに腰を下ろし、布団ごと瑶を抱き寄せる。おどけた笑顔で約束するその顔を見ても、瑶の心は微動だにしなかった。――もう「これから」など、二人の間にはない。しばらく彼は言葉で機嫌を取ろうとした。それから何気ないふうを装って尋ねてきた。「瑶、明日、パーティーがあるんだけど......行くか?」瑶は一瞬考える。確かに明日はパーティーの日で、これまでは必ず真哉を連れて出席してきた。だが、今回は一緒に行く気などなかった。だから、嘘をついた。「行かない」そう言って背を向け、眠る態勢をとった。そのため、答えを聞いた瞬間に真哉の目に浮かんだ喜色を、彼女は見逃した。翌朝、真哉は「用事がある」と言って早々に家を出た。夜は遅くなると言ったが、瑶は気にも留めない。パーティーの時間が近づくと、瑶はクローゼットで着替えを始めた。いつもなら手を伸ばすのはシックなスーツドレス。だがその日は指先がふと止まり、代わりに横のイブニングドレスを手に取った。これまで滅多に着なかったが、ふと思い立ったのだ。会場の入り口で知り合いに声をかけられる。「瑶、今日のあなた、本当に綺麗よ。だから言ったでしょ、もっとドレスを着るべきだって。綺麗なスタイルを隠すなんてもったいないわ。でも......そのネックレス、二年前のデザインじゃない?」瑶は思わず首元に目を落とす。そこには、真哉から贈られたネックレスが光っていた。少し間を置き、「間違えてつけてきちゃったの」と答える。中に入ると、視線が一斉に彼女に注がれた。その中には、煌花を連れて出席している真哉の姿もあった。彼がこのような装いの瑶を見るのは初めてで、しばし言葉を失い見入っていた。煌花が何度も呼びかけてようやく我に返る。そして瑶もまた、二人の親しげな様子に気づいた。――そういうことか。昨日あの質問をしたのは、私が来ないと確認しておきたかったから。邪魔されたくなかったのだ。瑶は唇の端を冷たく上げ、視線を逸らすと、近くのテーブルのグラスを取った。真哉はその背を見て一瞬
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第5話
抱きしめられたままの煌花は、まだ芝居を続けた。「兄さん、放して。お義姉さまが見たら不快に思われるわ。今日は全部私が悪いの、瑶お義姉さまのせいじゃない」真哉を押し離すと、わざと足首をくじいたようにふらつき、再び彼の胸に倒れ込む。真哉は眉間にしわを寄せ、痛ましげな表情で腰をかがめ、そのままお姫様抱っこをした。そして瑶を見るその瞳には、抑えきれない怒りが宿っていた。「もう説明しただろ?なんで俺がいない間に煌花をいじめるんだ。普段から気が強いのはまだしも、嫉妬までそんなに強いのか?」反論の余地さえ与えず、真哉は煌花を抱えたまま足早に彼女の脇を通り過ぎた。勢い余って肩がぶつかり、瑶は二歩下がった。その拍子に背後のテーブルを倒し、床に転んでしまった。真哉と煌花の姿は宴会場から消え、瑶は一人、散らかった床に身を伏せたまま取り残された。最初から最後まで、彼は一言も彼女の話を聞かず、気にかけるのは煌花のことだけ。瑶は自嘲の笑みを浮かべ、ゆっくりと立ち上がると、出口へ向かって歩き出した。背後からはひそひそ声が追いかけてくる。「やっぱり篠宮さんって気が強すぎて、桐生さんでも手を焼いているんじゃない?煌花さんみたいに優しくて可愛いほうがいいわよね」「でも煌花さんって、桐生さんの妹でしょ?」「血のつながりなんてないんだから、養女なら問題ないわよ。さっきの様子、絶対に......」宴会場を出ると、その声も遠ざかっていった。瑶は首元に手を伸ばし、ネックレスを引きちぎって、脇の植え込みに放り投げた。家に帰ると、使用人が心配そうに駆け寄ってきたが、瑶は「大丈夫」とだけ言って手を振る。服を着替えると、彼女は使用人を呼び寄せた。「クローゼットにある、桐生真哉からもらった物を全部出して、捨てて」使用人は驚いたように目を見開く。――これで二度目だ。彼女たちには何が起きているのかわからない。夫婦仲は良好に見えていたからだ。それでも、指示には逆らわずに従った。その夜、真哉は一度も帰らず、連絡もなかった。原因が煌花であることは明らかだったが、不思議ともう胸はそれほど痛まなかった。翌日も真哉は戻らず、瑶は普段通り朝食を取っていた。そこへ弁護士から電話が入る。「篠宮社長、離婚協議書が完成しました。すべて
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第6話
真哉は奥歯を噛みしめ、冷ややかな笑みを浮かべテーブルの端に歩み寄った。そして、書類をろくに見もせず乱暴に署名した。ペンを置くこともなく、そのまま背を向けた。――バタン。玄関の扉が音を立てて閉まり、別荘は静けさを取り戻す。ペンがテーブルから転がり落ちる音だけが響いた。瑶は無言でペンを拾い上げ、自ら名前を署名欄にサインをした。こうして二年の結婚生活は、華やかな始まりとは裏腹に、あまりにも突然に幕を閉じた。サインを終えると書類をためらいなく封筒にいれ、着替えて会社へ向かう。――明日は入札日。今は終わった愛に心をいためる暇などない。このプロジェクトは、会社全体で何か月も準備を重ねてきた重要案件だ。瑶は夜明けまで社内で資料の最終確認を行い、ようやく帰宅した。着替えと身支度を整え、書斎からUSBを手に取って玄関へ向かおうとしたとき、使用人が声をかけてきた。「奥さま、今朝、旦那さまが一度戻られました。二階でしばらく過ごしてから、また出て行かれました」瑶はそっと頷き、それ以上気に留めなかったが、玄関を出る直前にふと思い出し、こう告げた。「今日のうちに家の大掃除をして。真哉の物はすべてまとめて捨てて」呆気に取られた表情を見せる使用人たちを残し、瑶は会社へ向かった。これで三度目の「物の処分」だが、理由を知る者は誰一人いない。入札会場に到着すると、入口で思いがけない光景が目に飛び込む。――煌花と、その隣で気遣うように立つ真哉。今回の入札には桐生グループも参加することは知っていたが、まさか煌花本人が来るとは思わなかった。真哉も彼女を見て驚く様子はなく、「煌花の足が不自由だから送ってきた」と淡々と言った。瑶は答えもせず、離れた席に腰を下ろし、資料を整え始めた。その冷淡な態度に、真哉はわずかに戸惑ったが、煌花が少し笑みを浮かべて口を開いた。「お義姉さま、まだ怒ってるのね。全部私が悪いのよ。兄さん、そばに行ってあげて。私なら杖があるから大丈夫。距離も短いし......転んじゃっても平気よ」その声は決して小さくはない。瑶は聞きながら、心の中で大きくため息をつく。真哉は一歩踏み出しかけたが、煌花の「自分は平気」という言葉に足を止めた。「お前のせいじゃない。自分を責めるな。俺がそばにいるから安心
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第7話
瑶は下へ降り、タクシーに乗り込むと部門の責任者に電話をかけた。「今回の入札......失敗した」その一言を口にするまでに、少し時間がかかった。今もなお、受け入れられない現実だった。電話の向こうで、責任者が驚きの声を上げる。「どういうことですか?うちの提案書は完璧で、落ちるはずがありません!」瑶は目を閉じ、深いため息を漏らす。「......提案書が漏れたの、私から。私の過失だから、全責任は私が負うわ」それ以上は何も言わず、電話を切った。車の外を景色が矢のように流れ過ぎる中、胸の奥はどうしようもない絶望感で満ちていく。この案件のために、自分も会社もどれだけの時間と労力を費やしたか。何度も徹夜し、数えきれないほどの出張をこなし、接待の席にも数十回は足を運んだ。そのすべてを、真哉は知っていた。彼女の努力を、傍らで見てきたはずだった。それでも、煌花が一言頼めば、何のためらいもなく提案書を渡してしまう。――彼女がどうなるかなど少しも考えもせずに。そして瑶自身も、信じ切っていた心を傷つけられ、部下まで巻き込んでしまった。タクシーはやがて邸宅の前に停まる。瑶は車を降り、その足で警備室へ向かい、真哉の入館情報をすべて削除させた。「篠宮さん、桐生さんはもうここにお住まいじゃないんですか?情報を全部消すなんて......」警備員が不思議そうに尋ねる。瑶は淡々と「ええ」とだけ答え、立ち去る前に一言付け加えた。「もし彼が来ても、中には入れないで」――彼が自分を探しに来ることはないだろう。それでも、余計なことは起こさないに越したことはない。屋敷に入ると、庭先に山のように積まれた荷物が目に入る。すべて真哉の私物だった。「奥さま、本当に捨ててしまうんですか?」使用人が恐る恐る尋ねる。その問いは想定内だった。彼女たちの目には、夫婦に大きな確執などないように映っている。かつての瑶自身がそうだったように。「全部捨てて。ひとつ残らず。これから彼はここには住まない。玄関の暗証番号も変えて」家の中に入ると、テーブルには二通の離婚協議書が置かれている。瑶は一通を手に取り、執事に渡した。「これを桐生家に送って」それから書斎に籠もり、午後まで仕事に没頭していたところ、スマホが激
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第8話
最初は聞き間違いかと思ったが、警備員がもう一度同じことを繰り返すのを聞き、真哉はようやく現実を受け入れた。足取りもおぼつかなく警備室を出る。胸の内は混乱していた。スマホを取り出し瑶に電話をかけるが、すぐに話し中の音が響く――そうだ、自分はすでに着信拒否されている。今度は彼女の秘書の番号を押した。すぐに繋がる。「桐生さんですか?今日は提案書が流出してしまって、社長は責任を感じてか、一日中会社に戻っていません。私も連絡が取れなくて。もし桐生さんが社長に会ったら、ちゃんと慰めてあげてください。社長のせいじゃないんですから」心配を隠せない声だった。瑶は何でも一人で背負い込む人だから、きっと自分を責めているに違いない――そう思っての言葉だろう。だが電話の相手こそが、その流出を引き起こした張本人だとは、彼女は夢にも思っていない。真哉はしばらく呆然としたまま電話を切った。まさかこの入札が、瑶にとってそこまで大きな意味を持つとは......いや、本当にそうか?この二か月、彼女がどれだけ努力してきたか、真哉はずっと見てきた。その彼女が自分を信じ切ってくれていたのに――自分はその信頼を裏切った。肩を落とし、体から力が抜けた。その時、邸宅の敷地から一台のゴミ収集車が出てきて、ゲート前で警備のチェックを受けていた。「ここの人たちは本当に贅沢だよな。こんな良い服やアクセサリー、平気で捨てちまうんだから」作業員の声が耳に入る。何気なくそっちに目をやった真哉は、息を呑んだ。そこに積まれているのは、見覚えのある物ばかり――本来なら自宅にあるはずの、自分の持ち物だった。目を疑いながら呆然と車に近づく。「これ、どこから持ってきた?」問いかけに、運転手はいやな顔をして答える。「ゴミ置き場からに決まってるでしょ」真哉はその場に立ち尽くし、収集車が遠ざかっていくのを見送った。疑いようもない。――瑶が捨てたのだ。その時、不意に母からの着信が鳴る。「真哉、あんた瑶と離婚したって本当?まさか煌花が原因じゃ......」頭の中が一瞬で真っ白になる。「真哉?真哉?」呼びかけに我に返った彼は、電話を切るとハンドルを握り桐生家へと急いだ。玄関を開けると、リビングのソファに腰掛けた母が驚いた顔をし
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第9話
真哉は手にしていた上着をそっと置くと、ゆっくりとソファへ歩み寄り、そのまま腰を落とした。両手で額を押さえ、頭の中は疑問でいっぱいだった。――離婚協議書を目にした瞬間、すべて腑に落ちた。自分を駆り立てていたのは、瑶が離婚を決め、一言も告げずに去っていこうとしている事実だったのだ。この二年間の出来事が次々と脳裏をよぎり、真哉はようやく悟る。――自分は間違っていた。完璧に、そして取り返しがつかないほどに。気づけば心の奥底ではとうに彼女を愛していた。それなのに、なぜもっと早くその感情に気づけなかったのか。悔しさに駆られ、拳で自分の頭を何度も殴った。二分ほどの間に息子の表情がころころ変わり、しまいには自分を殴り出したのを見て、真哉の母は「家族が追い詰めすぎたせいだ」と思い、慰めようとした。だが次の瞬間、真哉の顔に希望の色が差し、立ち上がると玄関へ駆け出していった。――今ならまだ間に合う。心から謝れば、きっと許してくれるはずだ。そう信じ、車を走らせて瑶の住む別荘地へ向かう。しかし、門前で警備員はどれだけ説明しても通してくれない。やむを得ず正門を諦め、敷地を一周しどこか侵入できる場所を探した。だが、この高級住宅地には抜け穴など一つもない。結局、彼は正門前で待つことにした。瑶は出かけるとき必ず正門から出る――ここにいれば、いつか会える。真哉は外で二日間待ち続けた。だが、その姿を一度も見ることはなかった。車の中で肩を落とし、目に宿った希望の光は徐々に輝きを失っていく。その時、母からの電話が鳴った。「真哉、もう二日も外に出っぱなしじゃないの。いつ帰ってくるの?煌花も帰宅してるし、早く戻ってきて婚約のことを話しましょう......」「いい、今は忙しい」母の言葉を遮って電話を切り、再び瑶を待つことに集中した。諦めかけたその時、瑶の家の家政婦が食材を手に戻ってくるのが見えた。真哉は勢いよく車のドアを開け、駆け寄って腕をつかむ。「お願いだ、中に入れてくれ。瑶に会わないと」突然のことに家政婦は目を丸くした。相手が真哉だと分かると一瞬ためらったが、瑶の言いつけを思い出して首を振った。「だめです。奥様があなたを中に入れるなと仰っています」言外に、彼女は会うつもりがない――そ
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第10話
翌日、約束の時間に合わせて家を出ると、門の前に真哉が立っているのが目に入った。その目は赤く血走り、やつれた顔からはろくに眠っていないことが一目でわかる。一瞬だけ驚いたが、すぐに視線を逸らした。まさかまだ待っているとは――やはり、煌花への思いは強いらしい。冷酷な面持ちで反対側へ回ろうとしたその時、彼もまた瑶に気づいた。目を輝かせて駆け寄り、腕を掴んだ。その日の朝、真哉はすでにネットに流れたニュースを目にしていた。それが瑶自身の手で流されたものだと分かると、胸が締めつけられるように痛んだ。心が折れかけたが、目の前に彼女の姿を見た瞬間、その感情は跡形もなく消え、ただ離したくないという思いだけで胸がいっぱいだった。「瑶......」かすれた声で呼びかけ、慌てて咳払いをして言い直す。「瑶、あの提案書の件は、全部俺の――」「もういいわ」彼女は耳を傾けずに話をさえぎった。「そんな無意味なことを言いに来たの?あなたが煌花のためにしたい事なら、私は受け取らない。これからも私のところへ来ないで。来るくらいなら僧侶にでも相談して、因縁を断ち切る別の方法でも探すことね」そう言い放つと、力を込めて彼の手を振りほどいた。誤解だと気づいた真哉は、そのまま行かせまいと再び彼女の腕を掴み、必死に訴える。「違う、違うんだ、瑶、聞いてくれ!」瑶はちらりと腕時計を見た。約束の時間が迫っている。もう一度手を振り払い、背を向けて歩き出す。置き去りにされた真哉の目は、傷心の色を浮かべていた。約束の場所に着くと、すでにひとりの男性が席についていた。瑶は向かいに腰を下ろし、軽く頭を下げる。「すみません、道中で少し用事があって、遅くなってしまいました」相手は穏やかな笑みを浮かべ、優しい声で答えた。「大丈夫です。約束の時間まではまだ数分あります。早く着いたのはこちらですから」顔を上げた瑶は、その端正な顔立ちを見て固まった。大学時代、同じサークルに所属していた先輩――朝霧蓮司(あさぎり れんじ)だったのだ。「先輩!」思わず声が漏れる。昨日、電話を受けた時に覚えた既視感は、このせいだったのか。蓮司は目を細め、優しく頷く。「うん」「どうして先輩が......?」瑶は言いかけて、口を閉ざした。
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