「財産を一切持たずに離婚する協議書を作ってほしいの」篠宮瑶(しのみや よう)は専属弁護士に電話をかけた。「承知しました、篠宮社長。どなたが離婚されるのですか?また、どちらが財産を放棄する形になりますか?」弁護士は当然のように、依頼は他人のためのものだと思い込んでいる。「桐生真哉(きりゅう しんや)」彼女は夫の名前だけを、簡潔に告げた。その名を聞いた弁護士は、一瞬言葉を失った。「お二人は、とても仲睦まじいと伺っていましたが......なぜ突然?」彼女は沈黙を貫き、理由を語らない。弁護士もそれ以上は詮索せず、淡々と応じた。「三日後には、不備なく協議書をお渡しします」電話を切ったあと、瑶は薄暗いホテルのベッドに腰を下ろし、窓の下に広がる車の流れをぼんやりと眺めた。彼女と真哉が結婚したのは二年前。ほかの夫婦と違い、彼は婿入りだった。篠宮家には彼女一人しか娘がいないため、家族は婿養子を望んだ。求婚してきた者がいなかったわけではない。だが、世間の好奇と噂話に耐えきれず、皆途中で去っていった。ただ一人、真哉だけが執拗に彼女に近づいてきた。初めは、彼の実家の裕福さを思えば、婿入りなどあり得ないと高をくくっていた。ところが予想に反し、彼はそれを理由に家族と絶縁までした。結婚後、上流社会では「金持ちから転落して婿入りした男」と嘲笑されたが、彼は気にしなかった。この二年間、彼の態度は変わらず、彼女を笑顔にする夫を装うため小細工が増えていった。町中が「妻を目に入れても痛くないほど愛する夫」と羨む中――たった一時間前、彼女はその虚構を終わりにした。一時間前。バレンタインの日だから、瑶は仕事を早めに切り上げ、地方から飛行機で帰宅し、夫にサプライズを仕掛けようとした。家に戻り、彼の好む服を身にまとい、クローゼットの中に身を潜めて待ち構える。だが半日たって耳にしたのは、女の声だった。「兄さん、もう瑶のそばで我慢するのはやめて。あの僧侶の言うことなんて、本当かどうかもわからないじゃない......」真哉はその言葉を遮った。「駄目だ!僧侶は、お前と彼女の因縁が消えなければ、それがお前に降りかかると言った。たとえ少しでも、俺はお前を巻き込めない。もう時間は残されていない。恩を返し終えたら、
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