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忘却の糸:愛と裏切りの光と影

忘却の糸:愛と裏切りの光と影

Par:  小石Complété
Langue: Japanese
goodnovel4goodnovel
8Chapitres
14.4KVues
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須藤明智は私をとても愛していると言い、私に、この世で最も盛大な結婚式を挙げてくれると約束した。 しかし、結婚式を三日後に控えたある日、彼は私のためにオーダーメイドで作らせたウェディングドレスを、彼の義理の妹の直美に渡し、私には、記憶を失う薬を手渡した。 「友莉、君を悲しませたくはない。でも、直美は癌と診断され、もうすぐ死ぬ。彼女の唯一の願いは、一度だけ僕と結婚することだ。その願いを、叶えないわけにはいかない」 「この薬を飲めば、君は僕たちの間の全てを、一時的に忘れることになる。でも心配しないで。三日後、結婚式が終われば、君は解薬を飲んで、全てを思い出す。その時、僕はもう一度、君に立派な結婚式を捧げるから」 彼の、拒否を許さないような強い眼差しに、私は迷わず、その薬を受け取り、飲み込んだ。 須藤明智は知らない。この薬は、私が開発したものだということを。 そして、この薬には、解薬など存在しない——ということを。 三日後、私は、私の最爱の人、つまり彼自身を、完全に忘れてしまう。 私たちの間に、再び始まることなど、もう、決してない。

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Chapitre 1

第1話

完成したばかりのウェディングドレスは、須藤明智(すどう あきとし)の手配で、直美(なおみ)のもとへと届けられた。

彼の手が、私の頬を包み込む。その温度は、いつもと変わらない。優しく、穏やかで、まるで私を世界で一番大切に思っているかのように。

「友莉(ゆうり)、怖がらないで」

彼の声は、いつも私を落ち着かせてくれる、あの低く響くトーン。

「この薬は、君が僕を愛していた記憶を、一時的に消すだけ。解薬を飲めば、すべて元通りになる。悲しい思い出も、苦しい気持ちも、何も残らない。僕たちは、以前と同じように幸せになれる」

彼は微笑んだ。

その笑顔に、嘘は見えなかった。

いや、見せかけの「誠実さ」が、あまりにも完璧だった。

「もちろん。心配しないで。僕が愛しているのは、君だけだ。だから、直美の願いを叶えたら、僕たちはもっと素敵な結婚式を挙げる。君を世界で一番幸せな花嫁にしたいから」

私は知っていた。

もう、私たちには、二度と結婚式を挙げる機会などは、来ない。

なぜなら、私はこの「忘却の薬」の開発者だから。

この薬の効果を、誰よりもよく理解している。

一瞬で記憶を消すわけではない。むしろ、徐々に、使用者の心の中で最も大切にしている記憶を削り取っていく。

そして最終的には、愛する人のことすら、完全に忘れてしまうのだ。

そして何よりも残酷なのは、解薬など最初から存在しないことだ。

視線を上げると、すべてを完璧に見せようとする明智を、見つめた。「もし、私がずっと思い出せなくなったら?」

「それなら、もう一度、君に僕を愛させてあげる」

彼は自信に満ちた笑みを浮かべ、指先が、私の鼻先に触れている。

「さあ、ハニー。拗ねないで。直美はただの病人なんだ。僕がこんなことをしているのは、彼女の最後の願いを叶えるためだけだ。君なら、きっと理解してくれるよね?」

もう一度、愛させる?

私は目を伏せ、自嘲的に唇の端を吊り上げた。

彼はきっと忘れている。

かつて、私が彼のプロポーズを受け入れるまで、どれだけ時間がかかったかを。

私が「イエス」と言ったあの夜、どれだけ真剣に、そして悲しげに彼に忠告したかを。

「須藤明智、私は二度目のチャンスなんて与えない。もしあなたの愛に不純物が混ざったり、他の誰かに少しでも心が向いたりしたら、たとえほんの少しでも、私はあなたを、私の世界から完全に消し去る」

その時、彼は目を真っ赤に充血させ、まるで尾を踏まれた獣のように、激しく私を抱きしめ、唇を奪うようにキスをして、呪うように囁いた。

「絶対に、そんなことはしない。友莉、僕は永遠に君を忘れない」

だが、皮肉なことに、今の彼は義妹の夢を叶えるために、私が待ち望んでいた結婚式を台無しにし、進んで私に薬を飲ませ、私に、彼との全てを忘れさせようとしている。

胸の奥が締め付けられるような酸っぱい痛みが広がり、心臓が突然、ひきつるように疼いた。

顔から血の気が引き、真っ青になる。

明智は、私の異変に一番に気づいた。すぐに私を抱きしめ、心配そうに尋ねてきた。

「ハニー、どうしたの?びっくりさせないで。本当に、僕は君を見捨てたりしない。もし不安なら、まず入籍しようか?」

必死に体を支えながら、立ち上がり、少し混乱した表情で彼を見上げた。

「入籍?誰と?」

私のそんな茫然とした表情を見て、明智は一瞬きょとんとした後、目の奥に、かすかな喜びの色を浮かべた。

その微かな動揺を見逃さず、ちらりと、ゴミ箱の中に、彼が慌てて投げ捨てた薬の箱を見つけ、私は微笑んだ。

そして悟った。

彼は、薬の効果が出始めたと思った。

「いや、何でもない。聞き間違いだよ。

友莉、僕はお兄さんだよ。

君は病気で、少し記憶を失ったんだ」

まず最初に消されたのは、私が何よりも待ち望んでいたあの結婚式。

しかし明智は、私が「全ての過去を忘れた」と思い込み、その隙を突いて、私と直美の立場を入れ替えようとしていた。

でも、私はそれを指摘しなかった。

これは、ただの「別れの芝居」。

私にとっての、最後の「プレゼント」と思えばいい。

その時、ドアが開いた。

純白のウェディングドレスをまとった女性が、ふわりと入ってくる。

「ダーリン、私は綺麗?」

水嶋直美(みずしま なおみ)、いや、須藤直美(すどう なおみ)だった。

そのドレスは、明らかに私のサイズに合わせて作られたもの。直美は少し大きすぎるスカートに足を取られ、よろけそうになる。

明智は、反射的に私を突き放し、彼女を抱きしめた。

私の体は、その衝撃で壁にぶつかった。

もともとズキズキと痛んでいた胸のあたりが、さらに激しく痙攣するように痛んだ。

「友莉、大丈夫?」

私の痛みに耐えかねた声を聞き、明智はようやく反応し、私の方を見て、いつものように言い訳を口にした。

「直美は病気なんだ。だから、先に彼女を支えたんだ……」

「あなたは私の旦那さんでしょ?当然、私を優先して守るべきよ。

友莉は気にしないわね?」

彼の言葉が終わらないうちに、直美はまるで主権を主張するかのように、明智の腕を抱きしめ、私を見下ろしながら、勝ち誇ったように笑った。

私は痛みに耐えながら、背筋を伸ばし、微笑んだ。

「もちろん」

直美は満足そうに笑った。

「じゃあ、三日後の結婚式、絶対に来てね。

私たちの幸せな瞬間を、きっと見届けてほしいの」

その言葉を聞いた瞬間、明智が不機嫌そうに口を挟んだ。

「君は体調が悪いんだ。結婚式には来なくていい」

明智は私の穏やかな様子を見て、眉をひそめた。

彼の視線が再び私に向けられるのを見て、直美の顔に一瞬、翳りが走った。

しかし、すぐにうまく涙を浮かべた。

「明智兄さん、私はただ、結婚式で友莉から祝福をもらいたいだけなの。それが、そんなに無理なお願い?

もしそれさえも嫌なら、私は、死んでしまった方がいいかも……」

その可憐な態度は、一瞬で明智の保護欲をかき立てた。彼は心配そうに直美を抱きしめた。

「泣かないで。お前の言う通りにするよ」

私がじっと二人を見つめているのを見て、明智は少し不自然に咳払いをし、少し心虚そうな表情を浮かべた。

しかし、私が今「記憶を失っている」状態だと思い出したのか、表情の険しさはすぐに和らいだ。

「友莉、僕はまず直美を病院に連れて行って検査を受けさせる。君は家でゆっくりしていて、結婚式の日には迎えに来させるから」

そう言うと、彼は直美を抱きかかえてその場を離れた。

二人が重なり合う背中は、まるで鋭い刃のように、私の心を深々と貫き、体中が震えるほどの痛みを与えた。

そして、あの愛し合っていた記憶も、この痛みの中で、少しずつ、ぼやけていくように感じた。

スマホが、その時、鳴った。

「黛友莉(まゆずみ ゆうり)様、H国研究機関へのご復帰、ありがとうございます。三日後、研究室にてお待ちしております」
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commentaires

友里
友里
記憶失くさせて解毒剤で戻させるって言い分見るたびに「じゃあ記憶が戻ると、そんな非道な仕打ちをされたって記憶も戻ってくるじゃん?それで元通りになれるの??」っていうことを思ってしまうんだけど....クズはご都合主義よね
2025-09-11 16:01:30
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松坂 美枝
松坂 美枝
ダニーちゃんがMVPすぎた この「愛する人のことだけ都合よく忘れる薬」シリーズをいくつか読むたびに思うけど、ふたりで飲めばいいじゃん? なまじ男が飲んでないからこじれるんだよ 女にだけ負担を強いるなよ
2025-09-11 10:21:42
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橘ありす
橘ありす
主人公のお友達のダニーちゃんが良かった 「精神的な浮気」ほんとコレに尽きるよね 主人公を傷付けないために記憶をなくす薬を飲ませるって、一見思いやりっぽくみせてるけど 単に主人公に邪魔されないようにして他の女と結婚式あげたいって事だもんね
2026-01-22 00:51:16
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芹沢さん
芹沢さん
義妹との結婚式の式場も招待客もウェディングドレスや指輪までサイズ直しもせずに主人公の物をそのまま使うし、主人公追って言った内容もウェディングドレスをリメイクした?何故新品用意しないのか?セコさが滲み出てる。 こんなセコい男との記憶は無くした方が良いと心から思う。、
2025-09-21 20:56:31
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第6話
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第7話
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第8話
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