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忘却の糸:愛と裏切りの光と影

忘却の糸:愛と裏切りの光と影

By:  小石Completed
Language: Japanese
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須藤明智は私をとても愛していると言い、私に、この世で最も盛大な結婚式を挙げてくれると約束した。 しかし、結婚式を三日後に控えたある日、彼は私のためにオーダーメイドで作らせたウェディングドレスを、彼の義理の妹の直美に渡し、私には、記憶を失う薬を手渡した。 「友莉、君を悲しませたくはない。でも、直美は癌と診断され、もうすぐ死ぬ。彼女の唯一の願いは、一度だけ僕と結婚することだ。その願いを、叶えないわけにはいかない」 「この薬を飲めば、君は僕たちの間の全てを、一時的に忘れることになる。でも心配しないで。三日後、結婚式が終われば、君は解薬を飲んで、全てを思い出す。その時、僕はもう一度、君に立派な結婚式を捧げるから」 彼の、拒否を許さないような強い眼差しに、私は迷わず、その薬を受け取り、飲み込んだ。 須藤明智は知らない。この薬は、私が開発したものだということを。 そして、この薬には、解薬など存在しない——ということを。 三日後、私は、私の最爱の人、つまり彼自身を、完全に忘れてしまう。 私たちの間に、再び始まることなど、もう、決してない。

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Chapter 1

第1話

完成したばかりのウェディングドレスは、須藤明智(すどう あきとし)の手配で、直美(なおみ)のもとへと届けられた。

彼の手が、私の頬を包み込む。その温度は、いつもと変わらない。優しく、穏やかで、まるで私を世界で一番大切に思っているかのように。

「友莉(ゆうり)、怖がらないで」

彼の声は、いつも私を落ち着かせてくれる、あの低く響くトーン。

「この薬は、君が僕を愛していた記憶を、一時的に消すだけ。解薬を飲めば、すべて元通りになる。悲しい思い出も、苦しい気持ちも、何も残らない。僕たちは、以前と同じように幸せになれる」

彼は微笑んだ。

その笑顔に、嘘は見えなかった。

いや、見せかけの「誠実さ」が、あまりにも完璧だった。

「もちろん。心配しないで。僕が愛しているのは、君だけだ。だから、直美の願いを叶えたら、僕たちはもっと素敵な結婚式を挙げる。君を世界で一番幸せな花嫁にしたいから」

私は知っていた。

もう、私たちには、二度と結婚式を挙げる機会などは、来ない。

なぜなら、私はこの「忘却の薬」の開発者だから。

この薬の効果を、誰よりもよく理解している。

一瞬で記憶を消すわけではない。むしろ、徐々に、使用者の心の中で最も大切にしている記憶を削り取っていく。

そして最終的には、愛する人のことすら、完全に忘れてしまうのだ。

そして何よりも残酷なのは、解薬など最初から存在しないことだ。

視線を上げると、すべてを完璧に見せようとする明智を、見つめた。「もし、私がずっと思い出せなくなったら?」

「それなら、もう一度、君に僕を愛させてあげる」

彼は自信に満ちた笑みを浮かべ、指先が、私の鼻先に触れている。

「さあ、ハニー。拗ねないで。直美はただの病人なんだ。僕がこんなことをしているのは、彼女の最後の願いを叶えるためだけだ。君なら、きっと理解してくれるよね?」

もう一度、愛させる?

私は目を伏せ、自嘲的に唇の端を吊り上げた。

彼はきっと忘れている。

かつて、私が彼のプロポーズを受け入れるまで、どれだけ時間がかかったかを。

私が「イエス」と言ったあの夜、どれだけ真剣に、そして悲しげに彼に忠告したかを。

「須藤明智、私は二度目のチャンスなんて与えない。もしあなたの愛に不純物が混ざったり、他の誰かに少しでも心が向いたりしたら、たとえほんの少しでも、私はあなたを、私の世界から完全に消し去る」

その時、彼は目を真っ赤に充血させ、まるで尾を踏まれた獣のように、激しく私を抱きしめ、唇を奪うようにキスをして、呪うように囁いた。

「絶対に、そんなことはしない。友莉、僕は永遠に君を忘れない」

だが、皮肉なことに、今の彼は義妹の夢を叶えるために、私が待ち望んでいた結婚式を台無しにし、進んで私に薬を飲ませ、私に、彼との全てを忘れさせようとしている。

胸の奥が締め付けられるような酸っぱい痛みが広がり、心臓が突然、ひきつるように疼いた。

顔から血の気が引き、真っ青になる。

明智は、私の異変に一番に気づいた。すぐに私を抱きしめ、心配そうに尋ねてきた。

「ハニー、どうしたの?びっくりさせないで。本当に、僕は君を見捨てたりしない。もし不安なら、まず入籍しようか?」

必死に体を支えながら、立ち上がり、少し混乱した表情で彼を見上げた。

「入籍?誰と?」

私のそんな茫然とした表情を見て、明智は一瞬きょとんとした後、目の奥に、かすかな喜びの色を浮かべた。

その微かな動揺を見逃さず、ちらりと、ゴミ箱の中に、彼が慌てて投げ捨てた薬の箱を見つけ、私は微笑んだ。

そして悟った。

彼は、薬の効果が出始めたと思った。

「いや、何でもない。聞き間違いだよ。

友莉、僕はお兄さんだよ。

君は病気で、少し記憶を失ったんだ」

まず最初に消されたのは、私が何よりも待ち望んでいたあの結婚式。

しかし明智は、私が「全ての過去を忘れた」と思い込み、その隙を突いて、私と直美の立場を入れ替えようとしていた。

でも、私はそれを指摘しなかった。

これは、ただの「別れの芝居」。

私にとっての、最後の「プレゼント」と思えばいい。

その時、ドアが開いた。

純白のウェディングドレスをまとった女性が、ふわりと入ってくる。

「ダーリン、私は綺麗?」

水嶋直美(みずしま なおみ)、いや、須藤直美(すどう なおみ)だった。

そのドレスは、明らかに私のサイズに合わせて作られたもの。直美は少し大きすぎるスカートに足を取られ、よろけそうになる。

明智は、反射的に私を突き放し、彼女を抱きしめた。

私の体は、その衝撃で壁にぶつかった。

もともとズキズキと痛んでいた胸のあたりが、さらに激しく痙攣するように痛んだ。

「友莉、大丈夫?」

私の痛みに耐えかねた声を聞き、明智はようやく反応し、私の方を見て、いつものように言い訳を口にした。

「直美は病気なんだ。だから、先に彼女を支えたんだ……」

「あなたは私の旦那さんでしょ?当然、私を優先して守るべきよ。

友莉は気にしないわね?」

彼の言葉が終わらないうちに、直美はまるで主権を主張するかのように、明智の腕を抱きしめ、私を見下ろしながら、勝ち誇ったように笑った。

私は痛みに耐えながら、背筋を伸ばし、微笑んだ。

「もちろん」

直美は満足そうに笑った。

「じゃあ、三日後の結婚式、絶対に来てね。

私たちの幸せな瞬間を、きっと見届けてほしいの」

その言葉を聞いた瞬間、明智が不機嫌そうに口を挟んだ。

「君は体調が悪いんだ。結婚式には来なくていい」

明智は私の穏やかな様子を見て、眉をひそめた。

彼の視線が再び私に向けられるのを見て、直美の顔に一瞬、翳りが走った。

しかし、すぐにうまく涙を浮かべた。

「明智兄さん、私はただ、結婚式で友莉から祝福をもらいたいだけなの。それが、そんなに無理なお願い?

もしそれさえも嫌なら、私は、死んでしまった方がいいかも……」

その可憐な態度は、一瞬で明智の保護欲をかき立てた。彼は心配そうに直美を抱きしめた。

「泣かないで。お前の言う通りにするよ」

私がじっと二人を見つめているのを見て、明智は少し不自然に咳払いをし、少し心虚そうな表情を浮かべた。

しかし、私が今「記憶を失っている」状態だと思い出したのか、表情の険しさはすぐに和らいだ。

「友莉、僕はまず直美を病院に連れて行って検査を受けさせる。君は家でゆっくりしていて、結婚式の日には迎えに来させるから」

そう言うと、彼は直美を抱きかかえてその場を離れた。

二人が重なり合う背中は、まるで鋭い刃のように、私の心を深々と貫き、体中が震えるほどの痛みを与えた。

そして、あの愛し合っていた記憶も、この痛みの中で、少しずつ、ぼやけていくように感じた。

スマホが、その時、鳴った。

「黛友莉(まゆずみ ゆうり)様、H国研究機関へのご復帰、ありがとうございます。三日後、研究室にてお待ちしております」
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第1話
完成したばかりのウェディングドレスは、須藤明智(すどう あきとし)の手配で、直美(なおみ)のもとへと届けられた。彼の手が、私の頬を包み込む。その温度は、いつもと変わらない。優しく、穏やかで、まるで私を世界で一番大切に思っているかのように。「友莉(ゆうり)、怖がらないで」彼の声は、いつも私を落ち着かせてくれる、あの低く響くトーン。「この薬は、君が僕を愛していた記憶を、一時的に消すだけ。解薬を飲めば、すべて元通りになる。悲しい思い出も、苦しい気持ちも、何も残らない。僕たちは、以前と同じように幸せになれる」彼は微笑んだ。その笑顔に、嘘は見えなかった。いや、見せかけの「誠実さ」が、あまりにも完璧だった。「もちろん。心配しないで。僕が愛しているのは、君だけだ。だから、直美の願いを叶えたら、僕たちはもっと素敵な結婚式を挙げる。君を世界で一番幸せな花嫁にしたいから」私は知っていた。もう、私たちには、二度と結婚式を挙げる機会などは、来ない。なぜなら、私はこの「忘却の薬」の開発者だから。この薬の効果を、誰よりもよく理解している。一瞬で記憶を消すわけではない。むしろ、徐々に、使用者の心の中で最も大切にしている記憶を削り取っていく。そして最終的には、愛する人のことすら、完全に忘れてしまうのだ。そして何よりも残酷なのは、解薬など最初から存在しないことだ。視線を上げると、すべてを完璧に見せようとする明智を、見つめた。「もし、私がずっと思い出せなくなったら?」「それなら、もう一度、君に僕を愛させてあげる」彼は自信に満ちた笑みを浮かべ、指先が、私の鼻先に触れている。「さあ、ハニー。拗ねないで。直美はただの病人なんだ。僕がこんなことをしているのは、彼女の最後の願いを叶えるためだけだ。君なら、きっと理解してくれるよね?」もう一度、愛させる?私は目を伏せ、自嘲的に唇の端を吊り上げた。彼はきっと忘れている。かつて、私が彼のプロポーズを受け入れるまで、どれだけ時間がかかったかを。私が「イエス」と言ったあの夜、どれだけ真剣に、そして悲しげに彼に忠告したかを。「須藤明智、私は二度目のチャンスなんて与えない。もしあなたの愛に不純物が混ざったり、他の誰かに少しでも心が向いたりしたら、たとえほんの少しでも、私はあなた
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第2話
電話を切ると、私は無意識に、明智との部屋へ戻った。だが、かつて二人で使っていたその部屋に、彼のものは、どこにもなかった。その時、私はようやく気づいた。この「役割を交換する芝居」は、気まぐれな思いつきではなく、最初から計画されていたのだ。さっきこすれて擦りむいた肩を押さえながら、胸の奥が苦しくなるのを感じた。昔、私が彼のためにスープを煮て、指先を少し火傷しただけで、彼は半日も心配して、どうしても医者を呼ぼうとしたものだ。私は彼を大袈裟だと笑ったが、彼はうつむき、私の手にキスをして、優しく囁いたものだ。「友莉、君は僕の宝物だ。僕が君を娶ったのは、君のために尽くすためだ。辛い思いをさせるためじゃない。君が痛むなら、僕はその何倍も痛む!」でも今、彼は私を傷つけ、それを平然と見過ごしている。まるで、私が人生で一番大切にしていたウェディングドレスが、最終的に別の女に着られるように。薬を塗りながら、親友のダニーから電話がかかってきた。「友莉!何が起きたの?三日後はあんたの結婚式でしょ?どうしてH国行きの航空券なんて予約してるのよ?」一瞬の沈黙の後、私は、ポツリと呟いた。「結婚式は、もうない……」自嘲気味に唇を吊り上げ、「忘却の薬」のことを話した。次の瞬間、電話の向こうから、怒声が炸裂した。「友莉!待ってなさい、今すぐ行くから!あのクソ野郎と浮気女、ぶっ飛ばしてやる!あの時、あんたが自分の研究成果で須藤明智のクソ会社に投資してくれなかったら、あいつは事業に失敗し、もう家族に見放され、路頭に迷ってたのよ!それを今や成功して、女に惚れやがって、あんたを差し置いて、薬なんて飲ませるなんて、ふざけるな!本当に腹が立つ!あの畜生が!」過ぎ去った日々が、次々と脳裏に浮かび上がり、私は目頭が熱くなるのを感じた。あの時、彼が事業に失敗し、家族に見捨てられた時、彼を信じて、全てを賭けた。ためらわずに、自分の研究成果と、資金、人脈すべてを注ぎ込み、彼を再起させ、須藤グループの後継者にしたのだ。そして、最も辛かった三年間、私は彼と共に、深夜から黎明までを過ごし、必死に支え続けた。彼は何度も、何度も私に誓った。「君は僕の唯一のお宝だ。僕が生涯をかけて愛する妻だ」でも、なぜか、彼は次第に他の女のことを気にし始めた
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第3話
指輪を奪われた後も、明智は相変わらず、【時間通りに食事を取るように】とメッセージを送ってくる。【体調は大丈夫?】と気遣う言葉もある。でも、彼は一度も戻ってこなかった。その時間を利用して、数人の友人と別れの食事をし、これまでの数年間、彼から贈られたプレゼントをすべて捨てた。スマホやパソコンに保存されていた、彼と関係のあるファイルも、すべて削除した。そして三日目の朝、私は迷うことなくスーツケースを押して家を出た。空港へ向かう途中、スマホに直美から送られてきた。結婚式の様子を捉えた動画が届いた。それは、私がかつて想像していた通りの光景だった。彼女は私のために作らせたウェディングドレスを着て、私の名前が刻まれた指輪をはめ、明智の腕を親しげに絡め、周囲の祝福を受けていた。ある友人が疑問を口にした。「花嫁は友莉じゃないの?どうして直美さんになってるの?」すると、明智はすぐに彼女を後ろにかばい、疑いを許さないような声で会場中に響き渡るように言った。「今日は僕と直美の結婚式だ。関係のない人の話はしないでくれ」五年間の恋。その結末が、たったの「関係のない」の文字で切り捨てられた。その言葉を聞いた時、心のどこかで小さなガラスの欠片が、音もなく砕け散るのを感じた。けれど、痛みは、なかった。スマホの画面に映し出された、その結婚式の様子を、撮影した59秒の動画を、最後まで、静かに、じっと見つめていた。まるで、他人事のように。そして、その瞬間、私の中で最後に残っていた「須藤明智」という名前の記憶が、風に舞う塵のように、ふわりと消え去った。かつて、私の心の中で激しく燃え上がり、そして深く刻み込まれたあの名前は、今や、ただの見知らぬ他人のように感じられた。あの記憶に浸り、苦しんでいた深情も、まるで最初から存在しなかったかのようだった。私はふと、唇をわずかに動かした。それは嘲笑でもなく、ただ、すべてが消え去った後の、解放感と確信だった。そう、完全に消し去ることが、こんな感覚なのだ。何もかもが、空白で、軽やかで、何の重荷もない。私は知らない、その時、会場ではダニーが大暴れしていたということを。明智と直美が、ついに指輪を交換しようとしたその瞬間、ダニーはグラスのワインを、明智の顔にぶちまけた。
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第4話
「いや、信じられない。友莉がそんなことをするはずがない。彼女は僕を愛している。本当に愛しているはずだ。僕は彼女を探しに行く。僕が彼女と一緒に、記憶を取り戻させてあげるんだ」明智はダニーの言葉を信じることができず、満場のゲストの視線をものともせず、直美の指輪をひったくるように外し、その場から外へと歩き出した。「明智兄さん、どこへ行くの?私と結婚式を約束したでしょ?私はこのまま、後悔だけを抱えて死なせるつもり?」直美は必死に明智のスーツパンツを掴み、声を詰まらせながら懇願した。「明智兄さん、結婚式が終わったら行ってもいい?お願い」でも、かつてこの言葉に心を動かされた明智は、初めて、強い口調で拒絶した。「友莉を傷つけない限り、お前が何を望んでも、僕は叶えることができる。でも今、友莉が傷ついている。僕たちは、彼女に償いをしなければならない。僕が結婚したいと思っているのは、初めから終わりまで、友莉だけだ」明智はアクセルを思い切り踏み込んだ。普段の半分もかからない時間で、彼と友莉がかつて「家」と呼んでいた場所に到着した。けれど、今回は、どれだけ呼びかけても、どれだけドアを叩いても、彼を待っている人は、もういなかった。友莉は、部屋をあまりにもきれいに片付けていた。きれいすぎて、彼女がそこに住んでいた痕跡さえなかった。まるで、ここに二人で築いた愛に満ちた家など、最初から存在しなかったかのように。その瞬間、明智は本当にパニックになった。彼の大きな体が、ふらりと揺れ、ついには、かつて二人が愛を交わしたあのダブルベッドに、力なくもたれかかった。目尻が熱くなり、視界がにじんでいく。彼には理解できなかった。自分はただ、義妹の願いを叶えようとしただけなのに、どうして自分の愛する人を失ってしまったのか。彼ははっきりと知っている。自分が愛しているのは、友莉だということを。義妹の直美に対しては、ただの憐れみ、ただの家族への義理だ。友莉はいつも冷静で、感情をあまり表に出さない。愛を表現する時も、控えめで、穏やかだった。でも直美は違う。彼女は、たとえ自分が義理の妹であり、立場上の遠慮があるとしても、常に明るく、大胆に、情熱的に自分への愛を示してきた。だからこそ、彼女が病室で、弱々しく、哀願する
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第5話
H国での新しい生活は、まるで温泉のように、体も心も包み込むように心地よく、ゆったりとした時間が流れていた。研究所の責任者は、かつてのパートナー、米山白裕(よねやま はくひろ)だった。専門的な分野では、私たちは相変わらず、まるでぴったり噛み合った歯車のように息が合い、もともと一年かかると予想されていたプロジェクトも、私たち二人の手にかかれば、たったの三ヶ月で成果を上げることができた。そして私生活では、彼はユーモアに溢れ、思いやりに満ちた紳士だった。普段から家に引きこもりがちな私の日常に、彼は自然と色を添え、楽しさを取り戻させてくれた。実験に没頭して食事を忘れがちな私のために、ちょうどいいタイミングで、好みの料理を差し入れてくれるし、データに悩まされている時には、ぴったりの冗談で私のストレスを和らげてくれる。そんなある日、ダニーが風のように飛んできて私を訪ねた時、彼と一緒に空港まで迎えに行った。帰りの途中、彼女の目はゴシップ好きな光を輝かせながら、こっそりと私の手をつまんで囁いた。「ねぇ、正直に教えて。あの人、あんたのこと追いかけてるでしょ?」私は前方の運転席に目を向けた。整った顔立ち、スタイルが良く、足もとは言うまでもなく長いその男性を見つめ、胸の奥が少し波立つのを感じたが、それでも静かに首を横に振った。「私は、記憶を失ったことを知ってるでしょ?忘れられることは、大抵大したことじゃないと思うけど、でも、私はどうも恋を始めるのが苦手で、怖いの」私は言葉を切り、無意識に指先を丸めた。「彼は、とてもいい人。でも、私には、もったいない」「違うよ」ダニーはきっぱりと言い、振り向くと私の両頬を、両手で包み込むようにして、私の目をまっすぐに見つめた。「聞いて、友莉。愛に真剣に向き合う人には、神様が必ず新しい扉を開いてくれるの。あんたがどれだけ素敵か、自分でわかってる?」彼女の声は、温かく、力強く、まるで陽の光のように、私の心に染み込んでいった。「ほら、見て。あんたは、美しくて目が離せない。スタイルは抜群。大学時代から国家級の研究所にいた有名な天才少女。自分の生活はもちろん、私まで養えるくらい稼いでる。美人で、有能で、優しくて、もし私が男だったら、死んでもあんたと結婚したいわ。あんたは、世界で一番
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第6話
その突然の乱暴な質問と、私の体を無理やり掴む行為に、私の顔は一瞬で血の気を失った。冷たい嫌悪感と、強烈な生理的な不快感が、彼の手が触れている場所からじわじわと広がっていく。「放して!」私は必死にもがきながら、恐怖と力みで少し震える声で叫んだ。「知らない人です。すぐに放してください」「知らない?」彼は、その言葉が自分の最も痛む場所を突き刺したかのように、目の血走った血管が、さらに増えたように見えた。そこには、悲しみと絶望に満ちていた。「黛友莉!僕を見て!僕のことを知らないだと?僕だよ。君の夫だ!」彼は、桔梗の花の指輪を取り出し、無理やり私の指にはめようとした。「これは、僕が君のために作った婚約指輪だ。君は、これをずっと外さないって約束した。僕は、過ちに気づいた。後悔している。お願い、家に帰ろう。僕が、君の記憶を取り戻させるから。僕たちは、以前のように……」彼の声には、確かに情熱と後悔、そして切実な願いが込められていた。けれど、その言葉に対して、私の中に浮かんだのは冷たい、完全なる無関心。そして、深い警戒心。「ごめんなさい」私は必死に手を引き抜き、微動だにしない声で言った。「あなたの言ったこと、私は何も覚えていない。私の記憶には、あなたなんていない。放してください。さもないと、警察を呼びます」その失われた記憶と、ダニーが時折スマホで見せてくれた罵倒の数々を思い出し、私は付け加えた。「忘れられるものは、大したものじゃない。あなたが何を言おうと、真実かどうかに関わらず、二度と私を煩わせないでください」「いや、それだけは許さない!」明智の目に宿っていた悲しみが、次第に抑えきれない苛立ちと未練へと変わっていく。彼は、私を無理やり自分の車に押し込もうと、力ずくで腕を取った。「ウェディングドレスはもうリメイクした。僕たちの家も元通りにした。僕と一緒に帰れば、きっと昔に戻れる」しかし、その動きは白裕によって阻まれた。彼は、私が明智と一緒に行きたくないと確信すると、素早く一歩前に出て、自分の大きな体で、私と明智の間に立ちはだかった。彼はすぐに明智の手を無理やり広げようとはせず、冷たい声で言った。「彼女を痛めつけているだろう!」「ごめん、友莉。僕は、君を傷つける
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第7話
ダニーの励ましのおかげで、私は少しずつ白裕のことを拒まない自分に気づいていった。私が彼に、少しずつ受け入れてみたいと伝えた時、三十歳のその研究所のリーダーは、子供のように嬉しそうに笑った。まさにその時、突然誰かが、私がかつて手がけた「忘却の薬」プロジェクトに投資してきた。私と白裕は、その投資家が須藤明智だとすぐに悟った。それでも、私たちはそのプロジェクトを受け入れ、再びスタートさせることにした。キッチンで昼食を準備している男に、私は笑いながらからかった。「怖くないの?」「怖いよ!」白裕は私にブドウを一粒口に入れながら、琥珀色の瞳が光の温度を反射させ、少し強引だけど優しく、私の唇元にキスを落とした。「でも、僕は君の選択を信じている。黛友莉は純粋な人だ。濁った愛は、君は求めない」彼は、本当に私のことを理解してくれている。同じ波長の人と恋をするというのは、こんな風に、心が安らぎ、笑顔が自然に零れるものなのだと、その時、私は知った。私は、彼の唇に甘いキスを返し、笑って言った。「その通り、マイダーリン!」二ヶ月後。ついに、「忘却の薬」の解薬が完成した。案の定、その知らせを聞いた明智は、すぐに駆けつけてきた。彼は、前回よりもさらに痩せ細っていて、目の下の赤みは消えていなかった。けれど、その疲弊した表情の奥には、病的なほどの興奮と執念が宿っていた。彼の手には、恒温ケースがぎゅっと握られ、私をじっと見つめ、その中には賭けに出るような炎が燃えていた。「友莉!」彼の声はかすれ、抑えきれない興奮に震えていた。ケースをテーブルの上に置き、素早くパスコードを入力して開けると、中からは淡い青色の液体が静かにたたずんでいた。明智は、震える手でそれを私のほうへと差し出した。「友莉、飲め!飲めば、君は僕のことを思い出す。きっと……」その姿は、狂気に満ちていて、私は思わず眉をひそめ、半歩後ずさりした。ほとんど同時に、白裕が一歩前に出て、私の前に立ちはだかった。彼の深い瞳には、今まで見たことのない冷たい怒りと、露骨な警戒心が浮かんでいた。「須藤さん。どうか、自重してください!黛さんは、どんな『解薬』も必要ありません!」「いや、彼女は必要だ!」明智は、突然声を張り上げ、狂気じみた執念
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第8話
明智の目に、一瞬光が閃いた。彼は卑屈に、何度も何度も私に懇願した。「友莉、僕はもう自分の過ちを認めた。水嶋直美はもう追い出し、全ての経済的な援助も断った。今の彼女は、ただの乞食同然だ。もう僕たちの愛に影響を与えることはできない」「それに、僕が君を傷つけたことが、たくさんあったのでしょ?解薬を飲めば、僕は君の好きなように処分してもらっていい。殴っても、罵っても、それともナイフで刺しても、どうてもいい。ただ、解薬を飲んでくれればいいんだ」彼は、まるで消えかけた凧のように、解薬は最後の一本の糸だった。でも、私はただ静かに彼を見つめ、瞳には少しの波もなく、ただ深い悲しみを帯びた平静さだけがあった。「須藤明智。今でも、直美がいなければ、私たちの間に問題は起きなかっただろうと思っているのか?」「もちろん、僕たちはあんなに愛し合っていた。あいつがいなければ…」「違う!」私は彼の言い訳を遮るように声を荒げ、唇の端には、深い悲しみを帯びたほのかな笑みを浮かべた。「直美がいなくたって、また別の誰かが現れただろう。あなたの言う『誰かに同情してしまった』とか、『弱者を放っておけなかった』とか、それは、愛が足りなかっただけ」「あるいは、長すぎる愛に、少し疲れてしまっただけ」「もう、言い訳は聞きたくない。あなたは、愛を裏切った!」「そして、争い合うような愛なんて、私は欲しくもない、許すこともない」​​私の言葉は、冷たい水のように、明智の目に宿っていた最後の光を、ぷつりと消し去った。それでも、私は全ての問題を一度に、全部ぶちまけることにした。「もう終わりだ。過去の黛友莉は、あの薬と共に死んだ。あなたによって、手にかけられたんだ」「今の私は、新しい黛友莉だ。私の記憶も、感情も、未来も、全部自分のもの。自分で決める。あなたのことなんて、思い出す必要も、許す必要も、『やり直す』なんて、微塵も考えていない」私の視線は、ずっと私を守ってくれている白裕に向けられ、その瞬間、私の目には、柔らかく、そして確かな光が宿った。私は、一歩を踏み出し、白裕の手をそっと取り、自分の胸に当てた。「今の私には、大切な仕事があり、親しい友人がいて、そして、私の全ての選択を真剣に受け止めてくれる人がいる」「ここには、過去なんてもう、入る余地はない
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