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第1004話

Author: 夏目八月
さくらはすでにその現実を受け入れていた。「遺体の引き取りは?」

「沖田さまの話じゃ、実家に連絡は取ったそうだ。両親は既に他界、兄嫁が家を仕切ってるんだが、離縁された上に入水自害とあっては縁起が悪い。引き取る気はないって」

「夫の家族は?」紫乃は問いかけた途端、自分の言葉の愚かさに気付いた。離縁した女を、どうして引き取るだろうか。

「数日後に新しい嫁を迎えるって聞いたぜ。葬儀の面倒なんて見るわけねぇだろ」

「なんて早い!」紫乃は眉を立てて憤った。「新妻を迎えるだなんて、その男に良心というものはないのか!」

「きっと、とうに決まってたことよ」さくらは静かに言った。

「そうだわ!」紫乃は突然思い至った。「あの刺繍師は子がないために離縁されたのよね。持参金はどうなったの?夫の家にそのまま?」

「一般の庶民だもの、大した持参金もなかったでしょうね。あったとしても、これまでの暮らしで使い果たしたはず」さくらは説明した。「ただ、あの人は腕が良くて、刺繍品を売ってかなりの収入があったって。でも全部家計の足しにしてたみたいね。遺体が見つかった時は、たった三貫文しか持ってなかったそうよ」

「あなた、もう調べていたの?」紫乃は立ち上がり、目を丸くした。

「京都奉行所まで行ってきたの」さくらは紫乃と同じように納得がいかず、調べた末にようやく現実を受け入れたのだった。「でも、実家が葬儀を拒むなんて、その時は知らなかったわ」

「お前が行ってたなら、俺は無駄足だったな」棒太郎は座りながら、重苦しい表情を浮かべた。「遺体は義荘に安置されてる。見てきたが、もう腐臭が……」

「実家が引き取らないなら、京都奉行所はどうするの?ちゃんと葬ってくれるでしょう?」紫乃の声には不安が滲んでいた。

「埋葬はされるさ。でも……」棒太郎は言葉を選びながら続けた。「むしろに包んで穴掘って放り込むだけだろうな。棺なんてありゃしない」

紫乃は人の世の苦しみを見てきたが、それほど多くはなかった。これほどの怒りを覚えたのは、美奈子の死以来だった。

さくらは一瞬の沈黙の後、静かに切り出した。「紫乃、工房の名義で葬儀を出してあげましょう。儀式は省くけど、良い土地を選んで、新しい着物を用意して、棺も買ってあげましょう」

「そうね」紫乃は即座に賛同した。「今は工房も閑散としてるし、口座にも資金は確保してあ
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