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第1202話

Auteur: 夏目八月
太后様は普段、政務には関心を示されないが、この女学院だけは特別で、お言葉まで下されている。

「もしかして」さくらは急に身を乗り出した。「通学している生徒たちの家の、何か内部の争いとか……」

有田先生は溜息をつきながら顎に手をやった。「そうなると、範囲は相当広がりますが……可能性としては十分考えられます」

どの家でも表向きは妻妾が睦まじく見えても、実態は違う。たとえ身分の高い妾でも、正室の前では慎み深く振る舞うものだ。ただし例外が一つ。当主が妾を寵愛し、正室の地位が揺らぐ場合だ。そうなれば妻妾の争いは凄まじいものとなり、どんな汚い手も使われかねない。

例えば、妻にも妾にも娘がいて、正室の娘は雅君女学に入学できたのに、妾の娘は定員の関係で入れなかった。そんな場合。

妾が正室の娘の評判を落としたいがために、他の娘たちまで巻き込んで汚名を着せることも、あり得なくはない。

当人は自分の計画が完璧に隠密だと思い込んでいるかもしれない。実際、口封じまでしているのだから、隠密には隠密なのだが……

もしこれが真相なら、調査範囲は途方もなく広がってしまう。

「とりあえず」さくらは立ち上がった。「京都奉行所に人足頭の普段の付き合いを調べてもらいましょう。誰かの手先になっていなかったか、しっかり確認しないと。それと玉葉さんの評判も守らなければ……」彼女は柔らかな溜息をつき、「着替えて、太后様に報告に参るわ」

苦笑いを浮かべながら、付け加えた。「お叱りは覚悟の上よ」

「お気をつけて」有田は頷いた。

さくらが宮中へ向かおうとした時、惠子皇太妃が同行を申し出た。「私が付き添えば、姉上もそれほど厳しくならないわよ。心配いらないわ。私が守ってあげるから」

純白の狐の毛皮の肩掛けに、宝石をちりばめた額飾り、艶やかな化粧を施した皇太妃の姿に、さくらは感動的な眼差しを向けた。「ありがとうございます、お母様」

太后はまだ事の次第を知らなかった。さくらが話し始めようとした矢先、皇太妃が先んじて口を開いた。「姉上、あまりお責めにならないで。さくらのせいではありませんわ。玄武が遠路に出かけておりますでしょう?彼のことが気がかりで上の空になってしまったのも、無理からぬことですわ」

太后の唇に浮かびかけた言葉が止まった。妹を見やると、優しくも諦めたような表情を浮かべる。「斎藤貴太妃のところ
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