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第1287話

Author: 夏目八月
玄武は座布団に身を預け、全身から力が抜けていくのを感じていた。

邪馬台から戻り、兵権を返上してなお、陛下の猜疑は消えない。気にしないようにはしているが、制約があれば別の方法を探るしかない。

陛下の警戒に対しては慎重に振る舞い、君臣兄弟の間の溝が広がるのを防いできた。しかし平安京との交渉では、初めて強い姿勢で臨んだ。

だが交渉が終わった後も、相変わらず謙虚な態度を保ち続けた。戦が起これば、せめて陛下の猜疑が少しでも薄まることを願って。

「羅刹国が再び攻め寄せてくるのは、誰かが邪馬台で画策しているからだと、陛下もご存知のはずだ」玄武の声が虚ろに響く。「それなのに、羅刹国の軍が迫るよりも、この私の存在を脅威に感じておられる」

苦々しい笑みを浮かべ、最後の一滴まで杯を傾けた。

さくらの瞳が闇を帯びる。「初めてのことじゃないわ」

玄武は彼女を抱き寄せ、柔らかな髪に指を通しながら、前回の窒息するような思いを反芻していた。

今宵、独り酒を重ねたのも、この息苦しさをいつまで耐え続けねばならないのかと考えていたからだ。

「同じ悲劇は繰り返させない」玄武はさくらを放し、冷たい決意を瞳に宿した。「お前を見習うべきだったな」

あの時、宮中での報告を陛下が信じなかった時、さくらは待つことも、傍観することもせず、たった一人で邪馬台へ馬を走らせた。

死さえも覚悟の上で。

夫婦の心は通じ合っていた。さくらには玄武の言葉の真意が分かっていた。

「支持するわ」彼女は力強く頷いた。「行って。陛下が黙認なさるなら、私が都を守る。もし罪を問われるなら、北冥親王家の者たちを逃がすわ」

玄武の心が晴れていく。この決断を躊躇わせていたのは彼女のことだった。今、最強の後ろ盾となると約束してくれた彼女がいる。もう迷いはない。

「明日、丹治先生の薬王堂へ行ってくれ。脈に異常が出る薬があるか尋ねてほしい。あれば、私が服用した後すぐに侍医を呼んでくれ」

「分かったわ」さくらは頷いた。

荒い手のひらが彼女の頬を撫で、粗い指先が唇を優しく掠めた。「二度と、悲劇は起こさせない」

さくらは目元を赤く染めて、「ええ」と短く応えた。

あの時のことを、ずっと心に抱え続けていたのね。

でも、今は状況が違う。あの時は北冥軍が邪馬台になく、十万の兵を率いての移動は人知れずには行えなかった。一人の問題では
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