硯は当然ながら大皇子に命中することはなかった。吉田内侍が身を挺して守ったのだ。この重大な局面で、皇子が傷つくようなことがあってはならない。だが直撃は免れたものの、大皇子は恐怖に声を震わせて泣き喚いた。「朕がお前の歳の頃には、千字文など既に滔々と暗唱していたぞ!」清和天皇は怒りに震えた。「お前は二句も覚えられぬとは。今日から皇祖母の宮中で暮らすがよい」「いやです!母上と一緒に住みとうございます。皇祖母は嫌いです!」大皇子は皇祖母の元へ移されると聞いて、さらに声を張り上げた。皇祖母が嫌いだった。お伺いに参るたび、父上と同じように学問のことを問いただされる。なぜ誰もが読書のことばかり尋ねるのか。そもそも、なぜ読書などしなければならないのか。「すぐに連れて行け。慈安殿へ」天皇は冷ややかに命じた。桂生は素早く二人の小姓を呼び、共に大皇子を慈安殿へ連れ立った。清和天皇の顔は怒りで紅潮していたが、心中は深い悲哀に沈んでいた。実の嫡男がこのような不出来とは。吉田内侍は硯を拾い上げながら、複雑な表情を浮かべた。「陛下、どうかお怒りを鎮めてください」天皇の胸が激しく上下した。怒りと焦燥を鎮めることができない。最悪の事態に備え、母后に垂簾聴政をお願いし、皇子の成長を待つことも考えていた。だがこれほどの凡庸さでは、母后が心血を注いでも立派な器に育つまい。むしろ恩を仇で返す畜生になるだけだろう。目を閉じると、一睡もせぬ疲労が押し寄せた。それでも頭はまるで冴え渡っていた。しばらくして、瞳を開き、吉田内侍をじっと見つめた。「北冥親王はどこへ向かったと思う?」吉田内侍は胸に抱いた推測を口にする勇気はなかった。そもそも自分の立場で言うべきことでもない。「存じません」天皇の表情は冷淡さを増した。「もしかして、邪馬台へ向かったのではないかと思っているのだろう?」吉田内侍は額に浮かぶ細かな汗を拭った。「臣下の身で、勝手な推測などできませぬ」天皇は額に手を当て、疲労の色を浮かべた。「たとえ彼が邪馬台に向かったとしても、どうして親房甲虎の逃亡を予見できたというのか。斉藤鹿之佑らが甲虎の意図を察知し、玄武に知らせたとでも?だがなぜ鹿之佑は先に朕に報告せず、彼に伝えることを選んだ?あるいは、もっと大胆に推測すれば——玄武は邪馬台に独自の密偵を置き、何
大皇子を吉田内侍に引き渡す際、斉藤皇后は微笑みを浮かべ、言葉を添えた。「あまりにも早くて、まだ目も覚めぬうちの出立です。道中でご指導くださいませ。陛下の御前で失礼のないように」言い終わるや、蘭子が進み出て、そっと藩札を差し出した。しかし吉田内侍はこれを受け取らず、丁重に頭を下げた。「ご心配には及びませぬ。何も御座いません。ただ陛下がご子息にお会いになりたいと仰せで、この者がお迎えに参りました次第」吉田は長く宮中に仕え、表情と人心を読み解くことに長けていた。皇后の真意は明らかだった——天皇が大皇子に何を尋ねるのか探り、道中で答えを教えておきたいのだ。通常なら賜り物はありがたく受け取るところだが、今日ばかりはそうもいかぬ。皇后の表情が一瞬こわばったが、すぐに笑みを取り戻した。「では、お手数おかけします」吉田内侍は腰を低く屈めると、大皇子の手を取り退出した。清和天皇は錦華殿の廊下を行ったり来たりしていた。一睡もできなかった夜を越し、「親征」という言葉が棘のある蔦のように彼の思考に絡みついていた。親征となれば考慮すべきことが山積みだ。戦場へ向かうとなれば皇太子を立てねばならぬ。しかし大皇子はまだ幼く、才能も平凡で、性格は我儘で怠惰だ。後継ぎとしても、ましてや帝としても適任とは言い難かった。それでも、彼は正妻の長子なのだ。「吉田内侍はどれほど経った?」天皇は側近の桂生内侍に苛立ちを隠さず尋ねた。桂生は恭しく答えた。「半時間ほどにございます」実際にはそれ以上経っていたが、桂生は既に険しくなった天皇の顔色を見て、本当のことを言う勇気がなかった。しかし天皇にとって半時間でさえ長すぎた。「春長殿はそれほど遠くはないはず。なぜまだ到着せぬ!」「すぐに確かめて参ります」桂生が言った。錦華殿の大門を出る前に、息を切らして吉田内侍が現れた。その背には——大皇子が深い眠りに落ちていた。清和天皇はその光景に激怒した。「下ろせ!」吉田内侍は「陛下、どうかお怒りを鎮めてください」と声を上げつつ、大皇子をゆっくりと地面に降ろした。大皇子は吉田内侍の背中で心地よく眠っていたが、突然両足が地面に着くと、驚いて目を覚ました。反射的に拳を振り上げ、内侍を打ちつけた。「この下郎が」吉田内侍はすかさず大皇子の拳を掴み、低い声で諭し
皇后は幽閉されて以来、一歩も春長殿を出ることはなかった。しかし宮中で何年もの間築いてきた人脈により、外の重大事も必ず彼女の耳に入った。今日の穂村宰相による親征の進言も例外ではない。その知らせに、彼女の胸は高鳴り止まなかった。興奮と感動で、まるで少女のように。陛下が親征するとなれば、当然皇太子を立てねばならない。そしてこの時に立てるのは、他ならぬ彼女の大皇子をおいて他にはない。北冥親王の病がこれほど絶妙な時機に発症するとは——まるで天の配剤のようだ。興奮が静まるにつれ、冷静さを取り戻した。この親征が実現するかはわからない。陛下は久しく戦場に立っておらず、今更そのような危険を冒すだろうか。また、朝廷に武将がいないわけでもない。加えて燕良親王の謀反も収まっていないというのに。だが考え直せば、親征こそ民心を一気に掴む良策ではないか。燕良親王などという秋の蝗は、そう長くは跳ねられまい。思い悩むうち、一睡もできぬまま夜が明けた。東雲の光も差さぬうちに、外から物音が聞こえる。夜伽の侍女・桐子が慌ただしく入ってきた。「皇后様、陛下のお使いが大皇子様をお召しです」皇后は即座に身を起こした。わずかに震える声で言った。「早く、装束を」幽閉されてこの方、陛下は一度も訪れず、大皇子も召されることはなかった。焦りはあれど軽挙は禁物と知っていた彼女は、ただ静かに時を待った。この戦乱は朝廷と陛下にとっては内憂外患だろうが、彼女と大皇子にとっては天与の好機に他ならない。「陛下は私をもお召しか?」身支度を済ませてから、皇后はようやく尋ねた。「いいえ、吉田内侍様が大皇子様だけをお迎えにとのことです」と桐子が答えた。皇后の胸に失望が滲んだ。もし陛下が親征するのなら、後宮の実権は彼女の手に戻るはず。そうして初めて妃嬪たちを、そして彼女たちの魑魅魍魎のような思惑を抑えられるのだ。皇太子を立てても、後宮の権が定子妃や徳妃の手に留まっては危険すぎる。「吉備蘭子は?」皇后が尋ねた。「蘭子様は大皇子様をなだめておられます」桐子は少し困った表情を浮かべた。「まだ早すぎて、大皇子様がお起きになりたがらないもので……」「無理もないわ」皇后は空を見上げた。「まだ夜が明けぬほどだもの……」皇后はこれまで大皇子を甘やかしてきた。最近は改めようとし
密報の内容は凄まじかった。親房甲虎が陣を放棄して逃亡し、邪馬台には流言飛語が飛び交い、軍の士気は揺らぎ、脱走兵が続出しているという。さらに恐ろしいことに、邪馬台駐留軍までもが動揺し、撤退の気配を見せ始めていた。斉藤鹿之佑は密書の中で、軍を統御できる武将の派遣を懇願していた。そうでなければ邪馬台の陥落は避けられまい――決して大袈裟な警告ではなかった。清和天皇は顔色を鉄のように冷ややかにして、臣下たちに邪馬台へ派遣すべき武将の推挙を命じた。朝臣たちは互いに顔を見合わせた。今この危機に対応できるのは、北冥親王か、あるいは既に罷免された佐藤大将くらいしか思い浮かばない。赤野間老将軍にしても天方十一郎にしても、元の松平将軍にしても、今の邪馬台の混乱を収め、軍心を安定させる手腕は持ち合わせていなかった。北冥親王こそが最適任だが、噂によれば突如として心疾に倒れたという。病を抱えて戦場へ赴くなど、どうして可能だろうか。しかも事態は切迫している。羅刹国軍は既に城下に迫っており、一刻も早く駆けつける必要があった。心疾を患う北冥親王に、そのような激務は耐えられまい。佐藤大将にしても、今から関ヶ原まで緊急の勅使を派遣し、さらに関ヶ原から邪馬台まで行くとなれば、どれほど名馬を走らせても半月はかかるだろう。加えて佐藤大将は既に齢高く……この二人以外に、誰が適任だろうか?或いは、別の道もあるのかもしれない。何人かの官人が黙して天皇へ視線を向けた――天皇自らの出陣こそが軍心を一気に取り戻す最善の策ではないか。だが、誰もそれを口にする勇気はなかった。もし戦場で天皇に万一のことがあれば、その提案者こそ国家への大罪を犯すことになる。緊迫した空気の中、穂村宰相の落ち着いた声が響いた。「北冥親王様の容体はいかがでしょう?病状に好転の兆しはありませんでしょうか」清和天皇の眼光が一段と冷たくなった。「梅月山に静養に行った」その言葉に朝臣たちは驚きを隠せなかった。皆、北冥親王は親王邸で療養中だと思い込んでいたのだ。「梅月山へ?では、お加減が良くなられたのでは?」斎藤式部卿が恐る恐る尋ねたが、陛下の険しい表情に不安を覚えた。「北冥親王のことは後にせよ。彼以外に、誰か適任の者はおらぬか?」清和天皇は冷ややかに言い放った。穂村宰相はまさにこの言
さくらは御書院に片膝をつき、清和天皇の鋭い眼差しを受け止めていた。伏し目がちに座る姿には、後ろめたさも野心もなく、いつものように謹厳な態度を保っていた。天皇は彼女の出自に思いを馳せた。上原洋平の娘——一瞬、先ほどの疑念が的外れに思えた。あの上原洋平の娘が謀反など企てるだろうか。だがその信頼は束の間、しかも既に戦死した上原洋平に対してのみのものだった。嫁いだ女は夫に従う——さくらと玄武は同じ陣営に立ち、利害は一致しているのだ。「朕は御典医を遣わして玄武を診せた」天皇は静かに口を開いた。心中の激しい疑念を微塵も表さぬ声音で。「屋敷の有田先生の話では、梅月山へ静養に行ったそうだな」「陛下のご配慮、恐れ入ります」さくらは答えた。天皇は唇を引き結んだ。この返答はまるで話題をはぐらかしているようではないか。「朕が思うに、あやつは過労のせいだろう。お前も先日は飛騨まで同行し、今は玄甲軍と工房、女学校まで統べている。屋敷に主がいなくては困る。夫婦揃って病に伏せるわけにはいくまい」天皇は言葉を継いだ。「先日からお前は休暇を願い出ていたが、朕はさらに半年の休暇を与えよう。工房と女学校の運営に専念するがよい。玄甲軍は当面、樋口信也に任せる」さくらの顔に一瞬、驚きの色が浮かんだ。だが心中では何の意外さも感じていなかった。宮中に参内する前、有田先生はこう分析していたのだ。もし陛下が親王様の謀反を疑っているなら、まず玄甲軍大将の権限を奪い、内外の連携を絶つだろう。もし単に親王様の様子を尋ねるだけで官職に手をつけなければ、それは陛下が親王様を信じている証だ。驚きの表情が一瞬過ぎ去ると、さくらは穏やかに答えた。「かしこまりました。陛下のお心遣い、感謝申し上げます」怨みも焦りも、ましてや心の乱れも見せない。天皇は彼女をしばらく見つめた後、ようやくゆっくりと告げた。「下がれ」「臣、退出いたします」さくらはようやく立ち上がり、その瞳には相変わらず澄み切った堂々とした光が宿っていた。御書院の外で吉田内侍は袖を正して佇んでいた。さくらが出てくるのを見ると、その眼差しに一瞬の憂いが宿った。さくらは彼に微笑みかけ、凛とした足取りで立ち去った。吉田内侍は微かに息を漏らした。親王様の行方は知らずとも、玄武に謀反の野心などないことだけは確かだった。
甲虎の逃亡は軍の士気を損なっただけでなく、斉藤鹿之佑や天方許夫の心までも凍らせ、気力を奪った。ここで戦死するくらいなら、まだましだったものを。邪馬台で噂が急速に広がったのは、明らかに策謀があってのことだ。恐怖を煽り、士気を削ぐ。もし最初の戦いで羅刹国が勝てば、邪馬台軍は押し込まれるばかりとなろう。八百里の急使が、この緊急事態を都へと伝えに走った。だが、その知らせが都に届く前に、清和天皇は玄武の失踪に気付いていた。玄武の心疾発症から五日目、清和天皇は小林御典医と吉田内侍を再び北冥親王邸へ向かわせた。有田先生は当初の計画通り、親王様は別荘で静養中と伝えるつもりだった。だが、よくよく考えれば、容態が好転し、丹治先生の治療も受けているというのに、数日を置いて再び御典医を遣わすとは、明らかに疑念が晴れていない証だった。疑いを抱かれている以上、別荘での静養という言い訳は通用しまい。小林御典医が別荘まで足を運べば、不在は露見する。そこで吉田内侍と小林御典医には、親王様は昨日、梅月山で療養するため出立したと告げた。天皇は必ずや疑うだろう。しかし、真偽を確かめるため人を遣わすことはあるまい。ただ、親王様が何かを密謀していると考えるはずだ。あるいは燕良親王の反乱に乗じて、濁った水で魚を漁ろうとしているのではと疑うかもしれない。もしくは、さらに悪質な推測さえするだろう。だが悪意に満ちた憶測をすればするほど、親王様が単に邪馬台での戦に赴いただけと知った時、怒りも和らぐというものだ。その推測ゆえ、親王邸に手出しはせまい。せいぜい監視をつける程度だろう。案の定、吉田内侍の報告を受けた清和天皇は顔を険しくし、即座に樋口信也を召した。「北冥親王邸を監視せよ。上原さくらの一挙手一投足、接触する者すべてを見張れ。有田現八も同様だ」樋口は天皇の腹心として聖意を推し量れたが、事の重大さに問う勇気もなく、ただ頷くばかりだった。樋口信也が退出すると、天皇の胸中は乱れに乱れていた。玄武が突如として心疾を発症した時から、この一件には違和感があった。内乱と外敵の侵攻、朝廷が人材を最も必要とする時に、あまりにも唐突な発病。今や、己の疑念は的中したと言えよう。燕良親王の背後関係を探らせていたが、その黒幕が見つからぬ。ひょっとして、玄武自