私の名前は沢村紫乃。他のことはさておき、まずはこれだけは言わせてもらう。とんでもないことよ!浅野家なんて小さな伯爵家の分際で、浅野夫人ときたらあの傲慢ぶり。私も長く生きてきたけれど、気の強い女は数多く見てきたものの、権力者の奥方でここまで品のない女は滅多にお目にかかれない。文絵ちゃんが引きずり出されて頬を打たれ、「恥知らずにも男を誘惑した」などと罵られたと聞いた時は、真っ先に浅野家の門を蹴破って、あの女を引きずり出して同じ目に遭わせてやりたい衝動に駆られた。さくらも怒っていたが、彼女はこう諭してくれた。「こんなことが起きた以上、仕返しは後でもできる。まずは文絵ちゃんと夕美さんの様子を見に行きましょう。二人とも思い詰めてしまうかもしれない」さすがは長年官職に就いているだけあって、さくらは物事の軽重を見極める術を身につけている。私は慌てて親房家に駆けつけたが、案の定、文絵が手首を切ったと聞かされた。さらに夕美が部屋の侍女たちを皆下がらせたと聞いて、嫌な予感がした。案の定だった。夕美は梁に縄をかけて首を吊ろうとしていたのだ。何とも短絡的で、思わず平手打ちを食らわせてしまった。この数年、私も随分と気が長くなったつもりだったが、あの様子を見ては我慢ならなかった。工房で過ごしたあの年月は、一体何だったのか。意志を強く持つことさえ覚えられずにいるなんて、自立なんて夢のまた夢ではないか。夕美を一発張り倒した後、私は浅野家へ向かった。浅野家に着いてみると、なんとさくらが玄甲軍を連れて屋敷の中にいるではないか。私の腹の虫がおさまらないまま、まずは困惑してしまった。さくらは官職にあるから、直接乗り込んで暴れるわけにはいかない。だからこそ私が代わりに一泡吹かせてやるという約束だったのに、なぜ彼女がここにいるのだろう?見れば、さくらは官服に身を包み、正座に端然と座して厳粛な表情を浮かべている。鉄男が彼女の傍らに控え、玄甲軍の兵士たちが一人の男を押さえつけていた。よく見ると、その男は浅野敏貴の兄、浅野家の世子ではないか。伯爵家の男どもが皆顔を揃え、家を取り仕切る主母である浅野夫人の姿もある。なかなか大掛かりな騒ぎのようだが、一体何事が起こったのだろう。まずは様子を見ようと脇に立って成り行きを見守ることにした。さくらったら、事前に一
私が本当の意味で自分の愚かさに気づいたのはいつだったろう。十一郎が戻ってきた時でもなく、守と離縁した時でもない。親房家が窮地に陥った時でもなかった。文絵の縁談話が持ち上がった時だった。親房家に災いが降りかかった頃、私は牢獄で生死の境をさまよいながら、過去を振り返って自分なりに反省はしていた。角を取って変わろうという気持ちもあった。でもあの時はまだ、心の底から目が覚めたわけじゃなかった。所詮自分一人の問題だし、どんなに苦しもうが私が味わう痛みよ。他人に代わってもらえるわけでもないし、とやかく言われる筋合いもないって思ってた。三姫子姉様には迷惑をかけて、あちこち奔走させてしまったことは分かってる。感謝もしてるし、尊敬もしてる。ただ、自分の過去を何度も噛み返して傷を深くするようなことはしたくなかった。それが文絵の縁談で、一気に変わった。自分の中身を全部ひっくり返して、後悔に食い尽くされることを許してしまった。文絵は浅野伯爵家の御曹司・浅野敏貴と気が合って、お互いに心を寄せ合うようになった。西平大名の爵位は失ったけれど、三姫子様は先帝からお褒めをいただいて诰命も賜り、家業の経営も手堅い。三弟の萌虎も沢村家の令嬢・紫乃と結ばれて、今では兵部で重用されている。両家とも釣り合いは取れていたはず。ところが敏貴が母親に文絵との結婚を申し出ると、猛反対に遭った。浅野夫人は息子が文絵に会うことすら禁じてしまった。敏貴は普段から親孝行な息子だったけれど、文絵への想いは骨の髄まで染み付いていた。この人生で文絵以外とは結婚しない、母が許さないなら出家すると言い張った。浅野夫人は激怒して、息子を座敷牢に閉じ込めてしまった。あの日、浅野夫人が乗り込んできた時のことは、死んでも忘れられない。大勢の使用人を引き連れて押しかけてきた夫人は、義姉様を指差してまくし立てた。「親房の分際で、うちの息子に手を出そうなんて身の程知らずもいいところよ!上が腐れば下も腐る、あんたたちの夕美は恥知らずの面汚しだし、この娘もそれを真似て、若いくせに男を誑かして親に逆らわせるなんて!親房一族、根っからの悪党じゃないの。この子がうちの敷居を跨ぐのは、この私が死んでからよ!」そう怒鳴り散らすと、使用人たちに家財を壊させ、文絵を表に引きずり出した。近所の人たちが見て
さくらは振り返った。「いえ、ご家族は皆さんお優しくしてくださっているそうです。ただ、文絵さんの縁談の際に少々難しいことがあったとか……幸い今は良いお相手と結ばれましたが、彼女としては、二度も嫁いだ身で家にいては、甥御さんや姪御さんたちの評判に関わると心配されているようです。お義姉様にもご心労をおかけしたくないと」「ああ……」俺は思い浮かべた。あの気さくで心優しい三姫子夫人の顔を。三姫子夫人には息子と娘がおり、他にも庶子庶女がいる。二の御方の子供たちもまだ縁談前だろう。縁談を進める度に、どれほどの陰口を叩かれていることか。姫夫人が背負っている重荷を思うと、俺の胸は締め付けられた。俺は心から三姫子夫人を義姉と慕っている。彼女が味わっている苦労を思うと、やりきれない気持ちになる。「よく考えてみてください」さくらはそう言い残した。俺は頷いたものの、ふと周囲に人影がないことに気がついた。「あなたと俺がこうして二人きりでいて、摂政王殿下は嫉妬なさらないのですか?知らないはずはないでしょうに……」さくらは意表を突かれたような顔をした。こんな質問をするとは思わなかったようだ。答えるつもりはないらしく、足を向けかけたが、一歩進んでから立ち止まった。「これほどの信頼関係もなしに、どうして玄甲軍で大将を務められたでしょう。私は何事も彼に隠さず、彼も私に隠し事はありません。ですから今日のことも承知の上です」彼女はそのまま歩き去った。俺も後を追う。きっと摂政王はどこかに身を潜めて、俺たちの会話を聞いているに違いない。自分の妻が前の夫と二人きりになるのを許す男などいるはずがないのだから。ところが彼女はまっすぐ歩き続け、別室の左右から誰も現れることはなく、前庭に着くと、大将の傍らに座る摂政王の姿が見えた。大将と何やら話し込んでいる。摂政王はさくらを見つけると、たちまち笑顔を浮かべて手招きし、隣に座るよう促した。遠くからその光景を眺めながら、俺の胸には複雑な思いが渦巻いた。これが本当の夫婦のあり方というものなのか。だが都であろうと関ヶ原であろうと、男女が二人きりになるときは皆気を遣うものではないか。噂でも立とうものなら、名声に傷がつく。まして今の二人は高い地位にある。下手な憶測など立てられるわけにはいかないはずだ。そんなこ
佐藤大将の八十の祝いの席で、俺は再びさくらと顔を合わせた。実のところ、それ以前にも何度か彼女の姿を見かけていた。関ヶ原にも足を運んでくれていたのだ。俺たちは赤の他人のように振る舞い、言葉を交わすことはなかった。ただ、彼女が関ヶ原を後にする度に、俺はこっそりと見送りをしていた。この後ろめたい気持ちが何のためなのか、自分でもよく分からない。彼女に対しては、いつも罪悪感を抱き続けている。琴音や夕美に対しても申し訳ないことをしたが、俺たちはお互いを消耗し合い、言い争いを繰り返した。彼女たちも俺を傷つけたし、俺も彼女たちを傷つけた。ただ一人、さくらだけは違う。俺と家族が彼女を傷つけただけで、彼女は俺たちに害をなしたことなど一度もない。離縁の後でさえ、母の病気を見捨てることもできたはずなのに、美奈子に雪心丸の入手方法を教えてくれた。佐藤大将の八十の祝いで彼女に再会した時、彼女はすでに摂政王妃となっていた。朝廷の情勢など、俺たち辺境の兵士にはよく分からないが、食糧は潤沢で武器も上質、俺たちの俸給まで上がっていた。これは紛れもない恩恵だった。摂政王はかつて元帥を務めた身だ。兵士が腹を満たしてこそ国境を守れることを理解している。祝宴の席で彼女を見かけた時、摂政王と並んで大将に祝いの言葉を述べているところだった。大将が彼女を見つめる眼差しは、昔と変わらず慈愛に満ち、誇らしげだった。人垣の向こうからその光景を眺めながら、俺の胸には思いが湧いた。あの時あんなに愚かでなかったなら、今頃老将軍を祝福するのは俺だったろうに。これほど年月が過ぎても、俺はまだこんなことを考えている。本当に足踏みしているのは俺の方なのだ。今回も彼女と言葉を交わすことはないだろうと思っていたのに、祝宴が終わると、彼女はまっすぐ俺のもとへやって来た。別室には俺と彼女だけ……侍女一人さえいない。摂政王もよく許したものだ。世間の噂を恐れないのだろうか。俺は酷く居心地が悪く、まともに彼女を見ることもできず、先に口を開く勇気もなかった。ただ彼女の言葉を待つばかりだった。彼女が口を開いた時、その声音は波ひとつない湖面のように穏やかだった。「関ヶ原へ向かう前のこと、夕美さんが私を訪ねて参りました」彼女は淡々と語り始めた。「本来ならあなた宛ての手紙を託そうとしていたそうで
関ヶ原に配属されてから、俺は二度昇進を重ね、今では将軍の地位に就いている。千を超える兵を束ねる身分だ。あれ以来、都には一度も戻っていない。関ヶ原の守備が任務であり、勅命なくして勝手に帰京することは許されない。俺はいまだ独り身のままだ。再婚はしていない。関ヶ原の風砂が年月を重ねるごとに俺の顔に刻み込まれ、同い年の連中よりもずっと老け込んでしまった。不眠に悩まされるようになって久しい。安神薬に頼らねば眠ることもできない。時折考える。もしあの時、琴音との愚かな過ちを犯さなかったなら、今頃俺の人生はどうなっていただろうか。俺とさくらは、誰もが羨む仲睦まじい夫婦になれていたのだろうか。きっと可愛い子供たちにも恵まれ、俺は戦場で命を懸け、さくらは内助の功で両親に仕えて子供たちを育て上げる。たとえ俺が出世街道を歩めず、一生下位の将軍のままだったとしても、彼女は俺のもとを去ったりはしなかっただろう。俺は知らなかったのだ。彼女が本来なら大空を舞う鷹でありながら、俺のためにその翼を折り、病に伏せる母を看病し、将軍家の雑事に追われていたことを。気づいた時にはもう遅かった。後悔などできるはずがない。その頃にはすでに琴音がいて、俺は琴音を深く愛していると公言していたのだから。ただ逆上して、「後悔するなよ」と悪態をつくしかなかった。だが、彼女に何の後悔があるというのか。俺のために折った翼は、離縁状が下された瞬間に再び生え揃い、戦場へと羽ばたいて行った彼女は、いとも簡単に武功を立てたのだから。琴音はいつも言っていた。「あの人は名家の出だから、父親や兄が道を作ってくれる。だからあんな成功ができるのよ」と。しかし俺には分かっていた。さくらの成功は、何よりも彼女自身の実力によるものだということが。確かに生まれは助けになったかもしれないが、それが主な理由ではない。万華宗において、彼女の武芸はほぼ頂点に位置していた。それだけでも、人一倍の努力を重ねてきたことは明らかだった。俺は彼女を心から尊敬していた。だが、愛していたのだろうか。この問いを、俺はずっと自分に問いかけ続けてきた。あの頃、本当に彼女を愛していたのかと。答えは見つからない。ただ、心を奪われていたのは確かだ。まるで天上の月のような、あの美しく気品ある姿に。天上の月を手
母に懇願しても聞き入れられず、今度は父に頼み込んだが、返ってきたのはさらに厳しい叱責だった。それだけでなく、両親は私がこの縁談に反対するのは春治と面識がないからだと考え、もう話が進んでいる以上、直接会って愛情を育むべきだと判断した。春治が私を連れ出して遊ぶことになってしまった。行きたくないと抵抗したが、母の側近の女中に無理やり馬車に押し込まれ、侍女たちには私が失礼なことを口にしないよう厳重に監視するよう命じられた。春治は脂ぎった顔をしており、最初のうちはそれなりに礼儀正しく接してくれた。しかし次第に本性を現し、私の容姿について品定めするような物言いをするようになった。「君にこの美貌がなく、深水家の娘でなかったら、絶対に嫁に迎えるつもりはなかった」などと。彼の見下すような態度に不快感を覚えたが、それだけなら後のことまで考えなかったかもしれない。帰り道、馬車に乗せてくれると言いながら、彼は私のお尻を掴んできたのだ。その瞬間、全身の血が頭に昇った。彼の不埒な眼差しと向き合った時、涙が溢れて止まらなくなった。屈辱で体が震え、一言も発することができなかった。この行為を侍女も車夫も目にしておらず、むしろ彼の気遣いを褒めそやして、家に帰ると母の前で彼を称賛した。悔しくて母にありのままを話したが、母は私が作り話をしていると決めつけ、またもや叱りつけた上、三日間の外出禁止を言い渡した。禁足の三日間、私は涙に暮れていた。あの日、書生の言葉に耳を傾けず、湖に身を投げておけばよかったとさえ思った。春治と結婚することと、泥沼に堕ちることに、一体何の違いがあるというのか。禁足が解かれた後、私は再び更山寺へ向かった。同じ口実で侍女たちを遠ざけて。今度こそ、死ぬ覚悟を決めて湖畔に足を向けた。ところが、またしてもあの書生がそこにいた。湖のほとりに寂しげに座り込み、小石を水面に投げては波紋を眺めている。ぽちゃん、ぽちゃんと小さな音が響くたび、水面に輪が広がっていく。私の足音に気づいたのか、彼がこちらを向いた。私の姿を認めると、驚いたような表情で慌てて立ち上がった。初冬の陽射しが淡く、彼の白い顔に柔らかな光を落としている。「お具合はいかがですか?」彼は私の目を見つめて言った。数日泣き続けた私の目は、まだ腫れぼったいままだった。