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第5話

Author: 夏目八月
北條家の人々は顔を見合わせた。いつも穏やかだったさくらがこれほど強硬な態度を取るとは、誰も予想していなかった。

しかも、母の言葉さえ聞き入れない。

老夫人は冷たく言った。「あの子はそのうち分かるわ。他に選択肢なんてないのだから」

そうだ。今や彼女には頼るべき実家もない。北條家に留まる以外に道はなかった。しかも、北條家は彼女を正妻の座から降ろしてはいない。

翌朝早く、さくらはお珠を連れて北平侯爵邸に戻った。

庭園は寂しげで、落ち葉が積もっていた。

わずか半年の間に人の手が入らず、庭には人の背丈ほどの雑草が生い茂っていた。

侯爵邸に足を踏み入れると、さくらの心は刃物で切られるように痛んだ。

半年前、家族が虐殺されたと聞いて、崩れ落ちるように祖母と母の遺体の前にひれ伏した時のことを思い出した。冷たく硬直した遺体、屋敷中に染み付いた血の跡。

侯爵邸には御霊屋があり、上原家の先祖代々と母の位牌が祀られていた。

さくらとお珠は供物を用意しながら、涙が止まらなかった。

香を立て、さくらは床に跪いて両親の位牌に向かって額づいた。涙で曇った瞳に決意の色が浮かんだ。「お父様、お母様。天国でご覧になっているなら、娘のこれからの決断をどうかお許しください。安らかな生活を送れと言われた通りに嫁ぐことができないのは、北條守が良い人ではなく、一生を託すには値しないからです。でも安心してください。お珠と私は必ず幸せに生きていきます」

お珠も隣で跪き、声を上げて泣いていた。

拝礼を終えると、二人は馬車に乗り込み、宮城へと向かった。

真昼の秋の日差しが照りつける中、さくらとお珠は宮門の前に立ち尽くしていた。まるで木の人形のように動かない。

二時間が経っても、誰も彼女たちを呼び入れようとしなかった。

お珠が悲しげに言った。「お嬢様、陛下はきっとお会いになりたくないのでしょう。賜婚を妨げに来たと思われているのかも。昨夜も今朝も何も召し上がっていないのに、大丈夫ですか?私が何か食べ物を買ってきましょうか?」

「お腹は空いていないわ!」さくらには空腹感など全くなかった。離縁して家に帰るという一つの信念だけが彼女を支えていた。

「自分を追い詰めないでください。体を壊したら元も子もありません」

「もう諦めませんか?正妻の座は守られているんです。北條家の奥方なんですよ。琴音さんが平妻だとしても、所詮は側室のようなものです。我慢してみては?」

さくらは冷たい目で言った。「お珠、そんな意気地のない言葉は二度と言わないで」

お珠はため息をつき、途方に暮れた表情を浮かべた。どうすればいいのだろう?

将軍が帰ってくれば、お嬢様も安心するだろうと思っていたのに、まさかこんな事態になるとは。

御書院で、吉田内侍が三度目の報告をした。「陛下、北條家の奥方がまだ宮門の外で待っております」

清和天皇は書類から目を上げ、眉間をさすった。「朕には会えぬ。勅命は既に下した。撤回などできぬ。帰るよう伝えよ」

「衛士が促しましたが、動こうとしません。二時間以上も同じ場所に立ち続けています」

天皇も心中穏やかではなかった。「北條守が戦功を理由に求めてきたのだ。朕も本心では承諾したくなかったが、断れば彼と葉月将軍の面目が立たぬ。彼らは功績を立てたのだからな」

吉田内侍が言った。「陛下、戦功と言えば、北平侯爵家と佐藤大将の功績には及ぶ者はおりません」

天皇は北平侯爵の上原安瀬のことを思い出した。自分がまだ皇太子だった頃、初めて軍に入った時に彼に導かれたのだ。さくらとも旧知の仲だった。当時彼女はまだ6、7歳の可愛らしい幼子で、白磁のような肌をしていた。

彼も血塗られた道を歩んできた天皇だ。武将の苦労はよくわかっている。だからこそ、北條守の戦功による賜婚の要請を、躊躇しながらも最終的に承諾したのだ。

皇弟の北冥親王以外に、朝廷には頼れる武将がいなかった。平安京との戦いで、佐藤大将の三男は片腕を失い、七男は命を落とした。ただし、これらは秘密にされていた。

しかし、内侍の言う通りだ。戦功で言えば、北條守と葉月琴音は北平侯爵に遠く及ばない。

「よかろう。彼女を通せ。この縁談に同意してくれるなら、望むものは何でも与えよう。位階でも勅命でも構わぬ」

吉田内侍はほっとした様子で言った。「陛下の御英断、さすがでございます!」

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