Share

第7話

Author: 夜宮紫
千夜子が研究室で待ち始めて、1時間近くが過ぎた。紗和はようやく、悠々と姿を現した。

悪びれる様子はまるでない。腰をくねらせながら千夜子の机の前まで歩いてくると、勝ち誇ったような笑みを浮かべた。

「浩輔がお昼を『あーん』してくれて、ちょっと遅くなっちゃったわ。次からは、あの人も気をつけてくれると思うよ」

「あーん」して食べさせてくれた、という部分だけ、わざとゆっくり、ねっとりと嫌らしく強調する。千夜子の反応を、期待に満ちた顔で待っていた。

千夜子はパソコンの画面から目も上げず、淡々と告げた。

「私の指導では、遅刻も評価に響く。修了が延びるのは、困るでしょう」

紗和の顔色が変わった。バン、と乱暴に机を叩く。

「私を脅す気なの!?」

千夜子はゆっくり立ち上がった。紗和より少し背が高い。見下ろす眼差しには、おのずと冷ややかな圧が宿っていた。

「食事まで人に食べさせてもらわないといけないのは事実でしょう。それが受け入れられないなら、退学なさい」

「千夜子!」

戸口で、浩輔の怒声が弾けた。

大股で入ってくる彼の目は、刃のように鋭い。

「約束したことを忘れたのか。もしわざと紗和に嫌がらせをするなら、俺はお前のお父さんに直々に電話して、離婚のことを話してもいいんだぞ。

そうしたら彼は、またお前を『教育』しに来るんじゃないか?」

千夜子の背筋が、一瞬でこわばった。

知っていたの?

それとも、あの日の父の暴力は、最初から彼が黙認していた、いえ、焚きつけていたからなの?

鋭い氷の刃で心臓を真っ直ぐに貫かれたようだった。それでも、声はますます硬く冷えていく。

「好きにすれば。学内掲示でも校内放送でも、公表したいならどうぞ。一人ひとりに説明する手間が省けるわ」

浩輔の顎がこわばり、眼差しが陰鬱に沈んだ。

「お前なんかのために、そこまでする価値もない」

そのとき、ひとりの教員が慌てて駆け込んできた。

「尾坂先生!大変です、正門で問題が起きて、先生に会いたいという人が来ています。ものすごい剣幕で!」

千夜子の胸がざわつく。ふたりにかまっている場合ではなく、すぐに後を追って外へ出た。

正門に着いた瞬間、相手の顔を確かめる暇もなく、いきなり拳が飛んできて、顔面をまともに殴られた。

不意を突かれた千夜子は、目の前に火花が散り、よろめいてアスファルトに倒れ込んだ。

襲撃者はすかさず覆いかぶさり、雨あられと拳を振り下ろす。聞き慣れた、酒臭い怒鳴り声とともに。

「ふざけやがって!離婚だと!うちの顔に泥を塗りやがって!この家の恥さらしめ、ぶち殺してやる!」

久雄だった。

拳が千夜子の顔面や体に容赦なく叩き込まれ、鈍い痛みが広がっていく。

周囲の音が遠のき、ただ怒声と鈍い打撃音だけが耳の奥に響いていた。

またあの無力な小さな女の子に戻って、部屋の隅で身を丸め、「父」という名の理不尽な暴力に耐えている。

周囲の悲鳴も、引き離そうとする手も、どんどん遠くなっていく。

浩輔のことが、彼女の頭をよぎった。

あの人だ。父に知らせたのは、きっとあの人……!

紗和の機嫌を損ねたというだけで、まるで機会を待っていたかのように、自分をまた奈落へ突き落とすなんて……

もう紗和を引き受けた。もう席を譲った。それなのに、どうしてここまで追い詰めるのか?

自分が惨めに膝をついて、犬のように尻尾を振って許しを乞うまで、気が済まないのか?

警備員や同僚たちがようやく、逆上した久雄を羽交い絞めにして引き離したとき、千夜子の顔は青紫に腫れ上がり、口の端からは血が滲んでいた。

同僚たちは彼女を支え、警察を呼ぶべきかと口々に問う。

千夜子はその手を押しのけ、口元の血を拭って、背筋を伸ばした。少し離れた場所でまだ罵声を上げている父を見つめる。その瞳から、最後の温もりが完全に消え失せた。

「警察を呼んでください」

彼女は一言だけ、吐き出す。

「俺はこいつの親父だぞ!親が子を殴って何が悪い!」

久雄が喚き散らした。

千夜子はもう彼を見もせず、スマホを取り出して、110番を押した。

「楓川大学の正門前で、暴行事件です。加害者はまだ現場にいます。すぐに来てください」

電話を切ると、駆けつけた学科長に告げる。

「先に、あの人を押さえておいていただけますか。もうひとつ、やることがありますので」

そう言い残して、顔中に痛々しい傷を負ったまま、数えきれないほどの好奇の視線を浴びながらも、彼女は構内の放送室へ向かって歩き出した。

放送室に着くと、USBメモリを取り出し、静かに言った。

「流してほしい音声があります。今すぐ放送してください」

Continue to read this book for free
Scan code to download App

Latest chapter

  • 梅が咲くころ、私はもう振り返らなかった   第21話

    この配信騒動の影響はあまりに大きく、昭子がどれだけ手を尽くしても、完全にもみ消すことはできなかった。捜査、起訴、裁判、判決と、すべてが早送りされたかのような速さで進んだ。浩輔は学術不正が認定され、さらに文書偽造や贈賄など複数の罪に問われ、拘禁刑5年の判決を受けた。紗和のほうも、次々と不正が明るみに出た。学部時代の卒業論文の剽窃に加え、元夫と結託した恐喝事件への関与も発覚し、複数の罪に問われた。そして、浩輔よりも重い刑が言い渡された。刑務所での日々は、単調で灰色な、息が詰まるほど規則正しいものだった。けれど、浩輔の体は驚くほどの速さで蝕まれていった。長年の胃潰瘍が悪化し、深夜になると激痛が彼を襲い、体を限界まで丸めさせた。外部で療養することも拒み、ほとんど外部と連絡を取らないまま服役を続けていた。刑務官だけが知っていた。痛みの引いた合間に、彼がよく高い小窓から射し込むひと筋の光を見上げ、小さな声である名を呼んでいたことを。その名は、千夜子だった。服役3年目の、ある冬の夜。何の前触れもなく、これまでのどれより激しい痛みが襲ってきた。浩輔は寝台から床へ転がり落ちた。冷や汗がたちまち囚人服を濡らす。胃を必死に押さえ、歯をがちがちと鳴らしながら、まともな叫び声さえ上げられない。刑務官が発見したとき、彼の意識はすでに朦朧としていた。浩輔はすぐに外部の医療機関へ救急搬送され、そのまま緊急手術を受けることになった。手術室の灯りは、ひと晩じゅう消えなかった。明け方、ようやく灯が消えた。出てきた医師は、待っていた刑務官に向かって静かに首を横に振った。「急性胃穿孔による大量出血で、多臓器不全を起こしました……手遅れでした」彼を看取った刑務官によれば、彼は息を引き取る間際、意識も朦朧としたまま、ある名前を何度も繰り返しつぶやいていたという。呼吸が完全に絶えるまで、ずっと。その名は、千夜子だった。その知らせが大学に届いたとき、千夜子は研究室のミーティングを進行していた。同僚が言葉を選んで伝え終えると、会議室は水を打ったように静まり返り、全員の視線が彼女に集まった。千夜子は落ち着いた表情で手元の資料を閉じ、小さくうなずいた。「わかりました」そして助手のほうを見る。「先ほど話し合っ

  • 梅が咲くころ、私はもう振り返らなかった   第20話

    動画は瞬く間に拡散された。「学界の恥」「不倫教授」といった言葉とともに浩輔の名はキャンパスを飛び出し、ネット上でおもちゃにされ、大炎上した。学長室の空気は、恐ろしいほど重く沈んでいた。「島川教授!」学長は印刷したネットのコメントの束を、机に激しく叩きつけた。「見なさい!大学の名誉が、君のせいで台無しですよ!この前、私は何と言いました!?停職!今すぐ停職です!この騒ぎが収まってから、ほかのことは考えますけど!帰って、しっかり反省しなさい!」「学長、私の担当している重点プロジェクトが、今まさに正念場で……」「プロジェクト?」学長は怒りのあまり笑い出した。「今になってプロジェクトを思い出しますかね?あの羽成紗和とふしだらに遊んでいたときは、考えもしなかったのですか!今さら誰が君にプロジェクトを任せるというのです!?今まで教職を続けられていたのも、お父上への配慮があってのことだ!出ていきなさい!」浩輔は灰色の顔で事務棟を出た。スマホが鳴る。紗和からだった。麻痺したように、彼は電話に出た。「浩輔、私からの贈り物、気に入ったかしら?」紗和の声は、ひどく晴れ晴れとしていた。「手元には、もっと見どころのある場面があるのよ。身の破滅を迎えて、大学をクビになりたくなかったら、おとなしく私が修了できるようになんとかしてちょうだい。そうでなければ、全国の皆さんに、島川先生の情熱的なお姿を鑑賞してもらってもいいのよ」浩輔はしばらく黙り込み、それからひどく掠れた声で言った。「紗和。お前は俺を愛したことがあったのか。ほんの一瞬でも」受話口の向こうで、甲高い笑い声が弾けた。「フフフ……ハハハ!愛?あなたいくつよ?中学生じゃないんだから。あんなのただの遊びよ。まさか自分が私の初恋だとでも思ってたの?あなたと付き合ってた頃には、彼氏なんてもう十数人も取り替えてたわ!あなたを宝物みたいに扱ってたのは、千夜子っていうあの馬鹿だけ。あなたはもう使い道がないの。私を修了さえさせてくれれば、これで最後にしてあげる。それと、言っておくけど。私が終わるなら、あなたがいちばん愛してる千夜子さんだって……無事では済まさないわよ」電話は切れた。浩輔はスマホを握りしめ、初冬の寒いキャンパスに立ち尽くした。すべてが、ふ

  • 梅が咲くころ、私はもう振り返らなかった   第19話

    数秒間、空気が凍りついた。次の瞬間、紗和は狂ったように駆け込んできて、浩輔の腕をつかんだ。爪が腕に食い込むほどの力で、声は裏返るほど甲高い。「浩輔!今、何て言ったの!?救いようがないって何よ!?規則どおりにするってどういうことよ!?私の修了証は!?約束してくれたじゃない!」腕を激しく揺さぶりながら、詰問の眼差しを突き刺してくる。浩輔は力任せに振りほどいた。眉の間には、あらわな煩わしさが浮かんでいる。「自分の実力がどの程度か、わかっていないのか!論文のデータは不備だらけ、論文審査の準備もめちゃくちゃだ。それでよく学位をよこせと言えるな!修了?その態度とその能力で、修了を口にする資格があるのか?楓川大学の学生になれただけでも、とんでもない幸運だったんだぞ!もう俺を煩わせるな。これ以上、お前の面倒を見る余裕はない!」「じゃあ仕事を見つけてよ!まともな仕事を!」紗和は執拗に食い下がり、1歩踏み出してまた掴みかかろうとする。「私に言い寄ってきたときは、そんな言い方じゃなかったでしょう!今さら知らん顔で済ませるつもり?そうはいかないわよ!」浩輔は1歩下がり、完全に取り繕うのをやめた。冷たく、容赦のない眼差しだった。「紗和、はっきりさせておく。俺とお前は、とっくに何の関係もない。あのとき手を貸したのは、昔の情があったからだ。その情も尽きた。もうまとわりつくな。誰かにたかりたいなら、元の旦那のところへ行け。もっとも、刑務所に入ってでもお前から逃げたかったという気持ちは、今なら痛いほど理解できるがな!お前みたいな理不尽な女と、誰が一生連れ添いたいと思う?」そのひと言が、紗和を完全に打ち砕いた。全身を震わせ、その目は懇願からたちまち憎悪の色に変わる。傍らに静かに立つ千夜子を睨みつけ、それから浩輔へ視線を戻すと、突然、甲高く笑い出した。「ハ……ハハハハ!いいわ!上等じゃない!浩輔、いい度胸ね!覚えてなさい、後悔しても知らないから!」ふたりをひと睨みすると、彼女は踵を返し、研究室を飛び出していった。浩輔はかまう気もなく、すぐ千夜子へ向き直る。「千夜子、あいつのでまかせを真に受けないでくれ。俺とあいつは、とっくに……」千夜子はすでにコートと鞄を手に取り、そのまま戸口へ歩いていた。浩輔は慌てて後を追う。

  • 梅が咲くころ、私はもう振り返らなかった   第18話

    翌日、浩輔はひどく念入りに身支度を整えた。かつて千夜子が褒めてくれたシャツを選び、彼女が嫌いではなかったはずのウッド系の香水をまとう。鏡のなかの男は今も端整だったが、眉にも目元にも陰りが差し、拭い去れない病の影と深い疲労の色が濃く滲んでいた。浩輔は早めに千夜子の研究室を訪れた。彼女は机に向かい、静かに集中した横顔を見せている。「千夜子」そっと呼びかけた。千夜子が顔を上げる。彼だと認めても、眼差しは微塵も揺れなかった。どうでもいい家具でも見るような目だった。「大学の用事でしたら、手続きどおりに予約を。個人的な用事なら」彼女は一拍置いた。「話す気はないわ」浩輔の喉が締めつけられる。1歩、前へ出た。「どうして……どうしても、あの家を売らなければならなかったんだ?」千夜子はかすかに眉をひそめ、背を椅子に預けてすっと距離を取った。「あそこには、あなたの痕跡ばかりだったから」平淡な口調は、取るに足らない事実を述べるようだった。「汚らわしくて」「汚らわしい」という言葉が、鋭い刃となって、浩輔の胸に深く突き刺さった。離婚のとき、彼自身が口にした、後先を考えない残酷な言葉を思い出す。それが今、報いのように、もっと徹底した形で返ってきた。彼は無意識に自分の匂いを嗅いだ。紗和がいつもつけている、あの甘ったるい苺の香りが頭をよぎる。顔から血の気が引き、慌てて上着を脱いで脇へ放った。「お前が嫌なら、もう使わない。どんな香りが好きなんだ?俺は何だって変える……」「浩輔」千夜子が冷たくさえぎった。その眼差しには、あからさまな嫌悪と苛立ちが浮かんでいた。「言葉が通じないの?私たちには、大学の業務以外で関わる理由が一切ないわ。帰りなさい」追い払う言葉は、迷いなく明瞭だった。浩輔はうろたえ、慌てて言い募る。「紗和だ!紗和のことで来たんだ……お前が修了させてくれないと言っていて……」千夜子は椅子の背にもたれ、両手を組んだ。完全な防御と、拒絶の構えだった。「彼女の学業については、指導教員としての責任を果たした。だけど、無断欠席に剽窃まである。論文の内容も到底、審査に出せるものではない。今日、正式に報告書を出すわ。修了を認めるべきではないと進言するつもり。私自身の評価に響いたとしてもね」彼

  • 梅が咲くころ、私はもう振り返らなかった   第17話

    病院での日々は、スローモーションのように、空虚で、どこまでも長く感じられた。浩輔はもう自分から千夜子に連絡することはなかった。それでいて、何かに取り憑かれたように、彼女のSNSの画面を何度も何度も更新していた。この5年、ほとんど更新が途絶えていた彼女のアカウントは、今や日常の色鮮やかな写真であふれていた。そしてついに、最新の投稿が現れた。1枚の写真だった。背景は満開の梅の木。細かな花びらが雪のようにふたりの肩に降りかかっている。千夜子と礼司が並んで立っていた。近すぎず遠すぎないその距離感には、言葉にしがたい親密な空気が漂っていた。添えられた言葉は、たった2文字だった。【新章】写真のなかの千夜子は、眉も目もすっかり和らぎ、唇に淡い笑みを浮かべていた。かつて彼に向けていた抑えた笑みとは違う。瞳の奥から溢れ出す、本物の、生き生きとした笑みだった。浩輔が一度も見たことのない寛いだ表情であり、自分が一度も引き出せなかった、眩しいほどの明るさだった。コメント欄はすでに賑わい、祝福と驚きの声で埋め尽くされている。礼司に【待ち続けた甲斐がありましたね】と祝いの言葉を送る者もいれば、ふたりを【研究では良き相棒、プライベートでもお似合いのふたり、まさに理想のカップル】と手放しで讃える者もいた。ひとつひとつの「いいね」も、「おめでとう」のひと言も、無数の細い針となって、浩輔の目の奥に突き刺さった。彼はスマホを力強く握りしめた。指の関節が白くなるほどに。胃の差し込みが、また襲ってきた。今度は痛みが胸の奥まで広がり、息もできないほど締めつけてくる。もう、後悔している。その後悔は暗い波のように、すべてを呑み込み、骨の髄を齧るような痛みを連れてきた。どうしてあれほど愚かだったのか。紗和のあの大げさで作り物めいた「生き生きとした魅力」を、どうして宝物のように大事に抱え込んでしまったのか。そしてどうして、千夜子という、静かで奥ゆかしい、本物の真珠のような人を、取るに足らない偽物と見誤り、自らの手で捨ててしまったのか。「まだ間に合う……あのふたりは始まったばかりだ。まだ決まったわけじゃない」浩輔はうわ言のようにつぶやいた。そんな空虚な言葉で、ざわめく心をなだめようとした。それでも指先の震えは止まらず、胸の底に渦巻く焦りを隠

  • 梅が咲くころ、私はもう振り返らなかった   第16話

    一方その頃、電話を切ったばかりの千夜子は、レストランの席で、いつもと変わらぬ静かな表情のまま食事を続けていた。向かいに座る礼司が、気遣うように尋ねる。「何かあった?」千夜子はゆっくりとナイフとフォークを置き、礼司の目をまっすぐに見据えて、改まった口調で言った。「今のは、元夫のお母様からの電話。元夫が入院したそうよ。礼司さん、この前の全学教職員大会に、あなたもいたわよね。私の家庭のことも、失敗した結婚のことも、聞いたはずよ。私には、こじれた家族関係があって、今も何かと関わりの続く元夫がいる。それでもまだ、私と関わり続けるつもり?」礼司は背筋を伸ばし、表情を真剣に引き締めた。「千夜子、それを僕に話すのは、僕に諦めさせるためなのか?」意図をずばりと言い当てられ、千夜子は一瞬、返す言葉を失った。礼司は続ける。「実は、ずっと言いたかったことがあるんだ。差し出がましいかと思って、言えずにいた。せっかくの機会だから、今日は全部、言わせてくれ。僕も子どものころから、君と同じで、型にはめられて育った。何ごとも完璧であれと求められて、少しでも失敗すれば、殴られこそしないものの、冷たく突き放された。そうやって、ずっとひとりで完璧な仮面を被り続けてきた。留学先で、君に出会うまでは。ひと目で惹かれた。君のなかに、自分と同じ匂いを感じたからだ。世界のどこかにいる、もうひとりの自分のような。すぐにでも口説こうと決めたのに、すでに婚約者がいると知った。僕には、人の婚約に割って入るような真似はできなかった。だから、それ以上は近づかなかった」千夜子の表情が、かすかに揺れた。そんなに早くから、礼司が自分を見ていたとは思いもしなかった。彼女がさえぎらないのを見て、礼司はさらに続けた。「それからも、どれだけ大勢の人の中にいても、心が動く相手には二度と出会えなかった。学長に声をかけられて、話の流れで君の名前が出て、初めて楓川大学にいると知ったんだ。そのとき、君が結婚していることも知っていた。それでも、もう一度会いたかった。変わってしまっただろうか。それとも、あのとき心を奪われた人のままだろうか。それを確かめたくて、僕はここへ来た。再会して、わかった。君は少しも変わっていない。今も輝いていて、今も、目を離せなくなるほど惹かれ

More Chapters
Explore and read good novels for free
Free access to a vast number of good novels on GoodNovel app. Download the books you like and read anywhere & anytime.
Read books for free on the app
SCAN CODE TO READ ON APP
DMCA.com Protection Status