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第6話

Auteur: 夜宮紫
浩輔の体が、ほとんど見えないほど小さく揺れた。体の脇で強く握りしめられていた拳が、やがてゆっくりとほどける。

彼は黙ったまま千夜子を見据えた。まるで見知らぬ人を眺めるような目だった。

「離婚協議書は用意してあるわ。あなたの財産は、1円もいらない」

千夜子は息をつく暇も与えない。飢えと衰弱のせいで声は掠れていたが、ひと言ひと言ははっきりしていた。

ようやく口を開いた浩輔の声は、ひどくかすれていた。

「……っ。次の相手でも見つけたのか?財産まで要らないなんて」

千夜子は頭が割れるように痛み、もう説明する気にもなれなかった。

めまいをこらえてバッグから協議書を引き抜き、彼の前に押し出す。ペン先を、署名欄に向けた。

浩輔の視線が、きれいに印刷された離婚協議書の文字に釘づけになる。

ほんの一瞬のことだった。彼は顔を上げた。瞳の底で、暗い感情が渦巻いている。

「……離婚には応じる。ただし、条件がある。

紗和が無事に修了するまで、心から納得したうえで指導すること」

ここまで来てもなお、彼の心にあるのは紗和だけだった。

胸の奥に鋭い痛みが走った。けれど千夜子は、口の端をわずかに動かしただけだった。

錯覚かと思うほど、一瞬のことだった。

「いいわ」

彼女は協議書をもう一度、前へ押しやる。

「あなたが署名するなら」

浩輔は、何の揺らぎもない彼女の顔を見つめ、胸を大きく波打たせた。

ペンをひったくり、紙面を破りそうな勢いで、末尾に自分の名を書き込む。

千夜子は協議書を受け取り、内容を確かめた。

「今日中に、私はここを出ていくわ」

「その必要はない」

浩輔は立ち上がり、背を向けたまま、冷たく言い放つ。

「出ていくべきは俺だ。この家には……お前の気配が染みついていて、1分だっていたくない」

そう言うと、まっすぐ戸口へ向かった。

光の加減だろうか。去っていく足取りが、わずかにふらついて、頼りなく見えた。

……

翌日、千夜子は大学に戻った。研究室に入るなり、先に来て待っていた紗和の姿が目に入る。

浩輔は、その隣に立っていた。

紗和はまるで別人のような顔つきで、しおらしくお辞儀をした。

「これからご指導のほど、よろしくお願いいたします」

「紗和、無理はするなよ」

浩輔は愛おしげに紗和を見ていた。だが千夜子へ視線を移した瞬間、その眼差しは冷え切った。

「指導教員として、きちんと見てやってくれ」

千夜子は答えなかった。

大学教員としての矜持は、彼に念を押されるまでもない。

浩輔は、口で言うだけでは足りないと思ったらしい。その日から毎日、夕方、講義が終わるころになると、決まって千夜子の研究室の戸口に現れるようになった。

最初のうち、同僚たちは笑って冷やかした。

「浩輔先生、最近どうしたんですか?毎日顔を出して。あの鉄仮面もついにデレましたか?」

やがて、冷やかしの声も消えた。

誰の目にも明らかだったからだ。彼は千夜子を迎えに来ているのではない。

その視線は、いつもたったひとりを追っていた。紗和だ。

ある日、千夜子がトイレの個室にいると、洗面台のほうから同僚たちのひそひそ声が聞こえてきた。

「浩輔先生、毎日あの紗和を迎えに来て……千夜子先生の立場がないわよね」

「紗和って、バツイチなんでしょ?大学院に入れたのも、浩輔先生が裏で手を回したって聞いたけど……」

「知らないの?紗和が結婚する前の晩、浩輔先生、彼女のマンションの前でひと晩中立ってたのよ……離婚して戻ってきたんだから、手放すわけないでしょう」

「でもまあ、あのスタイルにあのルックスで、情熱的なんだもの。冷たい千夜子先生と比べたら、男ならどっちを選ぶかなんて、わかりきってるわよね……」

バタン。

個室の扉が開き、千夜子が出てきて、静かに手を洗った。

同僚たちは気まずそうに顔を見合わせ、慌ただしく立ち去ろうとする。

「みなさん。島川先生とは、離婚しました。私は旧姓の尾坂に戻ります」

千夜子は、その背中に向かって、声をはっきり張って言った。

同僚たちは振り返り、笑ってうなずいた。けれどその目には、疑いと憐れみがありありと浮かんでいた。

昼になり、千夜子は初めて学食に足を踏み入れた。もう、誰かの食事を作りに急いで帰る必要もない。生まれて初めてではないかと思うほど、心が軽かった。

そして、人混みのなかに浩輔の姿を見つけた。

外食は一切せず、学食など避けて通っていたはずの浩輔が、激辛ラーメンのカウンターに並んでいる。

千夜子は視線を逸らし、隅の席を選んで腰を下ろした。箸を取ったところへ、浩輔と紗和がトレーを持って現れ、斜め向かいの席に座る。

トレーの上は、真っ赤なラー油が浮いた、激辛の海だった。紗和は手に大きなチョコレートソフトクリームを掲げ、甘えた笑い声とともに、浩輔の口元へ差し出した。

「これも食べてみて。すっごくおいしいの」

浩輔の眉がほんのわずかに寄った。それでも、彼は口を開け、大きくひと口かじった。

冷たさが胃を締めつけたのだろう。テーブルの下で、左手がそっと胃のあたりを押さえる。

「おいしい?」

紗和が瞬きしながら尋ねる。

「……ああ」

彼はどうにか飲み下して、そう答えた。

千夜子は、まだ数口しか食べていないのに箸を置き、トレーを持って、席を立った。

彼女が背を向けたその瞬間、浩輔の視線が、すぐさま後を追った。そこに浮かんでいたのは、複雑で、読み取れない色だった。

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