LOGIN場の空気が、一瞬にして妙なものになった。澪はまるで自分がそこに存在しないかのように、黙っている。征司に至っては、完全に自分とは無関係な茶番を見ているように涼しい顔をしている。賢一が口を開いた。「今日ここにいらしたのは、特許のことで俺に悪印象を持って、博士課程への進学を断るのではないかと心配しているからですか?」紗耶は少し自信なさげに視線をさまよわせながらも、真剣な表情で答えた。「今回の件には、事実と違って伝わっている部分があります。榊院長に誤解されたままにしておきたくなくて……」紗耶がここまで白々しいことを言えるのは、フェイがこれ以上自分を追及してこないと高を括っているからだ。賢一が詳しい経緯を知らないことに賭けている。フェイが追及しないのなら、賢一もこの件をもう終わったものとしてくれるはずだ。澪のほうも、征司からすでに十分なものを受け取っているから、わざわざ余計なことを言って、自分の印象を悪くするような真似はしないだろうと彼女は踏んでいる。賢一はさも納得したように深く頷いた。「なるほど。ということは、森宮社長との不倫の噂も、ただの誤解だというわけですね?」賢一は特許の話には触れず、あえて不倫の話を持ち出した。紗耶は唇をきつく引き結び、瞳を激しく揺らした。傍観を決め込んでいる征司も、ここでようやく視線を上げた。澪はただ黙って成り行きを見守っている。――やはり、この兄弟子は一筋縄ではいかない。賢一は、事情をすべて把握しているわけではないような顔で、さらに征司に尋ねた。「森宮社長、白石さんとの間には何ら特別な関係などなく、彼女は単なる社員の一人に過ぎない、ということですか?」紗耶の唇から血の気が引いた。賢一がほかの逃げ道を与えるつもりなどないことを、ほとんど悟った。澪もまた、賢一の狙いを理解した。彼は征司の口から、はっきりした答えを引き出そうとしているのだ。紗耶は唇を噛み、足を組んで座る征司をすがるような目で見つめた。もちろん彼女は、皆の前で――とりわけ澪の目の前で――自分が征司にとってどれほど特別な存在であるかをはっきりと言ってほしい。それは澪の面目を丸潰れにすることにもなるからだ。だが――「ああ。社員だ」征司の声は低く、冷たいほど淡々としている。焦る様子もなく
澪は、賢一がいるあたりへさりげなく視線を向けた。今回の催しは、ある程度の社会的地位を持つ人々にも参加してもらい、寄付活動をより実のあるものにするために開かれている。澪は会場を歩きながら、顔見知りの人々に何人も挨拶をした。このような人たちとは今後、ビジネスの場で顔を合わせることになるかもしれない。しばらく会場を回って、澪はパラソルの下に三人が座っているのを見つけた。賢一は相変わらず人当たりのいい表情をしており、征司を見て笑みを浮かべた。「白石さんは本当に恵まれてますね。森宮社長ご自身が仲を取り持って、わざわざ俺に会わせてくださるんですから」今の賢一の名声と立場では、普通の人間が会うには事前の約束が必要で、誰もが簡単に会える相手ではない。だが、相手が征司であれば、あらゆる人脈や手段が通用してしまう。征司は賢一の言葉に含まれている揶揄を聞き取っていないようで、ゆっくりと答えた。「榊院長、お時間をいただき、ありがとうございます」年長者である賢一を前にして、征司は決して横柄な態度をとらず、落ち着いた様子でわずかに口元を緩めていた。賢一は気づかれないほど小さく眉をひそめた。一方で紗耶は、この好機を逃すまいと必死だ。特許の件で賢一に決定的な悪印象を持たれ、今後自分のプロジェクトを受け入れてもらえなくなるのではないかと心配しているのだ。なんとしてもこの業界の権威に後ろ盾になってもらい、自らの足場を固めなければならない。「榊院長、フェイが院長の妹弟子だとは、これまで存じませんでした。ですが、この件には誤解があります。外で流れている根拠のない話ではなく、直接私の話を聞いていただき、きちんと誤解を解きたいと思って伺いました」フェイが隆一の弟子だなんて。だからあのとき、隆一はあれほど自分を見下し、まともに取り合おうとしなかったのだ。弟子たちが皆、ずば抜けた人間ばかりなら、自分が見劣りするのも当然だ。「誤解?」賢一は鼻で笑った。「そうは思いませんがね」それは間違いなく事実であり、誤解などという都合のいい言葉で片付けられる問題ではない。紗耶は賢一の本心がつかめず、焦りを募らせた。だが賢一はもう紗耶を見ることはなく、そのまま征司を見据えて言った。「こんな偶然もあるものですね。森宮社長、奥様もいらっ
澪は興味なさげに視線を逸らした。あの二人のことは、あの二人で勝手にすればいい。会社を引き継いだ以上、これまでの征司のように紗耶を甘やかし、社内で好き勝手させるつもりは毛頭ない。紗耶をクビにしないだけでも、十分に優しくしているつもりだ。紗耶が重大なミスを犯さない限り、自分から紗耶を追い出す気はない。一方、紗耶は車に乗り込むと、瑞穂メディカルで起きた出来事を征司に一通り訴えた。それを聞いて、征司は言った。「自分のプロジェクトに集中しろ。余計なことは考えるな」自分のために、彼が裏で手を回してあの騒ぎを収拾してくれたことは分かっている。彼女も自分なりに感動はしている。しかし、澪は一夜にして巨大な権力と社会的地位を手に入れたことが、紗耶にはどうしても我慢ならない。「澪さんに、あれほど大きな会社を任せるって本当にいいの?無理させすぎるんじゃ……」紗耶はドロドロとした感情を押し殺しながら、心配そうに尋ねた。征司はわずかに車窓の外へ目を向けた。「会社が伸びるにせよ、傾くにせよ。それも、あいつ自身の問題だ」紗耶は唇を噛み、困ったような、それでいて傷ついたような表情を浮かべた。「でも、澪さんは私にひどく恨みを持ってるはずよ。何かと私に嫌がらせしてくるんじゃないかって……」征司はゆっくりと視線を窓の外から戻した。「あいつはそんな真似はしない。やるなら正面から堂々と来る。陰でこそこそと陥れるような女じゃない」紗耶は思わず眉を寄せた。「征司ったら、澪のこと、ずいぶんよく分かってるのね」澪は、征司の前でずいぶん立派な人間を演じている。だが征司は、澪の話題に興味がないようで、何も答えなかった。そのそっけなさが、今の紗耶にとっては唯一の救いだ。彼女はふいに言った。「でも、今回のことで、榊院長に嫌われたりしていないかしら? このことを理由に、もう私を受け入れてくれなくなったらどうしよう」それもまた、紗耶が気にしていることだ。征司は運転手に車を出すよう促した。「それなら、こちらから会いに行けばいい」その言葉に、紗耶の表情から不安がパッと消え去った。賢一は誰にでも会ってくれるような人間ではなく、面会にはそれなりの伝手が必要だ。だが、征司が間に入ってくれるなら何の問題もない。――自分はこれから、賢一
澪は声を荒らげたわけでも、きつい口調になったわけでもない。その表情は終始落ち着いている。それでも、人を寄せ付けない鋭い威圧感だけは微塵も隠そうとしない。背の高い澪は、ほとんど見下ろすように紗耶に視線を落としている。その目が、紗耶にはひどく気に入らない。瑞穂メディカルにこれほど劇的な変化が起きているなんて。しかもこんなにも突然で、自分は何も知らされていなかった。征司からも何も聞いていない。紗耶は澪を見つめ、少しずつ顔をこわばらせた。「征司が、そんなことを認めるはずがない」澪は淡く笑った。「もう経営から手を引いているのに、彼が認めるかどうかに意味がある?私は森宮社長じゃない。誰に対しても同じ。実力しか見ない。特別扱いされないと仕事ができないなら、さっさと森宮社長のところにお戻りなさい。あの人なら、あなたがどれだけ無能でも喜んで面倒を見てくれるでしょ」紗耶の顔色が完全に変わった。澪の言葉は、紗耶のプライドを地面に叩きつけて踏みにじるようなものだ。紗耶自身も、その能力も、何もかも否定されたのだ。ずっと取るに足らないと見下していた澪からこんな屈辱を受けるなど、紗耶には到底受け入れられない。澪はこれ以上紗耶にかまうつもりはなく、宮坂常務のほうへ向き直り、声をかけた。「まず引き継ぎを済ませましょう。開発部の件は、宮坂常務にお任せします」すでに事情を知っている宮坂常務は、これから澪が唯一の雇い主になることを理解していた。自分がどちらの味方につくべきかも明らかだ。「承知しました。社長、こちらへどうぞ」紗耶は、澪がかつて征司の使っていた社長室へと案内されていく背中を、ただ憎々しげに見送るしかない。澪が自分の上司になったことを、彼女は受け入れられるはずがない。しかもわざわざ瑞穂メディカルまで来て、初っ端から自分に力の差を見せつけてきたなんて。紗耶は深く息を吸い込むと、動揺を隠しきれない様子で立ち尽くす開発部の面々を鋭く一瞥した。「先に仕事して」そう言い捨てて、征司に電話をかけるため足早にその場を離れた。一方、澪の方は、引き継ぎが思いのほかスムーズに終わった。紗耶がわざわざ厄介事を起こさなければ、もっと早く済んでいたはずだったが。必要な手続きを確認し、すべての書類に押印を済ませると、澪はそのまま
紗耶は、その事実を澪に聞かせられたことが嬉しくてたまらなかった。結局、澪にはどうすることもできない。黙ってその場を去り、何も聞かなかったふりをするしかないのだろう。澪は鼻で短く笑った。あまりにも馬鹿馬鹿しい。社内規定まで簡単にねじ曲げて、紗耶のチームを特例でここに移した。征司があれほど甘やかしているのだから、紗耶が瑞穂メディカルでここまで好き放題に振る舞えるのも当然だ。社内に彼女の機嫌を損ねようとする者などいるはずがない。澪は紗耶を相手にせず、そのまま役員室のほうへ向かった。瑞穂メディカルをまるで自分の会社であるかのように、ためらわず歩いていく澪の姿を見て、紗耶は腹を立てた。すぐ前に出ると、澪の手首をつかんだ。「そこは征司の執務室よ。許可されてないんだから、入る資格なんてないでしょう」手首に鋭い痛みが走った。綺麗に手入れされた紗耶の爪が、澪の皮膚に深く食い込んでいる。――それで、澪の堪忍袋の緒も切れた。「自分の立場がまだ分かってないみたいね。じゃあ今はっきり教えてあげる。私がその気になれば、今すぐあなたをこの会社から追い出せるのよ」澪は冷ややかな目で紗耶を見た。もっとも、紗耶の言うことにも一理ある。以前の自分は、確かにこの部屋へ入ることを許されていなかった。二人の間にどれほどの差があるのかなど、今さら紗耶に改めて思い知らせてもらう必要はない。紗耶は皮肉に口元をゆがめた。「澪さん、まだ寝ぼけてるの?」瑞穂メディカルは征司のものだ。澪の言葉は、あまりにも現実離れした虚勢にしか聞こえない。そのとき、宮坂常務が慌てた様子でやって来た。二人の張りつめた様子を目にした途端、彼は思わず冷や汗をかいた。一人は正式な妻で、もう一人は前社長がもっとも大切にしている女性。雇われの身である宮坂常務は、こんな場面には絶対巻き込まれたくない。だが、瑞穂メディカルの社長はすでに変わっており、これから自分が仕えるのは澪だ。宮坂常務はすぐ紗耶に声をかけた。「白石さん、ひとまず中でお話ししませんか」紗耶は即座に言った。「そんな必要ない。開発部がここにある以上、部外者、まして他社の人間が来るのはまずいでしょう。宮坂常務、お手数ですがお引き取りいただけます?」紗耶は、宮坂常務なら自分の顔を立てると信
澪は、まだ紗耶の件に手をつけてもいないのに、当の紗耶のほうが先に高圧的な態度で威張り散らしてくるとは思わなかった。先日の騒ぎなど何ひとつなかったかのような傲慢さだ。紗耶が何を考えているのか、澪には分かっていた。森宮家の記念パーティーでの出来事を知っているのは、その場にいた上層部だけだ。紗耶が不倫相手だという事実も、一般社員には伏せられている。その情報の差を利用して、紗耶は今も偉そうに振る舞っているのだ。「警備に連絡して」紗耶は少し苛立った様子で腕時計に目を落とし、澪がここにいることに露骨な不快感を示した。あの日以降、フェイが彼女を追及するために姿を見せることはない。賢一のほうからも責任を問われることはない。事態が取り返しのつかないほど大きくなることもない。そのことから紗耶は、征司が裏で手を回してこの厄介事を片付けてくれたのだと信じている。――澪がどれだけ自分を引きずり下ろそうと足掻いたところで、もう何の意味もない。特許庁からは、悪意ある先取り出願や他人の成果の盗用に当たるかどうかを確認中であり、事実と認められた場合には、取得済みの特許が無効となる可能性があると通知を受けていた。それでも、紗耶は少しも不安を感じていない。彼女はすでに調べはついていた。フェイは登録をしていない。相手が自分より先に登録していたという明確な証拠を出せない以上、最終的に特許権は自分のものになる。そのときは、ただの行き違いだと説明し、「誰かに陥れられた」とでも悲劇のヒロインを演じてみせれば、世間は簡単に騙されるはずだ。「でも……」そばにいる一人が、紗耶に遠慮がちに声をかけた。「ここに入るには、カードキーが必要なはずですよね?宮坂常務たちのお客様じゃないでしょうか」開発部がここに移ってから、ここには機密性の高い情報が多く置かれており、部外者の自由な出入りは厳しく禁じられている。つまり、誰でもふらりと立ち入れる場所ではないのだ。澪は腕を組み、口元だけでかすかに笑った。紗耶がどこまでやるつもりなのか見てみたい。紗耶は眉をひそめた。そんなことはもちろん分かっている。宮坂常務はあの日会場にいた。征司が澪を自分の妻だと認めた場面も見ている。それでも紗耶が澪をすぐにでも追い払おうとするのは、澪がここへ来たこ
征司は紗耶のものをこの家へ運び込むことを許した。それは、森宮家の妻である澪がどれほど惨めに敗れたのかを、家中の者に見せつけるのと同じだ。離婚するつもりでいるとはいえ、澪はまだ征司の妻だった。征司がどれほど急いで紗耶を表に出したがっていようと、離婚も成立していないうちから、自分がここまで踏みにじられる筋合いはない。澪は作業員たちを静かに見渡し、運び込まれた家具を一つずつ指さして言った。「どれも高いものですよね。全部譲りますよ。中古で売っても、いい値段になると思いますから。お手数ですが、外へ運び出してください」作業員たちは、ただ雇われて来ただけの人間だ。そんなうまい話を聞か
澪と征司の結婚生活は、最初からうまくいかなかった。征司はほとんど家に帰らなかった。夫婦の営みも、月に二度あれば多いほうで、普段の会話などなおさらない。結婚して一年が過ぎる頃、征司はA国の支社へ赴任することになった。森宮家の実権を少しずつ握るための重要な基盤となるものだそうだ。征司がA国へ出発する前の日の夜、接待で酔った彼は、初めてその晩だけ避妊しなかった。あの夜の征司は、まるで別人のようだった。彼はひどく酔っていて、相手が誰かも分からなかった。普段のように自分を律する余裕もない様子で、歯止めが利かないほど激しかった。征司が出国して二か月ほど経った頃、澪は自分が妊
若い看護師ははっと口をつぐみ、気まずそうな顔をした。まさか澪が、夫の弱みをあんなに平然と口にするとは思わなかったのだ。けれど同時に、それは本当なのだろうとも思った。そうでなければ、結婚して七年も経つのに子供がいないなんて、どう考えてもおかしい。そのせいで、彼女の澪を見る目にはさらに同情が増した。澪は、本当の理由までは口にしなかった。征司は最初から澪との間に子供を持つつもりなどない。結婚した最初の夜、彼は氷のように冷めた声で、澪にこう告げた。「仕事が忙しい。子供のことまで考える余裕はないし、持つつもりもない。だから、期待するな。相談しようとしても無駄だ」あの頃
結婚して七年。朝比奈澪(あさひな みお)は夫の森宮征司(もりみや せいじ)に知られずに、ひそかに娘を産み育ててきた。娘の穂積玲衣(ほづみ れい)は今年五歳になるが、征司はその存在さえ知らない。父親になる機会を、澪が最初から与えなかったからだ。夜勤の休憩に入ると、澪は隣のS県でひっそり育てている娘から届いたボイスメッセージを再生した。「ねえママ、私、なんでパパに会ったことないの?私のパパって、もう死んじゃったの?」まだ舌足らずな、甘えた声が流れてくる。澪は一瞬、本気で考えた。生きてはいる。でも、父親としては死んだも同然だった。最近、玲衣は少しずつ自分なりの考えを持つよ







