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第2話

霧乃吟
若い看護師ははっと口をつぐみ、気まずそうな顔をした。

まさか澪が、夫の弱みをあんなに平然と口にするとは思わなかったのだ。

けれど同時に、それは本当なのだろうとも思った。

そうでなければ、結婚して七年も経つのに子供がいないなんて、どう考えてもおかしい。

そのせいで、彼女の澪を見る目にはさらに同情が増した。

澪は、本当の理由までは口にしなかった。

征司は最初から澪との間に子供を持つつもりなどない。

結婚した最初の夜、彼は氷のように冷めた声で、澪にこう告げた。

「仕事が忙しい。子供のことまで考える余裕はないし、持つつもりもない。だから、期待するな。相談しようとしても無駄だ」

あの頃の澪は、征司の言葉を疑わなかった。本当に仕事が忙しく、子供どころではないのだと思っていた。

けれど今なら分かる。征司が子供を望まなかったのは、忙しかったからではない。

子供ができれば、大切な女が傷つくかもしれない。彼はきっとそう考えているのだろう。

ついさっきまで、征司に娘の存在を打ち明けようとしていた自分が馬鹿みたいだ。

足音が再び近づいてきて、澪が顔を上げると、征司の底の知れない目と正面からぶつかった。

征司は会計を済ませたばかりらしく、手には病院の書類を持っている。

澪を見るその目は、赤の他人に向けるものよりも冷たい。

さっきの「ED」という発言を、征司は聞いていたのだろうか。

一瞬そんな考えがよぎったが、すぐにどうでもよくなった。

彼にどう思われても、もう気にする理由がない。

征司はすぐに視線を外し、何事もないように背を向けて去っていった。

澪は驚かなかった。

征司はいつもそうだ。

澪に苛立っていることも、関心がないことも、彼女に向き合うつもりがないことも、隠そうともしない。

喧嘩をしたいと思っても、そもそも喧嘩にすらならない。

言いたくても言えなかった言葉だけが、毎日少しずつ彼女の胸の奥に溜まっていく。

夫はいても、頼れる相手はいなく、心を預けられる場所もない。

だからこそ澪は、あのとき娘を産むことを決めた。征司には何も知らせず、自分ひとりで育てると。

澪は重い足取りで診察室へ戻ると、机の引き出しを開けた。奥には、二組の書類がひっそりと眠っている。

征司と婚姻届を出す前に、森宮家の前会長が澪に二つの協議書を差し出した。

一つは婚前協議書で、もう一つは離婚に関する協議書だ。

森宮家から見れば、澪の出自は到底釣り合いが取れるものではなかった。あの頃の騒動がなければ、森宮家に受け入れられることなどなかっただろう。

前会長は、最初から澪を認めていなかった。

その離婚協議書には、七年という期限が定められていて、七年が過ぎれば、その協議書に従って離婚することになっている。

あのとき征司は、協議書の中身に目を通すことさえせず、あっさりと署名した。

おそらく今もこの離婚協議書の存在を知らないままだろう。

そして今、その期限まであと三か月しかない。

もう一秒たりとも無駄にしたくない。

澪は迷わず協議書をバッグにしまい、疲れ切った体でその日の仕事を終えると、家に帰った。

玄関で靴を履き替えたばかりのところで、二階から降りてくる征司と鉢合わせた。

澪はその場に立ったまま動かなかった。

征司が彼女と話そうとすることも、紗耶の件について説明しようとすることもなかった。

彼が横を通り過ぎようとした瞬間、澪はようやく口を開いた。

「離婚しましょう。

財産分与の手続きに、三か月の猶予をあげる」

そこで初めて、征司の足を止め、カフスボタンを留めていた長い指もわずかに動きを止めた。

彼は黒く細い目で、上から澪を見下ろした。

「今日、紗耶に付き添ったからか?」

その言葉が澪の胸に冷たく刺さった。

つまり征司は、彼女が傷つくことを知っていて、それでも何も説明しなかったのだ。

澪はまっすぐ征司を見つめて、かすかな声で答えた。

「そうよ」

それ以上、理由を並べる気にはなれない。娘のことも、征司には絶対に知られたくない。

征司は感情がないような目をしていた。

澪がなぜ騒いでいるのかどうかも、気にしていないようだ。

「家で何を言おうが好きにすればいい。だが外では、森宮家の妻としての立場を忘れるな」

その言葉が何を意味しているのか、澪にはすぐ分かった。

征司が守ろうとしているのは自分の気持ちではなく、紗耶の体面だけだ。

妻である自分がどう傷ついたかなど、彼にとってはどうでもいい。

征司は妻である自分に何かを説明する必要がないと思っているだろう。

「心配しなくていい」

澪は無意識に手を握りしめ、爪が食い込む痛みでどうにか声を落ち着かせた。

「離婚したら、私にはもう関係ないことだから」

それが意外だったのかもしれない。征司は冷ややかな目で澪を見た。

これまでずっと従順だった妻が、今はどこか触れてはいけないものを抱えているように見えた。

けれど、その目にはわずかな揺らぎもない。

「今は、お前のわがままに付き合っている暇はない。

本気で離婚したいなら、自分で弁護士を探せ」

七年も夫婦として暮らしてきた。

それでも征司にとって自分はいつまでもいてもいなくても同じ存在だ。

だからこそ、彼はためらうことなく離婚を受け入れた。

澪はそれ以上征司と言葉を交わすことなく、彼の横を通り過ぎると、そのまま二階へ向かった。

あとは、この家に残しておくものを整理するだけだ。

征司は目を細め、二階へ上がっていく澪の後ろ姿を見送った。

どうせ、また自分の気を引くための行動だろうと、彼はすぐにそう判断した。

今回の澪の態度はいつもより少し強い。

これまでも澪は、彼の気を引こうとして似たようなことをしてきた。放っておけば、どうせまた戻ってくるだろうと彼は思った。

最後には必ず澪から折れる。自分から何も言わなくても、しばらくすれば何事もなかったように振る舞ってくるだろう。

今回もどうせ同じだと彼は思ったのだ。

征司は淡々と目を戻し、上着を手に取ると、振り返ることなく家を出ていった。

澪は部屋に入ると、七年かけて少しずつ整えてきたその空間を見回した。

どこから手をつければいいのか、すぐには分からなかった。

そのとき、LINEの通知音が響いた。

画面に表示されたアイコンを見た瞬間、澪の目元がふっとやわらいだ。

受話口から、可愛い声がまた流れてきた。

「ママ〜、来月にはK市に行くからね〜。これからはずっと一緒にいられるね!」

澪は、不意に目頭が熱くなるのを感じた。慌てて顔を上げ、こみ上げる涙を押し戻した。

よかった。

自分には、まだ大切な宝物がいる。

征司に娘の存在を知らせなくて、本当によかった。

同じ頃、穂積伊織(ほづみ いおり)から電話がかかってきた。

彼女の声は少し弾んでいて、それでいてどこか心配そうでもある。

「うちの姫様、いよいよ来るの?」

「来月ね」

伊織はふいに舌を鳴らし、とんでもないことを言い出した。

「征司って、子供ができないって話じゃなかった?実は娘がいて、しかも最初から父親として関わらせる気なんてなかったって彼が知ったら、さすがにブチ切れるんじゃない?」

澪はかすかに苦笑して答えた。

「しないよ」

征司は自分にさえ関心がないから、そんなことを気にするはずがない。

それどころか、従弟の婚約者である女をあんな理由で救急に運ばせるような男だから、今さら父親として娘に関わる資格などない。

それに、「子供ができない」という噂についても――

澪の目が、わずかに揺れた。

結婚して一年目の頃、征司はいつもきちんと避妊していたので、澪は妊娠しなかった。

そして、そんなある日、使用人たちが陰でそんな噂をしているのを偶然耳にした。

征司はもしかすると子供ができない体なのかもしれない、と。

森宮家は以前から、征司にふさわしい相手との縁談を進めようとしていた。

相手はどれも、家柄も立場も申し分ない令嬢ばかりだった。

けれど征司は、その話をことごとく断っていた。それに、子供などいらないと口にしたこともある。

いつしかその話は森宮家の跡継ぎである征司には子供ができないらしい、という噂に変わった。

実際、澪と征司は結婚して七年経っても、周囲には子供がいない夫婦として見られている。

だからその噂は、外から見ればますます本当らしく思えたのだろう。

当時の澪は、その噂を本気で信じていた。

征司と穏やかに暮らしていけるなら、子供がいなくてもいいと思っていた。

征司は、澪といるときならいつも避妊を徹底している。

男性としての彼に問題がない。それについて澪はよく知っている。

たとえ仲が冷え切っていても、その点だけは否定できない。

それなのに、彼はずっと子供の話を避け続けた。

そのうち澪自身も、あの噂は本当なのかもしれないと思うようになっていた。

少なくともあの日までは、そう信じていた。

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