Masukここが剛の縄張りだとしても、彼に好き勝手されるわけにはいかない。およそ四時間後、マイクがY国の空港に到着した。電源を入れると、一郎からのメッセージが目に飛び込んでくる。「とわこは以前のホテルにいる。国内に急用ができたから先に帰国した」マイクは低く罵った。「この野郎、とわこをひとり残して行きやがって!あの子をひとりにしたら、何をしでかすか分かったもんじゃない!」そう吐き捨て、すぐにとわこの番号を押す。幸い、彼女は電話に出た。「マイク、奏はたぶん死んでない!剛の手元にいるの。だからもう、そんなに辛くないわ。だからあなたは来なくていいの」とわこの声は驚くほど落ち着いていた。「子どもたちをお願い。すみれは戻ってるはず。あの人が何か企んでる気がして心配なの」「一緒に帰ろう!」「だから言ったでしょ、奏は生きてる。私はここに残って彼の行方を探す。護衛には連絡してあるわ、すぐ合流できる。無茶はしない、剛と正面衝突する気なんてないから」その声に、マイクはようやく彼女が冷静さを取り戻したのを感じ取った。「本気で今すぐ帰れって言うのか?」「ええ。会社と子どもたちを見てて。私は毎日あなたに電話するから」「わかった……」と口では答えたが、わずか二秒後にはすぐに言い直す。「いや、駄目だ!血液検査に異常が出てただろ。医者は追加検査を受けろって言ってたじゃないか!」「こっちでも検査できるわ。今日はちょっと疲れたから、明日護衛が来たら一緒に病院に行く」「結果が出るまで俺は帰らない。もし重い病気だったら……」「縁起でもないこと言わないで!仮に大病だったとしても、私は治すわ。奏を見つけるまでは死なない!」そこまで強く言ったあと、少し声を和らげる。「自分の体のことは分かってる。奏が生きてるかもしれないと知っただけで、ずいぶん楽になったの。今はそれより、すみれが会社や子どもに何かしないかの方が心配」「心配するな、俺がすぐ帰って見張っておく。けど約束しろ、明日必ず検査を受けて、結果をすぐに送るんだ。さもないと俺が迎えに行くぞ」「分かったわ」通話を切ると、とわこは道端で車を止め、剛の屋敷に近いホテルの名前を告げた。彼のことはほとんど何も知らない。だからこの機会に情報を集め、奏の手がかりを探すつもりだった。チェックインを済ませ
それは黒い手帳だった。「とわこさん、俺がこれまで口をつぐんできたのは、お前らにまだ三人の子供がいるからだ。奏はもういない。これからも生きていかなきゃならないだろう」剛の言葉は一つひとつが胸を抉った。「この字、見覚えがあるはずだ。ここに書かれている『最も大切な人』の中に、お前の名前はない。生きていようが死んでいようが、奴の心にはお前はいなかったんだよ」とわこは手帳を手に取り、開いた。目に飛び込んできたのは、見間違えるはずのない奏の筆跡。彼の字を熟知している。まるで彼自身を知っているかのように。書かれている内容を読み終え、唇を固く結んだまま、長い沈黙に沈んだ。一郎が歩み寄り、横から覗き込み、剛に問いかける。「奏はどうしてこんなことを書いた?」「知らん。自分で書いただけだ。俺が強制したわけじゃない」剛はうんざりしたような目を向ける。「俺と奏は長年の友人だ。裏切るはずがない。もう十分だろう。さっさと日本へ帰れ」「剛、遺体はどこにある?せめて一目でもいい。奏を見せてくれ!」一郎は食い下がる。「はっきり言おう」剛の声は冷えきっていた。「とわこを連れて帰れ。いつか会えるかもしれん。だがこれ以上俺を煩わせるなら、この先一生会うことはないと思え」苛立ちを隠さず言い捨てると、彼は立ち上がり、客間を出て行った。追いかけようとしたとわこの腕を、一郎が掴んで止める。「とわこ、今は抑えろ」低く囁く。「あの口ぶり……奏は確かに奴の手の中にいる。もしかするとまだ生きていて、治療を受けてるのかもしれない」「本当に?」「推測だ。だが今は帰れって言葉が引っかかる。なら」「あなたは帰って。私は帰らない」とわこは頑なに言った。「一人でホテルに戻る。そこで待つ」「どれくらい?」一郎は剛の家を出ながら問い詰める。「一人にして安心できると思うか」「もう子供じゃない。ただ奏の近くにいたいの。万が一、消息が入れば一番に駆けつけられる」一郎は彼女を放っておけるはずがなかった。「そういえば、あなたのお母さんが私を訪ねてきた」とわこは話題を変えた。「だからあなたは早く帰国したほうがいい。桜のお腹が大きくなる前に結婚式を挙げなさい」「……は?」一郎は耳を疑った。意味がわからない。「お腹が大きくなることが僕に何の関係がある?結婚式?まさか……桜
とわこは携帯を握りしめ、震える声でつぶやいた。「奏のじゃない……奏の痕跡は何もない……きっとまだ生きてる」一郎はその呟きを聞き、胸が締めつけられた。もう一週間も経っている。奏が生きている可能性は限りなく低い。落下の瞬間、遠くへ投げ出されたのかもしれない。救助範囲はまだ狭く、人の入れない場所も残っている。範囲が広がれば遺体が見つかるかもしれない……だが、その時はもう遅いだろう。一時間後、一郎は事故現場でとわこを見つけた。彼女は石像のように硬直し、ただそこに立ち尽くしていた。一郎は彼女の腕を掴み、車へ引き寄せる。「熱が下がったばかりなのに、また体を冷やす気か」一郎は厳しい声をぶつける。「マイクが心配してる。君を見つけたら病院へ連れて行けと言われてる」「私は平気。なんで病院なんか行かなきゃいけないの」彼女は冷ややかに睨み返し、言った。「私は剛に会いに行くの。連れてって」「剛に?何のために。奏を殺したのが奴だと思ってるのか?仮にそうだとしても、ここは奴の縄張りだ。僕たちに太刀打ちできるわけがない。落ち着け。奏の遺体が見つかれば、まずは国に連れて帰って埋葬するべきだ」「復讐なんて考えてない。奏を返してもらうの」声は詰まり、涙がにじむ。「きっとあいつが奏を隠してるのよ。そうでなきゃ生死不明のままなんておかしい。救助隊が一週間も探して半分の遺体すら見つからないなんて……絶対に誰かが先に運び去ったに違いない!」一郎の胸が軋む。「だが剛が奏の遺体を欲しがる理由なんてあるか?あいつは商人であって、死体を集める趣味なんかない。理由が見つからん」「理由なんて普通の人間にはわからないのよ」疑念は膨らむ一方だった。「おかしいと思わない?私たちが来てから剛は姿を消して、完全に身を隠してる。あれは後ろめたい証拠よ。必ず説明させる!」「手下からは説明を受けている。あいつは悲しみで倒れて入院中だそうだ」「ふうん。じゃあ病院に行きましょう」とわこは車に乗り込む。「連絡先は?番号を知ってる?手下でもいい。会わせてくれないなら家に行く」「家がどこかわかるのか」「知らないけど調べられる。奏のSNSに剛と共通の友人がいるはず」とわこの決意を悟り、一郎はすぐに剛の手下へ電話し、居場所を確かめた。一時間後、二人は剛の豪邸へ着いた。幾
マイクの頭は真っ白になった。医者の言葉に驚いたからではない。とわこがいなくなったからだ。クソッ、彼女を見張るって言ったじゃないか。逃がさないって約束したのに、彼女は俺がぐっすり眠っているすきにまた逃げた。考えるまでもない。問いただすまでもない。今ごろ彼女はY国行きの便に乗っているに違いない。医師はマイクの言葉が出ないのを見て、急いで外へ出ようとする彼の腕を引き留める。「さっき言ったこと、聞きましたか。彼女は必ず検査を受けに戻ってこなければなりません」「わかっています!見つけ次第、病院へ連れて行きます!でもここで検査は無理かもしれません。多分もう出国しているんです」マイクは慌てふためいて叫ぶ。「どこで検査を受けても構いません。検査を受けさせることが重要です」医師は落ち着いて答える。「病院は患者を見張らないのか。どうして勝手に出歩かせるんだ」マイクが責める。「ここは病院であって、刑務所ではありません。患者が自力で移動できるのなら、行きたいところへ行く自由はあります。ただし入院中に外出して何か事故が起きても、当院は責任を負いかねます」医師は説明する。「わかった。今すぐ退院手続きをする」「退院の書類は出します。ただし早く見つけてください。血液検査で異常が見つかっていますし、肺にも感染の兆候があります。入院が必要です。入院を拒むなら薬で抑えるしかありません」医師が念を押す。「わかった。面倒だ!」マイクは頭を叩く。「昨夜どうしてあんな深く寝てしまったんだ」今回とわこが逃げたことで、マイクは自分で彼女を連れ戻せるのか自信がなくなった。Y国。とわこは空港に着くと、そのままタクシーで山へ向かった。今日は雨が弱く、傘をささなくても濡れない。救助隊は依然として捜索を続けている。彼女は事故現場に立ち、眼下の木々と岩の連なりを見下ろし、指を固く握る。生と死の境は一念の間にある。もしいま身を投げれば、奏のそばに行ける。「とわこさん、また来ましたか」救助のスタッフの一人が彼女を見て声をかける。「どうやって上ってきました?誰か付き添いはいませんか?それに体調は良くなりましたか?」見知らぬ人の気遣いが、とわこの理性を取り戻させる。「お気遣いありがとうございます。体調は良くなりました。救助の進展はありますか」彼女は
とわこは背を向けたまま、マイクに答えない。さっき頭痛がすると言い、自分は病で死ぬかもしれないと思ったのは事実だ。奏を思い続けるあまり心を病み、絶望して死を望む気持ちもまた本当だった。幼いころから、困難や挫折にぶつかるたびに、彼女は心の中で自分に言い聞かせ、なんとか自分を救ってきた。だが今回は、本当に疲れ果ててしまった。三人の子どもを育てなければならないことはわかっていても、心はあっても力がない。夕食後、マイクは医師に検査票を書いてもらい、戸棚の上に置いた。とわこはベッドに横たわり、スマホを眺めている。「頭が痛いって言ってただろ。看護師から鎮痛剤をもらってきた。飲むか?」マイクが薬を差し出す。「今は少し楽になったわ」彼女は言う。「薬はテーブルに置いて。後で痛くなったら飲む」「スマホばかり見ない方がいいぞ。今ネットは奏のニュースであふれてる。気分が悪くなるだけだ」マイクはベッドのそばで注意した。「ニュースなんて見てないわ。友達のメッセージに返信してるの」彼女は画面を見せる。「たくさんの人が連絡をくれてる。返さないわけにはいかないでしょ」「君を気にかけてる人は大勢いるんだ。この世界は誰か一人がいなくても回っていく」「そうね。奏がいなくても太陽は昇る。私がいなくなっても地球は同じように回る」彼女は本気で答えているようでもあり、冗談めいているようでもある。マイクの背筋に冷たいものが走った。その言葉はつまり、奏と一緒に死ぬつもりだと言っているように聞こえる。どうせ世界は誰かがいなくても回るのだから、と。「とわこ!」マイクは思わず怒鳴った。「シャワー浴びた?」とわこは淡々と言う。「汗臭いわよ。着替えがなくても、とにかく浴びてきて。じゃないと同じ部屋で一晩過ごすなんて、私、頭が痛いどころか臭いで気絶する」マイクは歯を食いしばり、浴室に向かった。とわこはメッセージを返し終え、スマホを置く。そしてテーブルの鎮痛剤を手に取り、飲んだ。逃げられないのなら、薬を飲んで眠るしかない。同じ頃。瞳はとわこからの返信を受け取った。「ねえ、とわこが大丈夫って言ってきたけど、どういう意味なの?」瞳はとても信じられなかった。「心配させないためにそう言ったんだ」裕之が答える。「僕も今、一郎と連絡が取れない。つまりY国の
案の定、そのあと母は去り、今は奏がいなくなった。最後には、私もこの世を去るだろう。この世界で私について語られる物語や噂は、時間の経過とともに少しずつ薄れていく。そして最後には、私がこの世に存在した痕跡もすべて消えてしまうだろう。真が言ったように、もし死が時間の枠を越えることなら、私は生まれ変わりがない方がよいと願う。一時間ほどして、一郎の母が知らせを聞いて駆けつけた。マイクは一郎の母の到着に少々驚く。「一郎から電話があって、とわこが帰国したと聞いたから、会いたいと言ったんだ」マイクが言う。「さっき一郎からも電話があって、どこにいるのか聞かれたのよ」マイクは続ける。「とわこは熱が下がったばかりで、奏のことがあって精神的に不安定だから、俺が先に入って様子を見るよ」「わかったわ。桜のことできたのよと、彼女に伝えてちょうだい」一郎の母が言う。マイクは戸惑いながらも、一郎の母の言葉を伝えるために病室へ入っていった。二分と経たず、病室の扉を開けて一郎の母を中に招き入れた。とわこはベッドの頭にもたれて、気力を振り絞っていた。「とわこ、体の具合はどう?」一郎の母は持ってきた果物と花を戸棚に置き、病床のそばに腰を下ろす。「覚えていないかもしれないけれど、あなたが奏と結婚したとき、私は結婚式に行ったのよ」「覚えていないはずがありません。あのときお話もしました」とわこはぎこちなく微笑む。「あなたの具合が悪いと聞いて見に来たのよ。とわこ、あなたはまだ若い。これからの道は長いのだから、今の苦しみに負けてはいけない。一郎と奏は兄弟のような仲だったから、たとえ奏がいなくなっても、何か困ったことがあれば一郎が必ず助けてくれるわ」「わかりました」とわこが答える。「桜はどうなっているのですか」「桜は一郎の子を身ごもっているんでしょう?一郎は今いないから、夫と相談して決めたのよ。桜は奏の実の妹だし、私たちは桜を粗末にできない。だから一郎に桜と結婚してもらうつもりなの。桜にも話をしたら、奏はいなくなったけれどあなたがいるんだから、このことはあなたの意見を聞きたいと言ったのよ」とわこはその話に驚く。桜の子供はやはり一郎の子だ。「本当にそう言ったの?」とわこは桜が決定権を自分に委ねるとは思わなかった。「ええ。彼女はまだ若く、身寄りもな