夕方。 三千院とわこはいつもより早く家に帰った。 井上美香は蓮を迎えに行った後、レラを抱いて部屋に入った。 蓮はおばあちゃんが妹を抱えていくのを見て、これから何が起こるのかが分かっていた。 「蓮、リュックを渡して」とわこは手を差し出した。 蓮はバッグを両手で彼女に渡した。 彼女はバッグを開け、ノートを取り出した。 彼女はノートを開かずに、直接言った。「マイク叔父さんが教えてくれたのよ。あなた、彼が教えた技術を使って、いろいろ悪いことをしたって。蓮、これは違法だと分かってる?もしバレたら、どんなことになるか分かってる?」 蓮はまばたきもせずに答えた。「僕、まだ四歳だよ。刑務所に連れて行けるわけないじゃん?」 とわこは言葉を失った。 たとえ常盤奏が日本でどれだけ影響力を持っていても、四歳の子供を刑務所に送ることはできないだろう。 でも、そこが問題ではない。 問題は、蓮の価値観が歪み始めていることだった。 「いつまでも四歳じゃない。いつかは大きくなるのよ」とわこは諭すように言った。「だから、あなたのノートはママが預かるわね」 蓮は言った。「マイク叔父さんが新しいノートを送ってくれるよ」 とわこは頭を抱えてため息をついた。「まだ悪いことを続けるつもり?」 蓮は首を振った。「もう常盤奏を怒らせないよ」 常盤奏を怒らせなければ、他の人に見つかることはない。 「今夜は罰として夕食抜きよ」とわこは目に涙を浮かべながら、彼のノートを抱えて寝室へ向かった。 蓮はママが自分を叱らないことは知っていたが、ママの怒った顔を思い浮かべると心が痛んだ。 彼はただママをいじめた人を懲らしめたかっただけだったのに。夕方七時。小林はるかはメッセージを受け取った。「今夜十時、ヒルトン東京、V809室。君のことをもっと知りたい。常盤奏」 常盤奏が彼女をホテルに誘うなんて!? しかも時間は夜の十時。 この時間と場所では、いやでも意味深に考えてしまう。 皆大人だから、たとえ恋愛経験がなくても、このメッセージの意味は理解できる。 常盤奏はどうして突然彼女に対する態度を変えたのだろう? 考える暇もなく、彼女は喜びで心がいっぱいになった。 今夜はしっ
小林はるかは、赤いキャミソールドレスを着て、V809室のドアを開けた。 室内の薄暗い照明に一瞬戸惑ったが、すぐにぼんやりとした赤いキャンドルの光を目にした。 赤いキャンドル! キャンドルのそばには、開けたてのワインとお菓子が置かれていた。 そして、その隣の椅子には、一束の赤いバラが置かれている。 小林はるかは、このロマンチックな雰囲気に完全に溶け込みそうだった! 常盤奏がこんなにも情熱的だなんて! 今夜これから起こることに、彼女は胸を躍らせていた。 バラの花束を抱きしめると、濃厚な花の香りに酔いしれた。 彼女はバラを抱えたまま椅子に腰掛け、携帯を取り出した。 もう夜の十時なのに、どうして常盤奏はまだ来ないのだろう? まさか道が渋滞しているのか? さらに十五分が過ぎても、常盤奏は現れなかった。 彼女は焦り始めた。 まさか来ないなんてことはないよね? でも、この丁寧に飾り付けられた部屋が、彼の気まぐれで準備されたとは考えにくい。 それとも、彼が間違ってメッセージを送ったのだろうか? 彼女は自分でワインを一杯注いだ。 指でワイングラスをつかみ、ワインを揺らしながら、紅い唇でそっと一口味わった。 素晴らしい! ワインの香りと豊かな味わいが口の中に広がった。夜十一時。 わずかに開いた部屋のドアが押し開けられた。 小林はるかの目の前に、一人の背の高い人が現れた。 彼女のぼんやりとした瞳には、興奮の光が宿った。 彼女はすぐにその高い人に駆け寄り……両手で彼をしっかりと抱きしめ、低い声で囁いた。「奏、やっぱり来てくれるって信じてた……待つのはすごく辛かったけど、やっと会えたね……」 男性の体が急に緊張した。少し驚いた様子だった。 しかし、小林はるかは気にせず、彼をさらに強く抱きしめた。 彼女はワインを二杯飲んでいて、この時、理性はすでに遠くへ飛んでいた。 今、彼女が望むのはただ彼と一緒にいることだけだった! …… 翌朝、七時。 小林はるかは頭痛で目を覚ました。 目を覚ました後、彼女は目を細めて、見慣れない環境を見渡しながら、昨夜の出来事を思い出した。 彼女の口元がほころんだ。
小林はるかは体が固まり、さっと体温が冷えた。 常盤弥が体をこちらに向け、ぼんやりとした顔で彼女を見ながら、からかうように言った。「小林さん、こんなに女性らしいとは思わなかったよ……」 小林はるかは常盤弥の顔をはっきりと認識した! 彼女は常盤弥に初めて会ったわけではなかった。 彼女が手を火傷したとき、常盤夫人が彼女を見舞いに来た。そのとき、常盤弥が常盤夫人を車で連れてきたのだった。 昨夜は飲み過ぎた上に、部屋の明かりは消され、キャンドルだけが点っていたので、彼女はこの男が常盤奏ではないことに気づかなかったのだ! どうしてこんなことが起きたのか!? 昨夜、彼女をここに誘ったのは常盤奏なのに! どうして来たのが常盤弥なの!? 「どうしてあなたがここにいるの!?なんであなたなの!?」小林はるかは枕を振り回し、常盤弥の顔に向かって狂ったように叩き始めた。 常盤弥は頭を抱えて叫んだ。「小林さん!殴らないで!僕だって何が起こったのかわからないんだ!昨夜、とわこからメッセージを受け取って、809室に来いって言われたんだよ。それで来たら、君が抱きついてきて……何度も腕を解こうとしたけど、君が全然離さなくて……しかも、ますます僕にしがみついてくるんだ……これじゃ誰だって耐えられないよ!」 小林はるかは枕を力一杯床に投げ捨て、嗚咽を漏らしながら泣き始めた。 「小林さん、泣かないで!この件が馬鹿げているのはわかるけど、本当にそうなんだ!メッセージを見せるから!君を侮辱するつもりはなかったんだ!昨夜のことは……夢だったと思ってくれ!叔父さんには絶対に言わないから、もし知られたら僕は間違いなく殺されるよ!死にたくなんかない!」 常盤弥は小林はるかの前にひざまずき、誓いを立てて謝罪した。 彼女は血走った目で彼に手を差し出し、「メッセージを見せて!」と叫んだ。 一体どこで手違いがあったのか知りたかったのだ。 常盤弥は急いで携帯を取り出し、メッセージを見せようとした。 だが、目を見開いても、昨夜のメッセージが見当たらなかった。 「えっ?メッセージがない!?昨夜のメッセージが消えてる!削除した覚えはないのに!」 小林はるかはもう一つの枕を取り上げ、再び彼に向かって打ちつけた! 常盤弥は心の中で苦し
蓮は耳を傾けず、無視を決め込んだ。 先生は、蓮の態度に驚き、心配になってすぐに近づいてきた。 「常盤さん、蓮のリュックが必要なのですか?」 どちらも彼にとって避けられない相手であった。 しかし、彼は常盤奏の方が扱いづらいと判断し、蓮のリュックを机から取り出した。 「蓮、怖がらなくていいよ。常盤さんは悪い人じゃないよ。これは君のことを心配しているからなんだよ」先生は蓮をなだめながら、リュックを常盤奏に差し出した。「学校に入るときにセキュリティチェックを通過したので、リュックの中に危険な物は入っていません」 「彼はノートパソコンを持っていたはずだ」常盤奏はリュックを受け取りながら言った。 リュックは軽く、彼の眉はさらに深くなった。 リュックを開けると、中には着替えの衣類しか入っておらず、ノートパソコンはない。 「ええ……確かに蓮はノートパソコンを持っていて、普段は一人でアニメを観るのが好きなんです……」と先生は言った。 常盤奏はリュックを蓮の机の上に置き、見下ろしながら尋ねた。「今日はどうしてノートを持って来なかったんだ?」 蓮は机に突っ伏して眠っていた。 先生は気まずい笑みを浮かべ、場を和ませようとした。「彼のお母さんに電話してみましょうか?」 蓮は突然立ち上がり、黒い宝石のように深い目で先生を睨みつけ、そのままリュックを背負い、教室を出て行った。 先生は慌てて追いかけ、「蓮、戻ってきなさい!お母さんには電話しないから!」と叫んだが、蓮は聞く耳を持たず、どんどん歩いていった。 結菜は入り口に立っており、蓮が出てくるのを見て、怯えた声で彼を呼びかけた。「蓮」 蓮は冷ややかに彼女を一瞥し、さらに早足で歩き去った。 常盤奏が教室から出て、妹が蓮を追いかけているのを見て、彼女を大きな手でつかんだ。「結菜、どこに行くんだ?」 「蓮!」結菜は指を蓮に向けて、心配そうな顔をして言った。「彼はどこに行くの?」 「彼の先生が面倒を見てくれるよ。お前は教室に戻るんだ」常盤奏がそう言うと、結菜は彼の手を振りほどき、蓮の方に駆けていった。 「蓮、待って!」 結菜の行動に、常盤奏は眉をひそめた。 彼女はなぜこんなにも蓮が好きなのだろう? 二人の間に、一体何があったのか? 彼
結菜は考えることなく、コクリと頷いた。 彼女は蓮の家に行ったことがないわけではなかった。 むしろ彼の家が好きで、また行きたいとさえ思っている。 常盤奏は妹の頑固な様子を見て、心が乱れた。 三千院蓮のノートパソコンが今日学校にないのは、きっととわこに取り上げられからだ。 つまり、あの手に負えないハッカーは、目の前の帽子をかぶったこのクールで偉そうな少年だとほぼ断定できた。 彼がとわこの養子だとしても、常盤奏は彼に少しの教訓を与えるつもりだった。 だが、今の結菜の態度を見ていると、彼はどう対処すべきか迷った。 突然、「バン!」という大きな音が隣から響き渡った! それに続いて、耳をつんざくような罵声が聞こえてきた! 彼らが音のする方を見てみると、そこでは二人の男がもみ合いになっていた。 結菜はその暴力的な光景を目の当たりにし、瞬時に顔から血の気が引き、目には恐怖の色が浮かんだ! 「きゃあ!きゃあああ!」彼女は両手で耳を塞ぎ、ヒステリックに叫び始めた。 常盤奏は彼女が取り乱す姿を見て、胸が締め付けられる思いをした。彼女は幼少期に経験した暴力の記憶を思い出しているに違いない! 彼は彼女を抱き上げ、急いでその場を離れた。 蓮は彼らが去っていく方向を見つめながら、結菜の叫び声が頭の中でこだましていた。 彼女はどうしたんだ? 驚かされたのか? 他人が喧嘩しているだけで、彼女が殴られたわけでもないのに、何が怖いんだ? 「蓮、ここは危険すぎる!早く学校に戻ろう!」先生は蓮の腕を掴み、彼を連れてその場を立ち去った。 ……昼ごろ、とわこは警察署に行った。五年前、三千院すみれの弟である田村正雄が三千院グループから約400億円を持ち逃げして海外へ逃げた。証拠は揃っていたものの、国内の警察は手をこまねいていた。田村正雄が逃げた国と日本は引渡し協定が結ばれていないため、日本の警察が国外で彼を捕まえることができなかったのだ。さらに、田村正雄は国外に逃げた後、新しい身分に変えていた。この数年間、とわこは彼の行方を探し続けていた。先日、彼女が国外で雇った探偵が、ようやく田村正雄の最近の写真と住所を送ってきた。とわこはその手がかりを警察に提出した。そして今日、警察は新たな進展を報告し
とわこは「彼女が連絡してきたのは何のため?」と聞いた。中村真は皮肉な表情で答えた。「彼女はアシスタントが必要だと言ってきた。僕に推薦してほしいらしい」そこまで言うと、中村は笑みを浮かべた。「彼女が求めているアシスタントの条件、知ってるか?羽鳥教授の学生で、しかも医術が彼女より劣らないこと……彼女はほぼ、結菜を治療できる人を探しているって言ってるんだ。自分より優れた人が、彼女のアシスタントになるわけがないだろ?正直、図々しいと言うべきか、それとも愚かと言うべきか、わからないよ」とわこも同じく皮肉に感じた。「できないのに、無理やりなんて。常盤奏も馬鹿じゃない。いずれ彼も真実に気づくわ」中村真は続けた。「とわこ、君は優しすぎるよ。ライバルのために治療してやる人なんて、そうそういない」とわこは淡々と微笑んだ。「もしあなたが結菜に会ったら、そんなこと言えなくなると思うよ」中村真は「君が辛くないなら、それでいい」と言った。「この件で自分を罰する必要はないよ。前を向いて生きるべきだわ」とわこは話題を変えた。「いいニュースを伝えるよ。私の会社、ほぼ再建が完了したの。すべて順調だよ」中村真は彼女のために嬉しそうに言った。「それは良かった。ところで蓮は特別支援学校でどうしてる?」蓮の話題に移ると、とわこの表情から笑みが消えた。「彼はマイクからハッキング技術を学んで、その技術はもう私の想像を超えている。常盤奏も彼に気づいたわ」とわこは頭を抱えた。「このままいくと、もっと多くのことがバレるんじゃないかと心配だよ」中村真は「とわこ、一生秘密を隠し続けるのは難しい。今の君は4年前の三千院とわこじゃない。たとえ常盤奏が二人の子供の父親が自分だと知っても、彼らを殺したりはしないさ」と言った。「だからこそ、もっとお金を稼いで、もっと強くなりたい。そうすれば、子供たちをしっかり守れるから」とわこは決意を込めて言った。「隠せるだけ隠しておこう。彼の私生活はめちゃくちゃだから、父親がいないほうがマシだよ」常盤家。常盤奏は結菜を家に連れ帰った。家庭医が彼女に鎮静剤を打ち、眠りについた後、医者は常盤奏に尋ねた。「精神的な病気は私の専門外です。心理カウンセラーの治療を受けさせることをお勧めします」常盤奏はこの問題について考えたことがないわけではなかった
彼女は今、常盤奏を利用して階級を越えようとしている。 優れた医者になるより、社会の最上層にいる金持ちになる方が良い。 しかも、彼女は自分の医術についてよく理解しており、羽鳥教授のように優れた医者になることは不可能だと思っていた。 医学の分野での上昇は限られている。 しかし、常盤奏と結婚すれば話は別だ。 その時は、誰もが彼女を羨むことだろう。 書斎。常盤奏が座ったばかりのところに、武田一郎からの電話がかかってきた。 「奏、今日学校での調査はどうだった?」 「彼のリュックにあったノートは持ってこなかったようだ。おそらく、とわこが彼のために隠したんだろう」 武田一郎は興奮して叫んだ。「やっぱり、とわこの息子がやったんだな!彼はまだ4歳だろ?これがいわゆる天才児ってやつか?」 常盤奏はそれに答えず、黙っていた。 「奏、この子供をどうするつもりなんだ?」武田一郎はこの展開が面白くてたまらないようだった。 もしハッカーがただのおじさんだったら、つまらないだろう。 まさか常盤グループのネットワークを麻痺させた犯人が、可愛い子供だったなんて誰が想像できるだろう? 「彼がなんで君に掴んでほしいと言ったのかな?」武田一郎はさらに問いかけた。 常盤奏は「そんなに興味があるなら、自分で聞きに行けばいいだろう?彼は俺をまったく相手にしないんだ」 「ははは!この子はすごいね!一度会ってみたい」 常盤奏は冷たく「夢の中で会えばいい」と答えた。 三千院蓮がしたことは確かに問題だったが、彼は「普通じゃない」子供だ。 常盤奏は彼に何かするつもりはなく、武田一郎にも学校で彼を邪魔しないようにするつもりだった。「もうすぐ三千院とわこの誕生日だ。もし彼女が僕たちを誕生日パーティーに招待してくれたら、その時に彼女の子供を見ることができるかもな!」武田一郎は興奮して言った。「奏、君は彼女に誕生日プレゼントを用意するつもりはないのか?離婚したとはいえ、一度は深い関係だったんだから、さすがにお祝いくらいはしてもいいんじゃないか?」 常盤奏は鋭い目で睨みながら、低い声で「彼女が俺のプレゼントを受け取ると思うか?」と反問した。 「昨日、彼女が僕たちに食事を奢ってくれた時は、かなり親しみやすかったじゃな
館山エリアの別荘。夕食。「とわこ、午後に中村が私に会いに来てくれたのよ」井上美香は笑顔を浮かべながら話し出した。「彼、これからは日本に定住するつもりだって......」とわこは母の笑顔を見て、彼女が何を言いたいのかを察した。「お母さん、私が早く結婚してほしいのは分かるけど、お願いだから他人の前でそんなこと言わないでよ!まるで私が結婚に必死みたいじゃない」とわこは懇願した。「私、二十代だから、まだ若いよ!今は仕事を頑張る時期だし、成功したらどんなイケメンでも手に入るじゃない」井上美香の笑顔は消えた。「私は急かしてるわけじゃないのよ......本当に中村がいいと思ってるの。あなたが海外にいたときも、彼がとても気にかけてくれていたじゃない。どうしてそのことを思い出さないの?」「誰かが私に良くしてくれたからって、結婚しないといけないの?羽鳥教授の方がもっと良くしてくれたわよ!」とわこは返答した。井上美香は「……分かったわ!好きにしなさい。でも中村は本当に良い人だから、逃したら後悔するかもしれないわよ」と言った。「お母さん、私を信じてよ。これからだって、私に夢中になる男性がきっと現れるわ」とわこは母を慰めた。「それに、子供たちの意見を聞いてみたことはある?彼らはパパがほしいとは思ってないわ」とわこは子供たちに目配せをした。レラはおとなしく意見を述べた。「私はパパなんていらないけど、もしお母さんが好きな男性なら、我慢して受け入れることもできるかな」娘は彼女の意図を理解していないことが明らかだった。とわこは息子に望みを託した。蓮はただ一言「おばあちゃん、ご飯食べて」と言った。井上美香はため息をつき、「分かったわ、もう言わないわ。私はただ、あとで後悔しないようにと思って言ってるだけなの。でもその気がないなら、私も無理に心配しないわ」と言った。とわこは笑顔で言った。「お母さん、そんなに誰かの仲を取り持ちたいなら、マイクの相手を探してみたら?彼、最近毎晩バーで過ごしてるから、きっと恋人を探してるんじゃない?」井上美香は呆れた表情を見せた。次の日。 三千院グループ。中村真の訪問に、とわこはとても驚いた。「中村先輩、今日は時差ボケを直すために家で休んでるんじゃないの?」とわこは彼をソファに案内しながら尋ねた。
「黒介!俺の息子よ!」黒介の父親が大股で病室に入ってくると、とわこをぐいっと押しのけた。とわこは、この男から自分への尊重を一切感じなかった。まるで、自分をこの病室から叩き出したいかのようだった。彼女はその横顔を見つめ、何か言おうとしたが、理性がそれを止めた。たとえどれだけ黒介を気にかけていても、自分はただの主治医で、彼と血の繋がりもない。ただ手術を請け負っただけの存在。もし彼の家族が手術の結果に満足しているなら、自分の仕事はそれで終わりだ。「三千院先生、さっきは疑ってすみません!」父親はすぐに振り返り、興奮気味に言った。「黒介が俺の声に反応した、これだけでも大きな進歩だ!先生、残りの手術費用は3日以内に口座に振り込む。それ以降、特に問題がなければ、もう連絡はしない」とわこは一瞬、呆然とした。つまり、「お金は払うけど、あとはもう関わらないでくれ」ということ?彼女としては、黒介の術後の回復状況をずっと見守りたかった。それも、医師として当然の責任だった。「白鳥さん、お金はいただかなくて構いません。ただ、術後の経過を見たいんです。それが医師の習慣というか職業倫理なので」とわこは丁寧に申し出た。「三千院先生は、すべての患者にここまで責任を持つのか?」彼は意味ありげな笑みを浮かべた。「もし連絡をもらったら、ちゃんと出るよ。ただ、忙しかったら電話に出られないかも。その時は、責めないでね」とわこは、彼の顔の笑みにどこか不気味さを感じた。普段、人を悪く思ったりはしない方だが、彼の態度はどうしても受け入れがたかった。その言い方は「どうせ電話してきても、出る気なんてないよ」と言っているように聞こえた。本当に黒介を大切に思っているなら、主治医に対してこのような態度をとるはずがない。彼女は怒りに震えたが、ふと視線を横にずらすと、病床の黒介が目に入った。その姿を見て、彼女は怒りを飲み込み、黙った。仕方ない。白鳥の住所はわかっている。いざとなれば、直接家に訪ねればいい。病院を出てから、30分も経たないうちに、彼女のスマホに銀行からのメッセージが届いた。白鳥から、お金が振り込まれていた。その通知を見ながら、とわこは拳をぎゅっと握った。なんて変な家族なんだろう。手術の前は、まるで神様のように彼女を持ち上げ、何を言ってもすぐに
もし本当に黒介のことを愛しているのなら、「バカ」なんて言わないはずだ。奏は一度も結菜を「バカ」だなんて言ったことはない。むしろ、誰かがそんなふうに結菜のことを言おうものなら、彼は本気で怒っていた。それが、愛していない人と、愛している人との違いなのだ。「黒介さんのご家族も、本当は彼を愛してると思いますよ。そうでなければ、あれだけお金と労力をかけて治療を受けさせようとは思わないでしょうし」とわこは水を一口飲み、気持ちを整えながら言った。「それはそうかもしれませんね。でも、だからってあなたに八つ当たりしていいわけじゃない」看護師が静かに頷いた。「私の方こそ、手術前にちゃんと説明しておくべきでした。私の言葉で、黒介さんが普通に戻れるって誤解させてしまったのかもしれません」とわこは視線を病床の黒介に落とした。「そんなの、ただの思い込みですよ。彼の症状が少しでも改善されたら、それでもう十分成功ですって」看護師はとわこを励ますように続けた。「それに、先生…手術代の残り、ちゃんと請求してくださいね?」とわこが受け取ったのは、前払いで支払われた内金だけだった。残金は、手術後に支払うという約束だったが、黒介の家族の態度を見て、とわこはもう残りの金額を受け取るつもりはなかった。彼女がこの手術を引き受けたのは、必ずしもお金のためだけではない。結菜のことがあったからだ。病室でしばらく座っていると、病床の彼が突然、目を開けた。とわこはスマートフォンから目を離し、その目と視線が合った。「黒介さん、気分はどう?」彼女はスマホを置き、優しく問いかけた。「頭が少し痛むかもしれないけど、それは正常な反応よ。私の声、聞こえる?」黒介は彼女の顔をじっと見つめ、すぐに反応を示した。頷いただけでなく、喉の奥からかすかな「うん」という声も漏れた。とわこは、その目の動きも表情も、まったく「バカ」だなんて思わなかった。彼の様子は、結菜が手術後に目を覚ましたときと、とてもよく似ていた。彼女は、奏と口論になった時にだけ、結菜の病を使って彼を怒らせようと「バカ」なんて言ったことがあったが、それ以外では一度もそんなふうに思ったことはなかった。「私はあなたの主治医で、名前はとわこ」彼に自己紹介をしたのは、結菜の時にはそれができなかったからだ。もし時間を巻き
なので、とわこは身動きが取れず、マイクと二人の子どもを先に帰国させるしかなかった。黒介の家族は、術後の彼の反応にあまり満足していなかったが、とわこに文句を言うようなことはなかった。手術前、両者は契約書にサインしていた。とわこは黒介の治療を引き受けるが、手術の完全な成功は保証できないという内容だった。手術から三日目の昼、彼女のスマホが鳴った。着信音が鳴ると同時に、とわこは手早く子どものおむつを替え、すぐにスマホを手に取って通話ボタンを押した。「三千院先生、黒介が目を覚ました。今回は声にも反応してるし、ちゃんと聞こえてるみたいだ」と電話の向こうで話していたのは、黒介の父親だった。とわこは思わず安堵の息を漏らした。「すぐに病院に向かいます」電話を切ると、子どもを三浦さんに託し、車を走らせて病院へと急いだ。病室に着くなり、とわこは足早に中へと入った。「先生、また寝ちゃいました」と黒介の父親は眉をひそめ、不満そうに言った。「これって、まだ手術直後で体力がないから?このままずっとこんな風に寝てばかりなら、手術する前の方がまだマシだったんじゃないか」とわこは真剣な表情で答えた。「大きな手術を受けたこと、ありますか?どんな手術であれ、術後一週間は最も体力が落ちる時期なんです」「いや、怒らないで、三千院先生、あなたを疑ってるわけじゃない。彼がまだバカだ」黒介の父親は手をこすりながら、どうにも腑に落ちない様子だった。その様子に、とわこの神経はピンと張り詰めた。「外で少し、お話ししましょうか」二人で病室を出ると、とわこは静かに語り始めた。「以前、黒介さんと同じ病気の患者さんを診ました。その方は二度の手術を経て、やっと日常生活で自立できるレベルまで回復したんです。しかもそれは術後すぐにできたわけじゃありません。家族の忍耐強い支えと愛情があって、ようやく少しずつ回復できたんです。あなたが黒介さんを心配しているのは分かります。でも、彼を『バカ』扱いするような態度はやめていただけますか?はっきり言いますが、黒介さんが完全に健常者レベルに戻る可能性は、極めて低いです」黒介の父親の目に、失望の色が浮かんだ。「君のこと、名医だと思ってたのになぁ。前の患者はほとんど普通に戻れたって聞いてたけど」「私は神様じゃありません。そんなこと言った
一郎はすぐに察した。「奏、しばらくゆっくり休んだほうがいいよ」彼は空のグラスを手に取り、ワインを注ぎながら続けた。「最近、本当に多くを背負いすぎた」奏はグラスを受け取り、かすれた声で答えた。「別に、俺は何も背負ってない」本当につらいのは、とわこと子どもたちだった。自分が代わりに苦しむべきだったのに。「何を思ってるか、僕には分かるよ。でもな、今の彼女はきっとまだ怒りが収まってない。そんなときに無理に会いに行ったら、逆効果になるだけだ」一郎は真剣に言った。「ちなみに、裕之の結婚式は4月1日。彼女も招待されてる。きっと来ると思う。その日がチャンスだ」だが、奏は何も返さなかった。本当に、その日まで待てるのだろうか。一ヶ月あまりの時間は、長いようで短い。その間に何が変わるか、誰にも分からない。「蓮とレラ、もうすぐ新学期だろ?彼女もきっとすぐ帰国するはずだ」一郎は落ち込む奏を励まそうと、必死に言葉を探した。もし早く帰国するなら、望みはある。でも、もし彼女がずっと戻ってこないなら、それは少し厄介だ。「彼女、アメリカで手術を引き受けたんだ」奏は思い出したように言った。「患者の病状が、結菜と似てる」「えっ、そんな偶然あるのか?」一郎は驚いた。「ってことは、しばらくは帰ってこない感じか。残念だけど、彼女がその手術を引き受けたってことは、結菜のことをまだ大切に思ってる証拠だな」結菜の死から、そう長くは経っていない。とわこが彼女のことを忘れているはずがなかった。二日後。マイクはレラと蓮を連れて帰国した。空港には子遠が迎えに来ていた。子どもたちを見つけると、彼はそれぞれにプレゼントを渡した。「ありがとう、子遠おじさん」レラは嬉しそうに受け取った。だが蓮はそっぽを向いて受け取らなかった。彼は知っている。この男は、奏の側近だと。「レラ、代わりにお兄ちゃんの分も持っててくれる?大した物じゃないから」子遠はすぐに「とわこと蒼は、いつ戻ってくるんだ?」とマイクに尋ねた。「まだ分からないよ。出発の時点では、彼女の患者がちょうど目を覚ましたところだったから」マイクはレラを抱っこしながら答えた。「とりあえず、先に帰ってから考えるよ。ねえ、家にご飯ある?それとも外で食べてから帰る?」「簡単な家庭料理だけど、少し作っておいたよ。
瞳「とわこ、私は奏を責めてないよ。だって、私のことは彼に関係ないし。それに今回は、直美が手を貸したからこそ、奏はあれだけスムーズに大事なものを取り返せたわけでしょ?私はちゃんと分かってるよ」とわこ「でも、あんまり割り切りすぎると、自分が傷つくこともあるよ」瞳「なんで私がここまで割り切れるか、分かる?寛大な人間だからじゃないの。直美、顔がもう元には戻らないんだって。あのひどい顔で一生生きていくしかないのよ。もし私があんな姿になったら、一秒たりとも生きていけないわ。あの子、今どんな気持ちでいるか想像できる?」とわこ「自業自得ってやつよ」瞳「そうそう!あ、さっき一郎からメッセージきて、『今度、裕之の結婚式、絶対来いよ』だって。どういうつもりなんだと思う?」とわこ「行きたいなら行けばいいし、行きたくないなら無理しなくていい。彼の言葉に振り回されないで」瞳「本当は行こうと思ってたけど、今日あんな仕打ち受けて、もう気分最悪、行く気失せた」とわこ「じゃあ今は決めなくていいよ。気持ちが落ち着いてから、また考えよう」瞳「うん。ところでとわこ、いつ帰国するの?蓮とレラ、もうすぐ新学期じゃない?」とわこ「そうね、術後の患者さんの様子を見てから決めるわ。子どもたちはマイクに先に送ってもらうつもり。学業には影響させたくないし」瞳「帰国日決まったら、必ず教えてね」とわこ「分かった」スマホを置いたとわこは、痛む目元を指で軽くマッサージした。「誰とメッセージしてたんだ?そんな真剣な顔してさ」マイクがからかうように聞いてきた。「瞳よ、他に誰がいるのよ?」とわこは目を閉じたまま、シートにもたれかかった。「へぇ、ところでさ、奏から連絡あった?」マイクは興味津々で続けた。「今回、彼は裏切ったってわけじゃないよな?直美とは結局結婚しなかったし、脅されてたわけでしょ?その理由ももう分かってるし......」「彼を庇うつもり?」とわこは目を見開いて、鋭くにらんだ。「事実を言ってるだけじゃん!」マイクは肩をすくめた。「誓って言うけど、誰にも頼まれてないから。ただ、彼の立場になって考えてみたんだよ。あいつ、プライド高いからさ、自分の過去が暴かれるなんて絶対に許せなかったんだと思う」「その通りね」とわこは皮肉気味にうなずいた。「だからこそ、私や子
瞳「とわこ、私もう本当にムカついてるの!裕之ったら、私の前に堂々と婚約者を連れてきたのよ!最低な男!もう一生顔も見たくないわ!」瞳「頭に血が上りすぎて、宴会場から飛び出してきちゃった!本当は奏と直美に一発かましてやろうと思ってたのに......ダメだ、まだ帰れない!ホテルの外で待機してる!」瞳「もうすぐ12時なのに、新郎新婦がまだ来てない......渋滞か、それとも2人とも逃げたの?マジで立ちっぱなしで足がパンパン!ちょっと座れる場所探すわ!」瞳「とわこ、今なにしてるの?こんなにメッセージ送ってるのに返事くれないとか......どうせ泣いてなんかないでしょ?絶対忙しくしてるって分かってる!」マイク「今回の手術、なんでこんなに時間かかったんだ?病院に迎えに来たよ」そのメッセージを見たとたん、とわこは洗面所から慌てて出ていった。マイクは廊下のベンチに座りながらゲームをしていた。とわこは早足で近づき、彼の肩を軽く叩いた。「長いこと待たせちゃったでしょ?でも、あなたが来てなかったら、私から電話するつもりだったよ......もう目が開かないくらい眠いの」マイクはすぐにゲームを閉じて立ち上がった。「手術、うまくいったの?どうしてこんなに時間かかったんだよ?手術室のライトがついてなかったから、誘拐されたかと思ったぞ」「手術が成功したかどうかは、これからの回復次第。でも結菜の時も結構時間かかったからね。ただ、今回は本当に疲れた......」彼女はそう言いながら、あくびをかみ殺した。「三人目産んでから、まともに休んでないもんな」マイクは呆れ顔で言った。「俺だったら、半年は休むわ。君は本当に働き者っていうか、じっとしてられないタイプなんだな」「三人目なんて関係ないよ、年齢的にも体は自然に衰えるもんだし」とわこはさらっと反論した。「で、会社の方はどう?」「ほらまた仕事の話してる。手術終わったばっかりなのに」マイクはあきれつつも、すぐに報告を始めた。「どっちの会社も通常運営中。俺がいるから、何も心配いらない」とわこは感謝のまなざしを向けた。「そんな目で見ないでくれ、鳥肌立つわ」マイクは彼女の顔を押しのけて話題を変えた。「そういえば、奏と直美の結婚、成立しなかったぞ」その一言で、とわこの顔からさっきまでの安らぎが一瞬で消えた。実
その頃、奏のボディーガードチームとヘリコプターが、三木家の屋敷を完全に包囲していた。和彦の部下たちは、現実でこんな異様な光景を目にしたことがなかった。奏はただリビングで一本煙草を吸っていただけだったのに、その間に彼のボディーガードたちは、狙いの品をあっという間に取り返してきたのだ。これは、以前直美が和彦の電話を盗み聞きし、彼がその品を信頼する部下に預けていたことを知っていたからこそできた綿密な計画だった。奏は品物を手に入れると、そのまま何も言わずに立ち去った。直美は悟っていた。今日が、彼と自分の人生における最後の交差点になるのだと。彼は自分のものではない。昔も、今も、そしてこれからも決して。彼からは愛を得られなかった。だが、冷酷さと容赦のなさは彼から学んだ。ホテル。一郎は電話を受けた後、同行していたメンバーに静かに言った。「奏はもう来ない。君たちは先に帰っていい」「え?せめて昼食くらい」裕之はお腹がすいていた。「三木家に異変があった」一郎は声を潜めて言った。「面倒に巻き込まれたくなければ、早めに退散することをすすめる」「じゃあ君はどうする?」裕之はすぐさま帰る決意を固めた。見物したい気持ちはあったが、命が一番大切だ。「僕は残る。死ぬのは怖くない。今の騒動、見届けたくてね」一郎はまさか直美にこれほどの野心があるとは思っていなかったため、彼女が本当に和彦から相続権を奪えるのかを見たくなったのだった。裕之は子遠の腕を引っ張り、ホテルを後にした。二人は、意気投合して、一緒に常盤家へ向かうことにした。奏が問題を解決したからこそ、式は中止になったに違いないと思ったのだ。彼らが外に出たとき、宴会場の入口で、和彦が焦りまくって右往左往しているのが見えた。あの和彦が、奏に勝とうだなんて、自分の器量も知らないで。常盤家、リビング。千代は奏の指示に従い、リビングに暖炉を設置していた。火が灯ると、奏は一枚の折りたたまれた紙を取り出し、視線を落とした後、それを火に投げ入れた。炎が勢いよく燃え上がり、白い紙はたちまち灰となった。千代は黙って見ていたが、何も言えなかった。「これが何か、わかるか?」沈黙を破るように、奏がぽつりと聞いた。彼の手には一枚のDVDが握られていた。千代は首を横に振った。
和彦は奏に電話をかけたが、応答がなかった。代わりに直美に電話すると、彼女はすぐに出た。しかし、その口調は余裕しゃくしゃくだった。「お兄さん、お客さんたちはみんな到着した?」「直美!お前、一体何を考えてるんだ!?今何時だと思ってる!?もしかして奏が迎えに行かなかったのか?あいつに電話しても全然出ないんだ!まさか、土壇場で逃げる気か?」朝から来賓の対応で疲れ切っていた和彦は、二人がまだ現れないことで完全に怒りが爆発した。「お兄さん、奏からは何の連絡もないわ。だから彼がどういうつもりなのか、私にはわからないの」直美の声はやけに甘く、以前の卑屈な態度はすっかり影を潜めていた。「今、美容院で髪のセット中なの。あなたが選んだメイクとヘアスタイル、あまり気に入らなくてやり直してもらってるの」和彦は怒りで顔を歪めた。「直美、まさか自分がもう奏の妻にでもなったつもりか?だからそんな口を利くのか!?」「たとえ今日、彼と結婚式を挙げたとしても、正式に籍を入れてない以上、私は奏の妻じゃないわよ?」直美は冷静にそう返した。「だったら、なんでそんな偉そうな口調になるんだよ!誰の許可で勝手にメイクやヘアを変えてる!?俺はわざと皆に、お前がどれだけ醜くなったかを見せたかったんだぞ!」「お兄さん、私がまだ顔を怪我してなかった頃、あなたはどれだけ優しかったか」直美はしみじみと語った。「私、わかってるの。あなたは今でも私のことを想ってる。もし昔の姿に戻れたら、また前みたいに可愛がってくれるんでしょ?」「黙れ!」和彦はそう怒鳴りつけたものの、その後は荒い呼吸を繰り返すばかりで、もう何も言えなかった。直美の言うことは、図星だった。和彦は、今の醜くなった直美を心の中で拒絶し、かつての彼女とは全くの別人として切り離していた。「お兄さん、お母さんそばにいる?話したいことがあるの」直美の声が急に真剣になった。「お母さんに何の用だ?お前と話したがるとは限らないぞ」口ではそう言いながらも、和彦は宴会場へと戻っていった。「お兄さんが渡せば、話すしかないじゃない。お母さん、あなたを実の息子だと思ってるもの。実の子じゃないけどね」直美の皮肉混じりの言葉に、和彦は顔をしかめた。少しして、彼はスマホを母に手渡した。「直美、あなた何してるの!?これだけたくさんのお
日本。今日は奏と直美の結婚式の日だった。ホテルの入り口では、和彦と直美の母親がゲストを迎えていた。すべては和彦の計画通り、滞りなく進んでいる。和彦が奏に直美と結婚させたのは、ひとつには奏を辱めるため、もうひとつは、三木家と常盤グループが縁戚関係になったことを世間に知らしめるためだった。三木家に常盤グループの後ろ盾があれば、これからは誰も軽んじられない。和彦さえ、自分の手札をしっかり握っていれば、何事も起こらないはずだった。瞳は宴会場に入るとすぐ、人混みの中から裕之を見つけた。裕之は一郎たちと一緒にいて、何かを楽しそうに話していた。表情は穏やかで、リラックスしている様子だった。瞳はシャンパンの入ったグラスを手に取り、目立つ位置に腰を下ろした。すぐに一郎が彼女に気づき、裕之に耳打ちした。裕之も彼女がひとりで座っているのを見ると、すぐに歩み寄ってきた。その姿を見て、瞳はなんとも言えない気まずさを感じた。話したい気持ちはあるけれど、いざ顔を合わせると何を言えばいいのか分からない。「彼氏できたって聞いたけど?なんで一緒に来なかったの?」裕之は彼女の横に立ち、笑いながら言った。その言葉に、瞳は思わず言い返した。「そっちこそ婚約したって聞いたけど?婚約者はどこに?」「会いたいなら呼んでくるよ。ちゃんと挨拶させるから」そう言って、裕之は着飾った女性たちのグループの方へと歩いていった。瞳「......」本当に婚約者を連れてきてたなんて!ふん、そんなことなら、こっちも誰か連れてくるんだった。1分もしないうちに、裕之は知的で上品な雰囲気の女性と腕を組んで戻ってきた。「瞳さん、こんにちは。私は......」その婚約者が自己紹介を始めた瞬間、瞳はグラスを「ガンッ」と音を立ててテーブルの上に置き、バッグを掴んでその場を去った。裕之はその反応に驚いた。まさか、瞳がこんなにも子供っぽい態度を取るなんて。みんなが見ている前で、礼儀も何もあったもんじゃない。完全に予想外だった。「裕之、ちょっとやりすぎじゃない?」一郎が肩をポンと叩きながら近づいてきた。「瞳、あんな仕打ち受けたことないよ。離婚したとはいえ、そこまでしなくてもいいじゃん」裕之の中の怒りはまだ収まらない。「彼女が本当に僕の結婚式に来る勇気があるの