LOGIN彼はスマホを手に取ると、大股で玄関へ向かった。門のモニターに映ったのは桜の顔。瞬間、血が頭に上り、煙が出そうな勢いだった。すでに暗証番号は変更済み。桜はどうやって敷地に入ったというのか?考えられるのは塀をよじ登ったくらいしかない。真相を確かめようとドアを開けると、彼女はキャリーケースを引きずり、すぐさまリビングに足を踏み入れた。一郎「!!!」堂々と侵入する彼女を前に、どう対処していいのか分からない。「桜!」一郎は怒りを込めて叫んだ。「一体何してるんだ」「部屋を引き払ったの」彼女はソファにどかっと腰を下ろし、キャリーを抱きしめて涙ぐむ。「昨日の夜、誰かがずっとドアを叩いてたの。今朝、防犯カメラを確認したら男で、しかも変態っぽくて。だからもうあそこには住めない」一郎は怒気を収め、そばに歩み寄って尋ねた。「警察には通報したのか?」桜は首を横に振る。「もう退去したわ。それで、ちょっと考えて」「泣くな。新しい部屋を借りてやる」彼は彼女の言葉を遮った。だが彼女は首を横に振り、恨めしげに言う。「私、こんなに綺麗だから、どこに住んでも変態に狙われるの。小さい頃からずっとそうなのよ」一郎「……」「考えたんだけど、あなたのことは大嫌い。でもここの家は広いし、治安もいい。だから、やっぱりここに住むことにしたわ」桜は涙を拭いながら続ける。「安心して。ちゃんと家賃は払うから。お兄ちゃんから毎月もらってる生活費を、あなたに渡す。それを家賃にすればいいでしょ」一郎は目を瞬かせた。「え?兄貴のお金なんて受け取らないって言ってただろ?」「私こんなに惨めなのに、まだお兄ちゃんからの生活費を取り上げるつもり?」桜は信じられないとばかりに睨んだ。「取り上げるって、自分で子供を産むと決めて、生活費を断ったのは君じゃないか!」「でもお兄ちゃんは、私が妊娠してるなんて知らないのよ」桜は呆然とした表情で彼を見つめた。「まさか連絡とったの?とわこが必死に探してるのに。もし居場所を知ってるなら、今すぐとわこに電話して」「やめろ」一郎は慌てて止める。「とわこが連絡できないのに、僕にできるわけないだろ」「なら間違いない。お兄ちゃんが、あなたに大金を渡して毎月私に送らせてるんだ」桜はまた涙をぬぐい、「あと半月で、父が死刑を執行される。哲也兄は私を顧
アメリカ。病院、入院病棟。黒介が目を開けると、弥の姿が映った。温和だった眼差しは一瞬にして冷え切る。とわこが以前言っていた。弥のことは空気と思え、と。自分はいま病人なのだから、相手を無視しても、弥が怒ることはない。「おじさん、目が覚めた?」弥は黒介の瞼が動いたのを見るや、すぐに笑みを浮かべた。「栄養スープを買ってきたよ。保温容器に入ってるから、今すぐ飲ませる。自分で飲める?それとも食べさせようか?」もちろん、弥は食べさせる気など毛頭なかった。腎臓を一つ摘出しただけで、両手は問題ない。食事くらい自分でできるはずだ。黒介は冷淡に視線を向け、首を横に振った。「お腹すいてないの?」弥の笑顔が引きつり、説得するように言う。「こんなに長く眠って、どうして空腹じゃないんだよ。食べなきゃ回復が遅れるだろ」早く退院してほしいからこそ、必死に世話を焼いているのだ。だが黒介はまたもや首を横に振る。「本当に腹が減ってないのか?それとも僕に食べさせられるのが嫌なのか?」弥はやつれた顔を見つめながら考えを巡らせた。「じゃあ、とわこに来てもらって食べさせてもらうか?」黒介は静かにうなずいた。弥は心の中で悪態をつく。バカだと思っていたが、相手を選んで世話をしてほしいだなんて!弥は保温容器を置き、スマホを取り出してとわこに電話をかけた。ほどなくして、とわこが病室に駆けつける。「あなた、出てって」ベッドの脇に腰を下ろし、冷ややかに告げる。「ここにいられると気分が悪くなる」「ははは!とわこ、本当に面白いな。奏が自主的に株を黒介に譲ったんだぞ?僕がナイフ突きつけて脅したわけじゃない。なのに僕を毛嫌いして、これから先、僕の相手なんて到底できないさ」わざと神経を逆なでするように言い放つと、弥は大股で部屋を出て行った。扉が閉まると、とわこは保温容器を開ける。芳ばしい香りが溢れ、思わず食欲をそそる。「とわこ、あいつ、いつ帰った?」黒介が尋ねる。「すぐにね」彼女はベッドの背を起こし、スープを口元へ。「私の言葉を忘れないで。無視していればいいの」「無視はした。でも顔を見たくないんだ。あいつがいたら、目を閉じて眠るしかない」黒介の声は沈んでいた。「妹はどうなった?」「今日少しだけ目を覚ました。でもあなたより体がずっと弱いの。
「水を一杯」奏はソファに腰を下ろし、低く言った。執事はすぐに水を用意し、恭しく差し出した。奏は受け取って口を潤しながら、手術を受けた後に待ち受ける未来を考え始めた。これまで彼は、本気でそれを考えたことはなかった。だが今夜、剛の言葉が、すでに死んだはずの心に再び恨みの火を灯した。本来なら、自分がこんなに沈むはずがない。なぜ、ここまで堕ちねばならなかったのか。このまま無意味に人生を擦り減らしていくのか。違う。彼は納得できなかった。たとえ常盤家の奏であろうと、和夫の落とし子であろうと、彼の人生は誰にも定義され、踏みにじられるものではない。他人に見下される気はない。彼が欲するのは誰も届かぬ場所に立ち、仰ぎ見られることだけだ。グラスを置くと、奏は執事に命じた。「ペンとノートを持って来い」執事がすぐに探して差し出す。奏はそれを手に取り、寝室へ入り鍵をかけた。灯りをつけ、机に向かう。もし手術を受けるなら、記憶を失った時のために、絶対に忘れてはならない事実を書き残さねばならない。ペン先を紙に落とす前、わずかに逡巡する。だが心を決め、すらすらと記す。子どもは三人。蓮、レラ、蒼。両親はすでに亡くなり、大切な人々も皆この世にいない。そこまで書いたところで、ペンが止まった。胸を鋭い痛みが貫く。もう、書くべきものはないのか。唯一残った大切な存在は、結菜。だが、彼女はすでに死んでしまった。そしてとわこ。彼女の名を思い浮かべた瞬間、指先が痙攣し、どうしてもペンを走らせることができない。名を見ただけで、顔を思い出すだけで、胸が射抜かれるように苦しくなるのだ。身体は正直だ。彼女の三文字を書こうとしただけで、手が震えて止まらなくなる。翌朝、八時。寝室の扉を開けると、剛がリビングのソファに腰掛けているのが目に入った。言葉を交わさずとも分かる。返事を迫りに来ている。「もう起きたのか!」剛は立ち上がり、笑みを浮かべて大股で近寄る。「まずは朝食にしよう。腹を満たしてから、大事な話をするとしよう」
Y国。奏がやって来てから、すでに一週間近くが経っていた。剛は自分が手掛ける事業を一通り案内し終えると、酒を酌み交わしながら本音を語り始めた。「この数日、国内の人間と連絡は取っていないだろうな?」彼の言う「国内の人間」とは、とわこのことを指していた。「携帯をなくした」奏はグラスを持ち上げ、軽く口に含む。「前にも話したはずだ」「そうだったな。別荘を何度も探させたし、空港にも人をやったが、見つからなかった。どうやら飛行機に持ち込んでなかったらしい」剛は実直な表情を浮かべた。「さっきの質問に答えただけだ。携帯がないから、誰とも連絡は取っていない」奏はグラスを置き、向こうの夜景に視線を投げた。「ハハハ!連絡したければ方法はいくらでもあるだろう。新しい携帯も買わせただろう?とわこの番号くらい覚えてるはずだ。会いたければいつでも連絡できる」剛はわざと茶化すように言った。「俺の耳に入ってる限り、あの女はお前を探し回ってるらしいぞ」「どうやって知った?」奏の眉間が鋭く寄る。彼は自分のことを詮索されるのを何より嫌った。「勘違いするな。俺はお前のプライベートを調べたわけじゃない。一郎に電話して、軽く話しただけだ。奴はお前を心配していた。俺に会ったかどうか探ってきたが、会ってないと答えてやったよ。それで俺が『とわこはあの黒介って阿呆とくっついたんじゃないのか』と聞いたら」そこでわざと口をつぐみ、グラスを掲げる。奏も無言でグラスを取り、軽く合わせた。「一郎の話じゃ、とわこはお前を探して、取り戻したいと願っているそうだ」剛の鷹のような目が深く奏を射抜いた。「どう考えている?忠告してやる。今さら日本へ戻っても、手元に多少資産はあろうが、本物の富豪からすればお前なんか取るに足らん存在だ。仮にとわことやり直したとしても、彼女の三千院グループを頼りにようやく上流に滑り込む程度。他人からは女に養われてると嘲られるだろう」「それに、もし再起できなければ、やがてとわこにさえ疎まれるかもしれん。女というのは何より現実的なものだ。仮にとわこがそんな女じゃなくても、一度傷つけられたなら、二度三度と同じことを繰り返す危険はある。奏、一度二度なら不運で済む。だが四度五度も同じ場所で転ぶようなら、それは救いようのない愚か者だ」剛は出口を指さした。「俺の言うこ
「桜、もう考えはまとまった?」とわこは問いかけた。桜は決心がついたら必ず知らせると言っていたのに、まだ何も言ってこない。「とわこ、あんたなんで私のこと一郎にバラしたの?あのクソじじいがどんな反応したか知ってる?私、めちゃくちゃ怒鳴られたんだから。もう最低」桜はベッドからガバッと起き上がった。「それに中絶しろって迫られたのよ!何様のつもり?私にそんなこと強いるなんて」とわこは一瞬固まった。「私が電話したの。桜が一人で手術に行くんじゃないかって不安で」「気持ちは分かるけど、完全に裏目に出たわよ。あんたの親友でも付き添わせた方がまだマシだったわ。一郎に頼むなんて、最悪の選択よ」桜は毒づいた。「うん」とわこには確かに私心があった。桜の子供は一郎のものかもしれない、そう思ったからだ。まだ若く未熟な桜よりも、一郎に知らせて一緒に決めてもらった方がよいと考えた。「もういいわ。あんたの親友には言わないで。私は誰の手も借りない」桜は再び横になった。「まだ産むかどうか、決められないんだから」「産みたいなら産めばいいわ。奏から生活費が毎月送られてるでしょ?足りなければ私が出すから」その言葉に胸が温かくなる。「なんであんた、そこまで私に優しくするの?奏はもう常盤グループの社長じゃないし、私は妹だって認めてもらってないのに」「妹であることは、彼の立場と関係ないの。言ったでしょ?助けられるならできる限り助けるって」「分かった。もう怒ってない」桜は子供っぽく言ってから尋ねた。「奏は今どうしてる?完全に落ちぶれて、人に会いたくない感じ?もしお父さんが知ったら、自首なんてしなければよかったって後悔するかもね」「まだ見つかってないの」「早く探してあげてよ!もし自殺でもされたらどうするの?ニュースでもよくあるじゃない、経済問題で富豪が命を絶つって」桜の口ぶりは呪いではなく、本心からの心配だった。彼と顔を合わせたことはなくても、奏が誇り高い人間だと直感できたから。「とわこ、私のことはもう気にしなくていいわ。冷静になったし、これは私にとってちょっとした出来事。人を煩わせることじゃない」「分かった。でも私はしばらく帰国できないから、急ぎのときは一郎に連絡して。どんなに口うるさくても、困っていれば必ず助けてくれるはず」「でも、あんたも奏にし
電話をかけると、案の定、冷たいシステム音声が返ってきた。とわこの胸が鋭く痛んだが、顔には何事もないように平静を装った。「結菜、お兄さんは今忙しいのかもしれないわ。少ししたら、またかけてみる」今、真実を告げる気にはなれなかった。せめて一日でも先延ばしにして、体調がもう少し落ち着いてからの方がいい。真はじっととわこを見つめた。彼女が事実を口にすると思っていたのだが、意外にも黙ってしまった。「そう」結菜の瞳に一瞬、落胆の色が走り、すぐに不安を滲ませる。「お兄さん、私を責めないかな?怒ってないかな?」「怒るはずないわ。結菜、彼はあなたに怒ってなんかいない。むしろ、とても会いたがっている」とわこはその手を握り、静かに言った。結菜はほっと息をつき、微笑んだ。「私、一番信じてるのはとわこと真、それからお兄さん」「しっかり療養して。退院したら、きっと驚くようなことが待ってるから」「うん少し眠くなってきた。お兄さんが来たら、絶対起こしてね」声はだんだん弱まり、やがて静かな寝息に変わった。病室を出ると、とわこと真は声を潜めて話した。「とわこ、退院まで隠し通すのは難しいかもしれない。一か月は入院するだろうし、一週間経っても奏が現れなければ、必ず疑う」「それなら、一週間後に伝えればいい。今の彼女はあまりに弱っている。この状態で真実を突きつけたら、回復に支障が出るかもしれない」とわこは自分の考えを述べた。「先生に言われたことがあるの。病気の時、気持ちが沈んでいると『治らなくてもいい』と無意識に思ってしまう。そういう時は治りが遅いの。逆に、気分が前向きなら回復も早い」「なるほど。じゃあ、今は黙っておこう。ただ、黒介と結菜が早く兄妹として再会できればと願ってる」真の目に柔らかな笑みが浮かんだ。「黒介は本当にいい人だ。僕を見るといつも笑ってくれる」「兄妹そろって優しくて穏やかね」「退院したら、きちんと落ち着ける場所を用意してやらないと」とわこは眉間を押さえた。「この数日ろくに休めてなくて、目がかすむの。ちょっと薬を買ってくる」「検査した方がいいんじゃないか?僕が一緒に行く」「いいわ。ただの寝不足よ。薬をもらえば大丈夫」「昨日も睡眠薬を?」「半分だけ。だから今朝は寝過ごさなかった」彼女は自嘲気味に笑った。「自然に眠るのと薬で