LOGINとわこは小さくうなずいた。「とわこ、もし今すぐここを出られるって言われたら、出たいか」俊平は少し顔を上げ、空を自由に飛ぶ鳥を見つめる。とわこはその視線を追い、空を見上げながら慎重に答えた。「前は、みんながここは危ないって言ってもあんまり気にしてなかった。でも今は、本当に危ない場所だって分かった。人が死ぬ場所。私の命はどうなってもいいけど、他の人を巻き込むのは嫌なの」俊平もボディーガードも、呼んだのは自分だ。だから二人を連れてここを出たい。もし今逃げるチャンスがあるなら、もう迷わない。「自分の命も勝手に賭けるな」俊平は言う。「三人で考えれば、必ず抜け出す道はある」「分かってる」街には普段より人が少なく、天気はいいのに不思議な陰りが漂っていた。「誰かが私をつけてたりしないよね」とわこは急に不安になり、周囲を見回す。後ろを歩くボディーガードがのんびりした声で言う。「社長をコントロールしたいなら、剛が空港で待ち伏せるでしょう。Y国を出るには空港を通るしかないんですから」ボディーガードの言葉が、とわこの頭を一気に回らせた。夕方、俊平は部屋に戻り、スマホを開いて真帆の番号を見る。何度も迷った末、その番号を押した。真帆は、何かあれば連絡してと言っていた。その頃、真帆は寝室で休んでいた。深夜三時から昼まで無理して耐え、限界で戻って寝たところだった。俊平の電話が、悪夢の底から彼女を引き戻した。電話を取ると、ズキズキするこめかみを押さえながら言う。「真帆、俊平だ。兄さんのこと、残念だった」俊平は礼儀正しく言う。「何の用?」彼女は鼻声で、喉も枯れていた。「とわこをここから連れ出したい。手を貸してくれないか」俊平は核心を伝える。真帆は冷たく笑った。「この前あれだけ出て行けってお願いしたのに、あなたたちは居座った。今度はお兄ちゃんが死んで、お父さんが発狂してる時に逃げるって?無理に決まってる」「とわこがここに残るのは、君にとっても得じゃない」俊平は冷静に言う。「奏が記憶を取り戻したら、必ずとわこと逃げる。記憶を取り戻さなくても、また彼女を好きになる」「私は奏が誰を好きでもいい。夫でいてくれればそれでいい。奏はお父さんに、この国から一生出ないって約束したの」寝不足と頭痛で、真帆の言葉は勢いだけで口をつい
奏にY国へ腰を据えさせるには、口約束だけでは足りない。剛は利己的で、しかも疑り深い。奏を本当の身内にする方法は、婿にするだけでなく、彼の根をこの国に残すこと。根というのは、彼の子どものことだ。もし奏にY国で子どもができれば、日本に戻る気はなくなる。「大貴の葬儀が終わったら、外に出てゆっくり話そう」四平は周囲を見渡し、声を落とす。「とにかく、お前の息子は俺たちでもできなかったことをやった。将来とんでもない大物になるぞ」「大貴の自業自得だ」奏は灰皿に灰を落とす。「とわこを虐げなければ、こんなことにはならなかった」「それでもお前の息子は優秀だよ。うちの息子なんかお前のとこより五歳も上なのに、一日中ゲームばっかりだ。見るだけで頭が痛い。どうやってそんな良い子に育てたんだ」急に育児談義にすり替わる。「知ってるだろ。蓮は俺が育てたわけじゃない」奏が見てきたのは蒼の誕生だけだ。蒼が一歳になる頃までに、ここでの問題を片付けられるだろうかと思いながら口を開く。「でも四、五歳の頃にはお前のところに戻ってきただろ」「ずっととわこと一緒に暮らしてた。俺はほとんど関わってない」奏は続ける。「マイクの方がよく面倒を見ていた」「ほら。結局いろいろ覚えてるじゃねえか」「とわこ以外は全部覚えてる」奏は薄い唇をわずかに開く。「だからこそ、とわこが剛の言うような悪い女じゃないって思う」「ははは。とわこが悪女だったら、お前が一人目産ませて、また二人目まで作るかよ。そんなバカじゃねえだろ」玲二は笑い飛ばす。「でも昔のお前は確かにとわこを甘やかしすぎて、ちょっと頭悪いくらいだったな。たかが女ひとりに、事業まで賭ける必要ねえよ」「まあな」奏は今回Y国に来て、多くのことを痛感していた。一瞬の感情に任せるのは簡単だ。だけど、衝動が過ぎ去れば、また現実の生活が続いていく。絶対的な権力と富を手にしなければ、自分も家族も守れない。午後、とわこは俊平を誘って外を散歩する。蓮が無事にY国を出たことで、大きな荷が下りていた。「この数日、毎晩夢で蓮が大貴に連れ去られるの。ほんと最悪。でも結果的に無事でよかった」彼女は苦笑する。「息子さんは、子どもに対する俺の常識を全部ひっくり返したよ」俊平は感心して言う。「あの年齢であれだけの度胸と腕前。君は
とわこは食欲がない。けれど、これから持久戦になると思えば食べないわけにもいかない。「サンドイッチと牛乳でいい」「毎日それですね」ボディーガードが文句を言う。「じゃあ適当に持ってきて」電話を切ったあと、とわこは洗面所で身支度を整える。ボディーガードが朝食を運んできた時には、すでに服も着替えていた。ボディーガードと一緒に俊平も来ていた。「ドア閉めて」俊平がドアを閉め、三人は腰を下ろして昨夜の件について意見を交わし始める。「たぶん、結構まずい状況よ。ねえ、あなたたち二人は先に出国した方がいいんじゃない」とわこは朝食を口にしながら言う。「巻き込みたくないの」ボディーガードと俊平は目を合わせ、ボディーガードが口を開く。「こんな時に病人のあなたを置いて逃げたら、俺らが男として終わりですよ」「手術を任されてる以上、俺も一緒に出るのが当然だ」二人の返事を聞き、とわこは胸が熱くなる。「さっき奏にメッセージを送ったけど、まだ返事がないの。感動してても仕方ない。高橋家は葬儀の準備で混乱してる。今のうちに早く行って」ボディーガードはソファにもたれかかる。「行きません。社長に何の危険があるんですか。剛の最後の息子も片付けられたし、残ってるのは娘だけです。その娘は奏さんの嫁だし、つまり高橋家の今後は全部奏さんのもの……」俊平はボディーガードの脇腹を肘で突き、余計なことを言うなと示す。「奏がここに残って真帆と暮らすと思うの?」とわこの食欲が一気に消える。ボディーガードは慌てて説明する。「違います。ただ、社長は心配するなって話です。奏さんがあの家にいる限り、絶対社長を守ります」「でも彼は私のことを覚えてない」「でも社長が自分の子の母親だってことは知ってるでしょう」俊平は二人を軽く一瞥し、口を開く。「まあまあ、言い合っても意味はない。俺たちの手に負えない状況なんだから、成り行きを見るしかない」とわこはサンドイッチをひと口かじる。ボディーガードは毎日サンドイッチだと文句を言うけれど、結局それを買ってくる。他のものを買って嫌がられたら困るからだ。高橋家。大貴の遺体は整えられ、氷の棺に安置されている。剛は占い師に最善の埋葬日を見てもらい、明後日が良いと言われた。葬儀は明後日に行われることになった。剛は深
別荘の中で、蓮は荷物をまとめ終えた後、すっかり眠気が飛んでしまった。リュックを背負ったまま椅子に腰を下ろし、出ていけるタイミングをじっと待つ。今夜はもう奏が来ないと思ったその時、予兆もなく扉が開く。奏の顔が目の前に現れる。「荷物はもう全部まとめたか」「ずっと前に終わってるよ」蓮は椅子から立ち上がり、奏の前まで歩き寄って軽く見上げる。「もう行けるの?」「うん」奏は少し躊躇してから言う。「今夜はお前だけ先に行け」「ママは一緒に行かないの?」蓮の足が止まる。「もう話はしたよ。帰国するって約束してくれたのに」「今はまだ無理なんだ」奏は腹を割って話す。「お前が先に行け。あとで何とかして彼女も送り出す」蓮はその落ち着いた表情を見て、すぐに理由を察する。「大貴を殺したせいで、迷惑をかけたんだよね」奏は首を横に振る。「俺が同じ立場でも同じことをする。だから、お前は間違ってない」「でもママが今すぐ出られないなんて」蓮は悔しそうに眉を寄せる。「俺が何とかする」奏は彼の腕をつかみ、階下へ連れて行く。「帰国したら、もう二度と戻るな。ひとりを助ける方が、ふたりを助けるよりずっと簡単だ」蓮はうつむき、返事をしない。奏は責めていないと言ったが、言外の意味はとても明確だった。今夜蓮が出国できるのは、奏が動いてくれたからだ。母の仇を取れたのは胸がすくけれど、残された面倒を考えなかったのは浅はかだった。「絶対にママを守って」蓮は車に乗り込む前、奏に真剣に言い渡す。「もしママに何かあったら、もうあなたをパパと思わない」奏の胸が一気に締めつけられる。「努力する」声がかすれる。蓮がこれほど長く彼を見つめたのは初めてだ。息子の顔を見ながら、奏の感情は複雑に揺れる。状況が切迫しているのを考えると、奏はすぐにドアを閉める。三郎がエリアの外で待っていた。蓮を日本まで送り届けるように頼んであり、三郎も了承している。……夜が明け、太陽がいつも通りに昇る。とわこは伸びをしてから目を開く。窓の外の金色の光がカーテン越しに差し込んでくる。とわこはすぐにベッドを降り、カーテンを開け、窓を開けて空気を入れ替える。ふと何かが頭に浮かび、ベッド脇に戻ってスマホを手に取る。いくつも通知が飛び込んでくる。奏「蓮
白い布をかけられた二つの遺体が並び、そのそばには黒服の者たちが膝をついている。奏の視線は静かにその遺体へ向かう。一つは大貴、もう一つは家政夫だろう。剛はソファに腰を下ろし、煙草を吸っている。立ちこめる煙のせいで、その顔の表情は読み取れない。真帆はしゃがみ込み、二つの遺体を順に確かめると、大貴の遺体の前でそのまま崩れ落ちるように泣き出す。「お兄ちゃん……嫌だよ、死んじゃうなんて!あなたがいなくなったら、私とお父さんはどうしたらいいの?お兄ちゃん、お願いだから目を開けて!」真帆の涙は偽物ではない。今は奏の妻でも、兄との二十年の絆は嘘ではない。兄に撃たれたあの日でさえ、真っ先に思ったのは奏との関係が壊れないように、ということだった。奏が剛の前へ歩み寄ると、剛は言葉より先に一枚のデータカードを差し出す。「見ろ」低く乾いた声とともに、煙がふっと揺れる。奏がそのカードに目を落とすと、そこには蓮の登録写真があった。蓮がY国に来るために使った偽の身分証。内容はすべて偽物だが、顔写真だけは本人のものだ。「この小僧、お前の息子にそっくりだな」剛は冷ややかに笑う。「聞いたぞ。お前の息子はコンピュータの天才で、学校の一位らしいじゃないか」「この件は息子とは関係ない」奏はカードを置く。「彼はまだ十にも満たない子どもだ」「十にも満たないが、殺傷力だけは立派だ」剛は大貴のスマホを取り出し、電源を押す。画面の中の死亡カウントダウンは消え、「Game Over」の文字が浮かんでいる。ゲーム終了。蓮にとっては終わりでも、剛にとっては、ここからが始まりだ。「俺は老いたが、まだ使い物にならん年じゃない」静かな声に、底の見えない威圧が宿る。「真帆を連れて来たな。お前、俺がその間に息子を捕まえるとは思わなかったのか」奏の胸が一気に縮まる。最悪の事態が、とうとう訪れた。「道の筋に従って片をつけよう」剛は灰皿に葉巻を押しつけ、残る煙を吐き出す。「お前の息子の命で、俺の息子の命を償わせる。これで寂しくないだろう」「駄目だ!」奏は手を握りしめ、声を荒げる。「息子を行かせろ。俺はこれから先ずっと、あんたの言うことを聞く!」剛は狂ったように笑い出す。そして突然、怒号が響く。「跪け!」奏は深く息を吸い、皆の前で剛の前に膝をつく。
奏は真帆の言葉に返事をしない。主寝室を出て、運転手へ電話をかける。外の様子を見に行くよう指示する。このエリアには一本のメイン道路があり、それは剛と大貴の別荘の前を通る。「ついでに剛の家の様子も見てこい」運転手は了承する。この家の家政婦や運転手、ボディーガードはみな真帆の側につく人物であり、真帆は奏を支持している。「もし園内で誰かに止められて、こんな時間にどこへ行くのか聞かれたら、真帆に頼まれて夜食を買いに行くと言え」運転手は再び了承する。電話を切ると、奏は階下へ向かう。一階のリビングの明かりはつけない。剛の動きを知りたいのは奏だけではない。剛もまた、こちらを暗く見張っているはずだ。大貴の死は、剛にとって間違いなく大きすぎる衝撃だ。剛には四人の子がいた。息子三人と娘一人。しかし息子は全員もういない。真帆が「お父さんは狂う」と言ったのも当然だ。恐怖がないわけではない。だがここまで来れば、恐れても意味がない。剛がどんな暴走をしようと、奏は蓮だけは必ず守らなければならない。どれほどの時間が過ぎたのか、車が前庭へ戻ってくる。ライトが一度だけ瞬き、奏はすぐ立ち上がる。まもなく運転手が近づいてきて報告する。「園内が封鎖されています。外へ出られません。真帆様の夜食だと言っても通してくれません」「剛の家と大貴の家は……」「どちらの別荘も灯りが全部ついていました。一目でただ事じゃないと分かります。大貴様の家の庭にはボディーガードがぎっしり並んでいました。それに泣き声も……」奏の眼差しがわずかに伏せられ、思考が深く沈む。大貴の死を知った直後、剛は園内の出入り口を封鎖した。その判断はあまりに迅速で、あまりに冷酷だった。「園内に他の出口はないのか」奏はここに閉じ込められても構わない。だが蓮は違う。蓮だけは必ず外へ出さなければならない。運転手は首を横に振る。「もし別の出口があっても、今はどこもボディーガードが見張っています。外へ出るおつもりですか」奏は手を軽く振る。「休め」運転手は去っていく。すると、二階から真帆が降りてくる。涙の跡は拭われているが、その顔は深い悲しみに覆われている。「奏、さっきお父さんから電話があった」スマホを握る手が震え、言葉とともに涙がまたあふれ落ちる。







