LOGIN真帆は、まるで冷水を頭から浴びせられたような気分になる。妊娠した経験がなく、これほど多くの検査が必要だとは知らなかった。そのせいで、一瞬で頭が真っ白になる。とわこは、彼女のエコー検査の用紙を手に押し返す。「そうそう。子どもが奏の子だって言うなら、三か月過ぎたら親子鑑定を受けたほうがいい。じゃないと、この話は終わらないよ」「やればいいじゃない。誰が怖がるのよ」真帆は用紙を家政婦に渡し、大股で病床へ近づく。「奏の今日の点滴は、どうしてまだ始まってないの。医師の回診は来てないの?」「今の時間を見たら?」とわこは機嫌が悪く、口調も荒い。「回診のときに薬を変えてもらった。今は調剤してるところ」真帆の顔色が、赤くなったり青くなったりと忙しく変わる。とわこは医師だから、こういう判断ができる。それに比べると、自分は取るに足らない存在に思えてならない。「お嬢様、あの人と張り合う必要はありません」家政婦は彼女をなだめる。「看病みたいな大変なことは、あの人に任せておけばいいんです。奏さんが目を覚ましたら、結局は私たちと家に帰るんですから。医師も、もっと休むようにって言ってましたし。お送りしましょうか?」真帆は納得がいかない。「もし奏が目を覚まして、私がいなかったら……」「ここにボディーガードを残します。奏さんが目を覚ましたら、すぐに連絡が来ます」真帆は赤い唇を噛み、迷い続ける。「お嬢様、行きましょう。ここでとわこを見てるだけで、余計にイライラしませんか?」奏が目を覚ます気配はまったくない。ここで時間を潰す意味は確かにない。家で落ち着くことこそ、今の自分にとって一番大切だ。そう思い至り、彼女は病室を出る。真帆たちが去ったあと、看護師が新しく調剤した薬を持って入ってくる。「薬は私がやります」とわこは声をかける。「私が処置するから」看護師は笑顔を向ける。「とわこ先生がいらっしゃると、私たちの出番がなくなりますね」「大したことじゃないよ。回復は結局、本人次第」「そうですね。副院長も同じことを言ってました」看護師は声を潜める。「ところで、どうやって真帆さんを帰らせたんですか。毎日、副院長に当たって、どうしてまだ目を覚まさないのかって詰め寄ってくるんです。副院長も相当参ってますけど、何も言えなくて」「あなたた
着信音が鳴り、とわこはすぐにスマホを取り出す。レラからのビデオ通話だった。海外に行くとき、毎日必ずビデオ通話をする約束をしている。少し迷った末、電話に出た。「ママ!今どこ?」レラは、とわこの背後に映る景色を見て、病院だと気づいたらしく、声が一気に高くなる。「ママは病院にいるよ。パパを見たい?」とわこがさっき迷ったのは、娘に今の奏の姿を見せるべきかどうかだった。だが、短い逡巡のあと、今のレラならこの現実を受け止められるはずだと思った。「見たい!」レラは即答する。とわこは大きく息を吸い、カメラを病床の奏に向けた。レラは目を見開き、そこに横たわる人が父親だと分かると、思わず声を上げる。「これがパパ?ママ、どうしてパパがこんなことに?」とわこはカメラを自分に戻す。「パパは病気なの。まだ目を覚まさないし、話すこともできない。前に真帆が言っていたことは、全部嘘だよ」レラの表情は、ほっとしたようでもあり、同時に眉をきつく寄せたようにも見える。真帆の話が嘘で、パパは冷たい人じゃない。でも、今のパパはあまりにも重い病気で、言葉すら話せない。それが心配でたまらない。「ママ、パパは治る?」数秒の沈黙のあと、レラは鼻声で問いかける。「パパの病気は複雑じゃないよ。ただ、回復まで時間がかかるだけ」とわこは優しく言う。「心配しなくていい。長くても一か月くらいで退院できる」「うん……ママ、もう一度パパを見せて」娘にそう言われ、とわこは再びカメラを奏に向ける。血の気のない蒼白な顔を見つめながら、レラは、かつて優しかった父の姿を思い出し、涙が止まらなくなる。すすり泣く声を聞き、とわこはカメラを自分に戻した。「レラ、泣かないで。パパはきっと良くなる」「ママ、私、こっそりパパの悪口を言っちゃった。言っちゃいけなかったのに」レラは赤くなった目をこすり、自分を責める。「ママは分かってる。パパのことを大事に思ってるからこそ、そう言ったんだよ」「パパが元気になったら、一緒に連れて帰ってくれる?」「うん。退院できたら、すぐに一緒に帰ろう。もう二度と、私たちから離れさせない」とわこがそう言った瞬間、病床の上で、奏の指がかすかに動く。通話を終え、とわこは気持ちを整えてから、振り返り、病床の奏を見る。椅子に腰を下ろし、
部屋の中。瞳は枕を抱きしめ、ベッドに横になっている。スマホを手に取り、連絡先からとわこの番号を探して発信する。少しして、電話がつながった。「とわこ、私……裕之と喧嘩しちゃった。復縁したの、間違いだった気がする」瞳は嗚咽混じりに言う。「男の人は毎日外で接待しても許されるのに、どうして私だけダメなの」「瞳、泣かないで。この件はちゃんと話し合えば、きっと折り合いのつけ方が見つかる」とわこは落ち着いた声でなだめる。「何度も話したよ。今は一、二か月忙しいだけで、その後は頻繁に接待しないって。口では分かったって言ってたのに、今日はすごく怒ってた」瞳は手で涙を拭う。「それに、母のことまで悪く言うから、私が我慢できなくて、手を出しちゃった」「裕之がおばさんを悪く言うなんて。そんな人じゃないと思うけど」「自分の耳で聞いたの」「どういう言い方だったの?」「……忘れちゃった。あまりに腹が立って、はっきり覚えてない」瞳は泣きながら言う。「とわこ、もしあなたの立場だったらどうする?今、すごく迷ってる」「本当におばさんを侮辱したなら、それは許せない。でも一度、ちゃんと確認したほうがいいと思う。言葉の受け取り方が違ってる可能性もある」瞳はかすれた声でうなずき、話題を変える。「奏には会えた?」「うん。かなり重い怪我をしてる。まだ意識は戻ってない」とわこは病室で付き添っている。「命の危険はないけど、回復には時間がかかりそう」「どうしてそんなことに?高橋家の人間でしょう。真帆、本当に役に立たない」「その話はやめよう」とわこは、付き添い用ベッドで横になっている真帆にちらりと視線を向ける。病室は広く、ベッドのほかに付き添い用の簡易ベッドが一つ置いてある。奏の入院中、真帆は毎晩そこで寝ている。今夜、とわこはホテルに戻るか、病室の机でうつ伏せに寝るしかない。ホテルには戻りたくない。戻ったら、明日真帆に病院へ来るなと言われそうだ。でも、机で寝るのも気が進まない。夜十時頃、まぶたが重くなり、身動き一つしない奏を見つめる。少し考えたあと、とわこはベッドのそばへ行き、慎重に横になった。「とわこ、何してるの?」真帆は、奏と同じベッドに横になるとわこを見て、付き添いベッドから飛び起きる。「寝てるだけ」とわこは無邪気な顔で言う。
裕之がどれだけ彼女を罵っても、瞳は腹を立てない。けれど、遠回しに母親まで巻き込む言い方をされた瞬間、怒りが一気に爆発する。瞳は手を上げ、彼の頬を思いきり平手打ちした。「裕之、忘れてないわよね。前に接待で、何度も泥酔して帰ってきたでしょ。家中に吐いたことだってある。それで私、あなたの母を罵ったことある?ないよね。最低。あなたに私を責める資格はない。ましてや私の母のことを口にする資格なんてない。たとえ私が酒を飲んだとして、それが何?妊活すると言っただけで、今すぐやるなんて一言も言ってない。仕事のために先延ばしにしちゃいけないの」人前で平手打ちされ、裕之の自尊心は粉々になる。しかも彼の本意は、彼女の母が外で酒の席に出ていたという意味ではない。母親は彼女のように外で接待などしていなかったし、彼女もそこまで無理をする必要はないと言いたかっただけだ。彼女は意味を取り違え、そのうえ手まで上げた。胸が激しく上下し、頭の中はぐちゃぐちゃになる。思考はそこで止まる。この言い争いを取り返しのつかないものにしないため、彼は必死に怒りを押さえ込む。裕之は車のドアを開けて乗り込み、勢いよくドアを閉める。アクセルを踏み込み、車を走らせる。走り出した瞬間、バックミラーに映る瞳の姿が目に入る。瞳は彼のほうを見ていない。バッグから鍵を取り出し、車のロックを解除して乗り込む。彼女が車に乗ったのを見て、裕之はスピードを落とし、どちらへ向かうのか確かめようとする。すると彼女は、自宅とは逆の方向へ走り去った。裕之は一気に血の気が引く。すぐに車を止め、瞳に電話をかける。瞳はすぐに出る。「何?」「どこへ行く?」裕之は怒りを抑えた声で言う。「実家に帰る。裕之、少し冷静になろう」裕之は深く息を吸い、冷たい口調で答える。「分かった。冷静になろう」彼女は何も言わず、切りもしない。そこで、裕之のほうから電話を切った。二人とも感情が高ぶり、誰も譲ろうとしない。これまでも何度も喧嘩はしてきたが、復縁してから、これほど激しいのは初めてだ。通話が切れた音を聞き、瞳の目に涙がにじむ。本当は、取るに足らない出来事だったはずだ。どうしてここまでこじれてしまったのか。泣きながら車を走らせ、松山家の門の前で停車する。両親は娘が帰っ
そのことで、二人はよく言い争いになる。階下で家政婦が煎じている漢方薬は、瞳が病院を回って処方してもらい、買ってきたものだ。朝昼晩の一日三回、欠かさず飲むことになっている。瞳は二日間きちんと飲み続け、今日は三日目だ。今日は昼に帰ってこなかった。今夜も、何時まで仕事になるのか分からない。裕之はベランダに出て息をつき、彼女の番号を押す。コール音がしばらく続き、ようやく電話がつながった。「あなた、今ちょっと抜けられなくて……帰るの、遅くなると思う。先にご飯食べてて。待たなくていいから」瞳のその言葉に、裕之の胸に一気に火がつく。「ちゃんと妊活するって言っただろ。薬は飲まないのか?今日の昼も飲んでないじゃないか」怒りはあるが、強い口調にはできない。瞳が拉致事件に遭って以来、彼は彼女に怒鳴ることが怖くなっていた。「昼は帰って飲むつもりだったよ。でもあなたが、疲労運転は危ないから会社で休んでろって言ったでしょ。一回くらい抜けても平気だって」瞳はそう言い返す。「一回ならいいって言った。でも今夜も帰れないなら、二回抜けることになる」「じゃあ、持ってきてくれる?今、家にいるんでしょ」瞳が問い返す。裕之は深く息を吸う。「分かった。位置情報を送って。届けるから」電話を切ると、裕之は階下に降り、家政婦に頼んで煎じた漢方を保温容器に詰めてもらう。家政婦は作業しながら、小声でぶつぶつ言う。「旦那様、奥様を甘やかしすぎですよ。妊活中の女性が、毎晩外でお酒なんて。妊活中は飲酒はダメです」家政婦は裕之の母が寄こした人間で、気持ちは完全に渡辺家寄りだ。「瞳は飲んでないって言ってる。ジュースだけだそうだ」「でも毎晩、着替えた服からお酒の匂いがしますよ」「周りが飲んでいれば匂いがつくこともある。今の僕だって、全身漢方の匂いだ」裕之は眉をひそめる。「それに、この薬が効くのかも分からない。こんなに苦いの、以前なら瞳は絶対に飲まなかった」「旦那様は本当にお優しい。奥様は毎日接待で外出ばかり。ご両親が知ったら、きっと怒ります」「両親には言わないで。この忙しさが落ち着けば大丈夫」裕之は家政婦から保温容器を受け取り、大股で外に出た。高級レストランの個室。裕之が容器を手に扉を開けた瞬間、腹の出た中年男が酒のグラスを持ち、無理やり瞳に飲ま
三郎は、彼女の言葉が冗談ではないと悟る。まさか、本当なのか?もし本当なら、なかなか面白い話だ。本来なら静かに成り行きを眺めていればいい立場だ。それなのに、こめかみがちくりと痛み出す。奏ととわこが揉めるとしても、それが日本なら自分には関係ない。だが、これから起きる衝突は、どうやらここで表面化する。ここで争われたら、他人事として腕を組んで見物するわけにはいかない。とわこは三郎さん、とまるで本当の兄のように自分を呼び、やけに親しげだ。最初の頃は、とわこが自分を頼って来るのが正直うっとうしかった。だが、いつの間にか慣れてしまい、今ではそれほど煩わしくも感じない。「お腹の子で奏を縛れるなら、とわこをそんなに警戒する必要があるのか。ここにいさせておけばいい。奏が回復してから考えればいいだろう」真帆は怒りを必死に抑える。「そこまで言われて、まさか本当に殺せとでも?」「もし殺したら、奏は君を絶対に許さない。子どもを宿したからといって、なんでもできるつもりになるな。真帆、君は剛じゃない。たとえ人を殺す覚悟があっても、同じにはなれない。言い方がきついと思うなら謝るが、君に、自分で掴める人生を大事にしてほしいだけだ。自滅するな」真帆は次第に落ち着きを取り戻す。「分かっています。奏の一線がどこにあるかも。私はただ、奏をそばに置いておきたいだけ。とわこが奪いに来ないなら、彼女に危害を加えるつもりはありません」「奪うなんて言い方、奏を商品みたいに扱ってるな」三郎は笑う。「目を覚ましたら、奏は行きたい場所へ行く。君には止めようがない」「もし彼が去ると言ったら、あなたは手を貸しますか」真帆の目にうっすら涙がにじむ。「俺だけじゃない。玲二も四平も力を貸す」三郎は落ち込んだ彼女の顔を見る。「奏は俺たちとは違う人間だ。それに能力が高すぎる。ここに残れば、玲二や四平にとっては脅威になる。同類になれない相手は、いずれ敵になる」「ということは、奏がここを去れば、高橋家を狙うということですか」真帆の胸が冷える。「その点は、もう奏と話がついている。利益の一部は、必ず返させる。だが高橋グループには手を出さないと約束した。お前がこれからやるべきことは、高橋グループを外部に奪われないよう守ることだ」真帆はうつむき、涙がぽろぽろとこぼれ落ちる。「