「結菜だって、結局見つかっただろ?」奏は眉をひそめ、別の案を提示した。「黒介を殺さないというなら、和夫一家を始末するしかない」とわこは沈黙した。その提案は、彼女には到底受け入れられない。彼に人を殺してほしくなかった。「奏、まだ風邪が治ってないんだから、まずはゆっくり休んで」彼女は目を伏せ、そっとささやいた。「黒介のことは急がなくていい。病院にはボディーガードをつけてるし、和夫も簡単には近づけないわ。あなたの体調が良くなったら、もっといい方法を一緒に考えよう」「とわこ、逃げても何も解決しない」彼の声は冷たく、刃のようだった。「俺と奴は、共存できない」「どうして?黒介はあなたの何も奪わない。結菜と同じ普通の意味での人じゃない。もし結菜が生きてたら、あなたは結菜まで殺すつもりなの?」彼女は眉をひそめ、問い詰めた。「そんなのは詭弁だ。結菜はもう死んでる。だからその仮定は成り立たない」彼は鋭く言い返す。「詭弁を言ってるのはどっちよ?黒介は一体何をしたっていうの?どうしてあなただけが彼を受け入れられないの?」とわこは、こうなることを予想していた。けれど、彼がここまで強硬だとは思っていなかった。「彼に罪はない。悪いのは俺だ」奏の顔には陰りが差し、低く言い放った。「俺は、奴の人生を奪っておきながら、それを一生返すつもりもないんだ」「奏、私はあなたを責めてなんかない」彼女は苦しげに息を吸った。「あなたの人生は、自分で選んだものじゃない。あなたもまた、被害者なのよ」彼は黙って布団をはねのけ、ベッドを降りた。彼女は、彼が長い足取りで洗面所へ入っていくのを見つめながら、胸が締め付けられる思いだった。彼を説得するのは、無理かもしれない。この問題に、正解なんてないのかもしれない。彼の言う通り、もし黒介を隠したとしても、和夫は命をかけて探すだろう。和夫が生きている限り、それは止まらない。つまり、黒介が死ぬか、和夫が死ぬか。どちらかが消えない限り、この問題は永遠に火種を抱え続ける。朝食の時間。千代は彼ら二人をそっと観察した後、何も言わずに立ち去った。どうやら、二人の間の溝はまだ埋まっていないようだった。千代が出ていった後、とわこは重い沈黙を破った。「奏、私、考えてみたの。仮に黒介の存在が知られて、あなたの出自が公に
ボディーガードはすぐには反応できなかった。彼女が言った「夫」とは、一体誰のことなのか。「誰ですか?夫って?」ボディーガードは声を張り上げて尋ねた。奏は、とわこのスマホから漏れるスピーカーモードの声を聞き取った。とわこの顔は一瞬で真っ赤に染まる。「奏に決まってるでしょ。もうすぐ結婚するんだから」「へえ、まだ結婚してないのに、もう夫呼びですか?」ボディーガードは茶化すように笑った。「まあいいや、じゃあそっちはそっちで看病でもしててください。こっちは黒介の相手でもしときますから」奏が隣にいなければ、とわこはきっとボディーガードに頼んで、電話を黒介に代わってもらっていたはずだ。少しでも黒介の気持ちを落ち着かせたかった。でも、今は奏が目の前にいる。そんなこと、とてもできなかった。電話を切った後、彼女は彼の方を見た。奏はすでに体を背け、背中を向けていた。彼女はスマホを置き、そっと彼に近づいた。「奏、具合どう?」言いながら、そっと彼の額に手を当てる。彼は昨夜のことを思い出し、不機嫌そうにその手を払いのけた。「ごめんなさい、昨日は私が悪かったの」彼の胸に体を預けるようにして、柔らかく言った。「お腹すいてない?朝ごはん持ってこようか?」「なんであのバカの看病に行かない?」低くこもった声で彼が言う。「だって、あなたの方が大事だから」そう言って、彼の体を無理やりこちらに向けさせた。「ねえ、見て。指輪、つけたの。サイズ、ぴったりだったよ」彼は彼女の指に光るダイヤの指輪を見つめる。怒りがこみ上げそうになったが、どこかで抑えられてしまった。昨夜、熱に浮かされながらも、彼女が腕の中で言った言葉を彼は覚えている。彼女がわざと遅れたわけじゃないと信じている。けれど、彼と黒介の関係は、絶対に共存できないものだった。彼女が口では自分を愛してると言いながら、黒介と関わり続けるのは、許せなかった。たとえそれが、同情や哀れみであっても。「黒介のこと、あなたが受け入れられないのは分かってる」彼の表情が冷たく沈んでいるのを見て、彼女は心を開いた。「彼は結菜のお兄さんだから、それも分かってる」その言葉に、彼の目に鋭い光が宿る。「彼は私の患者だから、隠せるわけない」彼女はベッドを降り、水を汲みに行く。「でもね、和夫が彼にほんの少し
彼の身体は寒さに震えていた。さっき、彼女が腕の中から離れた瞬間、凍えるような冷たさが全身を襲いまるで死の淵にいるような感覚だった。だから彼は、彼女を離せなかった。「奏、お願いだから、もう自分を傷つけないで」彼女は必死に訴えた。「私が悪くても、あなたが悪くても、自分をこんなふうに追い込むのはやめて」彼の呼吸は、ますます荒くなった。熱を帯びた身体からは、まるで火が燃えているかのように、熱気が放たれていた。彼女は焦り、不安でたまらなかった。このまま高熱が続けば、命に関わるかもしれない。「奏、お願い、薬を取りに行かせて」彼女は力いっぱい彼の腕を振りほどこうとした。だが彼は、それを許さなかった。「奏!本当に死にたいの?」彼の手があまりに強く、痛みに顔をしかめながら叫んだ。怒鳴りたくなんてなかった。でも、こうでもしなければ、彼は目を覚まさない気がした。その怒鳴り声に、彼の握る力が少しだけ緩んだ。けれど、それでも放そうとはしなかった。彼女は彼の目の前に座り、動けず、戻る気にもなれず暗闇の中、ただじっと向かい合っていた。「本当に、死にたい」低く掠れた声が、静寂を破った。熱に浮かされているのか、それとも正気なのか、判断がつかない。「死なせない」彼女は怒りに震えながら言った。「あなたが死んだら、私と子どもたちはどうなるの」「財産は全部渡す。きっと、問題なく暮らしていける」彼の声には、絶望が滲んでいた。息を呑むほどの深い闇を感じる声音だった。「なんで死にたいの?私が遅れたから?ただ、それだけのことで」彼女の声が詰まり、涙が溢れそうになる。「疲れたんだ」ぽつりと漏らされたその言葉に、すべてが詰まっていた。遅刻はただのきっかけに過ぎなかった。彼は、ずっと疲れていたのだ。生きていることそのものが、間違いだと感じていた。彼女は目に涙をためながら、思いきり彼の腕を振りほどいた。そしてベッドから飛び降りると、照明をパッと点けた。明るい光が部屋に広がる中、彼女はベッドの下に立ち、冷たい眼差しを彼に向けた。「奏、今、あなたは熱でうわ言を言ってるだけだって私は思ってる。誰が死んでもいいけど、あなたはだめ。私一人で、三人の子どもを育てるなんて無理!もし死ぬって言うなら、私も一緒に死ぬわ!子どもたちなんて、放っておくしかない」
彼女には確信があった。彼は眠っていない。あれだけ怒っていたのだから、眠れるはずがない。今、自分がドアを開けて入ってきた音も、きっと聞こえているはず。彼女は一歩一歩、ベッドに近づいていった。彼が何も言わなければ、そのまま隣に横になって眠るつもりだった。一日中あれこれあって、彼女も疲れていた。ベッドの端に腰掛け、布団に入ろうとしたそのとき「出て行け」低く、怒りを押し殺した彼の声が暗闇から響いた。「出て行かない」彼女はあっさりと布団に入ると、彼の隣に身体を滑り込ませた。そして、彼が動き出す前に、その身体をぎゅっと抱きしめた。彼の身体は硬直し、息遣いが荒くなる。まるで、次の瞬間に爆発しそうなほどの緊張感だった。「奏、ごめんなさい。本当に、悪かったと思ってる」彼女は彼の首元に顔をうずめ、小さな声でささやいた。「あなたが私のために用意してくれたライトショー、ちゃんと見たよ、ダイヤの指輪も」その言葉が、ようやく鎮まりかけていた彼の感情に再び火をつけた。彼は彼女を乱暴に突き放し、かすれた怒声を上げた。「触るな!」彼女は一瞬固まったが、すぐにもう一度彼を抱きしめた。「奏、私はあなたの気持ちを疑ったことなんて、一度もない」彼女は心の奥を、そのまま言葉にしてぶつけた。「私の想ってる人は、最初から今までずっとあなただけ。もし今夜あなたがプロポーズするって知ってたら、何があってもすぐに会いに行った」彼の胸が大きく上下している。息は荒くなっているのに、言葉は一つも返ってこなかった。頭がズキズキと痛み、身体が妙に熱い。とわこが彼に絡みついてくることで、息苦しさが増していった。彼はもう、彼女を突き放さなかった。どうせ突き放しても、また戻ってくると分かっていたからだ。「奏、電話に出られなかったのは、スマホの充電が切れてて、しかもバッグに入れっぱなしだったから。電源が落ちてたなんて、気づいてなかったの」彼女は次々と言い訳を重ねる。「あなたとの約束を忘れてたわけじゃないよ。黒介の具合が少しでも良くなったら、すぐにあなたのところへ行くつもりだったの。でも、彼がずっと嘔吐してて、見捨てられなかったの」「黒介」その名前を聞いた瞬間、彼の感情に再び火がついた。「奏、お願いだから怒らないで」彼女は彼の胸の中に身体をすり寄せ、真正面
「そうだよな。叔父さんが和夫の息子なんて、ありえないよな」弥はそう言いながら、和夫の写真をじっと見つめた。その写真は、あの日レストランで撮られた監視カメラの映像を切り取ったものだったため、少しぼやけていた。はっきりとは見えないが、輪郭や顔立ちの雰囲気はなんとなく分かる。「父さん、叔父さんと和夫ちょっと似てると思わない?」弥はその写真を悟に手渡した。「最初は全然気にならなかったんだけど、一度似てるかもって思うと、もうそれにしか見えなくなるんだよな」悟は写真をじっと見つめ、次第にその表情が硬くなっていった。今まで奏の顔と和夫の顔を並べて比べたことなんてなかったが、弥の言葉に引っ張られるように、確かに何となく似ている気がしてきた。「もしさ、和夫にとんでもない実力を持った息子がいて、その気になれば政財界すら動かせるって話それ、叔父さんのことじゃないのかなって思えてきて」弥は首をひねった。「ほかの大物たちは、和夫と全然似てないんだ。似てるのって、叔父さんだけなんだよ」悟は言葉を失っていた。自分の母、つまり奏の母は、生前に奏のことを特別に可愛がっていた。だからこそ、奏が常盤家の血を引いていないなんて、一度も疑ったことがなかった。だけど、奏は性格も外見も、常盤家の他の人間とどこか違っていた。そこが、ずっと引っかかっていたのだ。「父さん、仮に奏が僕たちの家族じゃなくて、本当に和夫の息子だったとして今さら何ができる?常盤家はもう完全に没落したんだ。あいつ一人が、名だけを守ってる状態だ」弥はソファに体を預け、ため息をついた。「でももし、あいつがうちの人間じゃないならそれ相応の責任を取らせないと」悟は眉間に皺を寄せ、歯を食いしばって言った。「常盤グループを立ち上げたとき、あいつには母さんが莫大な資金を渡してるんだ。もしその出資比率を今に当てはめればグループの三分の一は、常盤家のものでもおかしくない」その言葉を聞いた弥の目が、一気に輝きを帯びた。「父さん!もし本当に奏がうちの人間じゃないなら、僕たち、大金持ちじゃん」「でもどうやって、それを証明する?」「DNA検査しかないだろ」「じゃあ、お前が奏に頼みに行くか?」悟は皮肉っぽく笑った。「あいつが、素直に応じると思うか?」弥は、途端にしおれてしまった。あいつに会うだけでも緊
千代はしばらく迷った末、黙って踵を返し、鍵を取りに行った。もしも奏ととわこの関係が「結婚を前提としたもの」でなければ、たとえ頼まれたとしても、千代が彼の部屋の鍵を渡すなんて絶対にしなかった。奏は千代を下働きのように扱うことはせず、常に敬意を持って接していた。でも、千代自身も一線を超えるような行動は慎んできた。もし一度でも奏の逆鱗に触れれば、容赦なく屋敷を追い出される可能性だってある。それでも、鍵を渡すという大きなリスクを冒したのはそれほどまでに、とわこが「未来のこの家の女主人だ」と確信しているからだ。鍵を手渡しながら、千代は彼女をじっと見つめた。「とわこ、まずはお風呂に入って体を温めなさい。風邪ひくわよ。服、持ってきてあげるから」とわこは強く鍵を握りしめたまま、ちらりと階段のほうへ目を向けた。奏、今なにしてるのかな。これから部屋に無理やり入ったら、追い出されるかもしれない。その頃、別の場所では。気に入っていた物件を和夫に奪われてからというもの、悟と弥は依然として借家暮らしを続けていた。この数日間、弥は何件か内見に行ったものの、どれもいまひとつピンと来ない。一方、悟はもはや物件探しどころではなかった。彼の頭を支配していたのはただ一つ「和夫の息子って、いったい誰なんだ?」この疑問が、彼の胸にトゲのように刺さっていた。答えを得なければ、夜も眠れない。彼は富豪ランキングに載っている、和夫より若い実業家たちの写真を片っ端からプリントアウトし、何度も何度も見返していた。ちょうどそのとき、弥が風呂から上がり、水を飲もうとリビングに入った瞬間、それを目にして、怒りが爆発した。「父さん、頭おかしくなったのか?」弥は憤りを込めて言った。「そんな写真ばっか見てたら、うちらが金持ちになれるっての?」悟は顔を上げ、息子を睨みつけた。「お前が見てるのはそこじゃない!俺は和夫の息子を探してるんだ!なんで他人の息子はあんなに優秀で、俺の息子は何をやってもダメなんだ」「僕に言ってんのか?」「そうだよ!他に誰がいる」悟は怒鳴りつけた。「投資すりゃ失敗、事業すりゃ赤字、そんな無能の極みだよ!今うちに残ってる資金も、どうせまたお前が無駄にするんだろ?だったらいっそ全部失ってくれたほうがマシだ!俺はその後、警備員でも清掃員でもやるさ