「中には入りたくない」とわこは涙声で言った。「彼がどれだけここで待ってたか、私も同じ時間だけ、ここで待ちたいの」給仕は、その細い身体を見て、風邪をひくのではと心配になった。すぐにスタッフを呼び、屋外用の大きなパラソルを設置させた。それから、彼は厚手のブランケットを持ってきて、とわこの肩に優しくかけた。「とわこさん、厨房には既に連絡を入れてあります。今夜のディナーをどうか召し上がってください。それが終わったら、奏さんに謝りに行ってください。ここでじっとしているより、そのほうがきっと」やがて、色とりどりの料理が次々と運ばれてきた。美しく盛り付けられた皿の数々それは、もはや晩餐というより、芸術だった。とわこはその光景を見て、ようやく気がついた。なぜ、彼があんなに怒ったのかを。今夜のデートは、普通の食事なんかじゃなかった。有名ピアニストを招いて演奏を依頼し、華やかなライトショーを準備し、この豪華すぎる料理、これはもう、ただの「デート」じゃなかった。「とわこさん、こちらのお料理は、ぜひご自身で開けていただきたいのですが」給仕が五皿目を指差してそう言った。とわこは、促されるまま銀色のカバーを持ち上げた。そこにあったのは蓮の花のように美しい点心、そしてその横に添えられた一匹の金魚。金魚の口には、ダイヤの指輪が咥えられていた。その瞬間、彼女の視界にはそれしか映らなかった。「これ」とわこは呟いた。「奏さんは、今夜、とわこさんにプロポーズするご予定でした」給仕は静かに語る。「この日のために、前日から準備に取りかかっていたんです。とわこさんが目にするものすべてが奏さんの、あなたへの想いなんです」とわこの頬を、涙が静かに伝った。彼女はもう一度、周囲を見渡した。色とりどりのライトの下に、鮮やかな花々が咲き誇っていた。見れば見るほど、心に広がるのは後悔だった。一秒だって、もう居られなかった。彼女はそっと、金魚の口から指輪を取り出し、握りしめる。そして、そのまま大きな歩幅でテラスを後にした。彼に会わなきゃ。謝らなきゃ。絶対に、許してもらわなきゃ。まさか、今夜プロポーズされるとは夢にも思わなかった。だって、彼女はすでに「結婚する」と返事をしていたから。でも、もしそれを知っていたなら、どんなに急いででも、彼の
「プレゼントは?」彼の掠れた声が、雨音の中で静かに響いた。低い声だったが、なぜか胸の奥に突き刺さるような強さがあった。とわこの身体はその場で固まった。「どうして嘘をついたの?」彼の瞳は凍るように冷たく、目を見開いたとわこを真っ直ぐ見据えた。彼女が黒介のために病院へ行ったこと、それ自体が許せないわけではない。だが、何も告げずにこっそり行ったことが、許せなかった。「ごめんなさい、奏」とわこは大きく息を吸い込み、再び彼の腕に手を伸ばした。「もうやめて。風邪ひいちゃうよ、中に入ろう?」だが彼は、またその手を払った。「そいつはどうした?」冷たく抑揚のない声。雨に濡れたその顔は、まるで冷たい彫像のようだった。「病院で、もっと看病してあげたらどうだ?」「寝たの。薬を降圧剤を一本、全部飲んで。もう少しで死ぬところだった。救急処置が間に合わなければ」とわこは喉が詰まる思いで説明した。「死ねばよかったんだ」奏の声が荒々しく響いた。「今すぐ死ななくても俺が殺してやる」「奏」その言葉は、とわこの心臓を締め付けた。「それは怒りに任せた言葉でしょ。私が悪かった。連絡もしないで、あなたをここで待たせて本当にごめん。中に入ろう?お願い」彼女は彼の腕を掴んで引き起こそうとしたが、彼の身体はまるで石のように動かず、冷たく拒絶したままだった。無力感と恐怖が、とわこの全身を覆っていく。このままじゃ、本当に風邪を引いてしまう。けれど、今の彼は何を言っても聞いてくれない。どうしようもない絶望の中で、彼女はとうとう、声を上げて泣き出した。彼は、その泣き顔をじっと見つめた。雨に濡れたその横顔は、ひどく哀しく、美しかった。今夜、何をする予定だったんだっけ?そうだ、プロポーズ。彼は何度も想像していた。穏やかな音楽が流れる中、二人で笑いながらディナーを楽しみ、未来の話をする。五皿目の料理と一緒に、指輪の入ったプレートが届くはずだった。彼女がカバーを開けた瞬間、その中のリングを見て驚く顔を想像していた。でも今、そんなサプライズはもう、意味を失っていた。「とわこ、涙を流せば、欲しいものが手に入ると思わないで」椅子から立ち上がり、奏は彼女の濡れた顔を見下ろして言った。その声は冷たく、どこまでも寂しかった。「俺も試したことがある。でも何も、
彼女の言葉が終わった瞬間、黒介は彼女の腕を放した。だが彼はそのまま彼女を見つめ、涙をぽろぽろと零した。とわこはその姿を見て、とてもじゃないが立ち去れなかった。彼女は自分のバッグからスマホを取り出し、奏に電話をかけようとした。だが電源ボタンを押しても、画面は真っ暗なままだった。どうやらいつの間にか電池が切れて、電源が落ちていたようだ。「携帯、少し貸して。電話したいの」とわこはボディガードに頼んだ。ボディガードはすぐにスマホのロックを解除し、彼女に差し出した。彼女は奏の番号を入力して発信した。どうやって彼に説明すればいいか、頭の中で必死に考えを巡らせる。嘘はきっと通じない。正直に話すしかない。コール音は鳴ったが、電話は出てもらえなかった。自動的に切断された後、とわこはスマホを返した。「充電器、看護師さんに借りてきてもらえる?スマホ、電池切れで」とわこが頼むと、ボディガードはすぐに病室を出ていった。彼が出て行ったあと、とわこは黒介を見て言った。「今は帰らない。少し気持ち悪さが収まったなら、目を閉じて休んで。あんたの体が早くよくならないと、ここから連れ出せないから」その言葉に、黒介は静かに目を閉じた。しばらくして、ボディガードが充電器を手に戻ってきた。とわこはスマホを充電し、電源を入れた。そこには奏からの数件の不在着信が残っていた。彼にかけ直したい気持ちはあったが、黒介の眠りを妨げたくなかった。彼が眠ったあとで、会いに行こう。そう思いながら、彼女は奏にメッセージを送った。「あとで会いに行く」雲墨が眠りについたら、すぐに彼のもとへ向かうつもりだった。窓の外では、雨がガラスに激しく打ちつけていた。パチパチと響く音が耳を包む。とわこは雨が嫌いではない。むしろ、雨音を聞くのは好きだった。心が静まる気がするからだ。だが今夜は違った。いくら耳に雨音が届こうと、胸の中は乱れに乱れていた。奏からは、返信も電話もなかった。きっと怒っているのだろう。もし立場が逆だったら、自分のほうが、もっと我慢できなかったかもしれない。今夜の約束は、朝から決まっていたのだ。だから、どんなに怒鳴られても、責められても、受け止める覚悟はできている。約四十分後、黒介の呼吸は穏やかになり、深く眠りに
彼女のスマホ、どうして電源が切れてるんだ?事故にでも遭ったのか、それともバッテリー切れ?「プレゼントを選んでる」って言ってたけど、2時間も選び続けてるなんて、ありえない。電話が繋がらず、仕方なくボディーガードにかけた。ボディーガードが電話に出た。「社長のスマホ、鳴ってませんでしたよ。今、病院にいます。本人が病気じゃなくて、誰かの付き添いです」「誰が入院してる?」奏の声に緊張が走る。ボディーガードは一瞬言葉に詰まり、迷ったように言った。「詳しくはちょっと、でも男の人です」「言わなくても、どうせ調べればわかる。いいから言え」奏の目が鋭くなり、声も冷たくなる。ボディーガードは冷や汗をかきながら、しぶしぶ答えた。「彼女の患者です。名前は黒介」その名を聞いた瞬間、奏の目に冷たい光が宿る。とわこが来なかった理由は黒介に付き添っていたから。しかも電話では、「プレゼントを買いに行った」と嘘をついていた。本当は黒介のそばにいたのに。奏は電話を切り、椅子に腰を下ろした。その瞬間、空から細かい雨が降り始めた。朝の天気予報では「曇り」だったから、テラスに飾り付けをしたのに。スタッフが傘を差して近づいてきた。「奏さん、雨が降ってきました。室内に移動されますか?」だが奏は動かない。彼が知りたいのは、とわこは、今夜、来るのかどうか。「奏さん、とわこさんはいつ頃到着されますか?よろしければ、先にお食事だけでも」「どけ」冷たい声が返る。「放っておけ」病院。ボディーガードは電話を終えて病室に戻った。ちょうどそのとき、黒介が激しく嘔吐していた。とわこは彼を支えながら背中をさすり、ティッシュを手渡している。ボディーガードは眉をひそめた。確かにこの状態では、付き添いが必要そうだ。だが、彼女がいなくても看護師はついている。そう考えたボディーガードはとわこに近づき、声をかけた。「社長、今夜、奏さんと約束してたんじゃないですか?」「うん、どうして知ってるの?」とわこは焦ったように聞き返した。行かなければならないとわかってはいたが、黒介の様子を見ると、なかなか離れられなかった。「服装見ればわかりますよ。完全にデート仕様じゃないですか。先に行ってください。俺がここ見てますから」とわこは一瞬迷
そんなの、認められるわけがない。「とわこ、待てよ」和夫は彼女を追いかけ、腕をつかんだ。「お前、いい加減にしろよな!俺を舐めすぎるな。追い詰められたら、何をするか分からねぇぞ!俺はな、奏のすべてを知ってんだ。俺があいつと本気で揉めたらどうなるか、わかってんのか。黒介を預かってるのは、ただ奏からちょっと金をせびるためだ!命までは取らねえよ!もちろん黒介の命もだ」とわこは拳を握りしめ、低く言い放った。「金が欲しいなら、直接奏に言えばいい。でも、黒介はもうあなたには渡せない。彼がまた死のうとしたらどうするの?私はあの子の心をようやく癒したのよ。もう、そんな危険に晒すわけにはいかないの」その言葉に、和夫は本気で彼女を殺そうかと思った。だがここは病院だ。周りには見ている人間も多い。今は手出しできない。思南ホテル。奏はすべての準備を整え、とわこが来るのを今か今かと待っていた。裕之からメッセージが届いた。「瞳と別れたようなので、とわこさんはもうすぐ向かうはず」時計を見ると、すでに午後5時半。裕之からの連絡は5時だった。とっくに着いていてもおかしくない時間だ。プロポーズのセッティングは二階のテラス。色とりどりの花々に彩られ、夜になればライトアップショーも始まる。有名ピアニストによる生演奏も手配済み。シェフたちもコース料理の仕上げに入っている。だが、空が暗くなってきても、とわこは現れなかった。奏は二階の欄干に寄りかかり、車の出入りを見つめていた。「今度こそ、次に来る車に乗っていてくれ」と思った。午後6時。奏は一瞬たりとも無駄にせず、スマホを取り出し、とわこに電話をかけた。すぐに通話が繋がった。「奏、もう少し待って。すぐ行くから」とわこの声が聞こえた。彼女は病室の外で通話している。黒介はさっき目を覚ましたばかりで、体力も精神もまだ不安定。そのせいで、とわこは今すぐ離れることができなかった。彼の気持ちが落ち着くまでは、そばにいなければならなかった。奏は眉をひそめた。「どうして?」「あのね」とわこは本当のことを話したかった。でも、もし黒介の居場所を伝えたら、彼に危険が及ぶかもしれない。迷った末、嘘を選んだ。「プレゼントを探してたの。まだ見つかってなくて」その言葉を聞いて、奏の顔がやわらいだ。
さっき病院の医師から電話がかかってきた。黒介という患者が彼女を呼んでいるという。「今から来られますか?」と医師に訊かれた。名前を聞いた瞬間、とわこは迷うことなく「行きます」と返事をしていた。タクシーが走り出してからも、胸のざわつきは収まらない。黒介一体、何があったの?ただの風邪やケガなら、わざわざ病院には運ばれない。なぜ医師が連絡してきたの?なぜ和夫じゃないの?誰が医師に彼女のことを伝えたのか。それが和夫ではないことは確かだった。和夫が連絡を取りたければ、医師を通す必要なんてないはず。そう思うと、自然と眉間にしわが寄った。病院。黒介は応急処置を終え、一般病棟へと移された。和夫は、黒介がわざと降圧剤を大量に飲んで中毒を起こしたと知り、怒りで顔を真っ赤にしていた。このバカが、脳みそないくせに、自殺なんて高度なことやりやがって!死にたい?絶対に死なせるか!あいつが死んだら、どうやって奏を脅すんだ?どうやって金を引き出すんだよ。なんとしても、もう一度奏から大金をふんだくらなきゃならない。あいつが父親だと認めなくても、金さえあれば後の人生安泰だ。約四十分後。病室のドアが開いた。がっしりした男が一人、ずかずかと中に入ってきて、和夫を強引に追い出した。「お前、何してやがる?誰だてめえは」和夫が怒鳴る。「ここは俺の息子の病室だぞ!人違いしてんじゃねえのか」ボディーガードはうんざりした顔で返した。「患者の名前、黒介で合ってるよな?社長の命令で、お前をここから追い出せって言われてるんだよ」「は?社長って誰だよ?黒介は俺の息子だぞ」和夫は無様に叫んだ。二十年前なら殴りかかっていたかもしれない。だが、今の彼にそんな元気はない。年を重ね、体力は落ち、相手の体格にも圧倒されていた。「とわこさんだ」男はベッドの横に立ち、和夫に向かって怒鳴った。「彼女は今、医者と話してる。文句があるなら、本人に言え!もし彼女に手出ししようもんなら、てめえ、今夜の晩飯は食えねえと思えよ」和夫は歯を食いしばり、鬼の形相で医師のいる部屋へ向かった。とわこは医師から黒介の容体について話を聞き、診察室から出てきた。ちょうどその時、怒鳴り込みに来た和夫と鉢合わせた。彼女は足を止め、静かに言った。「少し話しましょうか」