「他人が何を言おうと、気にしなくていい」そう言って彼は彼女の小さな手を握り、抱き寄せ、顎を彼女の頭にこすりつけた。「ご飯、もう食べた?」「うん、食べたよ」彼の身体から薬品の匂いがして、彼女は少し不満げに呟いた。「朝はあまり食べてなくて、お昼すごくお腹すいてたから、しっかり食べた」「そうか」「和夫のこと大丈夫?重症になってない?」彼女は不安そうに聞いた。彼が和夫を見たとき、まるで我を忘れたような様子だったから。手加減せずに殴って、大事になっていたらどうしようと心配だった。「さあな。たぶん、まだ生きてる」彼はかすれた声で言った。「アイツさえいなければ、こんな面倒は起きなかった。アメリカで大人しくしてて、金を要求するだけなら、こんなに怒らなかった」「確かに、あの人は父親として最低だよ。でも奏、もう怒らないで。あの人がこれからどうなろうと、私たちには関係ないよ」「ああ」病院。和夫の身体は傷だらけだったが、幸い命に別状はなかった。医師が応急処置をしたあと、入院を勧めたが、和夫は「動ける」と言って入院を拒否した。病院を出ると、和夫はすぐに電話をかけた。相手は哲也。「すぐに病院に迎えに来い!」哲也「今、桜と一緒に空港に向かってるとこだ」「ふざけんな!オレの言うことが聞けねえのか?今すぐ来い!でなきゃ二度とオレの顔見れねぇと思え!」和夫は怒り心頭だった。もちろん、奏に殴られたからだけではない。殴られた時、自分も奏に二発お返しした。でもそのせいで、気持ちは余計に複雑だった。今、奏は常盤家から攻撃され、ネット中で叩かれて、顔も上げられない状況だ。こんな状態じゃ、これから金を無心するのも簡単にはいかない。こんなことじゃ困る。奏はもう常盤家の人間じゃない。今や、白鳥家の血を引く者だ。これは白鳥家と常盤家の戦いなんだ!和夫としては、白鳥家を負けさせるわけにはいかない。午後四時。和夫はある番号に電話をかけた。今の奏は、自分を憎んでいる。直接話すのは無理だ。だから奏の側近に話を通すしかない。和夫が調べたところ、奏の一番近くにいて信頼されているのは一郎だった。一郎は常盤グループの財務を握っていて、間違いなく影響力がある。和夫は電話をつなげ、自分の身分を明かしたうえで、自分の計画と要求を話した
「社長、招待客はみんな宴会場に移動しました」礼拝堂の外で、子遠がスタッフに聞いた情報を伝える。「よかったら、先に宴会場で食事をしませんか?とわこさんもそっちにいるかもしれませんし」奏はポケットからスマホを取り出した。画面にいつひびが入ったのか、割れていたが、操作には問題なかった。彼はとわこの番号を探し、発信する。すぐに通話が繋がった。「とわこ」「奏」ふたりは、同時に口を開いた。「今どこ?」「今どこにいるの?」再び、同時に言葉が重なった。数秒の沈黙のあと、とわこが先に答える。「別荘にいる。あなたは?」「今から行く。すぐに会いに行く」「うん」電話を切ったあと、とわこはようやく息を吐き出した。奏の声は、すでに落ち着きを取り戻していた。瞳が言っていたように、今日という日を乗り越えれば、二人の人生はきっとまた穏やかに進んでいく。もう何も、彼らを壊すことなんてできない。そう信じたかった。それから5分後、奏は別荘に戻ってきた。ふたりの視線が合った瞬間、どちらも言葉を失った。奏は、彼女がすでにウェディングドレスを脱ぎ、化粧も落とし、髪もセットし直していることに驚いた。今の彼女は、日常のロングワンピース姿で、見慣れた素顔をしている。そしてとわこは、彼の顔に包帯が巻かれているのを見て、思わず息を呑んだ。「結婚式、やめたの?」奏は落ち着かない様子で尋ねた。とわこは胸の奥が痛くなるのを感じながら、静かに言った。「奏、もう午後の2時過ぎだよ」「でも、何があっても式は挙げるって、約束しただろ?」「今のあなたの状態で、本当に式を挙げるつもり?服は汚れてるし、顔にはケガ。こんな姿でみんなの前に出て、誰かを驚かせたいの?もし本気で私と式を挙げたかったなら、せめて式が終わってから喧嘩してよ!」彼女は責めたくなんてなかった。でも、彼の方からこんなふうに訊いてくるなんて。彼女が礼拝堂で待ち続けていた時、彼は一秒でも彼女の気持ちを考えただろうか?奏は、自分が悪いと分かっているのだろう。何も言い返さなかった。「とりあえず服を着替えてきて。私、執事に昼食を運んでもらうよう頼むから」とわこは彼を寝室へと促した。「もう決めたの。式をやらなくてもいい。今日という日が、私たちの結婚記念日には変わりないん
子遠がまだ言い終わらないうちに、和夫がわめき始めた。「奏!てめぇこのクソガキ!人の話も聞かずに手ぇ出すとはどういうことだ!やるなら悟をぶん殴れよ!どうせ俺が親父だからって、加減してくると思ってるんだろ?ああ?情けねぇ!」奏は、和夫のパクパク動く口元を見て、心底うんざりしていた。その口から飛び出す言葉は、気持ちが悪い。もし、彼が黒介を連れて帰国して金をたかろうとしなければ、あの一連の悲劇は、そもそも起きなかったのだ。今ここにあるすべての混乱は、この男が蒔いた種だった。そんな自覚もないくせに、今日という日に乗り込んできて騒ぎを起こすなんて、もはや死に急いでいるとしか思えない!たとえ今日の結婚式が台無しになってもいい。だが、この男だけは絶対に許せない。二度と、調子に乗れないようにしてやる!一方、礼拝堂では。どれくらい時間が経ったのか、とわこは背後から聞こえてくる足音に気がついた。横目でそっと確認すると、マイクが戻ってきていた。「彼はどこに?」その一言は、思わず氷のような冷たさを帯びていた。こんなにも長く待っているのに、まだ彼は現れない。もしかして、もう来る気がないのでは?「ケガをして、病院に運ばれたよ」マイクは深いため息を吐いた。「とりあえず、食事をしよう」とわこの指先は、無意識にぎゅっと握られていた。本当は、彼の元へ駆けつけたい。でも、足が動かない。今はただ、ここに座っていたい。何も考えずに。「とわこ、気持ちは分かるけど、今日の状況じゃ、どう考えても式は無理だよ。せめてご飯を食べよう。式が中止になって、君まで倒れたら元も子もない」マイクは彼女の腕を掴み、連れて行こうとしたが、とわこはその手を振り払い、首を横に振った。「マイク、先に皆さんを食事に連れて行って」瞳が口を開いた。「結婚するのはあなたじゃないんだから、とわこの気持ちは理解できないでしょ」「分かった。じゃあ、先に行ってる」マイクは軽くため息をつき、招待客たちを宴会場へと案内していった。静まり返った礼拝堂には、とわこと瞳だけが残った。「とわこ、たとえ今日式ができなくても、あなたと奏はきっと幸せになれるよ」瞳はそっと隣に座って、優しく語りかけた。「今日は、本当にいろんなことが起きすぎた。もうこれ以上悪いことなんて起きない。だから大丈
リゾートの正門前。マイクと子遠は、和夫の突進力を甘く見ていた。普通の人なら、追い返されれば諦めて帰る。でも、世の中には絶対に引かない人もいる。和夫は、人生の大半をゴリ押しと逆ギレで生き抜いてきた男だった。彼は地面に腰を下ろして、大声で叫びながら暴れていた。実のところ、ボディーガードは指一本触れていない。というより、今日は事が事だけに、下手に手を出すことができなかった。なにせ、目の前の男は「奏の実の父親」だと名乗っている。そして、これ以上騒ぎが大きくなれば、近所の住民にまで知れ渡り、今日の結婚式が台無しになりかねない。奏が駆けつけた時、目に飛び込んできたのは、地面で転げ回っている和夫の姿だった。その瞬間、彼の体内を熱い怒りが一気に突き抜けた。今朝、悟と完全に決裂し、心の限界はとうに超えていた。そんな中、今度は和夫が結婚式を台無しにしに現れるなんて、まるで神様が、今日の彼に幸せを与える気など一切ないかのようだった。すでに世間では「極悪人」として指をさされている彼にとって、これ以上悪評が広がることなど、もはやどうでもよかった。「何しに来た?」奏はまっすぐ和夫の前に立ち、大声で問い詰めると、その襟首をガッと掴んだ。その様子を見ていた周囲の人々は、彼が次の瞬間、本気で殴りかかるのではと息を呑んだ。「お前が誰かにボコボコにされたって聞いてな!だから心配で来てやったんだよ」和夫は怒鳴り返した。「何だよこのクソガキ、人にやられた腹いせをオヤジにぶつけるってのか?さっさと手ぇ離せ!」とわこは声を出そうとしたが、喉が詰まったように何も言えなかった。彼がどれだけ怒りで満ちているか、すぐに分かった。今この感情を吐き出さなければ、きっと彼の心の中で何かが壊れてしまう。和夫は、まさに最悪のタイミングで地雷を踏んだ。「とわこ、先に礼拝堂へ行こう」マイクは、今後の展開があまりにも危険だと察し、彼女をその場から引き離した。奏の怒りは、もはや手がつけられそうになかった。マイクはとわこを半ば強引に連れて、礼拝堂へと向かう。荘厳で華やかな礼拝堂には、すでに多くの招待客が座っていた。マイクととわこが入ってくると、場の空気が一気にざわついた。式の開始時間から、すでに10分が経過している。司会者からは「式は30分遅らせる」と
「とわこが怖がってないのに、怖がる理由ある?」子遠は言い返した。「まさか、とわこに脳みそがないとでも言いたいわけ?」「お前らはそう思ってるかもしれないけど、世間は違うぞ。あの二人の子どもにだって影響あるかもしれないんだ」マイクは不安げに眉をひそめた。「奏が当時、どうして人を殺すことになったのか、その理由を説明してくれたら少しはマシになるのに」「社長が説明するわけない」子遠はきっぱり言い切った。「誰よりも他人に釈明するのが嫌いな人だ。でも、あそこまで極端な行動に出たからには、正当な理由があるはずだ。正当防衛とかさ」「そう、それは分かってる。でもさ、彼ってとわこにすら説明しないタイプでしょ?他人になんか、なおさら説明するわけない。とわこみたいに我慢できる人じゃなきゃ、到底付き合えないわ。あの頑固さ、今日ちょっとは懲りたんじゃない?」「まさか嬉しがってるのか?もし社長に罪があるなら、法が裁くだろ。でもな、今日の件は完全に仕組まれてた。組織的な嫌がらせだよ。絶対に奴らを許しちゃいけない。一人残らず、報いを受けさせてやる!」「まあ奏にとって、人生で初めての屈辱だったかもな。キツいわ」「いい加減にしろよ!」子遠は苛立って声を荒らげた。「彼はもうとわこの旦那なんだ。無事でいてもらわないと困る。じゃないと、とわこがもっと泣くんだよ!」「なんでいつも、とわこを盾にするんだよ?」「だって、とわこしか君を黙らせられないからな、いやなことばっか言う」しばらくして、マイクが薬箱を持ってとわこの元に戻った。「結婚式、30分遅らせた方がいいかもな。もうすぐ正午になるし」時計を見ながら、彼はとわこに提案した。とわこは少し考えたあと、コクリと頷いた。「彼に着替えさせたら、すぐ行くから」「それと、メイク直した方がいいよ。顔、泣き腫らしてる」マイクが小声で忠告した。「分かってる」彼女は薬箱を持って部屋に戻っていった。その頃、マイクは別荘の外に出て、司会者に式の延期を伝えに行こうとしていた。ちょうどそのとき、一人の警備員が慌てて走ってきた。「なんだよ、その慌てっぷり。何があった?」マイクが訊くと、警備員は困ったような顔をした。「別荘の入口に中年の男性が現れて、『自分は奏社長の父親だ』ってどうしても中に入れろって聞かないんです。招待状は持
ふたりは前に約束していた。たとえ悟がすべてを公にしたとしても、結婚式は予定通り挙げると。けれど今の彼の精神状態を見ると、とわこの胸は締めつけられるように痛んだ。結婚式を続けたい気持ちはある。でも、彼に無理をさせたくなかった。現地には多くの招待客が集まっていた。みんなが奏の知人友人ではあるが、今となっては、見世物を見るつもりで来ている者もいるかもしれない。そう思うと、とわこの心は乱れた。彼女の涙が、そっと奏のスラックスに落ちた。そんな彼女の顔を見て、奏がかすれた声で口を開いた。「泣かないで」その一言で、とわこの心が現実に引き戻された。「泣かない。もう、泣かないよ」そう言いながら、とわこは洗面所におたらいを戻し、クローゼットから新しいスーツのセットを取り出してきた。「もうここまで来たんだもん。ネットで広まった今となっては、怖がる必要なんてないよ」そう話しながら、ベッドにスーツを置き、彼のシャツのボタンを一つひとつ丁寧に外していった。シャツ自体は汚れてはいなかったが、しわくちゃだった。彼女は、奏にそんな姿でいてほしくなかった。何年もの間、彼はいつも気品あふれる貴公子だった。たとえ世間が彼を「殺人犯」と呼んでも、とわこの目には、今もなお冷静で気高い奏の姿しか映っていなかった。「奏、人が何を言おうと、私たちには関係ない。私たちは、ちゃんと結婚して、ちゃんと幸せになるんだから」そう口にしながら、とわこの声は詰まった。シャツのボタンを外し終えたとき、彼女の目に飛び込んできたのは、彼の身体中に広がる無数の痣。やっとの思いでこらえていた涙が、またしても止まらなくなった。あんな野蛮な連中がどうして、こんなにも彼を傷つけていいと思ったの?許せない。絶対に許せない。「痛くないの?」彼の傷口に、そっと指先を当てながら、かすかに震える声で尋ねた。「泣かないで。俺約束したよな。どんなことがあっても、結婚式には影響させないって」彼女の涙に触れたことで、奏の今にも崩れそうだった理性が、少しずつ戻ってきた。そうだ。とわこの言う通りだった。悟はもう、持っていたカードをすべて切った。これ以上、悪くなることはない。「うん、奏、私はね、この人生であなた以外の人なんて、絶対にいらない。たとえ本当に極悪非道な人間だったとしても、私はあ