LOGIN桃はエレベーターで最上階まで上がり、まっすぐ香蘭の病室へ向かった。雅彦が来ているのを見て、看護師は静かに道を開ける。部屋に入ると、ベッドに横たわる母の姿が目に入り、胸がきゅっと締めつけられた。桃は慌てて駆け寄った。雅彦は中に入らず、廊下で待っていた。母娘の再会に誰かが割って入るのはふさわしくないと考えたのだ。それに……彼がそばにいれば、桃の胸に嫌な記憶がよみがえってしまうかもしれない。母の顔を見た瞬間、雅彦のことなど頭から消えていた。桃は急いで母の顔色を確かめた。特に変化はなく、苦しんだ跡も見えない。ようやく心が少しだけ落ち着いた。桃はベッドに腰を下ろし、以前と同じように母の指や筋肉をほぐしながら、最近の出来事をひとつひとつ語りかけた。まるで母がまだ元気にそばにいるときのように。香蘭に反応はなかったが、桃は話し続けた。あのとき、子どもたちの声に呼び戻されるように意識を取り戻したことがあった。だから今も、語りかければ奇跡が起きるかもしれない。そう信じていた。どれくらい時間が過ぎただろう。雅彦は、桃が一人でいるのを心配して、そっとドアをノックした。桃はようやく現実に戻り、時計を見て立ち上がった。ちょうど切り上げるにはいい頃合いだった。「お母さん、明日また来るね」そう言って丁寧に別れを告げ、病室を離れた。廊下には雅彦が待っていた。桃はちらりと見ると、すぐに視線を逸らした。今は何事もなかったかのように静かだ。けれど、かつて雅彦が母を脅しの道具にしたことを思うと、平然としてはいられない。ただ、今はまだ彼に身を寄せているような立場なので、しばらくはこの表向きの平穏を保つしかないのだ。二人でエレベーターに乗る。桃はわざと距離を取って立ち、近寄ろうとしない。その意図を雅彦も感じ取った。彼は見えない位置で拳を握りしめ、そしてゆっくりと開いたが、結局何も口にしなかった。わずかな時間だったのに、空気は重く、息苦しかった。到着音が鳴るや、桃は待ちきれないように外へ飛び出した。病室に戻ると、美乃梨がすでに来ていた。二人の子どもは桃の姿を見つけると駆け寄り、しばらくじっと見つめてきた。「ママ、お医者さんなんて言ってたの?どうして検査がそんなに長かったの?」一瞬答えに詰まり、桃は前もって「検査に行く」と言って抜け出したのを思
電話を切ったあと、雅彦はふっと息をついた。母の件がこんなにあっさり解決するとは思わなかった。長引くもめごとになるだろうと覚悟していたのに。けれども、対立していた二人を離しておけるのなら、それも悪くないことだ。……病室に戻ると、桃が二人の子どもに物語を読んで聞かせていた。以前は毎晩こうして桃は子どもたちに絵本を読んで寝かしつけていた。離れていた間にたくさんの時間を逃してしまった。だから、もう寝かしつける必要がなくなった今でも、せめてこの方法で少しでも失われた親子の時間を取り戻そうとしているのだろう。雅彦は穏やかな光景に目を細めながらも、心の中では眉をひそめていた。薬や注射のおかげで桃の体調はかなり回復していたが、声はいまだにかすれている。これほど話し続ければ、きっと無理をしてしまう。子どもたちの笑顔を見ているうちに、自分の体を労わることを忘れているに違いない。「はい、今日はここまでにしよう。ママの喉もまだ調子がよくないから、話しすぎると疲れちゃう」雅彦は歩み寄り、桃の手から絵本を受け取った。子どもたちは最初、不満そうに雅彦をにらみつけたが、その言葉にハッとしたように母の病気を思い出し、心配そうに尋ねた。「ママ、大丈夫?」桃は首を横に振って微笑んだ。「そんなに弱くないわ」「いや、病人なんだから体を労わらないと。もし君たちが物語を聞きたいなら、代わりに俺がやろうか?」子どもたちは顔を見合わせて、そろって首を横に振った。「いいよ」そう言って本を受け取り、ランドセルに戻した。二人が離れたのを見届けてから、雅彦は声を落とした。「君のお母さんは、もうこの病院にいる。会いに行く?」桃は目を見開き、力強くうなずいた。「翔吾、太郎。ママを連れて先生と話してくる。ついでに検査も受けてくるから、二人はここでおとなしく待ってなさい」そう言うと雅彦は桃を抱き上げ、子どもたちに念を押した。だが桃は、そんな形で母に会いに行くことなど受け入れられなかった。外で誰かに見られでもしたら、どう思われるだろう。「放して!」「歩けるのか?」雅彦は疑わしげに桃を見下ろした。「言ったでしょ、私はそんなに弱くないって。早く下ろして」そう言うなり、桃は雅彦の腰のあたりを思い切りつねった。痛みを表に出さず、雅彦は静かに彼女を下ろ
美穂が意識を失ったあと、永名は信頼できる者に頼み、彼女の看病を任せた。そして雅彦にも連絡を入れた。その頃、雅彦はちょうど香蘭を桃のいる病院へ連れて行こうとしていた。二人の子どもには、祖母の今の状態を知らせたくなかった。すべては水面下で進められていた。その理由のひとつは、子どもたちが受け止めきれないかもしれないこと。もうひとつは、真相を知れば菊池家への憎しみが募ってしまうかもしれないことだった。桃も事情を知ったが、あえて追及はしなかった。自分はすでに菊池家への憎しみは限界まで積み重なっていた。けれど、子どもたちは関係ない。母親として、幼い心を最初から憎しみで染めたくはなかった。大人同士の問題は大人が処理すればいい。子どもには子どもの時間がある。無邪気に、自由に過ごせる子ども時代を守りたい――桃はそう願っていた。香蘭もきっと同じ思いだろうと信じていた。雅彦は香蘭を病院の最上階にある特別病棟へ送り、信頼できる部下を二人だけ配置して見守らせた。出入りも厳しく制限し、万が一に備える。すべての手配を終えたところで、雅彦のスマホが鳴った。永名からだった。一瞬、指が止まった。ここ数日、美穂のことをまったく気にしていなかったわけではない。だが、直接様子を聞くことはせず、執事を通して確認するだけだった。深刻な問題はないと分かり、ようやく胸を撫で下ろしていたのだ。それでも電話を取るかどうか迷い、最終的には応答した。雅彦の気持ちはもう決まっていた。永名が何を言おうと、美穂を手放す決意に揺らぎはない。桃を守るため、そしてこれ以上の混乱を防ぐためだ。「もしもし、お父さん」落ち着いた声で応じる。「うん、そっちはどうだ。桃はもう目を覚ましたか?」永名の声には複雑な響きがあった。誤解が解けた今も、桃に対する感情は簡単に片付くものではなかった。正直、好きにはなれない女だった。桃の存在で菊池家がどれほど振り回されたか分からない。けれど事実として、雅彦に二人の元気で可愛い子どもを産み、菊池家も確かに、彼女に対して多くの負い目を抱えている……雅彦は少し意外そうだった。永名が桃に嫌悪感を抱いているのを知っていたので、尋ねてくるとは思っていなかったのだ。「目は覚ました。ただ、まだ体調が戻っていない」「そうか……数日以内に君の母親を連れて海外へ行くことに
「安心して。無茶したりなんてしないから……でも、どうしてそんなに緊張してるの、美乃梨?何か隠してることでもあるんじゃない?」桃は美乃梨の目をじっと見つめ、心の奥を探るように問いかけた。「ううん、そんなことないよ……ただ、今は最高の医療環境が整ってるから、ちゃんと体を大事にしてほしいの。菊池家のお金なんて使えるときに使わなきゃ損だし、多めに使っとけば、これまでの精神的な損の埋め合わせにもなるでしょ」問い詰められるのを恐れたのか、美乃梨は笑ってごまかした。「なるほどね。確かに治療費を出すのは当然だわ。だって、あの人たちがいなければ私が入院することもなかったんだから」桃はそれ以上深くは考えず、話題を切り替えた。美乃梨はようやく胸を撫で下ろし、別の話を持ち出した。……その頃。美穂は丁寧な治療のおかげで、ようやくゆっくりと目を開けた。視界に入ったのは、ベッドの傍らで見守る永名の姿。だが、後ろを見ても雅彦はいない。その瞬間、彼女の顔にかすかな影が差した。「どうして雅彦は来ないの……私のこと、母親として認めたくないの?もし私が死んでも平気なの?」小さくつぶやきながらも、美穂は永名が雅彦を叱ってくれることを期待した。嫁のためだからといって、母を忘れるような真似は許さない、と。しかし意外にも、永名はすぐに雅彦を呼ぶことはせず、ためらいがちに美穂を見つめるだけだった。その視線に気づいた美穂は、思わず問い返した。「……なんでそんな目で私を見るの?」「美穂、正直に言いなさい。佐俊は……君が……?」永名はすでに佐俊の遺体の検査を手配していた。自殺とされていたが、身体にはもがいた痕や打撲が残っており、不審な点が浮かび上がっていた。さらに、佐俊は美穂の部下に連れ去られ、厳重に監視されていた。第一の容疑者は、当然のように美穂だった。「私じゃない……どうして、あんな人のために私が手を汚す必要があるの」「けれど、証拠はすべて君を指している……」永名の脳裏には、死の間際に佐俊が見せた無念の表情が焼き付いていた。かつて心優しかった女性が、まさかここまで冷酷になってしまうとは。自分も長い年月で多くの罪を背負ってきたが、彼女を巻き込むことだけは避けてきた。なのに、いま美穂がこんな事態を起こしたとしても、愛する彼女を厳しく責め立てることはできなかっ
「翔吾、太郎、これ全部私の手作りよ。食べてみて」美乃梨にできることなんて、せいぜいこのくらいだった。せめてもの思いを込めて、母子三人の力になれるよう料理を作り、届けていた。二人の子供は、病院では食堂のごはんか外のファストフードばかり。最初のうちはそれでも嬉しそうに食べていたが、さすがに長く続くと飽きてしまう。美乃梨の家庭料理は特別なものではなかったけれど、どこか懐かしく、祖母と過ごした日々を思い出させたのか、二人は夢中で食べていた。「おばさんの料理って、僕たちのおばあちゃんの味とそっくりだね。ママ、いつになったらおばあちゃんに会えるの?」翔吾は箸を動かしながら、ぽつりとつぶやいた。香蘭にはずっと会えていなかった。幼い頃から祖母のそばで育ってきた二人にとって、その寂しさはひときわ強かった。桃は返事に詰まった。二人の心の中では、香蘭は今も海外で元気に暮らしているはずだった。まさか病床に横たわり、いまだ目を覚まさないとは思いもしないだろう。打ち明けてしまえば、とても受け止められない。けれど桃自身も母を思えば胸が痛み、どうしても言葉が出なかった。「もう少ししたら会えるわ。そのときに、おばあちゃんに新しく覚えたことをいっぱい見せてあげなさい。がっかりさせちゃだめでしょ?」美乃梨が気まずさを感じ取り、慌てて和ませようと口を挟んだ。桃が辛い記憶を思い出して体調を崩すことを、何よりも心配していた。「うん」翔吾と太郎は頷いた。祖母はいつも二人に厳しかった。年長だからと甘やかすことはなく、勉強も細かく見られていた。もし手を抜いたまま帰れば、きっと叱られるに違いない。「いい子たちね。私の料理も、実はおばあちゃんから習ったのよ。だから食べたいものがあったら、遠慮なく私に言ってね。いい?」美乃梨は二人の頭を優しく撫でた。余計なことを聞かれなかっただけで、胸をなで下ろした。朝食を済ませると、二人は自分から「洗い物する」と言い出し、桃と美乃梨に時間を残してくれた。医者の指示に従い、美乃梨は桃に少量の薬を飲ませた。なるべく薬を減らしてはいたが、苦い薬だけは外せなかった。桃はためらうことなく顔を上げ、一気に飲み込んだ。「桃ちゃん、ゆっくり。喉に詰まっちゃうよ」慌てて水を差し出す美乃梨に、桃は首を横に振った。「大丈夫。早く元気にならなくちゃ。あ、そうだ、
雅彦があっさり承諾したので、桃は少し驚いた。だがすぐに表情を整え、問いかけた。「本当にいいの?ごまかしたりしないでね」そう言うと、桃はベッド脇のスマホを手に取り、録音ボタンを押して、もう一度雅彦に言わせた。証拠を残すためだ。美乃梨にも送っておけば、万が一雅彦が気を変えても安心できる。桃の行動に、雅彦は困ったように眉を寄せた。自分はそんなに信用できない人間に見えるのか。それでも、弱々しかった桃が久しぶりに張りのある表情を見せているのを見て、心のどこかで嬉しく思い、止めることはしなかった。「じゃあ、もう一度言うよ」「約束する。君が子どもたちを連れて出ていい。ただし、医者が退院を許可してからだ」雅彦ははっきりと繰り返した。桃はそれを録音し、その短い音声データを見つめながら、久しぶりに明るい笑顔を浮かべた。その笑顔を見た瞬間、雅彦の胸には嬉しさと切なさが同時に広がった。嬉しいのは、ようやく桃が自分の前で笑ってくれたこと。切ないのは、その笑顔が自分から離れられることに喜びを感じているからだ。――それでもいい。もしこの約束が桃に病気と向き合う力をくれるのなら、自分は喜んで受け入れる。桃は満足したのか、もう特に言葉を重ねようとしなかった。雅彦は彼女が眠くなってきたのを察し、立ち上がった。「そろそろ休んだほうがいい。病気を治すには、しっかり食べて、よく眠らないと」そう言って桃をそっと抱き上げ、ベッドへ戻した。心の重荷が少し軽くなったせいか、桃は久しぶりに肩の力を抜き、ベッドに横たわった。そばにいた二人の子どもが温もりを感じ取ったように、自然と寄り添ってきた。桃は満ち足りたように二人を抱きしめ、目を閉じる。思い描くのは、再び穏やかな日常に戻れる未来――胸の奥に、久しく忘れていた静かな安らぎが広がっていた。雅彦はその寝顔を見守り、毛布を掛け直して三人を包み込む。風邪をひかせないよう確認してから、自分の付き添い用ベッドに戻った。しばらくすると、桃の呼吸が規則正しくなる。そっと視線を送ると、すでに深い眠りについていた。しかし雅彦には眠気が訪れなかった。天井を見つめ、思考を巡らせる。医者に頼んで桃を退院させないようにすることもできる――そう考えたが、その思いはすぐに消えた。これまで彼女を引き止めるために、あまりにも多くの