桃は一歩だけ身を引いた。その目には、どこまでも冷めきった光が宿っていた。「……大丈夫。わざわざ連れて行かなくても、大丈夫だから。」その口調はあまりにも淡々としていて、感情が一切読み取れない。だからこそ――雅彦の胸に、不安が広がっていった。むしろ怒鳴られたほうが良かった。泣かれても、叩かれても構わなかった。けれど、この静けさ――まるで、すでに何も期待していないような冷たい反応こそが、一番怖い。感情の終わりは、怒りや悲しみではなく、無なのだと、雅彦は痛感した。いつの間に、こんなところまで来てしまったんだろう?その疑問が心を締めつけ、雅彦はふと気づいた。このままでは、もう引き返せなくなるかもしれないと。だからこそ、彼は次の瞬間、桃の言葉を遮るように彼女の体を抱き上げた。一切の拒否を許さず、そのまま駐車していた車へと連れて行った。桃は抵抗しようとしたが、無駄だと悟ると、そのまま静かに身を委ねた。助手席に座らされた桃は、黙って顔を窓のほうへ向けた。その横顔には、話しかける余地すらない冷たさがあった。雅彦はどう声をかければいいのか分からず、無言のまま車を発進させた。車内には、重たい沈黙が流れていた。息をするのさえ苦しいほどの、重く張り詰めた空気。しばらく走っていたそのとき、沈黙を切り裂くように、突然携帯が鳴った。画面をちらりと見ると、表示されていた名前は莉子だった。雅彦は、すぐに電話を切った。この状況でその電話に出れば、桃が何を思うかは分かりきっていた。だが、間をおかずにまたかかってきた。桃は鳴り続ける音に気づき、無表情のまま画面を見た。そこに映っていた莉子という名前に、口元がゆがんだ。「――へえ。さすが仲がいいね。少しの間も離れていられないの?どうして出ないの?きっと彼女、待ちくたびれてるわよ?」「桃……お願いだから、そんな言い方しないでくれ。今は君を病院に連れていくところだ。余計なことは考えなくていい。」「……また、私の思いすぎってやつ?」桃の声は、乾いた笑い混じりだった。莉子の挑発も、雅彦の身体に残っていた別の女の痕跡も全部、自分の勝手な妄想だったというのか。胸の奥が、ひどく痛んだ。それでも、どこか壊れたような衝動に突き動かされ、桃は助手席のスマホを手に取った。ワンタッチでスピーカーをオン
雅彦は認めざるを得なかった。あの、佐和にどこか似ている男が桃を抱き寄せた瞬間、自分の中に湧き上がった感情は、紛れもなく嫉妬だった。どれだけ努力しても無駄なのではないか、最終的に、桃の心の中では、やはり佐和のほうが上なのだ。その思いは、どうしようもなく虚しく、力が抜けるようなものだった。そして、雅彦という男は、常にすべてを掌握してきた。そんな彼にとって、この「無力感」こそが、最も忌まわしい感情だった。「……そうね。もしかしたら、後悔してるのかもしれない」桃がぽつりと呟いた。もし、あの時の未来を知っていたら、もしかしたら、自分は佐和を引き止めていたかもしれない。そうすれば、彼は死なずにすんだのではないか。そして、自分も、かつて一番嫌っていたような、無力で嫉妬心にまみれた女に成り下がることもなかったのかもしれない。その言葉が、雅彦の胸を鋭く貫いた。まるで胸の真ん中にぽっかりと穴が空き、そこに冷たい風が吹き抜けていくようだった。「……だから、佐和に似た顔を持つ男とやり直そうとしてるのか?その未練を、今さら埋めようと?」雅彦は、歯を食いしばって言った。桃は、あまりにも理不尽なその言葉に思わず笑ってしまった。「——じゃあ、あなたは?莉子を抱きしめてた時、私がどう感じるかなんて考えたことある?それとも、男だからって、そういうことは許されるって思ってるの?私は、あなたと同じことをしただけ。なのに、私だけが非難されなきゃいけないの?」「俺と莉子がいつ、そんな関係だった?それに、俺が触れたのは、彼女が立てない時だけだ。彼女は寝たきりの患者なんだぞ」「患者だから、抱きしめても許されるのよね。じゃあ私が、めまいでふらついて、スープを運んでたスタッフにぶつかりそうになって、佐俊さんに引っ張られて助けられただけって言ったら……あなたは信じる?」桃の瞳は冷たく澄み、声には一片の感情もこもっていなかった。雅彦は、ようやくそこで、初めて桃の顔をよく見た。頬にいつもの血色はなく、唇は乾いてひび割れていた。確かに、あまり体調が良さそうには見えなかった。……怒りが、少し収まっていく。さっきまでは頭に血が上っていて、そんなことに気づく余裕などなかった。だが、こうして見ると、確かに彼女の不調は本当なのかもしれない。「……どこか悪いのか?熱があるのか?
雅彦の一言が、その場の空気を一気に凍らせた。桃の表情には明らかな屈辱が浮かび、拳をぎゅっと握りしめると、必死に力を振り絞って雅彦の腕を振りほどいた。そのまま、佐俊に向かって申し訳なさそうに笑みを浮かべる。「ごめんなさい。今日はわざわざ来てもらったのに……これで失礼します」そう言い残し、振り返ることなくその場を立ち去った。それを見た雅彦も、すぐに後を追う。佐俊はその様子を目で追いながら、何も言わず、深い意味を含んだまなざしで二人の背中を見送った。桃はめまいと視界の揺れをこらえながら、早足で歩いていた。そこへ雅彦が追いつき、手を伸ばして引き止めようとしたが、桃はその手を勢いよく振り払った。はっきりとした拒否に、雅彦の怒りは一気に燃え上がる。「何だよ、邪魔されたのがそんなに気に食わないのか?だったら、俺は来るべきじゃなかったな。もう少し、あいつの腕の中でイチャイチャしてればよかったか?」毒のある言葉が、ろくに考えることもなく口を突いて出た。桃はその言葉に、思わず失笑した。自分があのときあんな姿になったのは、倒れそうになったのを佐俊が助けてくれただけ。あれがなければ、熱いスープで火傷していたかもしれない。なのに、この男は何も知らないくせに、一方的に浮気を疑ってきた。さっき佐俊の前で彼があんなデタラメを言ったせいで、周囲は彼女のことをどう見るだろうか……彼が莉子を抱いていたときのほうが、よほど距離も近く、よほど親密だったではないか。まったく、この男は他人には厳しく、自分には甘すぎる。桃は突然、深く疲れを感じた。身体も心も、どこまでも重く沈んでいく。彼のその整った顔を見ても、もう胸がときめくことはない。感じるのは、ただ不安と恐怖だけだった。桃が言葉もなく再び背を向けたとき、雅彦の胸に冷たい風が吹き抜けた。彼は、桃が何か説明してくれることを期待していた。自分が間違っていたとしても、せめて無視という形ではなく、言葉で応えてほしかった。彼女の目には、自分が存在しないようなその態度が、何よりも彼の心を締めつけた。その瞬間、また脳裏に浮かんだのは——あの佐俊の顔。嫌悪と焦燥が一気に胸を満たし、ついに雅彦は吐き捨てるように口を開いた。「説明もせずに黙って去ろうとするなんて、何かやましいことでもあるのか?それとも……あい
その瞬間、怒りで胸がいっぱいになり、雅彦の理性は吹き飛んだ。その動きはもはや乱暴と呼べるほどだった。彼は桃を力強く自分の側へと引き寄せた。本来、まだふらついていた桃は、突然の強い力に体のバランスを崩し、雅彦の胸元へ倒れ込むようにぶつかった。その衝撃で、頬に鈍い痛みが走る。けれど、胸元から微かに漂う香りに、彼女はすぐに相手が雅彦だと気づいた。桃は、なぜだか、ふいに鼻の奥がつんとした。鼻をぶつけたせいなのか、それとも胸の奥に溜まったやるせなさが込み上げてきたのか、自分でもわからなかった。桃は彼を押し返し、体勢を立て直そうとした。だが、桃の肩を掴んでいた雅彦の手が、さらに力を込めてきたため、彼女には逃れるすきがなかった。彼女のわずかな抵抗を感じたことで、雅彦の怒りはさらに膨れ上がり、無意識に指に力がこもる。彼の握力はもともと強い。その手加減のない力に、桃の肩の骨が軋むような痛みに襲われた。「雅彦……放して!」顔面蒼白の桃は必死に声をあげた。けれど、その圧倒的な体格差の前では、あまりにも無力だった。雅彦は手を離す気配もなく、彼女の言いぶりに思わず吹き出しそうになった。「なに?やましいことでもあった?だからそんなに必死に俺から逃げようとしてるのか?」「……っ」桃の顔からはますます血の気が引いていった。そんな緊迫した空気の中、佐俊が静かに席を立ち、雅彦に向き合った。「失礼ですが、あなたがどなたかは存じません。ただ、桃はどう見ても嫌がっているように見えます。よければ手を離していただけませんか?」雅彦の意識は、もともとすべて桃に向けられており、突然現れたこの男には、初めから関心などなかった。だが、その男が不意に話に割り込んできたため、雅彦はしぶしぶ目を向けた。そして、その顔立ちに、一瞬動きを止めた。……この男、どこかで見た顔だ。いや、違う。彼の顔には、佐和の面影があったのだ。目元や口元の形が妙に似ていて、初見では見間違える人もいるかもしれない。その瞬間、雅彦の中で何かが繋がった。なるほど、桃がこの男と距離を縮めた理由は、顔か。燃え上がっていた怒りは一瞬で鎮まり、その代わりに、心の奥には冷たく張りつめた感情が広がっていった。雅彦は口元に笑みを浮かべた。だが、それは決して温かい笑顔ではない。その眼差しは、氷のように冷たく、
「彼女は、どこだ?」突然の低い声に、雅彦の険しい表情が加わり、その場にいた若い女性社員たちは一斉にびくりと肩を震わせた。まさか、ちょっとした噂話が本人の耳に入ってしまうとは思いもよらず、新入社員ばかりの彼女たちは顔面蒼白になる。だが、雅彦には彼女たちの動揺に付き合っている余裕などなかった。「場所は?」冷えた声で再度促され、さっきまで楽しげに話していた女子社員のひとりが、はっと我に返り、慌ててレストランの名前と場所を伝えた。雅彦は一切の迷いもなく、そのまま踵を返して歩き去っていった。彼の背中が視界から消えると、ようやく彼女たちは息を吐き出した。ふだんはただ遠くから社長を見ているだけで、冷たくて近寄りがたい人だなと思っていたが、さっきの様子を見てしまった今となっては、今後はできるだけ距離を取っておこうと思う。あまりにも怖すぎる。「ていうかさ……社長、今から乗り込むつもりなんじゃない?現場に!ヤバ……ほんとに変な誤解されたら、私たちのせいになっちゃうよ?」「でも、別に桃さん、悪いことしてたわけじゃないでしょ?大丈夫だって」「そうだよね。……っていうか、あの人、前に莉子さんのことで嫉妬して問題起こしてたし。あんまり好感持てないな」「ま、それはそれ。私たちは何も聞いてない、何も見てないってことで」社員たちは顔を見合わせ、同じ結論にたどり着いた。……レストラン内。桃はゆっくりと食事を終え、書類の確認も済んだ。「話もまとまりましたし、午後はまだ仕事が残っているので、そろそろ会社に戻りますね」「分かりました」佐俊も無理に引き止めようとはしなかった。桃は席を立ったが、立ち上がった瞬間、またふらりとめまいがした。食事をとったというのに、頭の重さは増すばかり。やはり無理せず、少し休憩したほうがいいかもしれない。そんなことを考えていた桃は、自分の後ろから近づいてきたスタッフに気づかなかった。その手には、湯気を立てるスープの皿があった。「危ない!」佐俊が叫ぶと同時に、彼女の腕を素早く引いた。熱々のスープがかかれば火傷する。とっさの判断で、彼は桃を自分のほうへと引き寄せた。幸いにも、佐俊の素早い反応のおかげで、桃はぎりぎりでその店員とぶつからずにすみ、怪我はなかった。ただ、桃は彼の腕の中にすっぽりと収まって
佐俊が送ってくれた住所を頼りに、桃は指定されたレストランへ向かった。その店は会社からも遠くなく、時間の無駄にもならない。相手の気遣いが感じられる選択だった。到着すると、佐俊が手を振って合図してくれた。桃は無理して笑顔を作りながら、その席へと歩いていった。佐俊は桃を一目見て、眉をひそめた。「桃さん、顔色がよくないですね。体調でも悪いんですか?日を改めましょうか?」「大丈夫です。ちょっと仕事で疲れてるだけですから」桃は首を振り、佐俊の向かいの席に座った。佐俊はすぐさま桃のために温かいお茶を頼んだ。桃は軽く礼をしてから本題へと入った。佐俊は一通の賠償契約書を彼女の前に差し出し、内容をよく確認するようにと伝えた。けれど、桃はざっと目を通しただけで、すぐにサインしてしまった。その様子を見て、佐俊は口元に薄く笑みを浮かべた。「もう少しよく見なくて大丈夫ですか?もしかして、僕が悪巧みしてるかもしれないですよ?」「大丈夫です。佐俊さんがそんな人じゃないって、分かってますから」桃は首を振って笑った。なぜか佐俊に対して、桃は妙な信頼感を抱いていた。それは彼の顔立ちがどこか佐和に似ていたからかもしれないし、あるいは、これまでのやりとりで彼の人柄の良さを感じていたからかもしれない。少なくとも、こういった場面で不誠実なことをする人間には思えなかった。そのまっすぐな信頼のまなざしに、佐俊は少し照れくさそうに笑った。「これも縁というやつですね。こうして知り合えたのも、ある意味良かったと思います。今後は友達として、何かあれば遠慮なく言ってください」そう言われては、桃も雰囲気を壊すわけにはいかない、「うん、こちらこそ。まだ慣れないことも多いでしょうし、私にできることがあれば、遠慮なく言ってください」ちょうどその時、料理が運ばれてきて、二人は食事をとりながら、ゆるやかな会話を交わしていった。……一方その頃、菊池グループの会議室。ようやく長時間の会議が終わり、重役たちが次々と部屋を後にしていった。誰の顔にも、疲れの色が見えた。雅彦は腕時計を見て、眉をしかめる。本当なら、昼休みのタイミングで桃に会いに行くつもりだった。二人でちゃんと話し合いたかったのだ。だが、山積みの案件に追われ、すっかり時間を逃してしまった。急いで自分の席を