帝都アルカディアの大神殿……その地下に広がる死天衆の集会部屋に、ハープを携えた黒衣の吟遊詩人が物悲しげな口笛と共に転移魔法で姿を現す。 「おや──これはこれは、懐かしい顔ですねぇ」 各所に放った間者からの報告書類を整理していたベリアルは作業する手を止めると、甘い顔立ちのその吟遊詩人を見つめ、ありとあらゆる芸術作品が全て陳腐な瓦落多に見えてしまう神々しいその顔に、薄らと笑みを浮かべた。 「──"魔王"フォルネウス」 「こうして顔を合わせるのは、二千年ぶりかな──愛しき好敵手、始祖の天使ベリアル」 被っていた帽子を脱ぐと、フォルネウスは昔を懐かしむようににこりと微笑む。その背中からは複数の黒い触手が生え、不規則にうねうねと蠢いているのが見えた。 ベリアルとフォルネウス──両者の間には、浅からぬ因縁があった。 堕天使の長ルシフェルが敗死した後、幾つかの軍閥に分かれた堕天使たち。 フォルネウスは、そのうちの一つを率いていた大いなる覇者──即ち"魔王"と呼ばれる者の一柱であった。 フォルネウスの率いる軍とベリアルの率いる軍──両軍の戦いは苛烈を極め、双方多くの犠牲者を出した。戦いの果てに、同胞との殺し合いなど全くの無意味とフォルネウスが戦いを放棄したことで、辛くも勝利することが出来た難敵だった。 「君と殺し合った日々──今でも、つい昨日のことのように思い出すことが出来ますよ?」 「奇遇だね……私も、君と戦った時のことは今でも鮮明に覚えている」 ベリアルが来客用のソファーへと案内し、座るよう促すと、フォルネウスは遠慮することなく平然と腰を下ろし、携えていたハープを傍らへと置いた。 「ワインを頂けるかな、ベリアル?」 「無遠慮ですねぇ──相も変わらず」 口では憎々しげにそう言うも、グラスに赤ワインを優雅に注ぐベリアルの様子は何処か楽しげである。 差し出されたワインを少し口に含むと、フォルネウスは心地良さそうに目を細めた。
新月の夜── ベッドの上で静かな寝息を立てているセラフィナ……彼女の呼吸が安定していることを確認したキリエは、ほっと安堵の溜め息を吐いた。 包帯で覆われた胸部にはじんわりと、正五芒星状の血の染みが浮かび上がっていたが、それまでと比較すると出血量はやや控えめで、額に若干の汗こそ浮かんでいたものの酷く魘されている様子もない。 恐らくは"鳥の王"シームルグの羽根に宿りし、癒しの力に依るものだろう。セラフィナの愛剣と一体化したシームルグの羽根が、彼女の心身の苦痛を和らげているのだ。 「……うん。よし」 容態は安定している──急激に悪化する可能性も、見ている限りではなさそうだ。 「ちょっと、夜風に当たってきます──その間、セラフィナ様のこと……お守りして頂けますか?」 ベッドの傍に腰を下ろし、セラフィナの顔をじっと見ているマルコシアスにそう語り掛けると、マルコシアスはちらりとキリエの顔を見やり、無言で何度か尻尾を大きく振った。 ──"任された"。 キリエにはまるで、彼女がそう言っているかのように見えた。 「ふふっ……ありがとう御座います、マルちゃん」 キリエがくすっと笑いながら、何度か顎の下を撫でてやると、マルコシアスは無表情ながらも内心満更でもなさそうにふんふんと鼻を鳴らした。 木製の細長い杖を手に、セラフィナに宛てがわれている部屋を後にすると、キリエは早足で大神殿の外──中央の広場へと向かった。 深夜帯ということもあり、人の気配は殆どない。これなら、誰にも見られることはないだろう。 杖を槍の要領で構えると、キリエは秘密の自己鍛錬を始めた。 「──ふっ!!」 打・突……一撃一撃に魂を込め、キリエは一心不乱に杖を振るう。一撃振るう度、透き通った汗が周囲に舞った。 「駄目……これでは、まだ……」 試行錯誤しながら、より鋭い一撃を出せないか模索するキリエ……彼女が杖を用いた戦闘技術を習得しようと
──"穏健派の聖女シオンを新たなる教皇として即位させるのであれば、ハルモニアは和平に応じる用意がある"。 ハルモニア皇帝ゼノンが突如として発表したこの声明は風に乗り、瞬く間に聖教会の影響下にある各地へと広がっていった。 教皇選挙権を有する枢機卿(カルディナル)の多くが、この声明に心を大きく揺さぶられたのは言うまでもない。あわよくばクロウリーを追い落とし、自分が権力の全てを手中に収めるまたとない好機であると。 果たしてベリアルの思惑通り、教会内部の暗闘はその激しさを増しつつあった。 そのような中、異端審問官たちの臨時指揮権を与えられた聖教騎士団長レヴィは、異端審問官たちの最精鋭"不死隊"の指揮を執るクロウリーの腹心・異端審問官メイザースと接触を試みようとしていた。 聖教会勢力・ブルボン王国某所── 「──メイザース様。聖教騎士団長レヴィ様が、ご到着なされました」 黒い目出し帽と三角頭巾で素顔を隠した異端審問官の言葉を聞き、男は書類を整理する手を止める。 銀色の仮面、銀色のフード、銀色のローブ……明らかに他の異端審問官とは異なる服装・風格。顔全体を仮面で覆い隠しているため非常に年齢が分かりづらいが、身に纏うオーラは紛れもなく本物であり、歴戦の戦士と言っても過言ではない。 ──異端審問官メイザース。長らく枢機卿クロウリーの右腕として活躍してきた、存命中かつ現役の異端審問官としては恐らく最高齢の人物。 その素顔を見て、生きて帰った者はいない。そう、異端審問官たちの間でまことしやかに囁かれている。 「報告ご苦労、テレサ。直ぐにでもお会いするとしよう」 嗄れた声で、まだ"不死隊"に配属されたばかりの若い女性異端審問官に労いの言葉を掛けると、メイザースは腰に十字架を象った大剣を帯びつつ、悠然とした動きで椅子から立ち上がった。 メイザースが数名の異端審問官を伴って司令部のテントから出ると、ちょうど聖教騎士団長レヴィが、護衛と思しき数名の聖教騎士を引き連れてこちらへとやってくるのが見えた。
教皇グレゴリオの崩御を受け、ハルモニア皇帝ゼノンは墓標都市エリュシオンに潜入中のアスモデウスを除くベリアル、バアル、アモン、アザゼルら四名を帝都アルカディアに召集。 大混乱に陥った聖教会に引導を渡すべきか否か、彼らと意見を交わそうとしていた。 「──お呼びでしょうか、陛下」 帝都アルカディアの大神殿──玉座の間に次々と、アスモデウスを除く死天衆の主要メンバーが、転移魔法で音もなく姿を現す。 「其方らも既に周知の事実ではあろうが──聖教会の当代教皇グレゴリオが死んだ。死因は不審死だそうだ」 「おや──くたばりましたか。では、今頃聖教会は大混乱でしょうねぇ?」 自らの顔を象ったデスマスクを外すと、ベリアルは白い歯を見せてにこやかに笑う。何時見てもその容貌は、世に存在するありとあらゆる芸術作品が全て、陳腐な瓦落多に見えてしまうほどに神々しく美しい。 「ベリアルよ……冗談はよさぬか。既に全て、其方の耳に入っている筈だ。私が知るよりも遥かに早く、な」 ゼノンが苦笑しつつ窘めると、ベリアルもまたくすくすと笑いながら頷いてみせる。 「えぇ──仰る通りですよ、陛下。此度のご要件も、すでに存じておりますとも。教皇グレゴリオ崩御の報を受け、今後のハルモニアの方針を定めるべく私たちをお呼びしたのでしょう?」 「良く分かっているじゃあないか、我が友ベリアル。話が早くて助かる」 聖教会は現在、聖ヨハネ公国を始めとして各地で民衆叛乱が勃発しており、聖教騎士団と異端審問官たちが対応に追われている。そこに加えて、教皇グレゴリオの不審死。水面下では枢機卿(カルディナル)たちに次期教皇としての推挙を得ようと、権力者たちによる暗闘が繰り広げられている。 「順当に考えれば──これは、またとない好機。聖教会のクズ共に引導を渡す、な……エリゴールの第三軍をこの機に乗じて南下させ、我が方も挙兵。二方向から聖教会を挟撃し、殲滅しようと思うのだが。其方らの意見はどうか」 ゼノンの問い掛けに、アザゼルがすっと手を挙げる。率先して自ら意見を言うことはなく、何時も後方で笑っているだけの彼にしては珍しいことだ。 「──良きお考えかと存じます。この機を逃せば、真正面から敵と対峙することになりましょう。正面からの戦いは犠牲が多くなりがち……彼奴らが混乱している今こそ、少な
"鳥の王"シームルグの試練を何とか乗り越えたセラフィナたちであったが、各々の心身の損耗が予想以上に大きかったこと、セラフィナにとって致命的な"聖痕(スティグマータ)"の傷口が開く新月の夜が直ぐそこまで迫っていたこともあり、下山後も神殿都市ミケーネに留まっていた。 新たなる神を僭称する"獣の王"。彼が率いる"獣の教団"。彼らを止めるために墓標都市エリュシオンへと行きたい気持ちはあったが、心身共に疲弊した今の状態で乗り込むは愚策と、療養を優先した形であった。 「──教皇グレゴリオ崩御、ですか?」 ガーデンチェアに腰を下ろし、紅茶を嗜みつつ、セラフィナはすっと目を細めた。彼女の足元では、マルコシアスが骨付きの肉の塊を器用に食している。 セラフィナの対面に座すは、ハルモニアの将官服にも似た、黒い礼服を優雅に着こなした老紳士。齢は八十をとうに過ぎているようだが呆けている様子はなく、皺の刻まれた顔は威厳に満ちている。 ヒエロニムス本家、現当主エウセビオス。ハルモニア皇帝ゼノンの父。巫女長イーリスの祖父にして、神殿都市ミケーネを治める名門貴族。 セラフィナは下山したその日にエウセビオスからの招待状を受け取り、翌日である今日の正午、彼の住まいであるヒエロニムス邸へと足を運び、彼や側近たちと世間話を交えつつささやかな茶会を楽しんでいた。 「私たちがシームルグ様の元で試練を受けている間に、そのようなことが起こっていたとは──」 「君が知らなかったのも無理はあるまい。私も、それを知ったのはつい昨日のことだ。愚息(ゼノン)から報せを受けた時は、私自身も大いに驚いた」 エウセビオス曰く、グレゴリオの死因は不審死であり、発見された時、彼は両目を大きく見開き、不気味な笑みを浮かべていたという。 「確か……教皇グレゴリオが崩御する数日前にも、大事件があった筈──聖ヨハネ公国にて大規模な民衆叛乱が発生して、大公ヨハネと彼の息女アグネスが殺害された、と」 その事件と今回の教皇不審死、何らかの関係があるのではないか。セラフィナが疑問を呈すると、エウセビオスもま
教皇グレゴリオ崩御──その報せを受けた聖教騎士団長レヴィは、聖ヨハネ公国に於ける騎士団の指揮を副官のアグリッパに委任し、早馬で聖地カナンへと舞い戻った。 教皇庁の扉を開くと、グレゴリオの亡骸を納めた棺の前にて屯していた、赤を基調とした法衣に身を包んだ枢機卿(カルディナル)たちが一斉に、塵でも見るかのような目でレヴィの顔を睨み付けてくる。彼女が聖地カナンへと舞い戻ってきたことを、彼らはどうやら快く思っていない様子だった。 「失礼──」 棺へと歩み寄ると、レヴィは中に納められているグレゴリオをまじまじと見つめる。魔術で防腐処理が施された彼の遺体には、外傷が一切見当たらなかった。 しかし──何かが妙だ。彼の遺体は両目が大きく見開かれたままで、顔には狂ったような笑みを浮かべている。その様はまるで、彼だけ時が止まったかのような── そんなレヴィの思考を妨げるように、ぶくぶくに肥えた一人のカルディナルが、苛立ちも露わに彼女を罵倒する。 「──何故、其方がここにいる? 聖教騎士団長レヴィ、無為無能なる親の七光りよ」 「教皇聖下が身罷られたと聞いて、戻らぬ者が果たして何処におりましょう? メディチ猊下」 レヴィの冷静な返しに、メディチと呼ばれた中年のそのカルディナルは不満そうに鼻を鳴らした。聖職者らしからぬ横柄なるその態度は、実に俗っぽい。 メディチ──彼は元々、聖職者ではない。巨万の富を築き上げた豪商であり、莫大な財力にものを言わせて枢機卿の地位を手にした男である。 自らの支持基盤たる西方にて、教会に寄進すれば神罰が免除されるという贖宥状をばら撒き私腹を肥やしている、聖職者の風上にも置けぬ人間のクズだった。 「其方は亡き教皇聖下より、聖ヨハネ公国にて発生した民衆叛乱の鎮圧を命じられていた筈。任を放棄し戻ってくるとは、余りにも無責任なのではないか?」 これだから女は、と余計な言葉を付け加えつつメディチが嘲笑うも、レヴィは何処までも落ち着いていた。 「ご心配なく──既に、副官のアグリッパに現場の指揮