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あの日以来、青凪湖を渡る風は、3人にとって一生消えることのない悪夢になった。和臣は、栞が残した遺書と3人に宛てた手紙を胸に抱き、湖のほとりで膝をついたまま動かなかった。風にあおられて手紙が震え、和臣の肩も小刻みに揺れていた。わずか数枚の手紙を抱きしめた和臣は、今にもその場に崩れ落ちそうだった。亮介は取り乱したまま湖沿いを走り、何度も栞の名を叫んだ。「栞!戻ってきてくれ!兄さんが悪かった!俺を恨んでも、許してくれなくてもいい。だから……置いていかないでくれ!」叫び続けるうちに声はかすれ、とうとう足から力が抜けた。亮介はその場に膝をつき、痛みも忘れたように頭を抱えて泣き崩れた。昔の亮介は、栞が泣くたび、うんざりしたように顔をしかめた。大げさだ、また同情を引こうとしている――そう決めつけ、栞の苦しみをまともに見ようともしなかった。けれど今度は、亮介のほうが声を上げて泣き続けていた。遼は少し離れたところで、栞を見たまま動けずにいた。しばらくして、風に乱れたウィッグを直そうと手を伸ばした。けれど、触れる寸前で指が止まり、震える手をそのまま下ろした。3人が栞の遺骨を抱えて家に戻ったとき、美羽はまだ何も知らなかった。3人が帰ってくれば、きっとまた自分をなだめてくれる。そう思って、家で待っていた。玄関のドアが開くと、美羽は目を赤くして駆け寄ってきた。「やっと帰ってきた……お姉ちゃん、まだ怒ってるの?私、ちゃんと謝るから……」その言葉を遮るように、和臣が美羽を見た。「お前はもう、白石家の人間じゃない」美羽の顔から、さっと血の気が引いた。「……何言ってるの?」亮介は玄関にまとめてあった美羽の荷物を、外へ放り出した。「出ていけ。病院から何度も電話が来てたのに、どうして黙ってた!ちゃんと俺たちに知らせてくれてたら、栞はまだ助かったかもしれないんだぞ!栞を死なせたのはお前だ。もう二度と、この家に入るな!」美羽は泣きながら遼の腕をつかんだ。けれど遼は美羽に目も向けず、その手を振り払った。「今まで栞から奪ってきたものは、全部返してもらう」白石家を追い出された美羽は、すぐにSNSへ長文を投稿し、自分こそ被害者だと訴えた。自分は身寄りのない養子で、幼いころから姉に妬
ようやく、青凪湖にたどり着いた。着いたころ、空はまだ薄暗かった。路肩に車を止め、ドアに手をついてしばらく息を整えた。それから、ゆっくりと湖へ向かった。湖まではそう遠くなかった。それでも足は思うように動かず、一歩進むたびに体の奥へ痛みが走った。喉の奥には、何度も血の味がこみ上げた。それでも、不思議とうれしかった。ようやく、ここまで来られたからだ。20歳の誕生日には、ケーキもろうそくもなく、「おめでとう」と言ってくれる人もいなかった。それでも今、目の前には青凪湖が広がっていた。ずっと昔、みんなでいつか必ず来ようと約束した場所だった。湖畔に腰を下ろし、鞄から用意しておいた便箋を取り出した。強い風にあおられ、紙は何度もめくれそうになった。薬瓶で端を押さえ、ゆっくりと文字を書き始めた。最初に、和臣への手紙を書いた。【和臣兄さんへ。10歳のころ、痛くて眠れなかった夜、朝までずっとそばにいて、何度も汗を拭いてくれたこと、今でも覚えてる。兄さんがいるから大丈夫だって、何度も声をかけてくれたよね。苦しい夜は、いつもその言葉を思い出してた。あのころの和臣兄さん、本当にありがとう。必死になって私を助けようとしてくれたこと、ずっと忘れないよ】次に、亮介への手紙を書いた。【亮介兄さんへ。階段の踊り場でこっそり泣いてたのを見つけたとき、目にごみが入っただけだって言い張ってたよね。本当は亮介兄さんも怖かったはずなのに、毎日変な顔をして、私を笑わせてくれた。あのころの亮介兄さん、本当にありがとう。いちばんつらかったときにも、たくさん笑わせてくれたこと、ずっと忘れないよ】3通目は、遼への手紙だった。【遼へ。私の手を握って、これからは毎年、一緒に誕生日を過ごそうって言ってくれたこと、今でも覚えてる。あのころの私は、その言葉を本気で信じてた。だから、ずっと待ってたよ。あのころの遼、本当にありがとう。暗くて長い夜を、そばで一緒に過ごしてくれたこと、ずっと忘れないよ】そこまで書き終えると、しばらく手を止めた。湖から吹く風が目にしみた。それでも、涙はもう出なかった。やがて最後の便箋を取り出し、遺書を書き始めた。【青凪湖まで来ました。20歳の誕生日に欲しかったのは、青凪湖へ来ることだけでした。
車を走らせて4日目に入るころには、目の前の道さえぼやけて見えるようになっていた。何度も視界が暗くなり、胃の痛みもますますひどくなっていった。これ以上は無理だと思い、道端に車を寄せた。ハンドルに額を預け、痛みが少し治まるのを待った。バックミラーの向こうには、低い雲が重く垂れ込めていた。あと少し走れば、青凪湖に着くはずだった。薬瓶を取り出し、2錠を手のひらに出した。口に入れようとしたそのとき、すぐ後ろで急ブレーキの音がした。何が起きたのかわからないまま顔を上げると、運転席のドアが外から勢いよく開いた。冷たい風が車内に吹き込んできた。そこに立っていたのは、和臣だった。「栞!」聞いたこともないほど取り乱した声で、私の名前を呼んだ。亮介も息を切らしながら駆け寄ってきた。目は真っ赤だった。「栞、お前……こんなところまで一人で運転してきたのかよ!今の体で、そんな無茶したらどうなるかわかってるのか!」遼は二人の後ろで足を止めた。血の気の失せた顔で私を見つめ、かすれた声を絞り出した。「栞、一緒に帰ろう。先生も言ってた。今すぐ治療を始めれば、まだ間に合うって」私は3人を見つめ、静かに聞き返した。「帰る?どこへ?あのアパート?それとも、美羽の家?」3人とも何も言えなくなった。和臣の目元が赤くなった。「違う。あそこは今でも、お前の家だ」私は首を横に振った。「もう、そうは思えないよ。出ていけって言われた日から、あそこは私の帰る場所じゃなくなった」亮介が震える声で言った。「そんなに悪くなってるなんて、本当に知らなかったんだ」「知らなかった?」思わず笑いがこぼれた。「ウィッグが落ちたとき、見たよね。私が血を吐いたときも、そこにいたよね。治療費が足りないって言ったときも、聞いてたよね。知らなかったんじゃない。私の言うことを、信じようとしなかっただけだよ」亮介の顔から血の気が引いた。何か言おうと口を開いたが、声は出なかった。遼が、かすれた声で私の名を呼んだ。「栞……ごめん。病院から何度も連絡が来てたのに、美羽が何も知らせなかったなんて、知らなかった。でも、そんなの言い訳にならないよな。あの夜、栞は高熱を出して一人で苦しんでたのに、俺は
そのころ私は、青凪湖を目指して車を走らせていた。出発して3日目、ふと助手席に目をやった。そこでようやく、3体の人形をアパートに置いてきたことに気づいた。白石家を離れると決めたときは、一緒に連れていこうと思っていた。けれど、出発する間際には、すっかり頭から抜け落ちていた。ただ忘れただけなのか、それとも心のどこかで置いていきたいと思っていたのか、自分でもわからなかった。和臣も亮介も遼も、もう昔の3人ではなかった。あの人形に重ねていたのは、今の3人ではない。私がそばに置いておきたかったのは、あのころの3人だった。病室でずっとそばにいて、何度も汗を拭いてくれた和臣。泣いて赤くなった目を隠すように、おどけて私を笑わせてくれた亮介。冷えた私の手を握り、これからも毎年一緒に誕生日を祝おうと約束してくれた遼。街を離れるにつれ、高い建物は減り、やがて家並みもまばらになっていった。行き交う車も、次第にまばらになった。少し開いた窓から風が吹き込み、目の奥がつんとした。いつもの癖で首元に手をやったが、指先に触れるものはなかった。ペンダントは、もう手放してしまったのだ。そう思っても、不思議と涙は出なかった。悲しくないわけではない。ただ、何度も傷つくうちに、もう悲しむ力さえ残っていなかったのかもしれない。途中のサービスエリアに立ち寄り、薬を飲んだ。冷たい水で錠剤を流し込むと、すぐに胃がむかついた。車を降り、ドアに手をついたまま何度もえずいた。最後に、血の筋が混じった唾を少し吐いた。近くにいた人がこちらを見ていた。私は急いでマスクをつけ直し、何でもないふりをして笑った。「大丈夫です。いつものことなので」また、同じ言葉が口から出た。私はもう何年も、「大丈夫」と言い続けてきた。そのうち3人は、私が本当に大丈夫なのだと信じた。そして私自身も、いつしかそう信じかけていた。車に戻ると、スマホが震えた。画面に表示されていたのは、和臣の名前だった。一度だけ画面を見て、鳴りやむまで待った。けれど、すぐにまたスマホが震えた。今度は亮介だった。続いて、遼。今になってようやく私のことを思い出したように、3人から次々と電話がかかってきた。しばらく画面を見つめたあと、3人の番
和臣は玄関に立ったまま、しばらく動かなかった。ソファには、3体の小さな人形が並んでいた。縫い目は粗く、布もすっかり色あせていた。それでも、目元や口元はひと針ずつ丁寧に縫われていた。中でも和臣をかたどった人形の胸元には、彼が以前よく着ていたスーツを思わせる濃い色の布が縫いつけられていた。亮介がそっと触れると、人形はソファの上に倒れた。その下から、くしゃくしゃになった診療明細書の束が現れた。亮介は身をかがめて拾い上げ、明細に目を通した途端、顔色を変えた。化学療法、透析、救急外来、鎮痛剤の処方――そこには、ここ数年、栞が受けてきた治療の記録が細かく残されていた。遼がローテーブルの引き出しを開けると、中には空になった薬の箱がいくつも詰め込まれていた。その一番下には、何度も洗われてごわついたタオルが押し込まれていた。広げると、洗っても落ちなかった暗赤色の染みが、まだはっきりと残っていた。部屋の中が、しんと静まり返った。和臣の脳裏に、数日前の光景がよみがえった。白石家で栞が血を吐いたとき、自分は心配するどころか、芝居だと決めつけて家から追い出した。亮介もその場に立ち尽くしていた。明細書を握る手に力が入り、紙がくしゃりと音を立てた。「どうして……だって、栞はずっと平気だって……」そこまで口にして、言葉が続かなくなった。栞は一度でも、自分は平気だと言っただろうか。栞がどれほど苦しさを訴えても、大したことはないと決めつけ、まともに耳を傾けなかったのは自分たちだった。3人はそのまま病院へ向かい、栞の主治医を訪ねた。「あなたたちが、白石さんのご家族ですか?」「はい……」医師は3人をしばらく見つめてから、静かに尋ねた。「ご家族の方が来られたのは、今日が初めてですか?」そのひと言に、3人の顔から血の気が引いた。「白石さんは、いつ容体が急変してもおかしくない状態です。以前から、できるだけ早く手術を受けるか、少なくとも入院して治療を続けるよう、何度もお話ししてきました。今の体で鎮痛剤だけを頼りに生活を続けるのは、あまりにも危険です」和臣はこぶしを強く握った。「どうして、家族には何の連絡もなかったんですか?」医師の表情が険しくなった。「緊急連絡先として登録されていたご実家
栞が白石家を出ていった翌日、和臣と亮介、それに遼は、美羽がオーダーしていたアクセサリーを受け取りに、4人でショッピングモールへ向かっていた。車が街の南にある古い通りに差しかかったとき、遼は道沿いの古びた質屋に目を留めた。ショーウィンドウの中に、見覚えのある小さな金のペンダントが飾られていた。店の前を通り過ぎた直後、遼がはっと振り返った。「止めてくれ」和臣はすぐに車を止め、怪訝そうに遼を見た。「どうした?」遼は答えないまま車を降り、質屋へ駆け込んでいった。和臣と亮介も顔を見合わせ、すぐにそのあとを追った。ショーケースの中には、あのペンダントが置かれていた。金色は少しくすみ、縁には浅い傷がいくつも残っていた。それでも、3人にはひと目でわかった。栞が10歳のとき、3人で贈ったものだった。その年、栞は腎臓の病気が見つかったばかりで、痛みに苦しみ、夜もろくに眠れずにいた。和臣はベッドのそばにつきっきりで、何度も汗を拭いてやった。亮介は人目を忍んで泣いていた。それでも栞の前では、何とか笑わせようと明るく振る舞った。まだ少年だった遼も、栞の冷え切った手を握り、震える声で励ました。「大丈夫だ。僕たちがずっとそばにいるから」そのあと3人は何軒もの店を回り、ようやくこのペンダントを見つけた。和臣はそれを栞の首にそっとかけた。「これからは、このお守りが俺たちの代わりに栞を守ってくれる。だから、絶対に元気になるんだぞ。元気になったら、みんなで青凪湖を見に行こう」栞は顔色こそ悪かったものの、目を細めてうれしそうに笑った。そして首元のペンダントを大事そうに撫で、何があっても絶対に手放さないと約束した。けれど今、そのペンダントは売り物としてショーケースに並んでいた。和臣の顔から、少しずつ血の気が引いていった。「このペンダント……誰が持ち込んだんですか?」店主は3人を見回した。「若い女の子だよ。ひどく痩せてて、顔色も悪かったな。店を出たところで血まで吐いてたよ。ずいぶん具合が悪そうだった」店主がショーケースからペンダントを取り出すと、和臣は受け取ろうと手を伸ばした。けれど、その指先はひどく震えていた。亮介も黙ったままペンダントを見つめていた。やがて、その目の縁が赤くなった。