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死ぬ前に、ようやく憧れの湖を目にした
死ぬ前に、ようやく憧れの湖を目にした
Author: まねき猫ちゃん

第1話

Author: まねき猫ちゃん
化学療法を受けてから、私は辛いものを受けつけなくなった。それでも和臣は、食事のたびに辛い料理ばかり作った。

「美羽はこれから、お前のために片方の腎臓を失うんだぞ。好きなものくらい、食べさせてやってもいいだろ?」

美羽が私の成人祝いのネックレスを欲しがると、亮介はその場で私の首から外し、美羽に手渡した。

「美羽はお前に腎臓をくれるんだぞ。ネックレスの一本くらい、譲ってやってもいいだろ?」

遼は再診の日に一緒に病院へ行くと約束していたのに、その日は美羽とコンサートへ行き、病院には来なかった。

「美羽は、もうコンサートに行けないかもしれないんだ。お前は今日くらい我慢したって死なないだろ」

私の命がかかった手術さえ、美羽が「海を見たい」「スカイダイビングをしたい」「オーロラを見たい」と言い出すたびに、何度も先延ばしにされた。

広い家にひとりで残るのが怖くて、私も連れていってほしいと頼んだ。

それだけだったのに、三人は「栞のためだ」と言って、私だけをこの部屋に住まわせた。

この部屋に越してきた夜、私は和臣、亮介、遼をかたどった小さな人形を作った。食事のときも、眠るときも、痛みに耐えながら話しかけるときも、いつもそばに置いていた。

そして今日、私は貯金を使い切り、中古車を一台買った。

いつか四人で行こうと約束した青凪湖を、最後にこの目で見ておきたかった。

そして、そのまま二度と戻らないつもりだった。

……

この部屋で暮らし始めて三年。こんなふうに部屋を眺めたのは、初めてだった。

壁紙はあちこち剥がれ、その下から灰色がかった下地がのぞいていた。

カーテンは何度も洗ったせいでごわつき、端には落ちきらないカビの染みが残っていた。

古いエアコンは頭上でうなり続けていたが、出てくるのは生ぬるい風ばかりだった。

何より嫌だったのは、この部屋に染みついた臭いだ。

消毒液と薬の臭い。それに、咳き込んで吐いた血の生臭さが、何度拭いても消えずに残っていた。

けれど、白石家が貧しかったわけではない。

両親が交通事故で亡くなったあと、私たちには多額の遺産が残された。

その後、和臣は会社を立ち上げ、亮介も業界で名の知れたデザイナーになった。二人はそれぞれの道で成功し、都心のタワーマンションに300平米もある部屋を買った。

美羽には専用の書斎と音楽室があり、人形やお気に入りのグッズを置くだけの部屋まで用意されていた。

それなのに、私が家を出されるとき、和臣が口にしたのは、たったこれだけだった。

「ほんの数日なんだ。部屋なんて、寝られれば十分だろ。

手術が終わったら迎えに来る。それまでの辛抱だ」

けれど、迎えを待つうちに、一日、また一日と過ぎていった。

そうして三年が経っても、誰も迎えには来ず、命をつなぐための手術も受けられないままだった。

不意に、胃の奥をえぐるような痛みが走った。

私はすぐに洗面所へ駆け込み、洗面台に身をかがめて、大量の血を吐いた。

リビングに戻ったときには、明かりがぼんやりと滲んで見えた。

ソファには、三人をかたどった人形が変わらず並んでいた。

つぶらな目をこちらに向け、何も知らずに私を見つめていた。

その姿を見た途端、胸の奥からやりきれない思いが込み上げてきた。

「何よ、そんな目で見ないでよ!

私を捨てたくせに……!」

ソファの人形を片づけようと手を伸ばしたとき、スマホが鳴った。和臣からのメッセージだった。

【栞、あとで家に帰ってこい。話がある】

私はしばらく、スマホの画面を見つめたまま動けなかった。

とっくに諦めたはずなのに、「帰ってこい」の一言に、ほんの少しだけ期待してしまった。

もしかしたら、まだ私のことを気にかけてくれているのかもしれない。

そう思うと、じっとしてはいられなかった。私はすぐに部屋を出た。

バスを待つのももどかしくて、思い切ってタクシーを呼んだ。自分のためにタクシーを使うなんて、初めてのことだった。

家の玄関を開けると、リビングから明るい笑い声が聞こえてきた。

和臣と亮介、それに遼もそろっていた。三人に囲まれた美羽の前には、きれいに包まれたプレゼントがいくつも並んでいた。

和臣は美羽の頭を撫でながら、聞いたこともないほど優しい声で言った。

「美羽も今日で19歳か。大きくなったな」

亮介が笑いながら口を挟んだ。

「19歳になったくらいで、急に大人になるわけじゃないだろ。

美羽は80歳になったって、俺にとってはかわいい妹のままだからな」

そう言って、亮介はからかうように続けた。

「なあ、美羽。やっぱり俺が一番好きだよな?」

美羽が答える前に、遼が笑って割って入った。

「いや、一番は俺だろ。

小さい頃は、いつも『遼、遼』って俺のあとをついて回ってただろ?」

美羽が恥ずかしそうに頬を染めると、リビングは楽しげな笑い声に包まれた。

私は玄関に立ち尽くしたまま、その光景を見ていた。自分の家のはずなのに、私だけがよそ者のようだった。

やがて、和臣がこちらに気づいた。目が合った途端、口元の笑みが少し薄れた。

「栞、帰ってきたのか」

その一言で、笑い声が止んだ。

美羽は私をちらりと見ただけで、プレゼントを抱えて自分の部屋へ戻っていった。

あとに残った三人の間に、気まずい沈黙が流れた。

先に口を開いたのは、亮介だった。

「いつまでそこにいるんだ。こっちに来て座れよ」

私は返事をせずにリビングへ入り、隅にある一人掛けのソファに座った。

和臣は一度咳払いをして、話を切り出した。

「今日呼んだのは、相談したいことがあるからだ」

そう言うと、ローテーブルの下に手を伸ばし、書類を取り出した。

「まず目を通してくれ。問題がなければ、ここにサインしてくれ」

私は目の前の書類に目を落とした。

一枚目には、太字でこう書かれていた。

【生体腎移植に関する同意撤回書】

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