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第3話

Author: 朝陽に輝く山
翌日、直彦と雅子は、気力がなく虚ろな悠斗を抱いて退院した。

直彦があの服を畳んでいるとき、指先が袖口の一部、固くなった暗赤色の布地をなぞった。

しばらくして、直彦は悠斗に水を飲ませていた雅子を呼んだ。

「ちょっと来てくれ、これ……これって血じゃないか?」

雅子が覗き込むと、一目見ただけで顔色が一瞬で真っ白になった。

彼女は勢いよく悠斗の腕を掴み、必死にめくりながら確認した。

「悠斗、ママに教えて、どこか怪我したの?ほら、早く見せて!」

直彦も緊張した様子で悠斗の手を調べた。さらに髪をかき分けて、頭皮まで確認した。

悠斗はただ虚ろな大きな目を開いたまま、なすがままで、泣きも騒ぎもせず、ただ沈黙していた。

どこにも傷は見つからなかった。

その血は、悠斗のものじゃない。

僕も近づき、一目見た。

あの血痕は、あの悪人が僕と悠斗を掴んだときに流れた、僕の血だ。

あいつは僕の髪を掴み、思いきり後ろに引っ張った。

激痛の中で、僕はバランスを失い、額を壁の角から突き出た石に強く打ちつけた。

温かい液体が一気に僕の左目を覆い、血のような匂いがした。

熱い血の雫が数滴、額から飛び散り、僕の裾を必死に掴んでいた悠斗の青い袖口に落ちた。

「お兄ちゃん!」

悠斗の凄まじい泣き叫ぶ声が、記憶の中で最後に鮮明に残った音となった。

その後のことは、混乱して暗闇に包まれていった。

ただ、僕が最後の力を振り絞って、悠斗を人の多い広場の方へ突き飛ばしたことだけは覚えている。

そして、さらに多くの拳と痛みが降り注いだ。

次に意識を取り戻したとき、僕はすでに、雅子が僕のために残してくれたケーキの前に、ふわりとしゃがみ込んでいた。

「悠斗のじゃない……」

直彦は茫然とした目で、震える声で雅子に尋ねた。

「じゃあ、誰の血だ?」

雅子は答えなかった。

彼女は勢いよく、口の中で何度も「お兄ちゃん」と繰り返している悠斗の方を振り向いた。

水筒を握る手が、止まらずに震えている。

病院へ向かうとき、車内に響いていた争う声とは違い、帰り道の車内は完全な沈黙に包まれていた。

僕は彼らについて団地に入った。

入口に着いたところで、向かいの家に住む女子大学生に出くわした。

彼女は自転車に乗って、ちょうど出かけるところだった。

「おじさん、おばさん、悠斗くんはもう大丈夫ですか?」

女子大学生は自転車を止め、素朴な笑顔を浮かべた。

「あ、そうでした。少し遅れちゃいましたけど、おばさん、お誕生日おめでとうございます。

昨日のケーキには、特別にマンゴーをたくさん入れたんですよ。

春森くんに頼まれたんです。おばさんがマンゴー大好きだって言ってましたから」

その言葉が終わった瞬間、雅子の指がびくりと痙攣し、爪が掌に食い込みそうになった。

女子大学生の言葉は、まだ続いていた。

その口調は明るくて、少しからかうようだった。

「先月、春森くんはうちの両親のケーキ屋で半日手伝って、少しお金を稼いだんです。

すごく嬉しそうで、おばさんの誕生日プレゼントを買うんだって言ってました。

それに、どのハンドクリームがいいかも聞いてきました。

冬になると、おばさんの手はすぐ荒れるからって」

最後に、彼女はこうまとめた。

「春森くんは本当にいい子ですよ。

おとなしくて、気が利いて、仕事もてきぱきしてます」

直彦と雅子は、その場で完全に固まった。

僕も、少し呆然とした。

僕は、あのハンドクリームのことを思い出した。

重要で甘い秘密を守るように、僕はハンドクリームをリュックのいちばん奥、ファスナー付きの小さなポケットに隠していた。

毎晩、宿題を書き終えると、僕はこっそりそれを取り出して、そっと触っていた。

雅子がそれを受け取ったとき、ほんの一瞬でも、口元がほころぶだろうかと想像していた。

あの手で、僕の頭を優しく撫でてくれるだろうか。

たとえ一度だけでも……

だが今、そのハンドクリームは、きっとまだそのリュックの中にある。

もうとっくに死んだ僕の体と一緒に、どこか薄汚れた片隅に隠されたままだ。

雅子は口を開いた。

たぶん、いつものように言い返そうとしたんだと思う。

しかし今回は、意地悪な言葉がすべて喉に詰まった。

彼女は初めて、僕の話題を前にして、黙り込んだ。

家に戻っても、沈黙は続けた。

雅子は無言でモップを手に取り、床を拭き始めた。

床を突き破るんじゃないかと思うほど、力を込めていた。

直彦はパソコンを開かなかった。

ただ、ソファに座ったまま、ふいに顔を上げて雅子に言った。

「春森、一晩帰ってきてない。

まだ九歳だぞ。どこに隠れられるっていうんだ」

雅子は突然モップを床に叩きつけ、歯を食いしばって低く唸った。

「私に聞くなよ。知るわけないでしょ!

あなたは一日中、ゲームのことばっかり!春森が家出しても、何も気にしないじゃない!」

「気にしてないだと?」

直彦は猛然と立ち上がり、声を荒げた。

「俺が春森を躾けるたびに、お前だって止めなかっただろ!

しかも、俺が春森に買った服を悠斗に回して、兄なんだから我慢しろって言ったよな!」

「じゃあ、あなたはどうなの?一度でも保護者会に行ったの?一度でも春森の服を洗ったの?」

二人の言い争いは相変わらず騒がしく、互いに自分の無実を主張し合っていた。

大人とは、本当に滑稽だ。子どもよりも、よっぽど駄々をこねる。

僕はシャンデリアに腰掛けて、ぶらぶらと足を揺らしていた。

大人になれなくて良かった。

「去年、春森が熱を出して入院したとき!あなたは病室の外で三日間ゲームしてたじゃないの!」

「お前こそ!悠斗を連れて、遊園地に行っただろう。それなのに、春森を病院に置き去りにした!」

一言一言が刃物みたいだった。

相手を切りつけながら、同時に自分自身も切り裂いていた。

そうでもしなければ、彼らは気が済まなかったのだ。

雅子は突然動きを止め、荒い息をつきながら家の中を見渡した。

リビングの壁には悠斗の一歳の写真が飾られている。

テーブルの上には悠斗のおもちゃが並べられている。

そして、冷蔵庫のマグネットですら、悠斗の落書きだ。

この家に、僕の痕跡なんて、どこにある?

直彦も雅子の視線を追い、顔色が次第に青ざめていった。

彼は口を開いたが、やがて力なくソファに座り直し、ほとんど聞こえない声で言った。

「俺たち……俺たちは、本当に春森にひどいことをしてたんじゃないか?」

そうだ。

ずっと昔から、そうだった。

窓の外で、けたたましい警笛の音がかすかに聞こえた。

だんだんと、近づいてくる。

直彦と雅子は反射的に窓辺へ行き、下を覗いた。

雅子は直彦の腕をぎゅっと掴み、唇を震わせた。

「……何か、あったんじゃない?」
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