LOGIN40歳のとき、誘拐された娘・中山結衣(なかやま ゆい)を助けようとして、私は片足を折られ、頭を激しく殴られた。その一件で、私は生涯消えることのない重い障害を負ってしまい、心も体もあの日から元の自分には戻れなくなった。 本当ならまだ子どものままでいてよかった結衣なのに、あの日を境に、大人になることを強いられた。仕事を3つも掛け持ちしながら、なけなしのお金で私を病院に通わせてくれた。 やがて結衣も結婚し、子供・中山涼太(なかやま りょうた)が生まれた。しかし、涼太は先天性の心臓病を患っていたのだった。 結衣と彼女の夫・中山洋介(なかやま ようすけ)の肩に家庭の負担が全てのしかかる。 そしてある日、私が懲りずに涼太のおやつを勝手に食べて、洗ったばかりのソファを汚してしまったときのことだった。 結衣のずっと溜め込んできた感情が爆発した。 「どうしてまだ生きてるの!なんで私を助けたときに死んでくれなかったのよ!」 自分を抑えきれなくなった結衣は、お湯を張ったお風呂に私を突き飛ばす。 しかし、私のこの人生が終わりを告げようとした時、結衣はっと我に返ったらしく、慌てて私を助け出してくれた。 結衣はその場にへたり込み、声をあげて泣きじゃくった。 「もう無理……私、本当に、もう無理だよ……」 私はまだなにが起きたのかよく分かっていなかったので、ただ、ぎこちなく手を伸ばし、結衣の涙を拭うことしかできなかった。 お湯でふやけてしまった手の中のクッキーを、そっと彼女の口元へ差し出す。 結衣がまだ小さかった頃あやしたみたいに、やさしく声をかけた。 「結衣。ほら、もう泣かないの。これを食べたら元気になるからね」
View Moreそして、結衣の顔にだんだんと笑顔が戻ってきた。それは、何かが吹っ切れたような、心の底からの穏やかな顔だった。時々お墓まいりに来てくれる彼女は、もう泣き言を言うんじゃなくて、まるで友達みたいに話しかけてくれる。家であった面白いことや、涼太の成長、様々なことを教えてくれるのだった。結衣はこうも言った。「お母さん……ようやく分かったよ。お母さんがあのとき命がけで私を助けてくれたのは、私に一生かけて罪を償わせるためじゃなくて、『ちゃんと生きてほしい』って願ってくれていたからなんだって。だから私、生きるよ。ちゃんと……」ある時は、クッキーの箱を持ってきて、私の墓石の前にそっと置いてくれた。一枚は自分が食べて、もう一枚は私に「残して」くれる。私たちはやっと、お互いに負い目を感じることなく、静かな時間を分かちあえるようになった。洋介の両親は病気もなく、元気にしているようだ。相変わらず口を開けば文句ばかりだそうだが、よく家に来ては愛情のこもった目で涼太を見ながら、世話を焼いてくれているらしい。いろいろなことがあって、ばらばらになりそうだったこの家だったが、私がいなくなってから、やっと新しいバランスと温かさを取りもどしたみたいだった。それから何年も経った後。大きくなった涼太は大学に合格した。いつの間にか、すらっとした好青年になっている。大学は家から遠く離れていたので、家を出る日、彼は結衣と洋介と一緒に会いに来てくれた。墓石の前に立つ涼太は、もう結衣の背を追いこしていた。しかし、彼は相変わらず小さい頃みたいに、私の写真をそっとなでて、小さな声で呟く。「おばあちゃん、涼太だよ。おばあちゃんに会いたい。夢に出てきてよ。僕はもう子供じゃないから、怖がったりしないしさ」結衣と洋介もすっかり年をとって、髪の毛には白いものがまじるようになっていたが、二人はしっかりと支えあい、そのうしろ姿はとても穏やかで、幸せそうだ。車で去っていく三人を見送りながら、私はこの静かな墓地を眺めていた。暖かい陽射しが降り注ぎ、草も青々と茂っている。そばに立つ大木も、ますます枝を広げていた。なんだか全てが満たされ、安らかな気持ちになり、ふとその大木から視線を離した。振り向くと、白い光の中で、両親と早くに亡くなった夫が、微笑みながら
結衣の顔に浮かぶ嬉し涙の一粒一粒までが見えた。私は顔を彼女のほうに向けて、その姿を目に焼きつけるように、じっと見つめる。そして、こう言った。「結衣、今までありがとう」……とても小さな声だったけど、私の命のすべてをこめて伝えることができた。周りの音がだんだんと遠くなっていく。そして、最後には結衣が呼びかけてくれていた声までも聞こえなくなった。羽のようにふわりと……私はようやく、この重たい肉体という殻から抜け出した。信じられないほど体が軽くて、痛みも悔いも何ひとつない。あるのは、ただ包み込むようにあたたかな白い光だけ。私はこの世を去った。私の葬儀は、とても静かで質素なものだった。故郷の墓地で、夫の墓碑のすぐ隣に眠ることになった。結衣は言った。「お母さんが最後に自分で選んだ場所が、お父さんのそばだなんて……きっと神様が導いてくれたんだよ」と。来てくれた人はそんなに多くは無かったけど、みんな私の大好きな人たちだった。一番前に立っている結衣のこめかみには、もう白髪が混じっていた。この何年もの間、彼女はアルバイトを何個も掛け持ちしながら、私をいろんな病院へ連れていってくれた。まるで死神の手から、私のために20年もの時間を奪い返してくれたみたいだった。洋介は、黙ってその隣に立っている。この家の重荷はほとんど彼が背負っていたはずなのに、一度も弱音を吐かなかった。洋介の母親・中山明美(なかやま あけみ)は相変わらずで、口ではいつも「なんで私が……」なんて言っていたけど、結衣が大変なときは、いつも率先してご飯を作ってくれたり、涼太の面倒を見てくれたりした。お隣さんの百合も来てくれた。その目は赤く腫れている。最後に会った日の朝、お塩を買いに行くだなんて嘘をついたことを思い出して、申し訳ない気持ちでいっぱいになった。涼太は耳がぺちゃんこになったうさぎのぬいぐるみを小さな手でぎゅっと握りしめている。そしてつま先立ちで、そのうさぎをそっと私のお墓に寄りかからせると、小さな声でこう言った。「おばあちゃん。うさぎと一緒だからさみしくないよ」みんな来てくれた。誰ひとり欠けることなく。この長い年月のあいだ、誰だって傷つくような言葉を口にしたし、ふとした瞬間にうんざりした顔も見せた。でも最後には、
彼女の目には相変わらず、固く目を閉じた私の姿が映っている。しかし、結衣は目を真っ赤にして、私の手をぎゅっと握りしめた。そして、私の手のひらに顔をうずめると、熱い涙をぽろぽろと流した。私のせいで、この子はたくさんの涙を流してきた。……それから、結衣はほとんど病院に泊まり込むようになった。たくさん私に話しかけてくれるようになった。今までは知ることとができなかった、彼女の毎日のささいな出来事を話してくれる。ある日、夢に父親が出てきた、と結衣が言った。もっとちゃんと私の世話をしろ、と怒られたらしい。そう話す結衣の目から涙がぽたぽたと溢れ、私の手の甲に落ちてきた。「本当お父さんの言うとおりだよね。私ってなんてだめな娘なのかしら」それから、洋介が昇進したうえに、会社からボーナスも出たと教えてくれた。それで、涼太の手術代が払えるそうだ。「お母さん。やっとうちにも良いことが起き始めてるみたい。だからお母さんも、早く元気になってね」結衣の瞳はどこか潤んでいて、そこには辛い日々を抜けた者だけが見せる、小さな希望の光が宿っていた。私が自殺しようとしたことは、まだ涼太には話していないそうで、ただ病気で入院してる、とだけ伝えているみたいだった。涼太は、どうしてもおばあちゃんに会いたいと騒ぎながら、彼のキャンディーを全部おばあちゃんにあげるんだと、話しているらしい。それを聞いて、まるで温泉に浸かっているみたいに、心がじんわりと温かくなった。こんな他愛もない結衣のおしゃべりが、まるで恵みの雨みたいに、私の渇ききった命を潤してくれる。でも、この温かさを感じれば感じるほど、心の奥では不安が大きくなっていった。なぜなら、みんなが私を心配してくれるほど、その分私がいなくなったときの悲しみが深くなる。こんなことなら、いっそのことみんなが私に冷たかったらよかったのに。私に対してうんざりしていてくれたらよかったのに……そうすれば、みんなの肩の荷が下りたって、ほっとしてあの世に行けたんだ。もし私の存在が、あの子たちの重荷にしかならないのだとしたら……いっそ、私なんて忘れ去られたほうがいい。そうすれば、私のことを思い出して、こんなに悲しい思をすることはないのだから。涼太が手術をするという前日、結衣がようやく
「お母さん!どこにいるの?!」結衣の声だ!私の可愛い結衣!目を開けたい。彼女に返事をしてあげたい。でも、まぶたは鉛みたいに重いし、喉からはひゅうひゅうと変な音が出るだけだった。ただ聞くことしかできない。私にできるのは、もうそれだけ。「お母さん!!」すぐそばで、結衣の驚いた悲鳴が聞こえた。ばたばたと駆け寄ってくる足音。その風が私の頬をなでる。すぐに、震える手が私の顔に触れた。汗でじっとりと湿っていて、なんだか冷たい。結衣は泣きじゃくっていた。熱い涙が、ぽたぽたと私の額に落ちてくる。「お母さん!どうしたの?!しっかりして!私を見て!」そして、あの茶色の瓶を見つけた瞬間、彼女は傷ついた獣が漏らすような哀切な声を絞り出した。「何を飲んだの?ねえ、何を飲んだのよ!ごめん……お母さん!私が間違ってた!あんなこと言うんじゃなかった……」彼女は私に覆いかぶさり、ぎゅっと抱きしめた。そうすれば、私の命が消えずに済むとでも言うように。「カッとなっちゃっただけなの。あんなこと、本当は全然思ってない……だから、許して……まだ涼太が元気に大きくなるのを見れてないじゃない……あの子、もうすぐ手術するのよ……涼太が駆け回ったりするのを見るって言ってたでしょ……だから、死んじゃだめ……お願いだから……」どうやら洋介も一緒らしい。彼が息をのむ気配がした。「早く!お母さんを背負って、病院へ行って!」洋介が私を背負ってくれた。私の頭は、力なく彼の肩にもたれかかる。「お義母さん……しっかり……大丈夫だから……」洋介の声は震えていた。よろよろと、覚束ない足取りで外へと向かう。結衣はぴったりと横について、片手で私を支え、もう片方の手で私の服の裾を強く握りしめている。もう大声で泣き叫ぶことはなく、声を押し殺してすすり泣きながら、私に話しかけてきていた。「お母さん、聞こえる?お願い、目を開けて。私を見て……もうひどいこと言わないし、毎日、美味しいもの作ってあげるから……お母さん……私を置いていかないでよ……私には、お母さんしかいないんだよ……」結衣すぐ近くにいるのに、その声はなんだかすごく遠くに感じた。彼女の涙を拭いてあげたい。「泣かないで」って、言ってあげたい。でも、もう無理み