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氷のCEOは、愛の在処をもう知らない
氷のCEOは、愛の在処をもう知らない
Author: 黒兎みかづき

01:書斎の片隅で

last update Last Updated: 2025-09-29 07:28:26

【プロローグ】

「待って、樹(いつき)! そんなに走ると危ないわよ!」

 柔らかな朝の光が降り注ぐ、地方都市の穏やかな並木道。小さな恐竜のアップリケがついたリュックを揺らし、4歳の息子がきゃっきゃと笑いながら駆けていく。その後ろ姿を、早乙女結菜(さおとめ・ゆな)は少し息を切らしながら追いかけた。

 保育園の門の前でようやく追いつくと、くるりと振り返った息子は、満面の笑みを浮かべていた。額には、うっすらと汗がにじんでいる。

「ママ、はやく!」

「もう、元気すぎなんだから」

 結菜はしゃがみ込み、息子の小さな手を握る。自分とよく似た柔らかな髪の下で、あの人から受け継いだ銀灰色の瞳が、期待に満ちてきらきらと輝いていた。

「だって、きょうは先生に、きょうりゅうの絵本を読んでもらうんだもん!」

 無邪気な笑顔に、結菜の胸がきゅっと愛しさで満たされる。彼女は樹を優しく抱きしめた。小さな子供特有の甘い匂いが、結菜の心を安らぎで包む。

「ママ、お仕事に行ってくるからね。先生の言うことをちゃんときいて、いい子で待ってるのよ」

「うん!」

 元気な返事と共に腕の中から抜け出して、樹は友達の元へと駆けて行った。その小さな背中が見えなくなるまで見送ると、結菜はふっと表情を和らげ、自分の職場である市立図書館へと歩き出す。

(この温かい宝物が、私のすべて)

 今の穏やかな暮らしは、彼女が胸の奥にしまい込んだある一夜の美しい思い出と、引き裂かれるような痛みの上に成り立っていた。

 その始まりは、5年前。大学を卒業して間もない頃。就職に失敗し、派遣社員として働いていた秋のことだった――。

【5年前】

 オフィスライトの白い光が、規則正しく並んだデスクを無機質に照らし出す。

 結菜は、モニターに映し出される数字の羅列を目で追っていた。聞こえるのは、カタカタ、と響く自分のキーボードの音と、周囲の社員たちの当たり障りのない会話だけ。その声も、自分とは無関係などこか遠いもののように感じる。

(今日も、同じ一日が終わる)

 定時のチャイムが鳴った。結菜は誰にともなく小さく会釈をして、席を立った。

 派遣社員である彼女のデスクには、私物と呼べるものはほとんどない。契約はいつ切られるか分からず、そのために周囲の社員と打ち解けることもない。空っぽの引き出しを閉めるたび、自分の居場所がここにはないのだと、改めて突きつけられる気がした。

 もう秋だというのに、東京の気温は高いままだ。

 帰りの電車は、一日の熱気を吸い込んだまま、けだるそうに線路を滑っていく。窓に映る自分の顔は、ひどく色褪せて見えた。柔らかな茶色の髪も、自分では穏やかだと思っている瞳も、この灰色の都会では何の個性も放たない。

(このままで、いいのかな……)

 街角で楽しそうに笑い合う家族連れが、ふと目に入る。

 既に両親を亡くした結菜にとって、眩しすぎる光景だった。胸の奥が、きゅう、と小さく痛む。天涯孤独という言葉が、冷たい風のように心を吹き抜けていった。

 感傷を振り払うように、結菜はいつも同じ路地へと足を向けた。

 都会の喧騒が嘘のように静まり返る、入り組んだ裏通り。その先に彼女の聖域はあった。

 蔦の絡まるレンガ造りのレトロな建物が、裏路地の片隅に佇んでいる。アンティークな木製のドアに手をかけると、カラン、と澄んだベルの音が鳴った。

『書斎喫茶 月読(ツクヨミ)』

 一歩足を踏み入れると、古書のインクと深く焙煎されたコーヒーの香りが、結菜の心を優しく包み込む。壁という壁を埋め尽くす本棚と、静かに流れるクラシック音楽。

 カウンターの奥で、無口なマスターが黙って頷いた。結菜を迎える。

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