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last update Last Updated: 2025-09-29 07:30:02

 作家のエリアス・バークという共通の言語を得たことで、2人の間の見えない壁は、静かに溶けていった。

 1つの話題が尽きれば智輝が自然に次の糸口を見つけて、結菜がそれに言葉を重ねる。まるで昔からの知り合いのように、会話は穏やかに、途切れることなく続いていった。

「バークに影響を受けた作家だと、レイモンド・アトウッドの初期作品もどこか通じるものがありますね。特に、風景描写に託す登場人物の心情の描き方が」

「分かります。アトウッドの『海の見える丘』は、何度も読み返しました。……本が、私にとっては家族みたいなものだったので」

(あ……しまった)

 ぽつりと漏れた言葉に、結菜は内心で小さく首を振った。

 普段なら、見知らぬ相手にこんな個人的な感傷を匂わせることは決してない。けれど彼の前では、心の内の柔らかな部分がいとも簡単に顔を覗かせてしまう。

 智輝は、結菜の過去を探るような真似はしなかった。ただ銀灰色の瞳に深い理解の色を浮かべて、相槌を打つ。

「本は、何も言わずにただそこにいてくれる。立ち去ることも、裏切ることもない」

 その一言に、結菜は胸を突かれた。

(智輝さんも、誰かを喪った経験があるのだろうか。それとも、裏切られたことが……)

 その孤独の深さを思い、結菜はますます彼に惹かれていった。

 コトリ。小さな音を立てて、新しいコーヒーがテーブルに置かれた。

 マスターは、2人の会話が深まるのを見守っていた。さりげない心遣いで、客たちがこの店で特別な時間を過ごせるようにしている。

 結菜が目礼すると、マスターはわずかに微笑んだ。

 夜が更けて、アンティークランプの灯りが店内に落ちる影を濃くしていく。智輝はコーヒーカップを片手に、ふと真剣な眼差しを結菜に向けた。

「不躾な言葉をお許しください。あなたは……1人でいることに慣れているけれど、本当は寂しい人ではないですか」

 核心を突く言葉だった。彼の瞳は結菜の心の一番奥深く、誰にも見せたことのない場所をまっすぐに見透かしているようだった。

「それは……」

 図星を指された結菜は、言葉を失う。反論の言葉が見つからずに、ただ小さく頷くことしかできなかった。

(そうだ。私はいつも寂しかった。お母さんは小さい頃に亡くなって、お父さんはずっと忙しくて。そのお父さんも、大学に入った後に亡くなってしまった。本だけが私に寄り添ってくれていた……)

 沈黙が落ちる。

 結菜に友人はそれなりにいる。だが心の底に孤独を抱え、文学を愛する彼女を真に理解してくれた人はいなかった。

 次に口を開いたのは、勇気を振り絞った結菜の方だった。

「あなたも、どこか寂しそうな目をしています」

 問いかけると、智輝は一瞬、虚を突かれたように目を見開いた。そしてすぐに、端正な唇に自嘲気味な笑みを浮かべる。

「……そう見えるか」

 彼はそれ以上何も語らなかったが、その表情が何よりもの答えだった。

 言葉が途切れた後の静けさは、気まずいものではなかった。むしろ互いの心の傷にそっと触れ合うような、慈しむような空気が流れていた。

 結菜は、智輝の銀灰色の瞳から目が離せない。そこに映っているのは同情ではない。同じ種類の孤独を知る者だけが持つ、静かな理解の色だった。

 言葉にしなくても、伝わっている。今まで誰にも打ち明けられず、心の奥底にしまい込んできた寂しさが、この人には痛いほど分かるのだ。そして彼の寂しさも。その確信が結菜の心を震わせた。互いに抱える孤独の影を認め合ったことで、心の距離が急速に縮まっていくのを、結菜は確かに感じていた。

「そろそろ、閉店の時間です」

 マスターの静かな声が、二人の世界に現実を引き戻した。

 結菜と智輝ははっと我に返る。

「もうこんな時間か」

 智輝が壁の古時計を見て驚く。いつの間にか、数時間があっという間に過ぎ去っていた。

 夢中だった会話が途切れて、魔法が解けたように再び沈黙が訪れる。

(このまま終わってしまうの? この人とはもう二度と、会えないのかもしれない……)

 智輝は今日出会ったばかりの行きずりの相手だ。寂しさと不安が、結菜の胸を冷たくよぎった。

 店を出ると、ひんやりとした秋の夜の空気のが流れている。昼間の気温は高くとも、朝夕の空気の冷たさは確かに秋だった。

 その中に二人は言葉もなく並んで立った。街の喧騒が、遠い潮騒のように聞こえた。

 沈黙を破ったのは、智輝だった。

「こんなに誰かと話したのは、久しぶりだ」

 その声には、紛れもない本心からの響きがあった。彼は結菜に向き直ると、銀灰色の瞳で彼女を見つめた。

「君ともっと話したい。もし、迷惑でなければ……明日、食事でもどうだろうか」

 予期せぬ誘いに、結菜の心臓が大きく高鳴る。戸惑いとそれを上回る喜びが、胸の中で入り混じる。

 智輝の瞳に映る真剣な光に吸い寄せられるように、彼女は頷いていた。

「はい。ぜひ」

 返事を聞いた智輝の口元に、初めて見る柔らかで、心からの笑みが浮かんだ。

「では、連作先を」

 手の中のスマートフォンに彼の連絡先が登録されていくのを、結菜は夢見心地で見つめた。

 彼が去っていく背中が見えなくなるまで見送った後も、高鳴る胸を押さえながら、しばらくその場を動けなかった。

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