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1-7

Author: 酔夫人
last update publish date: 2026-03-31 14:55:02

廊下に出た瞬間、あやめは小さく、しかし深く息を吐き出した。

胸の奥に溜まっていたものを、少しでも外に逃がすように。

官邸の空気はよく管理されているはずなのに、先ほどまでいた部屋の冷気は、やけに肌に刺さるものだった。

(冷房の設定温度が低すぎるのではないかしら……クールビズはどこにいったの?)

わざと軽口のように、あやめは思考を転がしてみる。

けれど、そんな冗談めいた考えでは、胸の奥に広がる冷えはまったく和らがなかった。

むしろ、笑えない自分を突きつけられるだけ。

「車を回してある」

落ちてきた冬弥の声は、相変わらず温度を感じさせない。

(……この冷たさは、この人のせいでもあるかもしれないわね)

何も言うことなく、あやめは小さく頷いた。

.

冬弥に続いて官邸の裏口へ出ると、そこには黒塗りの車が静かに待機していた。

無駄な主張を一切しない、けれど見る者が見れば分かる類の高級車。

艶のあるボディに、周囲の景色が歪んで映り込んでいた。

 ジャリッ

冬弥の履いた革靴がアスファルトの上の砂利を踏んだ音がしたと同時に、運転席にいた男が素早く降りてきて、無言で後部座席のドアを開けた。

男のその動きに一切の無駄がない。

(慣れている……)

男はあやめに車に乗るように促す。

そしてあやめが車内に乗り込むと、男は戸口で短く頭を下げた。

「鷹見と申します、以後お見知りおきを」

低く落ち着いた声。

名乗りもまた簡潔だった。

.

扉が外から閉められると同時に、あやめは腰を浮かせて運転席側に移動した。

そして、あやめが一息ついたとき――。

「え……?」

真横のドアが開く音がして、あやめは顔を上げる。

目の前に立っていたのは、当然ながら冬弥。

「なぜ、ここにいる?」

「……車に乗るように言ったのではなかったのですか?」

自分の勘違いだったらしい。

そう思ったあやめは、わずかに体を浮かせて反対側にいこうとした。

一人分のスペースが開いたところで、冬弥が乗り込んでくる。

「そっちに座っていろ」

「……え?」

「そもそも、なんでこっちにいた?」

無意識に、いつもの癖で運転席側へ移ろうとしていただけ。

何も考えずにした行動だったから、あやめは答えに困った。

冬弥がため息を吐く。

「これから、お前は常にそちらに座ってもらう」

短く、しかしはっきりとした指示。

「でも……」

言いかけて、あやめは口をつぐむ。

警護対象者は、後部座席の助手席側。

それが基本。

それが“守る側”の配置であり、“守られる側”の位置だ。

ずっと、そう学んできた。

だから、その席は――いつも政治家である父親の場所だった。

「言っただろう。お前がキングだって」

淡々とした言葉。

だがその一言で、あやめの中の“常識”が、あっさりと塗り替えられる。

冬弥はそれ以上言葉を重ねなかった。

ただ視線だけで、「そこにいろ」と告げる。

あやめは一瞬だけ躊躇い――そして静かに、皺の寄ったスカートのすそを整えて座り直した。

その動きを確認してから、冬弥は背もたれに寄り掛かる。

冬弥側のドアも、外側から閉められる。

ドアが閉まる音が、やけに重く響いた。

鷹見が運転席に戻り、エンジンがかかる。

振動が、かすかに体へと伝わってくる。

やがて車は、音もなく滑るように動き出した。

.

最初は見慣れた景色だった。

何度も往復した官邸周辺の道路。

見覚えのある建物、交差点、街路樹。

それらが窓の外を流れていく。

けれど、しばらくすると――風景はゆっくりと変わり始めた。

見知らぬ道。

知らない街並み。

自分の“生活圏”から、確実に外れていく感覚があやめを襲った。

(……本当に、戻らないのね)

その実感が、静かに胸へと沈んでいった。

「どこへ向かっているのですか?」

沈黙に耐えきれず、あやめは口を開いた。

「神崎の屋敷だ。今日からお前はそこで生活してもらう」

“生活”。

その言葉が、ひどく重く響く。

(生活って……よく考えれば……)

「私の荷物はすべて柊家にあります」

ほんのわずかな抵抗のつもりで言った言葉。

だが――。

「お前の荷物は、当面必要と思われるものは先に送ったと聞いている」

即座に返された答えに、あやめは目を見開いた。

(……いつの間に)

自分の知らないところで、すべてが整えられていた。

拒否も、選択も、あやめが介在する余地がない。

「足りないものがあれば、家政婦頭に言え。用意させる」

何でも揃う。

何でも与えられる。

ただし――そこから出る自由だけは、与えられない。

「それは、至れり尽くせり、ですね」

皮肉を込めたつもりだった。

けれど、その言葉は車内に落ちたまま、拾われることはなかった。

冬弥は何も言わない。

ただ、窓の外へと視線を向けたまま。

その横顔は、やはりどこまでも無機質で――遠い。

沈黙が、ゆっくりと車内を満たしていく。

エンジンの低い振動音と、エアコンの風が回る規則的な音だけが、空間を支配する。

まるで、外界と切り離された密室のようだった。

(……この状況からすでに檻なのだけれど)

ふと、先ほどの言葉が脳裏をよぎる。

閉ざされた空間。

ここは広くもなく、息苦しいほどの沈黙で快適ではない。

檻らしい、檻。

走り続ける車の中で、あやめは窓の外へと目を向けた。

流れていく景色は、どこまでも自由に広がっているのに――自分だけが、その外へ出られないような気がした。

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