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Author: 酔夫人
last update Last Updated: 2026-01-27 11:02:42

神崎邸で「神崎」の姓をもつのは冬弥とあやめだけだが、神崎邸には龍神会の組員たちや住み込みの家政婦など大勢の人間がいる。

広い神崎邸は「神崎」のプライベート空間と、その他のエリアがある。

あやめは毎朝身支度を整えると、「神崎」のプライベート空間から出てダイニングに向かう。

廊下に差し込む光は柔らかく、庭の緑はよく手入れされていて、空気は澄んでいる。

何もかもが整っていて、何もかもが満たされている――はずだった。

しかし、最近のあやめの胸の奥には、言葉にできない“空白”がある。

---

「おはようございます、奥様」

早苗さんがあやめの朝食の準備を整えながら、いつものように声をかけてくる。  

「おはようございます」

あやめは微笑んで答え、いつもの自分の席に着いた。

目の前のテーブルには、栄養バランスの取れた和食が並んでいる。

味噌汁の湯気が立ちのぼり、焼き魚の香ばしい匂いが漂っていた。

「早苗さん、冬弥さんは?」

「本日は撮影現場の視察に行くそうで、早朝に出られました。午後には神崎芸能本社に戻られる予定です」

「そう。ありがとう」

あやめは箸を取ったが、食欲が出なかった。

口に運んだ味噌汁の味が、妙に薄く感じられる。

あやめと冬弥は寝室が別だ。

白い結婚――それが、あやめと冬弥の関係を表す言葉だった。

政略結婚の形式だけの夫婦が、別の寝室を使うことは珍しいことではない。

互いに干渉せず、あるときに”夫婦の役割”を果たす。

ただ、あやめはその”役割”を果たしていない。

正直なところ、最初はそうであることにあやめは安堵していた。  

知らない男と暮らすことにあやめは警戒していたからだ。

この屋敷にきた夜も、入籍したあとのいわゆる初夜も、冬弥が離れていってホッとしていた。

けれど、今―― あやめは、そのことに不満を持っている。

この自分の中に芽生えた“違和感”に、あやめは戸惑っていた。

---

「何が不満なの?」

自室の鏡の前で、あやめは自分に問いかけた。  

整えられた髪、控えめなメイク、上質なワンピース。  

どこから見ても“神崎の妻”として申し分ない姿。

冬弥とも、穏やかな関係が築けている。  

良好とも言えるのではないか。

仕事では信頼され、意見を求められることもある。

そして、屋敷では自由だ。

何も干渉されない。

夜、同じ屋根の下で眠っているというだけで、互いが何をしているかなど知らない。

今日のように早朝に家を出ても、あやめはそれを知らない。

干渉されない。

確かに、自由ではある。  

(でも、それは無関心とは違うの?)

無関心、にあやめは不満を抱いていた。

物足りない、そう思ってしまうのだ。

よく知らない人だった。

距離があって当然。

これは、政略結婚。

あやめはそう自分に言い聞かせる。  

けれど、心の奥では分かっていた。  

冬弥のこと、知ってしまったから。

もちろん、全てではない。

冬弥の冷静さ。

垣間見せる優しさは、冷静さの裏に常にあるからではないか。

あやめの表情を読もうとする目。

あやめの言葉に反応する、わずかな表情の揺れ。

(知らなければよかった……気づかせないでくれたらよかったのに)

今の不満は、冬弥のほんの一部でも知ってしまったから、生まれたのだ。

冬弥が求めているのは、”神崎の女”。

あやめはドレッサーの上のジュエリーケースに手を伸ばし、ふたを開ける。

白いカメリアのブローチ。

記者会見の夜、冬弥から送られたもの。

ブローチを取り出し、その下にあった小さな紙を開く。

【花を枯らさないようにするのが、俺の役目だ。  ――冬弥】

「……役目」

冬弥にとって、夫であることは役目。

(それでは、私は? いや、違う……)

「私は、どうしたいの?」

鏡に問いかけても、答えは出ない。

ただ、胸の奥に小さな棘が刺さったような痛みが残る。

最近は、いつもこうだった。

まだ名前のない感情。

(まだ、名前をつけたくないもの)

けれども、確かに”それ”はそこにある。

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  • 氷龍の檻姫   12

    その日、神崎邸にさくらが訪ねてきた。早苗から「お姉様がいらしています」と告げられたとき、あやめは一瞬、耳を疑った。あやめと姉さくらの関係は、悪くないが、良くもない。互いに干渉し合わない距離感にいる、ようにしている。「姉が? 何か、用事で?」「いいえ、“妹の顔を見に来た”と仰っられて、柊家のご令嬢でしたし、応接間にお通しいたしました」「……ありがとう」父である柊謙一の用事で来たのだとあやめは期待したが、早苗の回答にため息を吐いた。姉さくらは、時折こうしてあやめとの距離を詰めようとする。ただ、あやめの過去の経験から、姉さくらのこの行動は好意的な理由ではない。いままでは、自分の引き立て役とすることが多かった。でも、ここは観客などいない。なんのために来たのか。理由が読めないのが、あやめには怖かった。---応接間に入ると、さくらはいつもの様に上質なワンピースに身を包み、優雅に紅茶を口にしていた。 その姿は、まるで舞台の主役のように完璧だった。「あら、あやめ。元気そうで安心したわ」「お久しぶりです、お姉様……その、どうして急に?」「妹が極道の妻になったって聞いたら、普通は心配になるじゃない」姉さくらの言う”極道の妻”になったのは、もう数カ月前の話。入籍直後ならまだしも、どう聞いても口実にしか聞こえなかった。(そして、それはここで言っていい言葉ではない)姉さくらが”極道の妻”と言った瞬間、後ろに控えている鷹見と早苗の雰囲気がピリッとした。さくらとしては、いつも通りあやめを貶めたかったのだろうが、この場合はそう聞こえない。特に”姉妹”だと先入観があれば、極道を馬鹿にされたと感じてしまう。 「お父様は、お元気ですか?」あやめは無難な話題を振り、ぴりついた雰囲気を宥めることにした。「そうそう、お父様も、あなたのことを“よくやってる”って褒めてたわよ」その言葉に、あやめはわずかに眉をひそめた。 父が自分を褒めるなど、あやめは珍しいと思ったし……。(どこでそんな話題になったのかしら)「神崎冬弥さん」姉さくらが冬弥の名を語る声に、あやめは嫌な予感がした。まるで蜜のような甘い声。この声はいつも……。「神崎冬弥さん。とても素敵な方ね」さくらは紅茶の入ったカップを置き、あやめの目をまっすぐに見た。「ねえ、あやめ」

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  • 氷龍の檻姫   7

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