Partager

次世代編 第38話 秘密の場所

Auteur: 花柳響
last update Date de publication: 2026-05-19 06:00:40
 その言葉が、結衣の鼓膜を震わせ、心臓の奥深くに真っ直ぐに突き刺さった。

 今まで、誰も結衣にそんな言葉を投げかけたことはなかった。

 周囲の人間は皆、結衣を「完璧な令嬢」として扱い、遠くから羨望と嫉妬の目を向けるだけだった。

 父・征也でさえも、結衣の中に莉子の面影を見いだし、彼女の本当の寂しさには気づいてくれなかった。

 なのに、この少年は。

 出会って間もない、素性も知らないこの少年だけが、結衣を縛り付けている見えない鎖の存在を、いとも簡単に見抜いてしまった。

「……窮屈、か」

 結衣は、自嘲するように小さく笑った。

「そうかもしれない。……私は、自分の意志で外を歩くことさえ、許されないから」

「厳しい家なんだね」

「厳しい……ええ、そうね。息が詰まるくらいに」

 結衣は、熱い缶コーヒーを胸の前に抱きしめた。

「私の家は、時間が止まっているの。……十二年前から、ずっと。そこには、誰も私を見てくれる人がいない。……私に触れて、熱を与えてくれる人が、誰もいない」

 結衣の口から、無意識のうちに、隠していたはずの孤独が零れ落ちていた。

 自分がこんなにも脆い
Continuez à lire ce livre gratuitement
Scanner le code pour télécharger l'application
Chapitre verrouillé

Dernier chapitre

  • 没落令嬢の家政婦契約 ~冷酷CEOは、初恋を逃さない~   次世代編 第94話 おかえり、私たちの魔王

     少し離れたベンチで、陽向が電話をしていた。 「うん。今日は寄れると思う。……分かった。お父さんにも、無理すんなって言っといて」  話し終えてからも、しばらく画面を見ている。莉子は声をかけずにいたが、振り向いた陽向と目が合ってしまった。 「何」 「今度は、私もお店に行きたいなと思って」  陽向はスマートフォンをポケットへしまった。 「母さんが行ったら、結月さん、緊張するよ」 「私だってするよ」  その返事に、陽向の顔が緩んだ。何か言いかけたが、照れくさくなったらしく、ベンチの上の荷物を取るふりをした。  隣では、結衣がイヤホンを片方外していた。画面に映る小さなステージで、レイが歌っている。  曲が終わっても、結衣はすぐには次の映像を選ばなかった。知らない客たちの拍手が、漏れてくる。 「その人?」  莉子が尋ねると、結衣は画面を伏せかけ、途中で手を止めた。 「……うん」  車椅子のそばにしゃがみ、母にも見えるように持ち直す。莉子は少し顔を近づけた。 「聞かせて」  結衣はイヤホンを外した。音量を何度か確かめてから、曲の初めに戻す。  細い伴奏が二人の間に流れた。莉子は膝に手を置いて聞いていたが、途中で結衣の目元が濡れていることに気づき、動かせる方の手を娘の肘に添えた。  結衣は袖で頬を拭った。曲は止めなかった。  征也が胸のポケットからハンカチを出す。差し出された結衣は、小さく礼を言って受け取った。  中庭にはほかにも人がいた。植え込みの前で話す老夫婦、看護師とゆっくり歩く人。陽向がベンチから立ち上がり、四人分の荷物を片方の肩へかけた。  莉子は葉の間に見える空を眺めた。  今日、見せてもらった顔だけでも、知らなかったことがいくつもある。結月という名前を口にする陽向も、泣きながら歌を聞く結衣も、彼女の記憶の中の幼い子供とは違っていた。  膝に置いた手へ目を落とす。二人の髪を結い、朝の台所で鍋を持っていた頃より、指が細くなっている。  隣で征也が身じろぎした。その手が近づき、ブランケットの端に置かれる。  莉子は自分から指を伸ばした。届くまで待っていた征也が、掌を上に向ける。  触れた途端、彼の指がわずかに震えた。 「もう少ししたら、戻ろうか」  莉子が言うと、征也は頷いた。手を握ったまま、彼も枝先へ目をやった。

  • 没落令嬢の家政婦契約 ~冷酷CEOは、初恋を逃さない~   次世代編 第93話 おかえり、私たちの魔王

     翌朝、征也は莉子のベッドのそばで、まだ口にしていなかった言葉を探していた。  莉子は目を開けている。視線が合うたび、話しかけてよいものか迷った。眠っていた頃にはあれほど一方的に喋れたのに、今は何から言えばいいのか分からない。 「莉子。俺は、お前に……」  指を握り直そうとして、やめた。 「謝らなければならない」  莉子は征也の顔を見ていた。続きを待っているのだと分かるまでに、少しかかった。 「陽向と結衣にも。話すことが、山ほどある」  窓際で結衣がハンカチを畳む手を止めた。陽向は俯いたまま、椅子に座っている。  莉子の視線が二人へ向かい、征也のところへ戻ってきた。 「ゆっくり、聞かせて」  征也は頷いた。 「途中で、怖い顔しないでね」  昔も、そんなふうに言われたことがあった。返事より先に反論を考え、莉子の顔を曇らせたことまで思い出した。 「……気をつける」  陽向が短く息を漏らした。笑いかけてやめたような音だった。征也はそちらを見たが、何も言わず、莉子へ顔を戻した。  莉子が彼の頬を見ている。征也が身を屈めると、枕元の指が動いたので、その手を下から支えた。指先が頬に触れる。 「ひどい顔」 「……眠れなかったんだ」  声の終わりが震えた。莉子の口元が、ほんの少しほころぶ。 「おかえり、私だけの魔王」  征也は俯いた。頬に添えられた指を濡らさないようにしたかったが、間に合わなかった。  莉子の手を支えたまま、しばらく顔を上げられずにいた。誰も急かさなかった。  やがて看護師が入ってきて、休む時間だと静かに告げた。征也は指先を拭い、莉子の腕を楽な位置へ戻した。  これからの話は、まだほとんどできていなかった。  莉子が眠りに入るのを見届けてから、陽向が椅子を引いた。立ち去るのかと思ったが、ベッドの方へ少し寄せただけだった。◇ 数週間後、莉子は車椅子で病院の中庭へ出た。  桜はほとんど散っていた。枝先の若葉が重なり合い、風が通るたび、裏側の淡い色を見せる。  長く座っていると疲れが出た。膝のブランケットを直そうとしても、指が思うように動かない日があった。それでも今日は、外へ出たいと自分から言った。  征也は日陰を避けて車椅子を止めた。莉子が見上げる先を確かめ、背後へ回る。 「寒くないか」 「さっきも聞いたよ」

  • 没落令嬢の家政婦契約 ~冷酷CEOは、初恋を逃さない~   次世代編 第92話 おかえり、私たちの魔王

     莉子が腕を動かそうとした。  肘がシーツを擦り、それ以上は上がらない。陽向はその手を見つめ、莉子の口元に浮かびかけた謝罪に気づくと、ベッドのそばへ膝をついた。 「いいよ。俺が、こっち来るから」  看護師が寝具を直すのを待ち、身を屈める。莉子の手を髪の上へそっと乗せると、指先が一度だけ動いた。  陽向は目を閉じた。  もっと強く撫でてほしかった。昔のように、髪が乱れるくらいに。それでも頭を上げたら、このわずかな重みまでなくなりそうで、動けなかった。  結衣も傍らにしゃがみ込んでいた。ベッドの縁に頬を寄せ、母の袖を摘まんでいる。 「ママ、私……」  言いかけて、息が詰まった。  莉子が娘を見た。結衣は袖を握る指を緩めようとしたが、うまく離せなかった。 「聞いてほしいこと、いっぱいある」  莉子は頷いた。結衣の手に指を添え、それを見ていた陽向が、自分の顔を袖で拭いた。  看護師に声をかけられ、二人は少しずつ身体を離した。莉子は目を閉じたが、その手にはまだ結衣の指がかかっていた。◇ しばらくして、莉子がまた目を開けた時も、三人はそばにいた。  結衣は椅子に座り、濡れたハンカチを膝に広げていた。陽向は窓辺に立っていたが、莉子の視線に気づくと、すぐ戻ってきた。 「お弁当……」  小さな声に、征也が顔を近づけた。 「匂いがしたの。卵焼きかな」  陽向と結衣が目を見合わせた。  病室で開いた弁当の蓋。征也が紙コップへ注いだほうじ茶。あの日、母の前で笑ってしまってから、陽向は何度かそのことを思い返していた。 「ここで食べたんだよ。三人で」  陽向が答えると、莉子の目が細くなった。 「にぎやかだった」 「結衣が、俺の唐揚げまで食うから」  結衣が顔を上げた。 「一個だけでしょ」  言い返した声がいつもどおりに出て、自分で驚いたように口元を押さえる。莉子は二人を見ながら、わずかに笑っていた。  征也は膝の上のティッシュを丸めた。陽向が差し出したごみ袋へ落とすと、莉子の目がまた彼へ向いた。 「女の人も……来てくれた?」  陽向が動きを止めた。 「知らない声。優しい声が、した気がする」  誰の声だったのか、莉子にも確かではないらしかった。陽向はベッドへ寄り、母の手元に置かれたハンカチを少しずらした。 「結月さんかな。前に、一

  • 没落令嬢の家政婦契約 ~冷酷CEOは、初恋を逃さない~   次世代編 第91話 おかえり、私たちの魔王

    「呼びかけに反応が見られます。意識が戻り始めている可能性がありますが、もう少し様子を見ましょう」  医師の話は続いていた。征也は頷き、聞き逃さないように顔を上げていたが、莉子が目を閉じるたび、そちらを見ずにいられなかった。  今度は、また開いた。  処置の間、陽向も結衣も黙って待っていた。看護師が口元の器具を整え、短い時間なら、と征也に場所を譲る。  莉子は酸素マスク越しに何か言おうとしていた。 「無理に話さなくていい」  征也は椅子へ腰を下ろした。さっきまでいた場所なのに、ベッドとの距離が分からず、膝をぶつけた。  細い息に交じって、声が聞こえた。 「……泣かないで」  征也は顔を上げた。 「征也くん」  返事をしようとして、息を吸った。それきり声が出なかった。握り直した莉子の手に額をつけ、何度も頷く。  誰かがティッシュを差し出した。受け取ることもできずにいると、結衣が黙って膝の上へ置いてくれた。 「莉子……」  ようやく名前を呼ぶと、莉子の口元がわずかに緩んだ。征也は濡れた頬を拭いたが、次の一枚を取る間にも涙が落ちた。 「声、聞こえてた」  莉子の言葉はそこで切れた。征也は身を寄せたまま待つ。マスクが呼吸に曇り、また透き通る。 「全部じゃ……ないけど」 「もういい。後で聞く」  そう言いながら、手だけは離せなかった。  莉子は少し休んでから、彼を見た。 「怒ってるみたいな声、したの」  征也の指が止まった。 「でも……そばにいるって、分かった」  謝らなければならないことが、いくつも浮かんだ。今ここで言えば、彼女はそれさえ聞こうとするだろう。征也は口を閉じ、莉子の手の甲に残っていた涙を拭った。  莉子の視線が、その肩越しに動いた。  陽向と結衣が立っていた。近づきたくて、けれど近づくのが怖いように、二人とも足を止めている。  莉子はしばらく陽向の顔を見つめた。次に結衣へ目を向け、また陽向へ戻る。  征也には、その戸惑いが分かった。自分の横に立つ息子は、もう子供の背丈ではない。 「陽向だ。それと、結衣」  莉子の眉がかすかに寄った。 「ひな……た?」  陽向は頷いた。唇を動かしたが、声になるまでに時間がかかった。 「うん。俺だよ」  結衣がベッドへ一歩近づく。莉子は娘の顔を下から見上げていた。

  • 没落令嬢の家政婦契約 ~冷酷CEOは、初恋を逃さない~   次世代編 第90話 おかえり、私たちの魔王

     莉子の指が、掌の内側を押した。  征也は顔を伏せたまま、その感触が消えるのを待っていた。長く手を握っていれば、自分の指の動きを取り違えることもある。つい先ほども、開いたはずの瞳は再び閉じてしまった。  もう一度名前を呼べば、また期待してしまう。  額に触れている莉子の手は、涙で湿っていた。征也がそれを拭おうとした時、細い指が彼の親指に触れた。  今度は、動かずにいた。  指先が皮膚を擦る。爪の縁まで分かる、ごく弱い感触だった。  征也はゆっくり顔を上げた。  朝の光が、枕に落ちている。莉子の睫毛が震え、まぶたの下に細く光が入った。眩しいのか、一度閉じかけて、それでもまた開く。 「……莉子」  扉の取っ手が小さく鳴った。陽向が一歩入ってきたところで足を止め、結衣もその後ろに立っていた。  莉子の目は、まだどこも見ていないようだった。天井の明かりを避けるように動き、征也の顔のあたりで止まる。彼が少し身を寄せると、その瞳も動いた。  征也は、椅子から滑り落ちるように膝をついた。 「俺が、分かるか」  言った途端、答えを急がせたくなくなった。唇を結び、莉子の顔を見上げる。  十二年前と同じ色の瞳に、自分が映っていた。髪に白いものが交じり、頬も目元も濡れた、見慣れない男の顔だった。  莉子の唇が開いた。息が漏れただけで、声は聞き取れない。  征也は耳を近づけかけ、枕元の呼び出しボタンに気づいた。片手を伸ばすと、握っていた莉子の指がずれたので、慌てて持ち直す。 「ここにいる。看護師を呼ぶだけだ」  誰に言い聞かせているのか、自分でも分からなかった。ボタンを押す指が滑り、二度目でようやく押せた。  駆けつけた看護師が莉子の顔を覗き込み、すぐに廊下へ声をかけた。陽向が結衣の肩を引いて道を空ける。医師が入ってきて、征也は立つように促されたが、膝に力が入らなかった。 「親父、こっち」  陽向が肘を支えた。征也は息子の腕を借りて立ち、ベッドから半歩退いた。  医師が莉子の名前を呼んでいる。瞳に小さな明かりが当たり、看護師が手元の機器を確かめる。聞き慣れているはずの電子音が、ひどく大きかった。  手を離すように言われ、征也は莉子の指をシーツに置いた。  その手が、もう一度こちらへ動かないかと見てしまう。  陽向は征也の肘から手を離さずにい

  • 没落令嬢の家政婦契約 ~冷酷CEOは、初恋を逃さない~   次世代編 第89話 魔王の涙

    「だから……一度でいい」  征也の喉から、子供のような息が漏れた。 「一度でいいから、俺の名前を呼んでくれ」  その瞬間、病室の扉の外で、小さな衣擦れの音がした。  征也は気づかなかった。  扉は、完全には閉まっていなかった。看護師が出入りした時に、ほんの指一本分だけ隙間が残っていたのだ。  その向こうで、陽向と結衣が立ち尽くしていた。  陽向は、握っていたスマートフォンの電源を落とすことも忘れていた。画面には父からの短いメッセージが残っている。  ――莉子に変化があった。まだ確定ではない。来られるなら来い。  命令のようでいて、初めて共有された弱さだった。  陽向は、扉の隙間から見える父の背中を見つめた。  かつては壁のように巨大だと思っていた背中が、今はベッドの脇で折れ曲がっている。莉子の手に縋りつき、顔を上げることもできず、何度も、何度も謝っている。  陽向の胸に、長く張りついていた硬いものが、ほんの少し形を変えた。  怒りは消えない。けれど、目の前の父は、初めて弱い人間の顔をしていた。  そう分かったからといって、陽向の中の怒りがすべて消えるわけではなかった。十二年の孤独は、たった一夜の懺悔で帳消しにできるほど軽くない。  それでも、父が怪物ではなく、怪物のふりをしなければ立っていられなかった人間だったのだと、初めて思った。  隣で、結衣が両手で口元を覆っている。  涙が、指の隙間から零れていた。  理想の父。完璧な父。どんな願いも叶えてくれる、強くて冷たい魔王。  その幻が、音もなく崩れていく。  崩れた下にいたのは、莉子の名を呼ぶことしかできない、不器用すぎる夫だった。  結衣は胸の奥を押さえた。  レイに拒まれた夜の痛みが、遠い場所で微かに疼く。  あの時の自分も、相手を見ているつもりで、本当は自分の寂しさばかり見ていたのかもしれない。  唇を噛むと、涙の味がした。  病室の中で、征也はまだ莉子の手を握っていた。 「戻ってこい、莉子」  声は、もう命令ではなかった。 「俺のためじゃなくていい。陽向のためでも、結衣のためでもいい。お前が戻りたいと思う場所へ戻ってこい。……俺は、そこにいる。今度は、お前を閉じ込めるためじゃない。お前が歩く時、転ばないように、隣で手を出すためにいる」  言い終えると、

Plus de chapitres
Découvrez et lisez de bons romans gratuitement
Accédez gratuitement à un grand nombre de bons romans sur GoodNovel. Téléchargez les livres que vous aimez et lisez où et quand vous voulez.
Lisez des livres gratuitement sur l'APP
Scanner le code pour lire sur l'application
DMCA.com Protection Status