LOGIN目を覚ましたアデラインは、重いカーテンの隙間から日差しが差し込んできているのを、ぼんやりと見ていた。
少し前までの夏の強い光ではない。秋の柔らかい朝の光だ。 恐ろしく寝心地のいいベッドから起き上がると、体のあちこちが痛い。 それもそうだ。 昨日は結婚式に披露宴、そして首都への移動と忙しかった。 その上、ウェディング・ブレックファストの後の小さな宴で、ヒューガードの知り合いから誘われたダンスは、とてもダンスといえる代物ではなかった。 楽団が奏でる、聞いたこともない平民の音楽だという賑やかな音に合わせて、足を踏み鳴らしくるくると回る様は、アデラインがこれまで習得してきたものとは全く違うもので、とてもダンスとは呼べなかった。 貴族のゲストが眉を顰めているのを横目に見たアデラインは、自分が滑稽な見世物にでも出されているのかと惨めな気持ちになったが、それでも笑顔は絶やさないよう努力した。 そんな苦労をしたというのに、昨夜は初夜すら拒否されたのだ。 「いいえ。あれは旦那様の気遣いだったに違いないわ。あんなに遅くに帰られたのだもの。旦那様もお疲れだったに違いないわ」 自分に言い聞かせるように、アデラインは小さく呟いた。 昨日は疲れていたから、色々悪いようにと考え込んでしまったのだ。 政略結婚など貴族にとっては当たり前のことだ。 「そうよ。お父さまとお母さまだって親が決めた結婚だったと言っていたじゃない」 長い時間をかけて、お互いを理解して信頼しあえる夫婦になったのだと、母は何度もアデラインに言って聞かせてくれた。 「わたくしも、そうすればよいのよ——ええ」 決意するように呟いて立ち上がると、顔を洗うためのたらいを探した。 しかし、それらしいものはどこにもない。 それどころか、朝だというのにメイドがやってくる気配もないのだ。 いくら貧しい侯爵家であっても、朝にはメイドが洗顔用のたらいを準備して起こしにきていた。 アデラインは呆然としながらも、カーテンを開けて部屋に光を取り込むと、大きく息を吸った。 明るくなった部屋を見回すとベッドの脇にある呼び鈴の紐を見つけたので、ゆっくりと引いた。 「おはようございます。奥様」 窓からじわじわと漂う冷たい空気に、シミーズ一枚で肌寒さを感じ始めた頃に、やっと昨夜のメイドがやってきた。 いくら広い屋敷といっても遅すぎるとは感じたが、アデラインはメイドに向かって言った。 「洗顔用の水がないわ。あと、着替えを手伝って欲しいのだけど」 そしてクローゼットから引っ張り出してきたモーニングドレスを指差したが、返ってきた言葉は予期せぬものだった。 「申し訳ございません。奥様」 アデラインの言葉に、メイドは仏頂面と言ってもいい表情で小さく頭を下げた。 「屋敷には貴族の奥様のお召し物を整えることができる使用人がおりません」 全く申し訳のなさそうな表情だったが、アデラインは怒ることもなく首を傾げた。 「この屋敷には女性はいらっしゃらなかったのかしら?」 父のアルマン侯爵からは、首都の屋敷には以前は両親も住んでいたと聞いていた。 数年前から夫人の体調が良くないために、夫婦で田舎で静養しているというので、アデラインも手紙でしかやり取りをしていないのだが。 女性の世話をしたことがあれば問題なく手伝えるはずだ。それがたとえ平民であったとしても、裕福層が着るドレスなどどれも同じような構造なのだから。 「ええ。3年前までいらっしゃいましたとも」 メイドは悪びれずに答えた。まるで当然のことだと言わんばかりの口調だった。 アデラインは少しだけ呆気にとられたが、話しかけようとする前に、メイドが続けた。 「大奥様は質素なお召し物を好まれましたので」 メイドの態度から、悪意なのかどうかを読み取ることをアデラインは避けた。 まだ始まりなのだ。アデラインは自分を落ち着けるために、両手をぐっと握り合わせた。 「そう——では顔を洗う水と、羽織るものが欲しいわ。そのくらいなら用意してくれるかしら」 アデラインがにこりと微笑んで言うと、メイドは「承知いたしました」と言って部屋から出て行った。 ドアが閉まり切ると、アデラインは大きく息をついて、へたり込むようにカウチに座り込んだ。 数分後に中年のメイドは水の入ったたらいと、肌触りのよさそうな毛織物のガウンを持ってきた。 アデラインが冷たい水で顔を洗うと、メイドは傍らに立って薄い木綿の手拭いを差し出した。顔を拭き終えると、アデラインの体にガウンをかけてくれたので、袖を通す。 仕事をいい加減にする人物ではないようだと、アデラインは安心したが、メイドが発した言葉でそれは見事に打ち砕かれた。 「旦那様はいつも書斎で食事を済まされますが、これからは奥様もベッドでお召し上がりになりますか」 メイドの言葉に、それまで平静を貫いてきたアデラインの顔がみるみる赤くなった。 「あなた、名前は?」 アデラインは感情を押し殺して、小さく震える声で尋ねた。 「ナタリー・ブラウマンと言います」 「そう、ナタリー。あなた方の習慣ではどうかはしりませんが、わたくしたちの習慣では、ベッドで朝食を摂ることができるのは子供を産んだ既婚女性の特権なのよ。覚えておきなさい」 「左様でございましたか。勉強不足で申し訳ありません」 アデラインが怒りと羞恥で震えるのを見ても、ナタリーは表情を変えること無く淡々と謝罪した。 「でもこんな姿では食堂に行くのは無理ね。仕方ないわ。今日の朝食は部屋に運んでちょうだい」 アデラインは溜息をつきながら、ナタリーに命じた。 ナタリーは頭を下げると、踵を返して部屋を出ようとしたが、その背中にアデラインはあることを思いついて声をかけた。 「旦那様から頂いた生地の中にモスリンがあるはずよ。持ってきてちょうだい。針と糸もお願いね」 「ナタリー。奥様は?」 家令のトマスが、使用済みの食器を持って歩くナタリーを見つけて声をかけた。 ヒューガードに頼まれた用事のために外出していたトマスは、まだ新しい女主人にきちんとした挨拶もしていない。 昨夜出迎えた時はかなりお疲れのご様子だったため、名乗るだけに留めておいたことが気がかりでならなかった。 「奥様ならお部屋にいらっしゃいますよ」 いつもの仏頂面でナタリーが答えると、トマスは首を傾げた。 日が昇ってから随分と経つ。貴婦人ならば庭を散歩でもする時間ではないのか。 「奥様はお部屋から出ていないのか?どこか調子でも——」 「着る物がないんですってよ」 「なんだって?旦那様が十分にご用意なさっているだろう」 トマスはウエディングドレスの寸法を元に、新しい奥様の衣装を何点も準備していたのを、メイド長のナタリーが知らないはずはないと訝しんだ。 「あたしらじゃお貴族様のドレスなんて恐ろしくて着付けられないもんで」 どこか嘲笑うようにナタリーが言ったことで、トマスはすぐに察することができた。 ナタリーは愛想はないが仕事はきっちりとこなす屋敷で一番の古株だった。だからトマスは彼女を信頼して新しい女主人の世話をするよう伝えていたというのに。 昨夜ヒューガードが寝室を訪れなかったことで、彼女はアデラインを女主人と認めていないのだということを、トマスはすぐに理解した。 「なんと愚かな——」 トマスの呟きを、ナタリーは違う意味に捉えたらしく、「今はお部屋で何やらなさっておられましたよ」とだけ言って、さっさと台所に歩いて行った。 「こうしちゃおれん」 トマスは手にしていた外出用のコートにもう一度袖を通すと、使用人専用の通用口へと急いだ。『侍女の手配をしていただき、ありがとうございます』 一文だけの小さなカードが添えられた籠には、砂糖菓子が入った瓶と温室で育てた|トルコ桔梗《リシアンサス》とアネモネの花が彩りよく飾られていた。 ヒューガードはカードに書かれた、女らしい美しい書体をそっと指でなぞってみた。 昨夜のうちに書かれたインクはとうに乾いていて、ヒューガードの指を汚すことはなかったが、不思議と彼女の香りがするような気がした。 ヒューガードは机の上のトレイから便箋を取り出そうと手を伸ばしたが、少しだけ考えて、引き出しからカードを取り出して、部屋の隅で立っている|侍従《ヴァレット》に声をかけた。「トビー」 アデラインの使いで籠を持ってきた侍従のトビーは、静かに頭を下げた。 夫からの返事を、と催促こそされていなかったが、旦那様はきっと何か返事か言葉をくださるに違いないと、待機していたのだ。「これを奥方に」「かしこまりました」 ヒューガードが無造作に差し出したカードを、トビーは大事そうにハンカチに包んでポケットにしまい込んだ。 トビーが一礼して部屋を出て行くと、ヒューガードはもう一度アデラインからのカードを眺めてから、砂糖菓子が入った瓶を手に取った。「相変わらずだな」 ヒューガードは無意識に微笑むと、アデラインからのカードをそっと机の引き出しにしまい込んだ。 ヒューの家は、貧しいレンガ職人だった。 父親は朝から晩まで黙って土を練り、レンガを焼き、時折塀や建物の修理をする——そんな平凡な男だった。 ヒューが14歳になった年の夏になる少し前。嵐でアルマン侯爵家の塀が崩れたため、修理に出かけた。 塀の損傷が思った以上に酷かったことと、年頃になったこともあって、父親はヒューを修行がてら手伝わせることにした。 ひと月近く修理にはかかると思われたが、アルマン侯爵は構わないと快く了承してくれた上、通常よりも多くの賃金を提示してくれた。 お屋敷はヒューの家がいくつ入るかもわからないくらい広かったが、ヒューたちが入ることを許されたのは、塀の周辺と庭の奥にある資材置場だけだった。 ヒューは初めて見るお屋敷に興奮していた。この中で働くにはどうしたらいいんだろう。この中ではどんな美味い飯が食えるんだろう。どんな仕事をしてるのか、本はどれだけあるのか……想像は尽きなかった。 そんな時、
重いカーテンが開かれ、一気に明るくなった部屋でアデラインは目を覚ました。 「おはようございます。奥様」 ナタリーは相変わらずの仏頂面で、アデラインに頭を下げた。 「おはよう。ナタリー」 アデラインはまだ眠気をひきずったまま、もそもそとベッドから這い出た。 サイドボードには花の絵が散りばめられた陶器のたらいが2つ並んでいて、1つからは心地よさそうな湯気が立ち昇っている。 アデラインはひとりで微笑むと、湯気が立っているほうのたらいで顔を洗った。程よい温度のお湯が、夜の冷気で引き攣った顔をゆっくりと解してくれるようだ。 続いて冷たい水でもう一度洗う。冷たい水は肌を引き締めて血行を良くしてくれるのだ。 顔を洗い終えるとナタリーの差し出したガーゼの手拭いで顔を拭き、鏡台の前に腰を下ろした。 鏡台の上には昨日はなかった薔薇の香りのする化粧水や、蜜蝋を練り込んだ良い香りのするクリームなどが並べられていた。 鏡越しにナタリーを盗み見ると、少しだけ気まずそうにブラシを持って立つ姿に、アデラインは気がついていないふりをしながら微笑んで、目の前に並べられた化粧水のボトルを手に取った。 食堂で軽い朝食を済ませたアデラインは、自室に戻るとトマスから預かった予算表を睨んでいた。 一見複雑な簿記の記述に見えたが、読み込んでみるととてもわかりやすくまとめられていることに、アデラインは感心した。 おかげで今年の予算の使い道と、残りの金額を把握することができた。 アデラインはひと息ついてナタリーを呼ぶと、トマスとポーラを自室に来るよう伝言を頼んだ。 「この屋敷に招いたゲストのリストも持って来るように伝えてね」 アデラインが付け加えると、ナタリーは頷いて部屋を出た。 10分とかからずにトマスとポーラが部屋を訪れると、アデラインは予算表と書き記したメモ書きをトマスに渡した。 「屋敷の模様替えをしたいと思うの。このお屋敷にはとても高価な装飾が多いから、それを活かした配置にしたいわ。旦那様に了解を取って下さる?」 「旦那様は屋敷のことは奥様のお好きなようにとおっしゃっておられました」 トマスが答えると、アデラインは少しだけ驚いて、ついポーラを見てしまった。 ポーラは真っ直ぐに立ったまま、アデラインの顔を見返して小さく頷いた。彼女も承
ベッカー邸の食堂で初めて摂る夕食は、アルマン侯爵家とは違い、ロシア式でサービスされるのだと、食堂に向かう途中でトマスが教えてくれた。 アルマン侯爵家では、フランス式——と言えば聞こえがいいが、質素な食事がいくつかテーブルに並べられただけのもので、一品ずつ提供されるロシア式は本や新聞でしか見たことがなかった。 「本日の給仕を務めさせていただきます、第一侍従のジーン・フィッシャーです」 トマスが紹介した従僕は、夫と同じとび色の瞳を細めて会釈をした。 瞳の色は同じでも、ジーンはフットマンらしく若々しく、彫刻のように美しい顔が華やかで、ヒューガードとは全く違うとアデラインは思った。 ジーンは、丁寧な所作でグラスにシェリー酒を注ぎ入れたが、左手でグラスの底を押さえていた。 アデラインは少しだけ眉をしかめたが、すぐにシェリー酒を口に運んだ。 癖のない舌触りのシェリー酒は、するすると喉を通り抜けた。アーモンドのような香りが鼻をくすぐり、爽やかな口当たりが食欲を増してくれるようだ。 こんなに上等なシェリー酒は口にしたことがない。 ほっと感嘆の溜息をつく間に、目の前にスープの皿が差し出された。 湯気の立った皿はそっと受け皿の上に運ばれたが、置かれる際に食器同士の重なる音が静かな食堂に小さく響いた。 アデラインは気付かないふりをして、食事を続けようとスープ皿を覗き込んで息を呑んだ。 スープは透明な琥珀色が美しい、初めて見るものだった。 「こちらはコンソメスープでございます」 トマスが伝えると、アデラインは驚きと興奮が入り混じった顔でトマスを見つめてから、もう一度スープを見つめた。 「これが……」 本で読んだコンソメスープは、大量の肉や野菜を使い捨てる上、大変な技量を要する、それはそれは贅沢なスープだった。 そんなものを一生口にすることなどないと思っていたのに、目の前で光り輝いているのだ。 アデラインはそっと、スープを掬うと一口目をゆっくりと味わった。 透明な液体の中に濃厚な牛肉の甘味が溶け込み、それを野菜たちのスパイシーな香りが包み込む。今までに味わったことの無い美味しさに、気が付くと皿はすぐに空っぽになっていた。 部屋に戻ったアデラインは、木綿の生
重いカーテンが開かれ、一気に明るくなった部屋でアデラインは目を覚ました。 「おはようございます。奥様」 ナタリーは相変わらずの仏頂面で、アデラインに頭を下げた。 「おはよう。ナタリー」 アデラインはまだ眠気をひきずったまま、もそもそとベッドから這い出た。 サイドボードには花の絵が散りばめられた陶器のたらいが2つ並んでいて、1つからは心地よさそうな湯気が立ち昇っている。 アデラインはひとりで微笑むと、湯気が立っているほうのたらいで顔を洗った。程よい温度のお湯が、夜の冷気で引き攣った顔をゆっくりと解してくれるようだ。 続いて冷たい水でもう一度洗う。冷たい水は肌を引き締めて血行を良くしてくれるのだ。 顔を洗い終えるとナタリーの差し出したガーゼの手拭いで顔を拭き、鏡台の前に腰を下ろした。 鏡台の上には昨日はなかった薔薇の香りのする化粧水や、蜜蝋を練り込んだ良い香りのするクリームなどが並べられていた。 鏡越しにナタリーを盗み見ると、少しだけ気まずそうにブラシを持って立つ姿に、アデラインは気がついていないふりをしながら微笑んで、目の前に並べられた化粧水のボトルを手に取った。 食堂で軽い朝食を済ませたアデラインは、自室に戻るとトマスから預かった予算表を睨んでいた。 一見複雑な簿記の記述に見えたが、読み込んでみるととてもわかりやすくまとめられていることに、アデラインは感心した。 おかげで今年の予算の使い道と、残りの金額を把握することができた。 アデラインはひと息ついてナタリーを呼ぶと、トマスとポーラを自室に来るよう伝言を頼んだ。 「この屋敷に招いたゲストのリストも持って来るように伝えてね」 アデラインが付け加えると、ナタリーは頷いて部屋を出た。 10分とかからずにトマスとポーラが部屋を訪れると、アデラインは予算表と書き記したメモ書きをトマスに渡した。 「屋敷の模様替えをしたいと思うの。このお屋敷にはとても高価な装飾が多いから、それを活かした配置にしたいわ。旦那様に了解を取って下さる?」 「旦那様は屋敷のことは奥様のお好きなようにとおっしゃっておられました」 トマスが答えると、アデラインは少しだけ驚いて、ついポーラを見てしまった。 ポーラは真っ直ぐに立ったまま、アデラインの顔を見返して小さく頷いた。彼女も承知
「わたくしは、朝は食堂で食事をします」 アデラインが言うと、トマスは「承知いたしました」と頷いた。 ヒューガードがどの程度の権限を認めたのかという問いには、トマスは明確には答えなかった。「奥様に不自由がないようにと仰せつかっております」との返事は、肯定的に受け止めると女主人の全権を認めるとなるし、否定的に受け止めると単なる客人の扱いだとなる。 アデラインはどちらなのかと問いただすことはしなかった。その代わり、確認すればよいのだ。「屋敷の誂えを整えたいわ。屋敷の維持費や改修費の予算を見せてもらえるかしら」 その要望にも、トマスは黙って頷いた。 アデラインはその動作を見て、満足そうに頷いた。 トマスの答えで、旦那様はそれなりに自分に裁量を任せてくれている——アデラインはそう確信することができた。「夕食前に使用人を集めてちょうだい。挨拶がしたいわ」「かしこまりました。全員、玄関ホールに集まるよう申し伝えます」「お願いね」 アデラインが言うと、トマスは目元で微笑んで見せた。目尻に皺が寄るのを見て、父のアルマン侯爵が懐かしくなったが、別れたのはつい昨日のことだ。 それなのに、これからここが自分の生活する場所なのだと思うと、もう数か月も会っていないかのような切なさが胸を締め付けた。 これが結婚というものなのだろうか。 これまで一緒に過ごした温かい家庭からでて、新しい環境で1人の大人の女性として生きていく。そこにはもう、愛しい父や妹たちの温もりはなく、代わりに得た新しい家族の手を取って歩く。それが結婚なのだと亡くなった母から教えられた。 だが、アデラインはすぐに否定した。 何故なら、結婚とは1人でするものではない。そして、自分の夫は手を取るどころか、初夜はもちろん、結婚したばかりの朝にすら顔を出さないのだ。 いくら世間知らずなアデラインにもわかる。こんなのは普通じゃない。 アデラインはトマスの目尻の皺から目を逸らして、小さく両手を重ねて握った。 それでも—— もう結婚生活は始まってしまったのだ。 それならば、少なくともこの屋敷の女主人として、そして、次期アルマン侯爵夫人として堂々と振舞わなければならない。 アデラインは深く息を吸い込むと、ぐっと胸を張った。「夕食のお召し替えはいかがいたしましょう。ミセスポーラを呼んでまいりましょう
「家政婦のポーラでございます。ご挨拶が遅れて申し訳ありません」 ナタリーが部屋に連れてきた40半ばの初老の女性は、深々と頭を下げた。「いいのよ。わたくしも人前に出られる姿ではなかったし」 アデラインが言うと、ポーラは横目で半歩後ろで控えているナタリーを見た。「今後はお手伝いが必要な際はわたくしをお呼びくださいませ。以前はヘッセン伯爵家でメイドをしていた経験がございます」 この数少ない会話でポーラは全てを察したのだろう。 アデラインはポーラの存在を少しだけ頼もしく思った。「そうね。明日の朝はあなたにお願いします——と、言いたいのだけど、わたくし、このドレスがとても気に入ったの。明日もこれを着たいわ」「ですが、2日続けて同じご衣裳など——いいえ、畏まりました。では、針子に命じまして同じようなものをすぐに作らせますわ」 ポーラはアデラインの考えを察して、すぐににこやかに答えた。 アデラインはポーラの答えに満足して、「よろしくね」とだけ言うと、ナタリーは仏頂面を少しだけ気まずそうにしかめたが、アデラインは見ない振りをした。「家令のトマスは——」「外出しているとナタリーに教えてもらったわ。戻ったらまた挨拶をさせて頂戴。それまでナタリーに屋敷を案内してもらうわ」 アデラインが言うと、ポーラは頷いてナタリーに「頼みましたよ」とだけ言って、部屋を後にした。 ナタリーの先導で屋敷を見て回ったアデラインは、領地の侯爵邸に引けを取らない広さと、豪華な装飾、そしてそれらが埃ひとつなく丁寧に手入れされていることに感心していた。 窓にかけられたカーテンひとつとっても、丁寧にブラシをかけて手入れをされていることがわかる。木の床などは念入りにワックスをかけて磨かれているおかげで、艶やかに輝いている。「旦那様はとても厳しい方なのかしら」「いいえ。旦那様はお忙しくい方ですのでお屋敷にはほとんどいらっしゃいません。屋敷にいらっしゃる時も執務室から出られることは滅多とありません」「お客様は頻繁にいらっしゃるの?」「滅多といらっしゃいません。年に数回、お食事をご一緒されることはありますが、滞在される方は見たことがありませんね」 ナタリーの答えに、アデラインは「そう」と残念そうに答えた。 せっかくこれだけ素晴らしい家を、ヒューガードという人は気にかけもしないのだ。







