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第8話

Author: ころころおなか
琉生は凪の元へ駆け寄ると、どこか怪我をしていないかと心配そうに声をかけた。

一方凪が床の灰を指さして、声を詰まらせながら訴えた。「美優さんがまた私のことをバカにして……育ちが悪いとか言ってきたの。でも、いくら何でも、楽譜を燃やすなんてひどすぎるわ。これは何ヶ月もかけて書き上げた大切な作品なのよ!」

涙で濡れた顔でそう語る凪の白い頬には、赤く晴れ上がった平手打ちの跡があった。それを見た琉生の胸は痛んだ。

「彼らみんな見てたわ。彼女が自分で楽譜を燃やして。私は何もしていない」美優は周囲を取り囲む人々を指さした。この人たちの立ち位置なら、自分がやっていないことくらいハッキリと見えたはずだから。

これだけ人がいるのだから、見ていた人がいないなんていうはずはないのだと、美優は思った。

しかし、周囲の人々は声を揃えて偽証した。「彼女が凪さんの譜面を燃やしたのは間違いありません。はっきりと見ましたから!」

そう聞くと、琉生は一瞬にして不機嫌になった。「美優、本当に分からず屋だな!

おい、すぐにこいつを物置にぶち込め。自分の間違いを認めるまで出すな!」

こうして美優はそのまま物置へ押し込められた。一方、物置の中から美優の叫び声が響く中、凪はまた切なげに言った。

「美優さんが書類を届けに来てくれた。迷わないよう案内してあげようと思ったら、この壁を見て突然激昂して。平手打ちまでされた。この壁は後輩たちへの激励のためにあるものだって説明したのに、信じてもらえなくて。あげくの果てに、大事な楽譜まで燃やされてしまって」

そう言うと、凪の目からは大きな涙の雫が零れ落ちた。

琉生が壁を一瞥した。それは生徒たちを激励するための飾りで、まさか美優がこれを見て癇癪を起こすほど器が小さいとは思わなかった。

その瞬間彼は、美優に書類を届けさせたことを悔やんだ。

「この件はしっかり対処するから安心しろ。美優もわざとやったわけじゃないんだ。僕が厳しく言っておく。楽譜の件は、こっちが作り直すのを手伝ってやる」

それを聞いて、凪は手のひらを密かに握りしめた。心の中ではこの程度じゃ不満だったが、表情は素直で、控えめな女のふりを続けた。

それから、琉生が用事でオフィスを離れた隙に、凪はそっと物置の扉を押した。

震えながらうずくまる美優の姿を見て、凪は鼻で笑った。「お嬢様育ちの甘ちゃんね。暗闇くらいで震えるなんて。

こっちは楽譜まで燃やしたのに、琉生さんはあなたを物置に入れる程度の処分しかしないなんて。そんなの大した罰にならないから、私がちゃんと懲らしめてあげなくちゃね」

一方、暗所恐怖症の美優は、その言葉を聞いて顔を上げ、怯えた様子で聞いた。「何をしようとしているの!」

だが、凪は彼女を無視して扉を閉めた。すると閉まる間際、美優の耳にカサカサと何かが這いずる音が聞こえた。

そして扉の外で蛇の尻尾が隙間から入っていくのを見届けて、凪はクスクスと笑った。「贈り物よ。毒はないわ」

しかし、美優は恐怖のあまり心臓が止まりそうになり、琉生の名前を叫び続けた。

だが、美優に残されたのは果てしない闇だった。そんな中、膝に頭をうずめて縮こまる美優の五感は冴え渡り、ネズミたちが床を這い回る音、物を齧る音がすぐそばで聞こえた。

その瞬間、美優は恐怖で鳥肌が立ち、背中を何かが這いずり、首筋に冷たい感触を感じ、それはある生物特有の質感だった。

それが何なのかを理解した瞬間、美優の緊張は限界に達し、気を失ってしまった。

ふと気づいた時、自宅のベッドで目覚めていた。

まるでさっきまで蛇が体に這い上がり、ネズミの咀嚼音が鳴り止まない長い悪夢をまだ見ているかのようだった。

彼女は首を大きく横に振って、その嫌な感覚を追い払おうとした。

そして、サイドテーブルのスマホを開くと、昨日送られていた洋子からのメッセージが目に入った。【荷物を送ったよ。確認してね】

すぐさま「了解」のスタンプを返すと、美優は立ち上がり、玄関先に届いていた書類を取り出した。

そして、中に入っていた離婚協議書を見て、彼女は手から伝わるその冷たい感触を噛み締めた。

興奮を抑え、深く息を吸い込んで、これでやっと自由になれるのだと思った。

それから、彼女は部屋に戻り荷造りを進めた。幸い荷物は多くない。最後に離婚協議書をサイドテーブルの引き出しに入れると、琉生から電話がかかってきた。

「いい加減にしろ。あの壁なんて、ただみんなを激励するための飾りだ。君が勘違いしているようなものではない。凪と僕はただの師弟関係だ」

電話越しに聞こえる声は以前と同じ温厚そうな声色だが、苛立ちが含まれていた。

そして、沈黙する美優に対し、琉生は言い続けた。

「公演の件で少し予定が変わった。先に現地へ向かう。家で大人しくしてろ。医者も静養が必要だと言っている。何かあれば松尾を呼べ。数日で帰る。

約束する。今回の公演が終わったら、海外へ旅行に連れて行ってやるよ。海で夕焼けを見たがっていただろ?手配は済ませているから」そう告げると、琉生は話題を変えて旅行の話を持ち出した。

しかし残念ながら、海での夕焼けを、美優はもう去年独りで見てきたのだ。あの頃、琉生はピアノの猛特訓で閉じこもっていたから。

そう思って、玄関に置かれたスーツケースを一瞥し、断ろうとした矢先、相手が電話を切ってしまったのだった。

こうして、彼女はまたしても自分の意思を伝え損ねた。

まあいいか。帰ってきて引き出しの離婚協議書を見れば、何もかも伝わるだろう。

こうして、美優はスマホをポケットに突っ込み、スーツケースを持って家を出て空港へ向かった。

待ちに待った新しい人生の始まりだ。

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