LOGIN司野はその言葉を耳にした瞬間、全身を硬直させた。信じ難いという表情のまま、耳の奥では激しい耳鳴りが鳴り響いている。「……何と言った?今、何と……」彼は再び、狂気に取り憑かれたような素羽を見つめた。心臓を力任せに握り潰されたかのような痛みが走り、息をすることさえままならない。「誰だ……誰がやったんだ!なぜ誰も俺に教えなかった!」楓華は憎しみを込めて美宜を睨み据えた。「あなたの隣にいる、その卑劣な女よ!」司野の視線が美宜へと向けられる。彼女は両目に涙を溜め、必死に首を横に振った。「司野さん、私じゃないわ。何が起きたのかさえ知らないの。分かっているでしょう?私は昨日ずっと病院にいたの。私じゃない、私は何もしていないわ!」司野は喉を鳴らし、苦しげに声を絞り出した。「……何かの誤解じゃないのか?」――美宜は昨日、俺が自ら病院へ送り届けたんだ。彼女が人を殺めるなど、そんなことが……素羽の掠れた声が、静かに響く。「……離して」楓華は手を緩めない。素羽は続けた。「もう刃物はない。誰も殺せないわ」その言葉に、楓華は震える手をゆっくりと解いた。素羽の漆黒の瞳が司野を射抜く。そこには一片の温もりもなく、ただ凍てつく冷気だけが宿っていた。「いっそ今ここで私を殺して、二度と逆らえないようにすればいい。私が生きている限り、美宜の命は必ず奪ってやる」司野は息を呑んだ。その冷酷な眼差しに、胸の奥が締め付けられる。そのとき、警察が到着した。警官たちの鋭い視線が一同に注がれる。血なまぐさい惨状は、誰の目にも明らかな事件現場だった。店員の証言により、素羽は犯人として指名され、警察は法に則って彼女を連行しようとする。素羽は抵抗しなかった。だが、それを司野が許さなかった。周囲がどれほど言葉を交わそうと、素羽は何一つ関心を示さない。やがて遮る者がいなくなると、彼女はふらつきながら外へと歩み出した。一歩進むごとに、足元には血の足跡が刻まれていく。異変に気づいたのは楓華だった。視線を足元からゆっくりと上へ辿ると、素羽の茶色のワイドパンツがどす黒く染まっているのが目に入る。血の出所は――彼女の股間だった。「……素羽、血が出てる……っ!」素羽は無表情のまま視線を落とした。湿った感触が、この血がどこから流れて
血に濡れたナイフが、再び司野の腹部を貫いた。遅れて襲いかかる激痛が、ようやく彼の思考を現実へと引き戻す。だが、彼には理解できなかった。なぜ素羽が、これほどまでに自分を憎み、殺そうとするのか。「司野さん!」美宜は、刃を突き立てられた司野の姿を目にすると、迷わずテーブルの花瓶を掴み上げた。そして、それを素羽の頭部めがけて叩きつける。花瓶は凄まじい音を立てて粉々に砕け散った。素羽の頭を濡らした水滴は、透明から淡い桃色へ、そしてやがて鮮血へと変わっていく。左目は流れ落ちる血に染まり、視界は真紅に塗り潰された。彼女はゆっくりと首を巡らせ、まるで地獄の亡者のような形相で美宜を睨み据えた。その悪鬼のごとき眼光に、美宜は息を呑み、恐怖に身を震わせる。「……素羽、司野さんはあんたの夫なのよ!それなのに殺そうとするなんて、正気じゃないわ!あんた、狂ってる!」素羽は何も答えない。ただ司野の体からナイフを引き抜くと、今度はその切っ先を美宜へと向けた。いまの彼女は、目に映るすべてを屠ろうとする殺人鬼そのものであり、凄まじい殺気をまとっていた。岩治と楓華たちが駆けつけたのは、ほぼ同時だった。車を止めるや否や、彼らの目に飛び込んできたのは、パニックに陥りレストランから逃げ出してくる客たちの姿だった。事情を掴めないまま、楓華の胸に言いようのない不安が渦巻く。群衆の中から「人殺しだ!」という叫び声が響き、彼女は人波をかき分けて中へと突進した。そこで目にしたのは、素羽が司野の腹部に刃を突き立てている光景だった。楓華はその場で凍りついた。亘も、そして何も知らない岩治も同様だった。岩治は、目の前の非現実的な光景に思考を完全に奪われていた。――奥様が……正気か!?美宜は迫り来る刃に怯え、後ずさった拍子に自分の足に躓き、無様に床へと倒れ込んだ。だが、素羽は逃がさない。ナイフを振り上げ、そのまま彼女の心臓めがけて一気に突き下ろす――その場にいた全員が、絶望の中で息を呑んだ。「素羽、やめろ――っ!」司野の声が響き渡る。刃先が美宜の胸元まで数センチに迫ったその瞬間、司野は素手でナイフの刃を掴み取った。鋭利な刃が彼の掌を裂き、拳を伝って滴り落ちる血が、美宜の服を赤く染めていく。美宜は瞳孔を見開き、呼吸を忘れ、死
無機質な静寂が落ちた。岩治の胸中にも、最悪の気分が澱のように沈んでいる。司野に連絡し、素羽がそちらへ向かったことを伝えようと携帯を取り出したが、すぐに思い出した――肝心の司野の端末は、バッテリー切れのままだ。彼は舌打ちを飲み込み、交差点で強引にハンドルを切ってUターンすると、そのままアクセルを踏み込んだ。---素羽はスマートフォンを亘へ放り返すと、一度も振り返ることなく外へ向かった。「素羽、どこへ行くの!?」楓華が慌てて後を追う。しかし、素羽は何も答えない。病院の外でタクシーを拾い、追いついた楓華を冷えきった眼差しで射抜くと、低く言い放った。「……ついてこないで」それだけ言い残し、車に乗り込んでドアを閉める。楓華の胸は焦燥で焼けつくようだったが、走り去る車を見送ることしかできなかった。「乗れ!」背後から亘が車を回してきた。楓華は慌てて飛び乗る。心臓が不吉な音を立てていた。何かが――決定的な何かが起きようとしている。そんな予感に、全身が震えていた。---同じ頃、レストランでは。美宜が注文した料理は、どれも司野の好物ばかりだった。「そんなに頼む必要はない。腹は減っていない」司野の望みはただ一つ、この食事を一刻も早く終わらせ、景苑別荘へ戻ることだった。昨日はあまりにも多忙で、携帯の充電も切れていた。素羽に連絡一つ入れられなかったことが、今になって胸に引っかかる。自分が帰らなかったことで、素羽は心配していないだろうか。――彼女と、子供は無事なのか。美宜は眉を下げ、寂しげに微笑んだ。「司野さん、そんなに急いで私から離れたいの?」「機内で食べてきた。頼まれても食べられない。無駄にするな」「でも、私はまだ何も食べていないの」この一食で最後にするという約束がある以上、司野は結局、彼女の願いを無下にはできなかった。彼女の「最後の晩餐」に付き合い、贅沢な食卓を囲むことになる。美宜はグラスを掲げた。「司野さん。これからの私の人生が、順調であるように祝って」「体調が良くないんだろう。酒はやめておけ」「でも、嬉しいの。一口だけでいいの。お願い、付き合ってくれるわよね?」司野は手元のグラスを持ち上げ、彼女のグラスと軽く触れ合わせた。美宜は満足げに微笑み、酒を口
美宜は、岩治へ向けられた疑念を払拭するかのように、あくまで親切を装って口を開いた。「秘書室の方に伺ったの。皆さん、教えてくださったわ」それを聞いても、司野の表情は一向に和らがない。誰であろうと、自分のスケジュールを勝手に漏らされるなど、不愉快極まりないことだった。――秘書室の連中、一度きっちり締め上げる必要があるな。岩治は胸中で毒づいた。里沙が解雇されたというのに、まだ仕事の分別すら身についていないらしい。美宜は司野を不安げに見上げ、か細い声で訴えかける。「司野さん、昨日約束してくださったでしょう?最後の食事を一緒にするって……忘れていませんよね?」正直なところ、その約束は司野の記憶から完全に抜け落ちていた。今は一刻も早く景苑別荘へ戻りたい。だが美宜はなおも畳みかける。「もう、お店も予約してあるの」期待に満ちたその眼差しを受け、司野は心の奥で重いため息をついた。結局、折れるほかなかった。「……乗れ」その一言に、美宜の顔はぱっと華やぎ、足取りも軽く彼の後を追った。レストランに到着すると、司野は岩治に告げた。「お前は戻って休め。明日の朝、また出社してくれ」岩治は司野の背後を歩く美宜をちらりと見やり、何か言いかけて口をつぐんだ。すでに下された決定に口出しするのは無意味だ。無言で頷くと、その場を後にした。---病院。事件発生から丸一日が過ぎていた。素羽はその間、一睡もせず、水も食べ物も一切口にしていない。楓華は彼女を案じ、片時も離れず付き添っていた。亘もまた、気が気でない様子でその場に留まり続けている。魂の抜け殻のようになった素羽の姿に耐えかね、亘は再び司野へ電話をかけた。昨日から何度も繰り返しているが、いまだ一度も繋がらない。今回もまた、「電源が入っていない」という無機質なアナウンスが流れるだけだった。楓華が静かに問う。「……まだ、繋がらないの?」亘は重々しく頷いた。楓華の瞳には、抑えきれぬ憎悪が宿っている。あの惨劇がなぜ起きたのか――それを知るのは当事者である素羽だけだ。しかし彼女は、あの日以来ただの一言も発していない。すべては、いまだ闇の中にあった。業を煮やした亘は、今度は岩治の携帯へと電話をかけた。これほどの事態だ、何としても司野に伝えなければならない。ま
一人では、理性を失った素羽を抑えきれなかった。駆けつけた亘も加わり、二人がかりでようやく押しとどめる。「離して!おばあちゃんを助けて!まだ中にいるのよ!」素羽は半狂乱のまま、炎の中へ飛び込もうともがき続けた。瞳は血走り、喉が裂けるほどの叫びを絞り出す。「お願い、助けて……!おばあちゃん、出てきて、おばあちゃん――!」火の海に呑み込まれた倉庫を前に、誰もが理解していた。中にいる者が助かる可能性など、万に一つもないことを。暴れる素羽を必死に抱きしめる楓華も、瞳を真っ赤に腫らしながら涙を流していた。どう声をかければいいのか分からない。どんな慰めも、今の素羽には届かない――それが痛いほど分かっていた。普段は冷徹な亘でさえ、目の前の光景に胸を締めつけられていた。彼らが救助隊を連れてきていたおかげで、消火と救出は迅速に開始された。それでも素羽はその場を離れようとせず、何かを守るかのように、その場に立ち尽くし続けた。やがて火は鎮まり、芳枝の遺体が運び出される。いや、それはもはや「遺体」と呼べるものではなかった。爆発の衝撃で、五体満足な姿は失われ、残されていたのは無残な残骸に過ぎない。それを目にした瞬間、素羽は凍りついた。次の瞬間、膝から崩れ落ち、荒い呼吸の合間に嗚咽を漏らす。「おばあちゃん……嘘……起きて、起きてよぉ――!ああああ――っ、おばあちゃん!!」形をとどめぬ遺骨を抱きしめ、身を引き裂かれるような叫びをあげて泣き崩れる。「素羽……」楓華はそれ以上の惨状を見せまいと、そっと彼女の頭を抱き寄せた。芳枝の遺骸は救急車へと運ばれ、素羽は一歩も離れず付き添った。車内に入ってからの彼女は、もはや涙を流さなかった。ただ虚ろな瞳で、魂が抜け落ちたように「おばあちゃん」と呟き続けるだけだった。---病院の霊安室。知らせを受けて駆けつけた松信は、疲労に沈んだ顔で、言葉を失っていた。無残な最期を遂げた母を前に、彼の身体はよろめき、壁にもたれてようやく立っている。やがて彼は、素羽の服を掴み、激しく揺さぶった。「どういうことだ!どうしておばあちゃんが……こんな姿に……!?なんでこんな目に遭わなきゃならない!」松信は決して孝行な息子ではなかった。長年、母を病院に預けたまま、見舞いに
素羽は持てる限りの力を振り絞ったが、それでも抗うことは叶わなかった。必死に手を伸ばし、辛うじて芳枝の頭を支えるのが精一杯であった。鈍い音が地面に響き渡り、素羽の心を粉々に打ち砕く。震える手でその体を抱き寄せ、赤く充血した瞳で彼女は叫んだ。「……おばあちゃん……っ!」芳枝は素羽を安心させようと、必死に声を絞り出そうとした。しかし、口を開いた瞬間に鮮血が溢れ出す。飛び散った血飛沫が素羽の顔を叩き、彼女の視界をいっそう無慈悲な赤に染め上げた。背後では、美宜が自らの作り上げた凄惨な「傑作」を堪能するように、満面の笑みを浮かべて立っていた。彼女はこれ以上ないほど寛大なふりを装い、言い放つ。「素羽、私は約束を守る女よ。半分でも受け止めたなら、それは『受け止めた』ことにしてあげるわ。せいぜい、最期の時までたっぷりとおばあちゃんに付き添ってあげなさいな」冷酷な捨て台詞を残し、美宜は男を連れてその場を去っていった。だが、素羽の耳に美宜の言葉など届いていなかった。彼女の意識のすべては、芳枝だけに注がれていたのだ。血を吐き続ける祖母の姿に、震える声で涙を溢れさせながら、彼女は必死に訴えかける。「病院へ行きましょう。今、すぐにお医者さんに診てもらうから。すぐに行くから……っ」芳枝は砂埃と血にまみれた手で、孫の頬を伝う涙を拭った。その瞳には、溢れんばかりの慈愛と痛ましさが満ちている。血の混じった掠れ声で、彼女は途切れ途切れに言葉を紡いだ。「……泣かないで……おばあちゃんは、大丈夫よ……」素羽は芳枝を抱き起こそうとしたが、立ち上がるよりも先に膝が折れ、地面に叩きつけられるように跪いてしまう。その拍子に、芳枝の体も再び冷たい地面へと倒れ込んでしまった。素羽は急いで這い上がり、自責の念に駆られて叫ぶ。「ごめんなさい、おばあちゃん、ごめんなさい……!私が不甲斐ないせいで……」彼女は必死に芳枝を支え、一歩、また一歩と出口に向かって歩き出した。芳枝が力なく囁く。「……素羽、おばあちゃんはもう十分生きたわ。この何年か、あなたには本当に苦労をかけたわね……自分を責めちゃダメよ、あなたのせいじゃない。泣かないで。これからの道は、あなた一人で歩いていくのよ。ごほっ……おばあちゃんはもう、隣にいてあげられないけれど……」「……
「素羽、顔色がいいね。まさか、もうすぐ離婚して苦しみから解放されるってやつ?」そう言われて、素羽の表情が一瞬だけ止まる。苦笑いを浮かべながら答える。「よく十の寺を壊すより、一つの縁を切るなって言うじゃないですか。なんでそんなに私の離婚を応援してくれるんですか?」雅史は、質問には答えずに言う。「その様子だと、また離婚する気はないってこと?」今の素羽は、たしかに一時的に離婚を保留にしている。素羽がまだ言葉を探していると、雅史は続ける。「壁に頭をぶつけて痛い思いしないと、君は後戻りしないタイプだね」そう言い残して、手を背中で組みながら部屋を出ていく。清人と素羽の間を通り過ぎる時、
彼女は、司野がどうやってここに入ってきたのかなんて、まったく気にしない。だって、楓華は知っているのだ。あの男は、素羽のところで冷たく追い返されたことを。ざまぁみろ!司野が去った後、素羽はもう一睡もできない。大きな目をぱっちりと開けたまま、布団の上でゴロゴロしている。そのうち、勢いよくベッドから抜け出し、隣の部屋のドアをノックする。物音に気づいた楓華は、寝ぼけ眼で飛び起き、慌ててドアを引く。「大丈夫?怖い夢でも見た?」楓華は素足で、髪もボサボサのまま。だけど、その心配そうな顔を見ていると、素羽の胸がじんわりと温かくなる。「もう十分寝たし、帰りたい」「今から?」素羽
それは、司野だった。海から上がってきた彼は、いつものエリート然とした姿とは打って変わって、今はまさに見るからにボロボロだ。シャツは乱れ、髪はまだ濡れていて、足取りも焦っているせいか、ひどく乱れている。その顔には隠しきれない不安が浮かんでいて、素羽が無事だと分かると、目に安堵の色が広がる。司野は大きな歩幅で素羽に近づき、今にも彼女を抱きしめようと手を伸ばす。だが、その瞬間、突然横から腕が伸びてきて、彼の顔面に強烈な一撃が入る。腕と顔がぶつかった音がやけに鮮明に響き渡り、勢いに押されて司野はよろめいて後退する。後ろにいた岩治がタイミングよく司野を支えた。体勢を立て直した司野の視
まるで陰口を叩いているところを本人に聞かれてしまったかのような、気まずい空気が流れた。司野は氷のような声で言い放った。「今後、素羽の前に二度と現れるな」その一言に、楓華は黙っていられず、勢いよく反論した。「なんであんたの言いなりにならなきゃいけないわけ?これからも素羽とは仲良くするし、あんたに止められる筋合いなんてない!私が素羽と同じ布団で寝てた頃、あんたはどこで何してたかも分からないくせに!」司野のやつ、いったい自分を何様だと思っているのか。だが司野には楓華と口論するつもりなどさらさらなく、まくし立てる隙も与えずに即座に電話を切った。さらに素羽の目の前で、その番号を迷わず