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第225話

Author: 雨の若君
琴子に異議など唱えられるはずもなく、ただ頷き「わかりました」と答えるよりほかなかった。

——

素羽は、司野ともみ合いながら車内へと押し込められた。

「降ろして!」と、素羽が叫ぶ。

司野は運転席に向かい、「車を出せ」と冷たく命じた。

岩治は余計な口を挟むことなく、すぐさま車を発進させる。同時に後部座席との間を仕切るパーテーションを上げ、そこを完全に独立した空間へと変えた。

「降ろしてってば!」

素羽はパーテーションを力の限り叩いた。

岩治は聞こえぬふりを徹底し、心の中で「聞こえない、聞こえない」と念仏のように繰り返す。

司野は彼女の手首を掴むと、有無を言わさず引き寄せ、「うるさい」と吐き捨てた。

素羽は手首を必死に捻って抵抗し、彼の肩を何度も叩きながら叫んだ。

「あなたが離婚協議書にサインさえすれば、一言も文句なんて言わない!離してよ!」

叩かれるたび、背中の傷にでも響くのだろうか。司野は眉間に深く皺を刻み、その顔色からすっと血の気が引いた。

「手を、離せ」

顔を歪めた司野の瞳が昏く沈む。彼は唐突に素羽を抱き寄せると、その唇を乱暴に塞いだ。

「ん……っ!」

素羽は必死にもがいた。

司野は彼女の後頭部を鷲掴みにして固定すると、まるで不快な言葉を吐き出すその口を根こそぎ封じるかのように、唇を貪った。

しかし、振りほどくことのできない素羽は、意を決して彼の唇に強く噛みついた。

唇の隙間から苦悶の呻きが漏れる。司野が射抜くような視線で警告するが、素羽は怯むことなく、さらに強く顎に力を込めた。

途端に鉄の味が広がり、その容赦のない抵抗に、ついに司野が根負けして彼女を解放した。

自由になった瞬間、素羽はためらうことなく腕を振り上げ、乾いた音を立てて彼の頬を張った。

運転席の岩治にも、その生々しい音ははっきりと届いた。思わず己の頬が引き攣り、聞くだけで痛みが伝わってくるようだ。

後部座席で、司野は打たれたままの姿勢で動かない。赤く腫れ上がった頬と、血の滲む唇が、倒錯的なまでに妖艶だった。

素羽は手の甲で乱暴に唇を拭う。潤んだ瞳で彼を睨みつけ、絞り出すような声で言った。

「司野、私ってそんなに安っぽい女?」

この人にとって私は何なの?好き勝手に嬲っていい娼婦か何かだとでも思っているの?

司野がゆっくりと顔を向けた。その眼差しは昏く
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