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第263話

Author: 雨の若君
吐き終えた素羽は、床に崩れるようにへたり込んだ。体はわななき、手足の感覚は遠のき、背筋を冷たい汗が伝っていく。

素羽は首にかかる鎖のごときネックレスを引きちぎるように外すと、忌々しげに傍らへ投げ捨てた。

荒い息遣いがようやく静まると、素羽は顔を洗い、口を漱いでからベッドへと倒れ込む。そうして身を丸め、布団を固く身体に巻き付けた。

——

その夜、素羽は司野と揃いの色調のドレスに身を包み、共にパーティーへと赴いた。

司野が持つ地位と、恵まれた容姿はどこにあっても際立つ。パーティー会場に足を踏み入れた途端、挨拶をしようと人々が次々と彼らの元へ集まってきた。

司野はさも思いやりのある夫であるかのように、素羽を人々に紹介することも忘れなかった。

「こちら、妻の素羽です」

その一言を皮切りに、素羽は四方からお世辞の言葉を浴びることになった。

「本当に、絵に描いたような美男美女で。実にお似合いのご夫婦ですね」

耳に心地よい言葉が、湯水のごとく溢れ出る。だが、何も考えずに口をついて出るからこそ、そのどれもがひどく安っぽく響いた。

なぜ司野が今になって自分を公の場で紹介し始めたのか、素羽にはまるで理解できなかった。

彼は「昔に戻る」と言ったはずだ。それは、自分をこれまで通り日陰の存在にしておくという意味ではなかったのだろうか。

考えても答えの出ない問いは、早々に諦めるに限る。

司野は取引先と仕事の話があると言い、素羽をその内の一人の妻である、田村恵美(たむら めぐみ)という婦人に預けた。

恵美は人好きのする笑みを浮かべ、親しげに素羽へ話しかけた。

「今度お時間があるとき、ご一緒にフェイシャルでもいかが?」

そう愛想良くされれば、無下に断ることもできない。相手の丁寧な物腰に応じ、素羽もまた微笑みを返して相槌を打った。

「ええ、ぜひ」

二人は会場の隅で腰を下ろし、しばし茶を楽しんだ後、連れ立って化粧室へと向かった。

しかし、その道すがら、密やかな逢瀬に耽る男女の姿を目の当たりにしてしまう。

「田村さん、今日の同伴者は私だって約束したじゃない。ひどいわ、この嘘つき」

知的な装いの女が、まるで蛇のように男の身体に絡みついている。

男はそれを振り払うでもなく、まんざらでもない口調で応える。

「また今度な」

「じゃあ、埋め合わせはしてくださるのね
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