LOGINその言葉を聞いた瞬間、史恵と耕平の表情が目まぐるしく変わった。二人は一瞬、視線を交わし合う。巧みに隠したつもりなのだろうが、彼らを注視していた素羽は、そのわずかな動きを正確に捉えていた。――やはり、何かある。そう確信するには十分だった。史恵がぶっきらぼうに言う。「あんた、それをわざわざ言いに来たのかい?」素羽は落ち着いた声で答えた。「いえ、三智子さんの代わりに、ご挨拶に伺っただけです」「挨拶なら済んだだろう。さっさと帰んな」史恵は露骨に追い払おうとした。見舞いなどどうでもいい。それよりも、彼らには今、身内で話し合うべきことがある。素羽は隣の清人へと視線を送る。彼がわずかに頷くのを確認すると、彼女もそれ以上踏み込むことはしなかった。「……三智子さんの葬儀までに、何かお困りのことがあればご連絡ください。力になれることがあれば、お手伝いします」そう言い残し、二人は部屋を後にした。宿の下に停めた車に戻ると、素羽と清人はそれぞれイヤホンを耳に装着する。次の瞬間、イヤホン越しに三智子の家族の会話が鮮明に流れ始めた。今回の訪問の本当の目的は、部屋に盗聴器を仕掛けることだったのだ。やがて、耕平が口を開いた。「……だから言っただろう。あいつにあんな酷い仕打ちをするな、逃げられるぞって」史恵がすぐさま噛みつく。「今さら私のせいにするつもりかい!私があの子にああ接した理由なんて、あんたが一番分かってるはずだよ!あんたが股間の始末もできずに、実の娘にまで手を出しやがったからだろうが!私が黙らせなきゃどうなってたか、分かってるのかい?あんなことが村中に知れ渡ったら、私たちは人間扱いされないどころか、村八分で一生後ろ指をさされるんだよ!」息子・順一がよその娘を強姦した事件ですでに評判は地に落ちていた。そこへ父・耕平の不祥事まで重なれば、もはや村に居場所はなくなる。イヤホン越しに流れるその告白に、素羽は唇を強く噛みしめ、瞳に激しい嫌悪を宿した。自分と三智子の因縁はさておき、耕平の獣じみた行為と、それを隠蔽するために結託した史恵のやり口――そのどれもが、吐き気を催すほどの醜悪さだった。血の繋がった実の娘だ。守るどころか傷つけるとは。彼らを「畜生」と呼ぶことすら、畜生に対して失礼だ。まさに、畜生以
素羽は、三智子の両親に狙いを定めていた。彼女が三智子の人間関係を洗ったところ、周囲の人間は皆、彼女は孤児で家族はすでに他界していると語っていた。明らかに虚偽だ。三智子が対外的にそう言っていた理由は、ただ一つ――家族を憎んでいたからだ。彼らなど死んでしまえばいいとさえ思うほどに。警察もまた、三智子の遺族に連絡したのは自分たちではないと証言していた。向こうから訪ねてきたのだという。警察が知らせていないのなら、遺族はどうやって彼女の死を知ったのか。しかも、これほどまでに早く。素羽は、三智子の両親こそが突破口になるかもしれないと考えた。三智子の家族は、安いホテルに身を寄せていた。清人が付き添い、素羽はそこへ向かった。ドアを叩くと、出てきたのは若い男だった。顔立ちはどことなく三智子に似ており、一目で兄妹だと分かる。だが、三智子の落ち着いた気配とは対照的に、男の視線は卑しく濁っていた。素羽を見るなり、その美しさに目を見張りつつ、品定めするような粘ついた視線を投げかけてくる。清人はその不快な視線に気づき、露骨に眉をひそめた。その時、奥から史恵の声が飛んできた。「誰だい?」素羽は男の視線を意にも介さず、姿を現した史恵に向かって静かに言った。「初めまして。三智子さんの友人です」史恵の目もまた、まるで値踏みするかのように、二人を頭の先から足元まで舐めるように見回した。そこには露骨な強欲の光が宿っている。「……何の用だい?」素羽はかすかに微笑んだ。「中でお話ししてもよろしいでしょうか」史恵は短く頷き、二人を中へ通した。ツインルームの狭い室内には、一家がひしめき合っていた。部屋に入るなり、史恵が真っ先に口を開く。「あんた、あの子の親友なのかい」素羽は静かに首を振った。「同僚でした」そして、わずかに間を置いて続ける。「……三智子さんからは、ご両親は亡くなったと聞いていましたので、ご存命とは思いませんでした」その一言に、史恵は目を剥いて怒鳴り散らした。「あの恩知らず、親を死んだことにして呪いやがったのか!」「だから言っただろ、母さん。あの女は身内を裏切るような奴だって」弟の安田順一(やすだ じゅんいち)も加勢し、憤慨した声を上げる。「自分だけ都会で贅沢して、俺たちの苦労な
警察もまともに取り合おうとはしなかった。「私にそんなことを言われても困ります。下ろせないものは下ろせません」そう突き放されると、史恵は再び喚き散らし始めた。「ああ、神様!本当にあんたは見る目がないね!どうして三智子なんて薄情な死に損ないを、うちに寄越したんだい!生きている間は親孝行もせず、一人で隠れていい思いをしやがって。死んでからも家族を苦しめるなんて、この恩知らずが……」口を突いて出るのは罵詈雑言の嵐で、まるで三智子が実の娘ではなく、不倶戴天の敵であるかのようだった。素羽はその光景を、冷めた目で見つめていた。三智子を知る者であれば、知性的で優雅だった彼女と、この下品で行儀の悪い婦人が親子だとは、とても信じられないだろう。素羽は暗い眼差しを向けたまま、静かに思索に沈んでいく。同じ頃、少し離れた場所には一台の車が停まっていた。司野は車内から、素羽と清人が並んで出てくるのを、そしてそのまま二人で車に乗り込むのを、外に出ることなく静かに見守っていた。運転席の岩治は、いつ暴走するか分からない司野に全神経を張り詰めていた。再び血塗れの彼を担いで病院へ駆け込むなど、もう御免だった。幸いにも、司野は動かなかった。素羽たちの車が去った後も、司野はその場を離れようとしなかった。ふと、何もしたくないという無力感が、彼を包み込む。三智子の件については、岩治が様子を探りに行っていた。戻ってきた岩治は、三智子の死と、その身勝手な家族の様子を一通り報告した。彼もまた三智子とは面識があった。最初に手配をしたのが彼だったからだ。あのような両親がいるとは、素羽と同じく、どうしても信じがたかった。彼女の言動は、とてもあの家庭で育った者のそれとは思えなかったからだ。報告を終えてから半刻が過ぎても、司野はどこか上の空のままだった。岩治は振り返り、問いかける。「社長、これからどうなさいますか」司野の指先では煙草が燃えていた。再び吸い始めている――しかも、以前よりも遥かに激しく。彼は虚ろな声でぽつりと漏らした。「……なぜ素羽は、俺を呼んでくれないんだ」岩治は一瞬、言葉に詰まった。「はい?」「……俺のことは、もう信じていないのか」ようやく、司野が何を言っているのか理解する。相手が社長でなければ、白目を剥いてやりたいとこ
「三智子が亡くなりました」その知らせを耳にした瞬間、素羽の身体は凍りつき、瞳に驚愕の色が走った。あの人が、死んだ――?それは予想外でありながら、どこか腑に落ちる結末でもあった。根こそぎ断ち切る。いかにも美宜がやりそうなやり口だ。だが素羽は、彼女の冷酷さを甘く見ていた。人の命を奪うことさえ、これほど平然とやってのけるとは。素羽は低く問いかけた。「……どうやって見つかったんですか」道理からすれば、美宜が人を殺したのなら、死体は遺棄され、証拠は徹底的に隠滅されるはずだ。これほど早く発見されるのは不自然だった。清人は、知っている限りの経緯を包み隠さず語った。それは美宜の運が悪かったのか、それとも三智子の運が良かったのか。三智子は石を括りつけられ、海に沈められていた。本来なら、二度と陽の目を見ることはなかったはずだ。だが不運にも、いや幸運にも、石を縛っていた縄が何らかの理由で切れ、遺体が海面へと浮上した。そこを海釣りに来ていた者が発見し、通報したのだという。素羽は警察署へ赴き、事実を確認した。三智子の遺体とも対面したが、死因は鋭利な刃物による外傷だった。海水に浸かり、変形してしまった遺体を前にしても、素羽の穏やかな表情に大きな動揺はなかった。ただ、どのような感情で彼女の死を受け止めるべきか――それが分からなかった。三智子がどのようにして美宜と知り合ったのか。なぜ彼女が美宜に加担し、自分にあのような仕打ちをしたのか。取引だったのか、それとも恨みがあったのか。しかし、三智子との間に確執があった覚えは一切ない。恨まれる理由も思い当たらず、美宜と結託してまで自分を陥れる動機が見当たらなかった。最も可能性が高いのは、二人の間で何らかの密約が交わされていたということだろう。本来なら本人を見つけ出し、真相を問い詰めるつもりだった。だが、三智子の死によって、その手がかりは完全に断たれてしまった。警察官が言った。「真犯人は現在追跡中です。新たな情報が入り次第、すぐにご連絡します」素羽はすでに、美宜が主犯である可能性を警察に伝えていた。警察も彼女を取り調べたが、美宜は事件当時、病院にいたという完璧な記録を提示してみせた。確たる証拠がない以上、警察も即座に逮捕することはできない。すべては
かねてより琴子は、事の真相を問い質そうと考えていた。だが、司野が頑なに口を割ろうとしないため、彼女はその矛先を岩治へと向けた。「あの子が話さないというのなら、あなたが言いなさい」岩治はちらりと司野を窺ったが、彼もまた真実を死守すべく、固く心を閉ざすことに決めていた。「……存じ上げません」もし琴子が、自分の嫁――いや、元嫁が息子を二度も刺し殺そうとしたなどと知れば、あの過保護な性格だ。間違いなく素羽のもとへ乗り込み、さらなる波風を立てるに違いない。もともとこちらに非があるのだ。これ以上、不毛な火種を増やすわけにはいかなかった。琴子が目を剥いて威圧しても、岩治は徹底してしらを切り通した。司野が語らぬ以上、自分もまた、たとえ死んでも口外はすまい。琴子を呼んだのは、あくまで司野を看病してもらうためであり、自分を監視させるためではないのだ。岩治は適当な口実を設けると、逃げるようにその場を後にした。「社長、会社で急ぎ処理すべき件がございますので、これにて失礼いたします。奥様、病院の方はよろしくお願いいたします」そう言い残し、岩治は足早に去っていった。ベッドの傍らに座る琴子の顔にも、隠しようのない窶れが色濃く滲んでいた。「……言わなくても分かるわ。どうせ素羽が絡んでいるのでしょう」孫を失ったと知らされてからというもの、琴子もまた満足に休息を取れずにいた。ようやく眠りに落ちても、夢の中では色白でふっくらとした赤ん坊が「おばあちゃん、おばあちゃん」と呼びながら駆け寄ってくるのだ。愛おしさに両腕を広げて抱きしめようとすると、そこにあるはずの柔らかで甘い香りのする赤ん坊の姿は消え、腕の中には正体も知れぬ血塗れの肉塊が横たわっている。そのあまりの恐ろしさに、琴子はいつも飛び起きるのだった。そのたびに激しい動悸に襲われ、夜通し眠れなくなる。この数日間についた溜息の数は、これまでの半生を合わせたよりも多いのではないかとさえ思えた。――どうして、こんなことになってしまったのか。司野は母の言葉を聞いても、やはり重苦しい沈黙を貫いたままだった。琴子は、息子を諭しにここへ来たわけではなかった。幸雄でさえ成し得なかったことを、自分がどうこうできるはずもない。彼女にとっての最優先事項は、ただ息子の体を回復させること、そ
司野の貌には、筆舌に尽くしがたいほどの落胆が色濃く滲んでいた。対照的に、清人の表情には、抑えきれないほどの歓喜が溢れ出している。素羽は清人の手を引くようにして、病室へ戻ろうとした。その背中に向けて、司野は掠れた声を振り絞る。「……素羽」しかし、素羽は一顧だにすることなく、病室のドアを冷淡に閉ざした。まるで彼という存在を、外の世界へと完全に切り捨てるかのように。司野が名を呼ぶ声は止まなかったが、室内の二人はそれを背景の雑音であるかのように聞き流した。その時、戸外で「ドサッ」という重量感のある鈍い音が響き、何かが床に崩れ落ちる気配がした。それでもなお、病室の中には何の反応もなかった。岩治は床に頽れた司野に駆け寄り、その腹部から滲み出す鮮血を見て、愕然として頭を抱えた。また傷口が裂けたのか……この傷は、一生完治しないのではないか?岩治は祈るような思いでドアを叩き、司野の代わりに叫んだ。「奥様、社長が……血が止まりません!」その悲痛な叫びがようやく功を奏し、素羽の応答が返ってきた。しかし、その氷のように冷徹な言葉は、沈黙よりもなお深く司野を打ちのめすものだった。「死んだのなら葬儀社へ、生きているのなら速やかにお引き取りなさい」「……」岩治は言葉を失った。素羽は、完全に決別を選んだのだ。それも道理だろう。素羽の立場に置かれれば、誰であっても同じ態度を取ったに違いない。司野の顔からは、瞬く間に血の気が失せ、死人のような蒼白に染まった。「……社長、行きましょう」岩治は力を込め、司野を強引に抱え上げた。たとえ素羽が見捨てようとも、自分まで彼を見殺しにすることはできない。これほど傷口の破裂を繰り返せば、感染症を併発し、命取りになりかねない。わずかな時間のうちに、司野の衣服は赤黒く染まっていた。岩治は主人の抗弁を許さず、力ずくで医者の元へと連れて行った。司野はなおも抗おうとしたが、衰弱しきった今の体では、岩治の腕から逃れる術はなかった。「……放せ」司野が弱々しく命じるが、岩治は必死に彼を支えたまま、それを聞き流した。「社長、たとえ哀れみを誘って同情を買いたいのだとしても、命を削りすぎです」自分がどれだけ出血しているか分かっているのか。それとも、己の体が不死身だとでも過信しているのか。
司野は、すべてを分かっていたはずなのに、それでも迷いなく美宜のもとへ駆けていった。もう家の玄関先まで来ていたのに、それ以上、彼女のために一分たりとも足を止めてくれることはなかった。帰ってくることは、司野にはできなかった。芳枝の誕生日の宴が終わるまで、彼の姿はついぞ見えなかった。こんな結末、彼女には最初から分かっていたことだった。帰り道、素羽は司野の最新の情報を受け取った。それは美宜からのメッセージだった。そこには、司野が美宜の家の台所で忙しそうにしている写真が添付されていた。【司野さんが、私に晩ごはんを作ってくれてるの】スマホの画面を閉じた瞬間、一粒の涙が彼女の目尻
車は静かに大通りを走っていた。司野はふと、素羽の薬指が裸なのに気づき、少し戸惑いながら問いかけた。「指輪は?」素羽は一瞬きょとんとして、無意識に指を撫でた。「朝、洗面所に外して置いたまま、出かける時に忘れちゃったの」実は、結婚指輪なんて、とっくの昔に外していた。今日になって彼が気づくなんて思わなかった。積み重ねた年月が残した指輪の跡を見つめながら、素羽の心はどこか遠くへ漂っていった。あの指輪、最初から自分のサイズじゃなかった。けれど、合わなくても、初めてその指に通したとき、素羽はすごく嬉しかった。彼女はこっそりサイズを直し、それから五年も身につけ続けた。でも、現実は教え
スマホを握る手に力が入り、喉の奥がひりつく。もうこれ以上見たくなくて、素羽は画面を消し、そのまま目の前のグラスを手に取り、一気に飲み干した。慌てて飲んだせいで、咽せてゴホゴホと咳き込んでしまう。生理的な反応で、目の端がじんわりと湿った。その時、清人から電話がかかってきた。どうやら原稿のイラストについて話したいことがあるらしい。素羽は今いる場所を伝えた。三十分後、清人が現れた。彼は根っからの仕事人間。現れるや否や、すぐに本題へと入った。二人は夢中で話し込み、自然と顔を近づけていた。あまりに熱中していたせいで、素羽は一匹のうるさい「ハエ」が近づいてきたことに気づかなかった。
彼女は一人で来たわけではなく、隣には家政婦の梅田が付き添っていた。司野が驚いたように眉をひそめる。「どうしてここに?」美宜は心配そうに声を上げた。「昨日の夜、あんなふうに飛び出していったから、心配で眠れなかったのよ。素羽さん、一体何があったの?夜遅くに司野さんが病院まで送るなんて、体にどこか不調でもあるの?」素羽はその問いにすぐは答えず、代わりに司野の方へ顔を向け、思いきり軽口を叩いた。「ああ、昨夜はベッドの上でちょっと盛り上がりすぎちゃって」その一言で病室の空気が凍りついた。美宜の瞳の奥がきゅっと歪むのが見えた。おかしいわね、どうせ聞かれても不機嫌になるくせにって、素