INICIAR SESIÓN司野はまるで何かに取り憑かれたかのようで、亘の説得などまるで耳に入らなかった。彼の態度はどこまでも頑なだった。――解放はしない。自分以外の誰にも面会は許さない、と。結局、何の成果も得られぬまま病院へ戻り、楓華を迎えに来た亘だったが、彼女はその姿を見つけるなり勢いよく駆け寄ってきた。だが、長時間しゃがみ込んでいたせいで、急に立ち上がった身体がふらつき、そのまま前へ倒れ込みそうになる。亘は素早く駆け寄り、とっさに彼女の身体を支えた。「落ち着け」楓華は期待を滲ませた目で彼を見上げ、切羽詰まった声を漏らした。「司野は何て?素羽を解放してくれるの?」亘の顔には苦い色が浮かび、諦めたように静かに首を横へ振った。その瞬間、楓華の表情から血の気が引いた。「どういう意味よ?黙ってないで、ちゃんと言って!」「……ひとまず帰ろう」亘は低く言った。今ここに張り付いていても、どうにもならない。その言葉を聞いた途端、楓華の胸はどこまでも沈み込んでいった。あの畜生、本当に人間の皮を被った化け物だ。亘は現実を冷静に分析するように口を開いた。「素羽は、あの中にいる方が安全だ。司野はこれ以上騒ぎを大きくさせないためにそうしただけだって言ってた。向こうの件が片付き次第、すぐに出すつもりらしい」「騒ぎを大きくする、ですって?」楓華の目が鋭く吊り上がる。彼の腕を掴んでいた手を振り払い、そのまま後ろへ下がって距離を取った。忘れていた。結局こいつらは親友同士なのだ。楓華は冷たく手を振った。「帰って。今は、あんたの顔なんか見たくない」彼女がどんな感情で自分を見ているのか、亘には痛いほど分かっていた。彼は奥歯を噛み締めた。「また八つ当たりか?」だが楓華は、もう彼を相手にしなかった。そのまま背を向け、反対方向へ歩き出す。これが本当に八つ当たりなのか、自分でも分からなかった。ただ今は、亘の顔を見たくない。彼の姿が視界に入るたび、司野という畜生以下の男の顔が脳裏に浮かび、抑えようのない怒りが込み上げてくるのだ。亘からすれば、この連座制のような扱いは理不尽極まりなかった。自分に何の罪があるというのか。何もしていないのに、とばっちりを受けているだけだ。それに、自分は司野の脳ではない。あいつの考えを操
怒りと無力感に苛まれながらも、それが紛れもない現実だった。分かりきっていた事実であるにもかかわらず、楓華がこれほどまでに激昂しているのは、司野のあまりの非情さと冷酷さゆえだった。たとえペットですら、長く飼えば情が移る。それなのに、素羽は彼と五年間も夫婦だったというのに――司野は彼女に対して、人間という生き物がどこまで醜悪で卑劣になれるのかを、容赦なく見せつけたのだ。これまで生きてきた中で、楓華は司野ほど冷酷で残忍、そして薄情な男を見たことがなかった。亘が口を開く。「そんな地べたにしゃがみ込んでないで、車の中で待ってろ。あとで立ち上がった時に立ちくらみするぞ」楓華は、極度に混乱すると決まって物陰へしゃがみ込む癖がある。彼はそれを知っていた。だが楓華は、そんな言葉など耳に入っていない。ただ、一刻も早く司野のところへ行ってくれと急き立てるばかりだった。---瑞基グループ。外ではあれほどの騒動が巻き起こっているというのに、社内はまるで何事もなかったかのように静まり返っていた。社員たちは誰一人取り乱すことなく、淡々と自分の仕事をこなしている。亘が訪ねた時、司野はちょうど会議を終えたところで、デスクに向かい書類へサインをしていた。来訪に気づいた司野は一瞬だけ視線を向けたが、それ以上の反応は示さない。岩治は、署名の済んだ書類を手に静かに退室し、音もなくドアを閉めた。亘は司野の表情を観察した。相変わらず、驚くほど落ち着き払っている。まるで外の喧騒など、自分には何一つ関係ないと言わんばかりだった。長年付き合ってきた友人として、亘はある意味で感嘆せずにはいられない。冷酷さという一点において、普通の人間が彼ほどの境地へ辿り着くことは、到底不可能だ。司野はわずかに眉をひそめた。「用があるなら話せ。ないなら帰れ」人の前に突っ立って、一体何のつもりだ。門番にでもなったつもりか――そんな苛立ちが声に滲んでいた。亘は向かいの椅子へ腰を下ろし、切り出す。「素羽を精神病院へ送り込んだのか」司野は答えない。再び視線を手元の書類へ落とした。「素羽を解放してやれよ」その言葉に、司野はようやく手を止めた。退屈そうに目を細める。「お前の説得に耳を貸すつもりはない」亘は深く息を吸
同じ頃、警察から正式な発表が出された。そこには、素羽の病状は事実であり、彼女がネット上へ投稿した内容はすべて発作による妄想に基づくものである、と記されていた。さらに当局は、すでに患者の家族と連携し、治療のための適切な措置を講じたとも報告していた。そして、素羽の「家族」として表に現れた松信もまた、その発表内容を認めた。娘は祖母の死に大きな衝撃を受け、現実を受け止めきれず、次第に妄想へ囚われるようになってしまったのだ、と。彼は慈愛深い父親を演じながら、最愛の肉親を失った哀れな娘に、どうか寛大な心を向けてやってほしいと世間へ訴えかけた。これだけの「証拠」が揃ってしまえば、瑞基グループを襲っていた世論の嵐も、ついに抑え込まれていく。なおも疑問の声を上げる者は一部にいたものの、それらの言論も金の力によって瞬く間にかき消され、やがて誰も気に留めなくなった。---その頃、江原家では――浮かない顔で煙草を吸っている松信を見て、倫子が口を開いた。「やることは全部やったんだから、今さらそんな辛気くさい顔しても意味ないでしょ」松信は煙を吐き出すばかりで、何も答えなかった。彼が偽証を受け入れた理由は、ただ一つ。司野が提示した金額が、あまりにも巨額だったからだ。断ることそのものが、金への冒涜に思えるほどの額だった。彼だって、本当は親孝行な息子でありたかった。だが、生きている人間はこれからも生きていかなければならない。母だって、もし知ったとしても、自分を責めたりはしないはずだ――松信はそう自分に言い聞かせていた。母にとって、自分はたった一人の息子なのだ。だからこそ、豊かに暮らしてほしいと願っていたに違いない。それに、司野もこう言っていた。母を死へ追いやった犯人は、時期が来れば必ず法によって裁かれる。違うのは、それが早いか遅いかだけだ、と。相手に恩を売ることができ、そのうえ莫大な金まで手に入る。ならばこれは、母が死の間際に自分へ残してくれた最後の施しなのだ――そう思うことにした。「お義母さんも、こんな歳になるまで生きて、ようやくあんたの役に立てたわね」倫子はそう言って鼻で笑った。素羽というあの馬鹿娘が、意地になって司野と刺し違えようと大騒ぎしたからこそ、司野はわざわざ自分たちへ金を運んできたのだ。でな
三、瑞基グループの代表として、また一人の法を遵守する市民、そして法令遵守を重んじる企業として、社会からの監督と指摘を真摯に受け入れる。その声明は、圧倒的な企業の信用力を背景に、瞬く間に世論の流れを覆した。さらに、悪質なデマを拡散したネットユーザーたちが警察によって拘留されたことで、一時は一方向へ傾いていた世論は完全に逆転してしまう。警察から出頭要請の電話を受けた瞬間、素羽の視界は何度も暗転し、その場に立っていることすらできなくなった。身体が大きく揺らいだところを、楓華が咄嗟に支える。「素羽ちゃん!」素羽の顔からは血の気が失せ、全身の筋肉は硬直していた。激しい動揺のあまり、冷や汗が止まらない。「どうして……どうして司野は、あんなことができるの……なんで私に、こんな酷いことができるのよ……!」素羽は震える身体のまま、壊れたように同じ言葉を繰り返し続けた。楓華は先に目を潤ませながら、必死に彼女をなだめる。「大丈夫よ、まだ方法はあるわ。きっと他に道があるから……!」だが、その方法を考えつくより先に、警察は素羽を連行し、事情聴取を始めた。警察署には精神科医が呼ばれ、素羽の診察が行われる。下された診断は、躁うつ病、うつ病、その他複数の精神疾患。つまり彼女は、名実ともに精神病患者であると認定されてしまったのだ。しかも現在の素羽は、取調室で泣き崩れたかと思えば、次の瞬間には突然笑い出す。その異様な姿は、医師の診断を待つまでもなく、誰の目にも正常ではなかった。一通りの注意を終えた警察は、事務的な口調で告げる。「君の病状を考慮し、今回は身柄拘束までは行わない。罰金を支払い、家族のもとで治療に専念しなさい。二度と公共の秩序を乱すような行為はしないように」目の前にいるのは、本来なら正義を守るはずの人間たち。それなのに、誰も彼もが理不尽の片棒を担いでいる。素羽は激昂し、机を激しく叩きつけた。「私が乱したっていうの!?何の秩序を乱したっていうのよ!あんたたち、須藤司野とグルになってるくせに、よくそんな制服着てられるわね!その桜星のバッジに恥ずかしくないの!?犯罪者は野放しにしておいて、被害者の私だけを叩き潰すなんて……あんたたち、それでも人間なの……!?」絶望が、少しずつ彼女の理性を飲み込ん
精神病患者――それは「正常な人間ではない」という烙印を押されるに等しい。法的責任能力を問われにくくなる代わりに、その言葉の信憑性もまた失われる。そこまで思い至った幸雄は、思わず目の前の孫の顔をまじまじと見つめた。冷酷さという意味では、この男は確かに自分の血を見事に受け継いでいる。だが同時に、まだ若く、愚かでもあった。司野は半ば伏せた瞼の奥へ複雑な感情を押し隠し、低い声で言った。「外の世論は俺が処理します。美宜の件は、俺に任せてください」幸雄は、さすがにひと言だけは問いかけずにいられなかった。「……素羽のことは考えたのか」司野は静かに答える。「これから先、彼女には償うつもりです」残りの人生をすべて使ってでも、彼女への負い目を返し、埋め合わせていくつもりだった。幸雄は、それ以上この問題へ深入りしなかった。若い男女の情愛など、もはや首を突っ込む気力も興味もない。だが、会社の利益が絡むとなれば話は別だった。彼は冷然と最後通牒を突きつける。「お前に与える時間は丸一日だ。処理できなければ会社を退き、美宜もこちらへ引き渡せ」誰であろうとグループの発展を妨げる存在を許さない。たとえ、それが実の孫であっても。本邸を出ると、司野は無言のまま車へ乗り込んだ。車は夜の街を滑るように走り出す。薄暗い車内で、司野の瞳には陰鬱な光が宿っていた。煙草を咥えたまま、彼は岩治へ命じる。「素羽が以前通っていた精神科の診断書を手に入れろ。入手次第、広報部へ回して世論の流れを変えさせる」岩治は、その言葉だけで司野の意図を理解した。ハンドルを握る手がわずかに震え、目には驚愕と恐怖が走る。乾いた喉を鳴らしながら、彼はようやく声を絞り出した。「……素羽さんこそ、この件の本当の被害者です」実際のところ、司野の側近を務められるほどだ。岩治も決して甘い人間ではないし、汚れ仕事だって数え切れないほどこなしてきた。だが、それでも素羽は、曲がりなりにも五年間を共に過ごした妻だった。そのうえ、祖母を亡くしたばかりで、流産までしている。そんな彼女に対してこんな真似をすれば、間違いなく本物の狂気へ追い込むことになる。素羽が被害者であることなど、他人に言われるまでもなく司野自身が一番理解していた。だが、彼女が事態をここまで
「どうしても美宜を守りたいというのなら、一生彼女を表へ出さずに匿い続けることね。もし私の前に現れたら、あの姉妹まとめて地獄へ道連れにしてやるわ」司野は深い無力感を滲ませながら口を開いた。「素羽……もう少し理性を保てないのか」理性?今この瞬間、彼を刺し殺さずにいることこそ、理性を総動員して衝動を抑え込んでいる証だった。素羽はこれ以上、無駄な言葉を交わす気にもなれず、そのまま通話を切った。司野は再びこめかみに鋭い痛みが走るのを感じる。電話を切った素羽は、そのまま楓華へ言い放った。「楓華、司野と美宜が不適切な関係にあった動画、もっと拡散して」かつて美宜が自分を挑発するために送りつけてきた、あの親密な写真や動画には、今となっては感謝すら覚えていた。司野がそれほどまでに初恋の相手を気にかけ、守ろうとしているのなら――いっそ彼を美宜の共犯者に仕立て上げ、人命に関わる事件へ引きずり込んでやればいい。「愛人と共謀し、妻の家族を殺害。さらには、妻の胎内の子供すら見逃さなかった」そんな見出しなら、世間は飛びつかずにはいられないはずだ。次第に狂気を帯びていく素羽を見つめながら、楓華は不安を覚えると同時に、彼女が痛々しくてたまらなかった。「こんなことをしたら、須藤家が黙っていないわよ」司野がろくでもない男であることは事実だ。だが、須藤家における彼の立場は決して低くない。一族が、自分たちの身内にここまで重大な刑事事件の汚名を着せられることを許すはずがなかった。個人にとっても、一族にとっても、これほどの傷は決して看過できない。素羽の黒い瞳には、狂気にも似た光が宿っていた。「私は五年間も引き下がり続けて、五年間も踏みにじられてきたの。もう十分よ。これ以上、惨めに這いつくばるつもりなんてないわ」たとえ報復されようと構わない。彼女には、もう恐れるものなど何もなかった。潤沢な資金を背景に、「司野は共犯者」というニュースは瞬く間にランキング上位へ駆け上がり、須藤家を再び世論の渦中へ叩き落とした。【司野がここまで殺人犯を庇う理由が分かったな。最初からグルだったんだろ。愛人に自分の罪を暴露されるのを恐れて、先手を打って揉み消そうとしたに違いない。】【元妻、本当に気の毒すぎる。あんなクズ男に嫁いだ挙げ句、命まで
素羽は静かに視線を落とし、黙り込む。松信の声が冷たく響く。「どうした。こんな小さなこともお前には処理できないのか?」素羽は指先をいじりながら答える。「私には、その決定権がありません」この家のこと、自分が決められるわけがない。松信は鼻で笑う。「素羽、お前なんか育てて、まったく役に立たないな」普段はほとんど口を挟まない母の倫子(りんこ)も、珍しく口を開く。「だから最初から言ったじゃない。この子に期待しても無駄よ。今は時期を待って、頃合いを見てから先方にご挨拶すればいいのよ」素羽には、その「頃合い」とやらがなんなのか、さっぱり分からない。松信は命じるように言い放つ。「祐佳
美宜のめまい騒ぎをきっかけに、彼女の一家はそのまま家へ上がり込み、見事に居座ることに成功した。その成り行きに、素羽は少しも驚かなかった。景苑別荘の敷居をまたいだ時点で、美宜がそのまま居座らないはずがない――素羽はそう確信していた。浅い付き合いしかなくとも分かる。美宜という女は、駄々をこねてでも目的を通すタイプなのだ。美宜一家を落ち着かせたあと、司野は主寝室へ戻ってきた。荷造りをしている素羽の姿を見て、眉をひそめる。「何をしてるんだ」素羽は手を止めることなく、衣類をスーツケースへ詰め込みながら、いかにも寛容そうな口調で答えた。「あなたたちのために場所を空けてあげてるの
美宜は、司野の目の前で湖へ飛び込んだのだった。せいぜい湖水を少し飲んだ程度で、身体にこれといった異常は見られなかった。肉体的には無事だったものの、精神状態は司野の言葉どおり極めて不安定だった。少し思い詰めるだけで、すぐに死を口にする。ひとしきり騒ぎ立てた末、ようやく落ち着かせることができた。疲労困憊のまま司野が戻ると、主寝室に素羽の姿はなかった。一瞬、心臓を掴まれたような不安に襲われて探し回ったが、素羽がゲストルームで休んでいると知り、ようやく胸をなで下ろした。素羽はベランダのデッキチェアに身を預けていた。室内には穏やかな音楽が流れ、手元には飲みかけの赤ワイン。膝の上には、
森山は言った。「柚月という方からです」素羽は一瞬動きを止め、その名前と顔を結びつけようとした。数秒後、ようやく誰のことか思い当たる。ちょうどその時、素羽のスマートフォンに柚月からメッセージが届いた。【素羽さん、実家の特産品を一箱送りました。今日あたり届くはずです】後から歩いてきた司野がそれを見て尋ねた。「いつの間に、柚月なんて人間と知り合ったんだ?」素羽は返信を打ちながら答える。「あなたも知っている人よ」司野は呆気に取られた。自分が知っている?そんな名前の人物に心当たりはない。メッセージを送り終え、スマートフォンをしまった素羽は、意味深な笑みを浮かべて彼を見た。







